2016年11月

近過去(near past) 奥浩平への手紙 (RED ARCHIVES 02) 単行本(ソフトカバー) – 2016/10/18  社会評論社
商品の詳細

内容紹介

かれらとの出会いの火花が
Kの実存に光をあてる

愛と革命に青春の墓標をきざんだ奥浩平
個に死し類に生きた本多延嘉
『無知の涙』を贖罪の書とした永山則夫

奥浩平にオルグされて中核派に参加した横浜市大の同級生Kが、浩平に出会うまでの自分史とその後の闘い(10・8羽田、1・18東大闘争など)によって5年余の懲役刑に服していく獄中記を中心にした回想記。

「近過去(near past)」と名付けたのは私がこれまで経験した事柄が、死んだ過去でなく、現在もなお、肉体と精神の中に残り一部は生きていて、過去として消え去っていないからである。どきどきするような興奮や忘れようもない悲しみは近過去の中の一瞬の輝きでしかないのだが、それは渚のさざ波が足を洗うようにいつも私の中で生き続けている。(「プロローグ」より)

【目次】
第Ⅰ部 君と話しておきたかったこと
第Ⅱ部 レクレイムが流れて
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川口顕
1943年東京品川区に生まれる。都立小山台高校をへて横浜市立大学文理学部入学。1965年~1975年革共同全国委員会常任。その間約5年間は獄中。1979年組織を離脱。以後、20年間広告ディレクターを務める。



「アジアと小松」さん。「小松基地問題研究会」の書評も。

〈資本主義の終わり論2〉さんの論評は、掘り下げた議論をしている。

   「2」以前の論評も参考に。

    尾形氏の『革共同50年 私史』のアマゾンレビューを転載する。
第一声としては至当と言えそうだ。
   転載に当って、段落と字下げをした。ブログ上では読みにくすぎる。本来の段落は1行あけにした。

投稿者 孔明 投稿日 2016/10/31

   これまで中核派自身が出した『現代革命への挑戦』や元政治局員水谷・岸両氏の『革共同政治局の敗北』などが出ているが、中核派が歩んできた60年代後半以降の運動、組織、理論の総括にまともに立ち向かったとはとてもいえない。
   前者は、スターリン主義と同様の「無謬の50年」を自画自賛するもので、後者は、元政治局員という立場から政治局内部の暴露を通して特定の政治局員の思惑によって中核派の運動路線が決定されてきたとするもので、自分たちの「正当性」を主張するものでしかない。

   しかし、政治党派の運動というものは、たとえ一部の最高指導部の考えに規定されている面があるとはいっても、その運動の担い手たちや大衆的基盤の反応、バックグラウンドとしてのその時々の政治的、社会的背景などを無視して「総括」できるものであろうか。この本の著者尾形氏は、組織内の立場からすれば、最高指導部の下にある基幹指導部として活動してきた人であり、路線や政策の決定に直接携わったわけではないが、運動が現実に展開される「現場」の活動家として自分が担ってきた中核派の路線が、本当に大衆的気分や時代的要請にあったものだったのかどうかということの総括を真摯に試みている。

    著書の大きなテーマは、60年代後半から70年初頭にかけてのあの激動的時代とは何だったのかということ、そして70年代初頭以降の中核派の革命戦略である武装闘争路線=革命戦争についてである。
   特に後者についての論述は、思想的、運動的、組織的、路線的など多角的な視点から大きな問題点を提起している。
   著者もこの本を書いた動機を指摘しているが、おそらく三桁にも及ぶ戦争での死者、自殺者、精神障害に陥った人、戦争に伴う犠牲でその後健常人としての人生を送ることができなくなった人等々、凄惨という他ない「闘争」が「革命」の名の下に20年にもわたって続けられてきた。
   そのことへの、なぜ、どうして、という自問に、中核派の当事者として必死に答えようとしている姿勢がにじみ出ている。ただ、一つ気になることは、この戦争の直接の担い手でもあった著者自身の内的な切開という視点が薄れていることである。著者は、出版を前にしてがんで逝去した。それは、次に書くべき課題だったということであろうか。

   この問題提起は、70年代以降、武装闘争路線を採用してきた諸党派や諸グループの問題にも通底しているだろう。
   「事件」の衝撃性から、連合赤軍や東アジア反日武装戦線の「闘争」に関しては当事者をはじめ多くの人たちから論じられてきた。それに対して、犠牲者の数も、それを生み出し続けた戦争の期間も、比較にならないほどの規模で継続されてきた中核派の革命戦争について、これまでまともな議論がなされてこなかった。
   そのこと自体が常軌を逸していたのではないか。中核派の対権力関係の厳格な自己規制という特質が、語るべき多くのものを持っている人たちの口をふさいできたという側面もあるだろう。だが、著者が言うように、それを語ることは「闘争を担ってきたものの責任」でもあるのではないか。

    中核派の革命戦争や70―80年代の武装闘争について議論する機会は、関わった当事者たちの年齢からすると今が最後の機会かもしれない。この間も続いているあれこれの暴露や中傷などではなく、この本が投じた一石を機とするまじめな議論が起こることを期待したい。

   「問題意識」と「内的切開」はキーワードになりそうだ。
  現状は「在庫切れ」に近そうだ。
 

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