2018年06月

 齋藤委員長の「激白」への寸評を準備していたけれど、色んな角度から資料を揃えているうちに長々しいものになってしまった。
 作業の合間に別の情報が入ったので、ひとまずこちらから。

 前進チャンネル第100回「前進社ツアー&プレゼント」第2947号(6月11日付)
 『前進』の紹介に続いて三つの企画が入っている。
 「第1弾」はタイトル通り前進社の内部と生活の一端を紹介する企画だ。
 「第2弾」は中核派のヘルメットを応募者から抽選で2人に送るという。これが「プレゼント」 【注】応募が多かったので増やしたそうだ。
 「第3弾」は機関誌「中核」の紹介。

  世も末だ。
  告別の鐘が打ち鳴らされた気がしました。

  完全に終わっています。 


伝聞ですが。

80年代の神奈川には、ちょっと変わった人がいた。
 全逓の担当についた変人さんは、社会党系の組合執行部や他党派の核となるメンバーにのこのこと、唐突に会いに行っては語り合った。全逓職場には門外漢の元学生の中核派が、彼ら現場の他党派とまともな会話が続く、ということで「中核派にも面白いやつがいる」という噂が広がる。
 結果として、現場の中核派のメンバーにとっても活動範囲が大いに広がった、という。青年婦人協議会での主導権争いでも、社会党系の牛耳る親組織の容認を受けてずいぶんと有利な地歩を築いたのだという。

 彼の全逓メンバーとの付き合い方も一風変わっていたという。
 車座になって雑談と世間話をする。そんなときに、その一員となって耳を傾け、頓珍漢な話も交えて溶け込んだ話をできるようにつとめたのだという。仕事というものは、いちいちの作業や機能とならんで、いろんな人のいろんな想いで形ち付けられる。その現場での想いを織り込んで、主張も政策も練り上げられる。

 そんなことのできる常任は、この頃は神奈川ですらすでになく、指導し,問い質し、管理するのが任務という常識になってしまっていた。

 そんな中で(彼の下で)育った全逓メンバーが90年代の一翼を担った。
 けれど当の彼は、その頃には消えてしまっていた。
 県党の中で、(神奈川ですら)そんな存在は許されなくなっていたのだという。
 
 彼の後に似たようなことをした常任が生まれた。
 親身になっていろんな相談を受けて対応し方針化しようとした。
 けれども彼女も同じ道を辿った。
 後者の場合、問題は「左翼の基礎的素養」に欠けていたともいう。
 80年代の学生出身者には、反スタの素養や、左翼としての基本を学ぶ経験も無く、「路線・路線」で完結するしかない。そのことに違和感を覚えても、個人の問題意識や資質があってもどうにもならない領域があまりに多かったとも言えそうだ。
 地区や支部(現場・細胞)での世代間格差もありそうだ。
  「若い常任」として扱いが軽くなる。
 「路線主義」への縛りがいっそう体質的に局限化したただ中でもある。
 そして中核派をめぐる周囲の対応の変化も大きく変化していた。

 中央の指導の問題でもあるけれど、孤立した諸個人の集合体としての学生戦線でどう学ぶかどう学習指導するかは、第1級の難題だったのだろう。だからこそ、もう一つも二つも「路線」が練り上げられなければいけなかったのだ。

 というよりも、「路線=単一または一元」か、良くても「限られた数少ない許容幅」という「路線主義」が「綱領的大きさ」や「三全総」や「総路線」を排して全てを覆ってしまったこと。小さく固まってしまったこと。
 
 今の時代、中央派も大きく変わったようだが、広がりも深みも感じられない世界観も、人間観・社会観もしみだして来ないような「路線主義」も、その根本からの批判・脱却への格闘は感じられない。
 

『新たな「仁義なき戦い」を企画する映画監督
藤山顕一郎さん(72)」
  4月16日(月)の朝日新聞朝刊「ひと」欄から
  【以下引用】

 今年1月、東京都内であった先輩の出版記念会に出席した。集まったのは1960年安保闘争や全共闘運動を闘った当時の学生たち。スクラムを組み、シュプレヒコールを上げていた仲間も孫がいたり、病気を抱えたりしていた。
 「でも、この国は変わったのか。むしろ悪くなっているのでは」
 奄美大島出身の両親のもとに大阪市で生まれた。幼いころから意識した差別の構図。青山学院大に進み、学生運動に参加する。東大安田講堂事件の翌70年、東映京都撮影所に入り、深作欣二監督のもとで「仁義なき戦い」の助監督などを務めた。「人間を暴力に駆り立てる社会に矛盾を訴えたかった」
 43歳で退社し、フリーに。米国で映画プロデューサーになるが、53歳のとき帰国。映画会社を設立し、2007年には憲法9条を守るために立ち上がった学生運動の元闘士らを描いた記録映画「We命尽きるまで」を作った。
 「弾はまだ残っとるがよ」。
 「仁義なき闘い」に出た俳優の故・菅原文太さんが沖縄知事選の応援演説で放った決めぜりふがよみがえる。主な出演者は交渉中だが、関西生コン業界が舞台の抗争事件を題材にした「仁義なき戦い2018」(仮題)の撮影を3月から大阪で始めた。
 「あんたがやらんでどうすんのよ、と文太さんに言われているような気がするんです」
   「文・小泉信一、写真・山本和生」

 【注】ブンドの一派のMLとか?
   斎藤政明氏の出版パーティー…

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