2018年12月

6章 1921――革命の絞殺

1.
 E・ゴールドマンの回想

《私たちのアピール〔後出〕が功を奏さなかったことは、トロツキーが到着し、クロンシュタットへの彼の最後通牒が発せられたその日〔三月五日〕に明らかとなった。労働者と農民の政府の命令によって、彼はクロンシュタットの水兵と兵士に、あえて「社会主義の祖国にはむかう」ものはすべて「雉のように射殺される」であろう、と宣言した。叛逆した艦船やその乗組員はソヴェト政府の命令にただちに服するか、武力に屈服するかが命ぜられた。無条件に降服するものだけがソヴェト共和国の慈悲をあてにしえたであろう。
 事態は急を告げた。巨大な軍隊が間断なくペトログラードとその近郊に流れこんだ。トロツキーの最後通牒は、「貴様たちを雉のように撃ち殺してやる」という歴史的な威嚇をもったブリカース(命令状)のようなものであった。そこでペトログラードにいるアナキストの一団は、ボリシェヴィキにクロンシュタット攻撃の決心を今一度ひるがえさせようという最後の努力を試みた。彼らは、たとえそれが望みないことであっても、ロシヤ革命の華であるクロンシュタットの労働者や農民に対して明日にも行なわれようとする虐殺を防止するために力を尽すことが、革命に対する義務であると考えたのだ。

 三月五日、彼らは防衛委員会に抗議文をおくり、クロンシュタットの企図が平和的であること、その要求が正当であることを指摘し、共産主義者にかの水兵たちの勇敢な革命的な歴史を想起させ、同志や革命家たちを傷つけないでこの問題を解決する方法を軽示したのである。
 その文書は次の通りである。

 ペトログラード労働および防衛ソヴェト委員長ジノヴィエフに与う。
 たとえ罪を犯すことになろうとも、今は黙視しているわけにはいかなくなった。最近の諸事件はわれわれアナキストをして、現在の状態におけるわれわれの態度を声明させざるをえなくした。労働者と水兵の騒擾と不満の表明の精神は、われわれの重大な注意を喚起した原因から生じたものである。

 寒気と飢餓が離反を生み、討論と批判の機会を少しも持たないことが労働者や水兵をして彼らの苦痛を爆発させつつあるのだ。
 自己擁護者の一味はこの不満を彼ら自身の利益のために利用しようと思い、そう努力している。労働者や水兵の背後にかくれて、彼らは自由貿易やこれに類似した要求を含む国民議会のスローガンをまき散らしている。
 われわれアナキストは早くからこれらのスローガンの欺瞞を暴露してきた。そしてわれわれは世界にむかって声明する。われわれは社会革命のすべての友とともに、またボリシェヴィキと提携してあらゆる反革命的な企図に対し武器をとって戦おうとするものである。
 ソヴェト政府と労働者および水兵との確執について、われわれはそれが武力に訴えることなく、うちとけた親しい革命家らしい協定によって解決されなければならないと信ずる。ソヴェト政府側が流血に訴えることはこの状勢にあっては労働者を何ら威嚇し沈黙させるものではない。否、むしろそれはただ事態を悪化させ、協商国側と国内反革命の魔手をのばせるのに役立つだけである。
 さらにもつと重大なことは、労農政府が労働者および農民に対して武力を用いることは、国際的な革命運動に反動的な結果をもたらし、いたるところでおびただしい損害を社会革命に与えるものだということである。
 ボリシェヴィキの同志よ、今考えなおしてもけっして遅くはない! 断じて砲火に訴えるな。諸君は今や最も重大かつ決定的な行動に出ようとしていることを反省せよ。
 われわれはここにおいて次のように提案する。五名うち二名はアナキストであることから成る委員会を組織すること。平和的手段によって紛争を解決するために、委員をクロンシュタットへ派遣すること。現在の状態ではこれが何よりも焦眉の手段である。それは国際的な革命的意義を有するであろう。

 一九二一年三月五日 ペトログラードにて

    アレクサンドル・ベルクマン
    エマ・ゴールドマン
    ペルクス
    ペトロフスキー

 クロンシュタット問題に関するある文書が防衛ソヴェトに通達されたとの報告を受けたジノヴィエフは、そのために個人的に代表を送った。その文書を彼らが討議したかどうか著者は知らない。とにかく、それについて何らの処置も講ぜられなかったことは確かである。
 最後の警告には革命軍事ソヴェト議長トロツキーと赤軍司令官カーメネフが署名した。支配者の神聖な権利をあえて疑うことはここでも死をもつて罰せられた。
 トロツキーは約束をたがえなかった。クロンシュタットの人々の助けで権威を得た彼は、今や、「ロシヤ革命の誇りと栄光」へ負債を十分に払う位置にいた。ロマノフ体制の最良の軍事エキスパートや戦術家がトロツキーの意のままになり、そのなかには悪名高いトハチェフスキーがいた。トロツキーは彼をクロンシュタット攻撃の司令長官に任命した。そのうえ、虐殺の技術の訓練を三年間受けた大量のチェカ部隊がいた。命令に盲目的に従う、特に選ばれたクルサンティと共産主義者がいたし、いろいろの前線からの最も信頼された軍隊もいた。命運の定められた市にむけて集結したこうした力をもつてすれば、「叛逆」はたやすく鎮圧されると予想されていた。ペトログラード守備隊の兵士や水兵が武装解除され、包囲された同志との連帯を表明した人々が危険区域から移動した後には特にそうであった。

 インタナショナル・ホテルの室の窓から、私は彼らが小さなグループになってチェカ部隊の強力な分遣隊にとりかこまれて連れて行かれるのを見た。彼らの足どりは、はずみがなく、手は横腹にぶら下がり、頭は悲しげに垂れていた。
 当局はペトログラードのストライキ参加者をもはや恐れなかった。彼らは飢えで少しつつ弱まり、精力も衰えた。彼らやクロンシュタットの同胞に敵対して広められたウソは彼らの志気をくじき、ボリシェヴィキの宣伝が浸透させた疑惑の毒素が彼らの精神を破壊した。彼らの運動を無私にとりあげたことがあり、彼らのために命を投げ出さんばかりであったクロンシュタットの同志を援助する気力も信念も彼らには残されていなかった。
 クロンシュタットはペトログラードに見放され、残りのロシヤから切り離された。クロンシュタットは孤立し、ほとんど抵抗もできなかった。「クロンシュタットは最初の一撃で屈服するであろう」とソヴェトの新聞は表明した。それらはまちがっていた。クロンシュタットはソヴェト政府への叛逆もしくは抵抗しか思いつかなかった。最後の最後まで、クロンシュタットは流血を避けることに決めていた。クロンシュタットはいつも理解と平和的な解決を訴えていた。しかし、いわれのない軍事攻撃からやむなく自己を防衛するために、クロンシュタットはライオンのように戦った。痛ましい日夜、包囲された市の水兵と労働者は、三方からの絶え間のない大砲と飛行機から非戦闘員の居住区へ投げつけられる爆弾に抗してもちこたえた。彼らはモスクワからの特別軍による要塞を強襲するボリシェヴィキのくり返しての攻撃を英雄的に撃退した。
 トロツキーとトハチェフスキーはクロンシュタットの人々よりもはるかに有利であった。共産主義国家の全機構が彼らを支援し、中央集権化された新聞はでっちあげられた「叛逆者と反革命家」に対して悪口を広めつづけた。彼らには際限のない補充があり、クロンシュタットの猜疑心のない人々に対して夜間の攻撃をカムフラージュするために凍結したフィンランド湾の雪と混同する白衣でおおわれた人々を持っていた。クロンシュタットが持っていたものは、ひるむことのない勇気と、彼らの運動の大義および彼らが独裁からロシヤを守る救済者として戦う自由ソヴェトに対する変ることのない信念だけであった。彼らには共産主義者という敵の突進を阻止する砕氷船さえなかった。彼らは飢え、寒さ、夜を徹しての不寝番のために疲れ切っていた。しかし、彼らは責任を果たし、死にものぐるいで圧倒的な不利をものともせずに戦った。
 重砲のとどろきがやまない日夜、恐ろしい不安のなかで、銃砲のうなりの間に、残忍な血の水浴に反対する叫びやそれを停止させようとする呼びかけの声は一つとして聞かれなかった。ゴーリキー、マキシム・ゴーリキー、彼はどこにいたか。彼の声は聞かれなかった。「彼のところへ行こう」と私は何人かのインテリを説得した。彼は、自分の職業の人間に関するときでも、彼が判決された人々の無罪を知っているときでさえ、個人的な大事件ではけっしてわずかでさえも、抗議したことがなかった。彼は今抗議しないであろう。それは望みがなかった。

 インテリ、かつては革命のたいまつの奉持者、思想的指導者、作家や詩人であった男女は私たちと同様どうすることもできず、個人的な努力が役立たないことで無気力になっていた。彼らの同志や友人の大部分はすでに投獄されるか亡命していた。処刑されたものもいた。彼らは人間の価値がすべて崩壊したことですっかり挫折したのを感じていた。
 私は知りあいの共産主義者に向かって、何かするように懇願した。彼らのなかには自分たちの党がクロンシュタットに対して犯しつつあるとはうもない犯罪を認めるものもいた。彼らは反革命という告発が全くのでたらめであることを認めた。誤認されたリーダーのコズロフスキーはつまらない男で、自分の命にびっくりして、水兵たちの抗議にかかわることができなかった。水兵たちの性格は純粋で、彼らの唯一の目標はロシヤの繁栄であった。ツアーの将軍どもと共通した運動を行うどころではなくて、彼らは社会革命党のリーダー、チェルノフが申し出た援助を辞退さえしたのである。彼らは外部の助力を望まなかった。彼らが要求したのは来るべき選挙でクロンシュタット・ソヴェトへの自分たち自身の代表を選ぶ権利であり、ペトログラードのストライキ参加者に対する正義であった。





 これらの共産主義者の友人たちは私たちといっしょに幾夜も議論に議論を重ねながらすごしたが、彼らは誰一人としてあえて抗議の声を公然とあげようとしなかった。私たちはクロンシュタットがもたらす結果を実感しないのである、と彼らはいった。彼らは党から除名され、彼らとその家族は仕事と配給を奪われて、文字通り飢餓によって死刑を宣告されるであろう。あるいは、彼らはあっさりと消息を断って、誰も彼らの身に何が起ったかは少しもわからないであろう。しかし、彼らの意志をまひさせたのは恐怖ではない、と彼らは私たちにうけあった。それは抗議ないしはアピールが全く役に立たないということであった。共産主義国家の戦車の車輪を止めるものは何もなかった、まさに何もなかったのである。車輪は彼らを平伏させ、それに抗して叫ぶヴァイタリティさえ彼らには残っていなかった。

 私たちサーシャ〔ベルクマンを指す〕と私も同じ状態になり、これらの連中のように軟弱に黙従するかもしれないという恐ろしい懸念に私はつきまとわれた。それよりも好ましいものは何もなかったであろう。牢獄、亡命、死刑さえも。それとも脱出! ぞっとするような革命の見せかけと僭称。
 私がロシヤを離れたがるかもしれないという考えは以前は絶対に思いつかなかった。私はそれをちょっと思いついたことでびっくりしたし、ショックであった。私がロシヤをカルヴァリー〔キリストが十字架にかけられた場所〕にする! けれども、機械の歯車、思いのままにあやつられる生命のないものになるよりも、むしろその手段を選びさえするであろうと感じた。


 クロンシュタット砲撃は十日間というもの日夜休むことなくつづき、三月一八日の朝突然停止した。ペトログラードにもたらされた静寂は前夜の間断なき砲声よりももつと恐ろしかった。それは誰をも重苦しい不安におとし入れた。何が起ったのか、なぜ砲撃が絶えたのか知ることはできなかった。午後おそくに、緊張は無言の恐怖に変った。クロンシュタットは征服された数万人が殺害された市は血に浸された。多くの人々、クルサンティや若い共産主義者の墓場ネヴァ川は彼らの大砲で氷がこなごなにされてしまった。英雄的な水兵や兵士は最後まで自分の部署を守った。不幸にして戦闘で死ななかったものは敵の手中に落ちて、処刑されたり、ロシヤ最北の凍原地帯に送られて、徐々に苦しめられたのである。
 私たちはろうばいした。ボリシェヴィキに対する信頼の最後の糸が切れたサーシャは街を絶望的に歩きまわった。私の手足は鉛のようで、全神経はいいようもなく疲れ切っていた。私は弱々しくすわって、暗闇を見つめていた。ペトログラードは黒いとばりのなかでただよっていた。気味悪い死体であった。街の灯は消えかかったローソクのように黄色に明滅していた。



 三月一八日、不安な一七日間の睡眠の不足した後のまだものうい翌朝、私は多勢の足音で目がさめた。共産主義者が行進し、楽隊は軍歌を演奏し、「インタナショナル」を歌っていた。かつて私の耳にこころよかったこの旋律が今では人間の燃え立つような希望の葬送歌のようにひびいた。

 三月一八日、パリ・コミューンの記念日。パリ・コミューンはその二カ月後に三万人のコミュナールの虐殺者のティエールとガリフェによって粉砕されたが、一九二一年三月一八日にはクロンシュタットでそれが踏襲された。

 クロンシュタットの「清算」の十分な意義は弾圧三日後にレーニン自身によって明らかにされた。クロンシュタット包囲が進行中であったときにモスクワで行なわれていた第一〇回共産党会議で、レーニンは意外にも彼の発案になる共産主義歌を、彼の発案(インスパイアド)になる新経済政策賛歌に変えたのである。
 自由貿易、資本家への譲歩、農場と工場労働者の私的雇用、これらすべては三年以上も俗悪な反革命とののしられ、投獄や死刑にすら処せられたのに、今ではレーニンによって独裁の栄光ある旗にしたためられたのだ。相変らず厚かましくレーニンは、党内外の誠実な思慮深い人々が一七日間に知ったこと、「クロンシュタットの人々は本当のところは反革命家を欲さなかったが、私たちを欲しもしなかった」を認めた。純真な水兵たちは「全権力をソヴェトヘ」という革命のスローガンを真剣にかかげていたが、レーニンとその党はこのスローガンを堅く守ると厳粛に約束した。それは彼らの許しがたい犯罪であった。そのために彼らは死なねばならなかった。彼らはレーニンの新しいスローガンを植え付ける大地を肥沃にするために殺害されねばならなかったが、このスローガンは古いものを完全に逆転したのである。その傑作が新経済政策、NEPである。
 クロンシュタットに関するレーニンの公けの告白によっても、敗北した市の水兵、兵士、労働者の捜索は中止されなかった。彼らは幾百人となく逮捕され、チェカは再び「ねらい射ち」にいそがしかった。


 とても奇妙なことに、アナキストはクロンシュタットの「叛逆」と結びつけて言及されなかった。しかし、第一〇回会議でレーニンは、最も仮借ない戦争がアナキスト勢力を含む「プチ・ブル」に対してなされねばならない、と宣言した。労働者反対派のアナルコ・サンジカリスト的な性向は、これらの傾向が共産党それ自身のなかで発展したことを証明する、と述べた。レーニンがアナキストに対して武力に訴えたことはただちに反応があった。ペトログラードのグループは急襲され、多数が逮捕された。そのうえに、チェカは私たちの陣営ではアナルコ・サンジカリスト派に属する『ゴーロス・トルーダ』の印刷所と発行所を閉鎖した。私たちはこのことが起るまえにモスクワ行きの切符を買っていた。私たちは大量の検挙について知ったとき、もし私たちも追われているのなら、もう少し滞在しようと決心した。しかし、私たちは干渉されなかったが、それは多分ソヴェトの監獄には「ならずものども」だけしかいないことを示すために、二、三のアナキストの知名人を自由にしておくことが必要であったからであろう。
 モスクワでは六人を除いてすべてのアナキストが逮捕されていたし、『ゴーロス・トルーダ』の書店は閉鎖されていた。どの市でも私たちの同志に対するどんな告発もなされなかったし、彼らは審問されたり裁判されたりしなかった。にもかかわらず、彼らの多くはサマラ刑務所へすでにおくられていた。まだブチルキやタガンカ監獄にいる人々は最悪の迫害と肉体的な暴力さえも受けていた。このようにして、私たちの若い仲間の一人、若いカシーリンは看守の面前でチェカ部隊になぐられた。革命の前線で戦ったことがあり、多くの共産主義者に知られ、尊敬されていたマクシーモフと他のアナキストたちはぞっとするような状態に反対してハン・ストを宣言せざるをえなかった。

 私たちがモスクワへもどって最初に要求されたことは、私たちの仲間を根絶するために協定された戦術を告発するソヴェト当局に対する宣言に署名することであった。


 私たちはもちろん署名したが、私と同じく、いまではサーシャも、まだ獄外にある一にぎりの国事犯たちのロシヤ国内での抗議は全く役に立たぬと力説した。他方、たとえ私たちがロシヤの大衆に近づくことができたとしても、彼らから効果的な行動を期待することはできなかったであろう。長年にわたる戦争、内戦、苦労は彼らのヴァイタリティを侵食し、テロルは彼らを沈黙させ、従順にした。私たちのたのみはヨーロッパと合衆国である、とサーシャは断言した。海外の労働者が「一月」の恥ずべき裏切りについて知らねばならないときが来た。あらゆる国におけるプロレタリアート、他の自由な急進的な勢力の覚醒した意識が、信念のために仮借ない迫害に対する強い叫びに具体化されねばならなかった。それだけが独裁の手を止めたであろう。他のものは何もそれができなかった。
 クロンシュタットの殉教は私の仲間に代わってすでにこのことを大いになしとげていた。それは彼がボリシェヴィキの神話を信じていた最後の形跡を打ち破った。サーシャだけでなく、かつては共産主義者の方法を革命期には不可避的であると擁護していた他の同志たちも、ついに「一〇月」と独裁との間の深淵を見ざるをえなくなったのである。
 彼らの知った深遠な教訓の費用がさほど莫大なものでなかったらば、私とサーシャが再び同じ立場で手を結んだということ、これまでボリシェヴィキに対する私の態度に敵対的な私のロシヤの同志が今では私と親しくなったということを知って、私は安堵したであろう。苦しい孤立のなかであれ以上模索しなかったこと、アナキストの間で最も有能な人間として私が過去に知った人々のなかでさほど疎外を感じないこと、三二年間の共通の運命を通じて私の生命、理想、労働を共有した一人の人間の前に、私の思想と情緒を押えなかったことはなぐさめであろう。だが、クロンシュタットには黒い十字架が建てられ、現代のキリストたちの血が彼らの心臓からしたたり落ちている。いかにして個人的ななぐさめとすくいをいだくことができるであろうか。》
〔右に引いたのは、A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』に付記として掲載されているE・ゴールドマンの事件当時の回想の終わり部分である。同書は、戦前と戦後に1回づつ復刻されているがいまは入手困難な状態にある。それを木田冴子氏が訳文も含めてていねいに復刻したもので、宮地健一氏のホームページから借用した。ちなみに、付記を書いているゴールドマンは著者ベルクマンの同志であり、妻でもあったロシヤ生まれのアメリカ人アナキストである。〕



 クロンシュタットについて書かれたものはかなりの数に上る。が、管見のかぎりでいえば、アナキストないしはサンジカリストのものが大半で、元ボリシェヴィキやラッセルのような外国人のものはない。その意味では一方の視点からしか書かれておらず偏った見方であるという指摘も可能だが、たとえそうであったとしても、私は彼らが書いたものほうに正当性があるものと見ている。そこには、全身全霊を賭けて戦いながらも敗れたものでなければ書けない真実が明かされているからだ。長々とベルクマンの著作からを引用した理由はそこにある。
 引用しなかった箇所に、クロンシュタットを指して白衛軍の手先であるとするボリシェヴィキの宣伝にふれている箇所がある。が、同書は、叛乱を前にして選出された15名の臨時革命委員会は、つぎのような職種の持主によって構成されていることを明かしている。
1、ペトリチェンコ (旗艦「ペトロパヴロフスク」高級書記)
2、ヤコヴェンコ (クロンシュタット区電話交換手)
3、オスソソフ (「セヴァストポル」機関兵)
4、アルヒポフ (技師)
5、ペレベルキン (「セヴァストポル」職工)
6、パトルシェフ (「ペトロパヴロフスク」職工監督)
7、クーポロフ (高等看護卒)
8、ヴェルシニン(「セヴァストポル」水兵)
9、ツーキン (電気工)
10
、ロマネンコ (格納庫番人)
11
、オレーシン (第三工業学校管理者)
12
、ヴァルク(木挽工)
13
、パヴロフ (海軍水雷敷設夫)
14
、バイコフ (荷馬車夫)
15
、キルガスト (潜水夫)
 見ればわかるように帝政に深くかかわったと思われる職種の持主はこのメンバーのなかにはいない。むしろ、その職種を考えれば革命でなければ選ばれることがなかったであろう職種の人物で構成されていること見えてくる。基地勤務者が圧倒的に多く乗員が少ないこと、8番目にあるヴェルシニンという水兵の所属に「セヴァストポル」とあるのも、なぜ黒海艦隊乗員がバルト艦隊の基地にいるのかという点でいささか奇異に感じないこともない。だが、一般的に考えれば基地勤務者のほうが活動に有利であることから知名度が高かっただろうこと、同様にヴェルシニンの場合もなにかの事情で革命前にクロンシュタットにきて、そのままとどまった著名な活動家だったと考えれば理解できなことではない。
 他方、ボリシェヴィキないしはボリシェヴィキよりの著者が書いたものには多くの資料を挙げ、一見すると真実を語っているかのように映る。しかし、そこにはいわゆる勝利者の視点、あるいは勝者から提供された資料にのみ依拠して書かれているという致命的な弱点がある。ドイッチャーの一連の著作やカーのものを含めて、ロシア革命が革命とは呼べないものであることを明かしていないのはそのことによる。レーニンまでは正しく、スターリンからが問題なのだというロシア革命観がいまでも根を張っているのは、右に指摘したような現場に近くにいたものでなければ書けないリアリティに欠けているからである。


 ゴルバチョフ後のソ連はレーニン・スターリン時代に無実の罪を着せられ、国家反逆者として扱われてきた人物の名誉回復を相次いでおこなった。にもかかわらず、ことクロンシュタットに関しては手つかずのままに放置されてきた。ソ連共産党を名乗るかぎり、レーニンには手を付けられないという禁忌は、守らざるをえないものとしてありつづけてきたのである。その最後の禁忌は、91年の無血クー・デタによってソ連を最後的に崩壊させ、初代ロシア連邦大統領を名乗ったエリツィンの登場まで、破られることはなかった。94年、エリツィンは大統領令によってクロンシュタットの反乱者の名誉を回復した。
 ソ連が崩壊し、公文書保管所に保存されてきた秘密文書がつぎつぎと明かされている。半世紀以上も闇の中に包まれてきたボリシェヴィキの真実の姿が、21世紀を迎えたいま、やっとのことで明らされはじめているのである。
 このことはそのまま中国にもいうことができる。このところ中国では数多くの騒乱も起きている。文化大革命を含め、それらの真相は中国共産党の独裁が崩れないかぎり明かされないことを意味している。

2. あらかじめ仕組まれていた絞殺



 ロシア革命はクロンシュタットに始まり、クロンシュタットの絞殺によって幕を閉じたといっても過言でない。
 では、なぜそういえるのか。そこには西欧の辺境にあり、きわめて遅れた形で近代を迎えたロシアの特異性がある。
 20世紀という戦争と革命の時代を前にしたロシアは、国民の80パーセント以上を農民が占める遅れた農業国家だった。当然のことながら識字率もきわめて低い。こうした条件を抱えるなかで先進国と肩を並べて大国として国力を発展させ、維持していくカギとなる人材の供給源のひとつが水兵だったのである。陸軍と異なり、近代海軍は技術の塊ともいえる艦船に依拠している。巨大かつ複雑な艦船を敵との交戦という異常事態の下でふだんと同様に機能させるには、熟練した技能だけではなく協同作業をおこなうにふさわしいだけの規律性と協調性が問われる。陸軍は徴兵で成り立つが、海軍が志願兵を原則とするゆえんである。
 協調性については脇にひとまず措くとして、規律という点では伝統ロシアの風土にはなじまない。けっして自分勝手ということではないが、すべてがおおらかで細かいことにはこだわらない(というよりも本能的に拒絶する)体質がロシア人にある。かくして、豊饒が天の恵みであるなら厄災も天が戒めのために与えた警告として受け取ってきたのがロシアの農民だった。
 そうした風土にあって、水兵は優れた技能をもつ規律性を備えたロシアにおける精鋭だった。加えて、彼らは外国の風土と文化にふれる機会が多い。おりから西欧を渦巻いていた思潮に接しても、それらを理解する能力ももっていたのは彼らだけだったのである。バルトと黒海を基地とする2つの艦隊の若い将校と下士官が革命の主力になった背景はここにある。

 黒海艦隊の基地はペテルグルク、モスクワの両首都から遠く離れたクリミア半島にある。それに対して、クロンシュタットはペテルブルグ市内にある。この地勢的条件がクロンシュタットを革命の主役に押し上げた第一の要因である。ロシア革命を語るさいに欠かせないのはソヴィエトであるが、2次の革命にさいして、いずれもクロンシュタット・ソヴィエトが発源地になっていることがその証左である。トロツキーが「ロシヤ革命の誇りと栄光」と賞賛したゆえんもここにある。

 しかし、そのソヴィエトの発源地クロンシュタットで、ソヴィエトを名乗る組織の平和的要求を、ボリシェヴィキは大量の軍隊を動員して圧殺した。それは文字どおりソヴィエトという優れて革命的な組織の絞殺にほかならない。にもかかわらず、ボリシェヴィキは彼らの独裁国家をソヴィエト連邦と名乗りつづけた。国名としてソヴィエトを名乗りつづけることが即革命国家の証であることを、レーニンほど熟知していた人物はほかにいない。このことを考えるとき、レーニンもトロツキーも、できることならクロンシュタットの要求をのみたかったものと思われる。いままでのボリシェヴィキ観はすべてこの視点に立っている。じじつ、主観的にはそうだったと私も思う。
 だが、彼らはそうしなかった。ここで分かれるのは、彼らがその道を選ばなかった理由である。しようとしても諸般の事情が許さなかったのか、それともそうしたくはなかったのか、である。
 全体主義としてのボリシェビズムという思想を考えるとき、あらゆる証拠は後者であることを示している。国家を抑圧のための機関であると考える点では、レーニンもトロツキーも完全に同じ考えをもっていた。ここから、それに敵対する可能性があるすべてを排除することが彼らにしてみれば至上命題だったのである。ここで可能性とは、暴力をもって己の意志を相手に強要する思想と武力をもっているということである。思想だけで武力を備えていない場合も排除しなければならないと考えるのが全体主義の特性だが、それはあとの作業でよい。まずは、両者を兼ね備えている集団の排除が先である。


 当時のロシアには、その可能性をもつ集団が4つあった。1つは、旧軍に連なる部分、いわゆる白衛軍である。2つめはウクライナに伝統的に存在する戦闘的な農民集団であり、この指導者としてマフノがいた。3つめはコサックである。4つめがクロンシュタットとセバでストポリに根拠地をおく水兵たちだった。ボリシェヴィキはこれらの集団を順に排除し、最後に残ったのがクロンシュタットだったのである。クロンシュタットの排除に成功すれば、首都から遠く離れたセバストポリが追従したところ容易に制圧できる。こうした判断から、マフノ軍団の壊滅を果たした2012月を待って、レーニンとトロツキーはクロンシュタットの絞殺を決意した。
 先に私は「主観的には」と書いた。たしかに主観的には譲歩をしたかっただろうとは思う。が、それをした場合のはね返りこそ、彼らにしてみれば、なにを措いても避けなければならない課題だったのである。一歩の譲歩が、この場合は命取りになる可能性を十二分に含んでいた。彼らは、それほど多くの血を流していた。ひとつの譲歩が、ここでは希望の星になる可能性をたぶんに含んでいたのである。
 マフノ軍団を制圧したいま、クロンシュタットだけが排除しなければならない最後の集団だった。できればやりたくはなかっただろうが、やってしまえばあとは時間が解決するというボリシェヴィキ特有の思考が、この蛮行を可能にさせたのである。

 もう1つ証拠を挙げる。それは新経済政策(通称ネップ)と呼ばれている市場原理の導入(内実は飢餓に対する国民に対する譲歩策)が、クロンシュタットの制圧を待って実施に移されていることである。クロンシュタットの制圧は3月18日、ネップの実施は21日であることがそのことを示している。これはボリシェヴィキの政策の失敗を一時的にことするための妥協策であり、ボリシェヴィキの本音ではなかったことが明かされた資料によって明白になっている。資料によれば、レーニンはカーメネフに「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは最大の過ちである。われわれは必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」と書簡を送っていたのである。

 もともとがクロンシュタットの叛乱は、ゆうに1冊の本になるだけの内実を備えている。それを、要点を漏らすことなくかつ簡潔に書くことは、それ自体がそれなりの時間とエネルギーを要する作業である。今回はその時間をもてなかった。そのことをふまえ、この章についてもつぎに書き直すさいに全面的に改めたいと考えている。


 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放


1. 引き続きベルジャーエフ


《ソヴェート機構は当時にあってはまだ完璧に組織化されていなかった。それはまだ全体主義的とは呼べず、幾多の矛盾を蔵していた。多数の人々に支給された学界用配給切符の実施いぜんに、著名な十二人の著述家が特配切符を受取った。世間は彼らのことを冗談に――不滅者と呼んだ。私はこの十二人のなかの一人であった。しかしなぜ私が選ばれた人々の仲間に入ったのか、つまりどうして私が食糧に関して特権者に数え入れられたのか、私にはまったく不可解なことになった。配給切符を受取ったちょうどそのときに、私は逮捕されて、チェ・カーに監禁されたのである*。当時は旧ロシアのインテリゲンチャの代表者、カーメネフ、ルナチャルスキー、ブハーリン、リャザノフはまだクレムリン宮殿にいた――そしてコミュニズムに同調しなかった著述家や学者等、インテリゲンチャの代表者たちにたいする彼らの態度は、チェ・カーの役人たちの態度とは異なっていた。彼らは恥じていた、そして知的ロシアの苦難にはげしくこころを動かされて、煩悶していたのである。
* N・Aの逮捕の前夜、彼と私は公共事業にかりだされた。N・Aは病気にかかっていた。彼は高熱を発していた。朝の五時にわれわれは起床し、点呼にならばねばならなかった。零下三十五度であった。石油ランプに薄暗く照らされた天井の低い、寒く暗い部屋のなかに「ブルジョワジー」の一群が集められた。人々はみな番号で呼ばれた。寒さに震えているみなりの貧しい人々。蒼白くやつれた顔。武器の触れ合う音。号令者の兇暴な怒声。これらすべてがさながらダンテの「地獄」の一場面を偲ばせた。点呼ののち、われわれは縦隊で行進しなければならなかった。そして、氷を「かち割り」、鉄道線路の雪かきをするために、数露里はなれた田舎へまるで重罪人のように兵隊にとりまかれながら追い立てられるのであった。重い足をひきずって駅に到着したとき、男は女からひき離された。男たちは重い鉄挺で氷を「抉りだし」、女たちは氷塊を車輌に積み込まねばならなかった。一車両ごとに二人の女が配置させられた。私といっしょに働らいたのはまだうら若い少女であった。私は決して彼女の顔を忘れないであろう。彼女は短いブラウスをつけ、軽い靴をはいていた。いま彼女は霜やけで紫色になった両手を震わせながら、これらの氷塊を持上げるのであった、そしてそのあいだ彼女の眼からたえず涙があふれでた。薄暗くなってから、われわれは積込作業をおわった。私はN・Aのところへ行った。彼は蒼ざめ、疲れ果てていた。彼はほとんど立っていることもできなかった。われわれは終日なにも口にしていなかったのである。仕事のおわったあとで、各人にひときれの黒パンが配給された。》
《われわれが死ぬほど疲れ切って帰宅したとき、日はとっぷり暮れていた。私は小型の暖炉を焚きつけるために、大急ぎでN・Aの寝室に入った。燃料は、私が母の領地から運びこんでおいた古代家具であった。N・Aは?のテーブルと安楽椅子を割った。われわれは強いて彼をベットにつかせた。真夜中に騒々しいノックの音がきこえた。それはちょうど誰かが扉を打ち破ろうとしているかのようであった。すぐに私はとびおきた。私のまえには一人のチェ・カーの役人に引率された武装した兵隊たちが立っていた。「ここはベルジャーエフの住まいだね?」 その役人はたずねた。N・Aに警告するため、私は大声で叫んだ、「チェ・カーの役人よ!」兵隊の一人が私の口をふさいだ。チェ・カーの役人はN・Aの部屋を教えるように私に命令した。われわれが彼の部屋に入ったとき、N・Aはすでにおきあがっていて、落着いた声でいった、「家宅捜索は無用です。私はボリシェヴィズムの反対者です、そして私の思想をかくしたことはありません。私の論文のなかに書いてあることはみな、私が講演や集会で公然と語ったことばかりです。」それにもかかわらず、チェ・カーの役人はあらゆる書類をかきまわした。家宅捜索は早朝までつづいた。それから彼はうさんくさく思った書類をえりわけ、調書につぎのように記入した、「ベルジャーエフは、キリスト教徒であるがゆえに、ボリシェヴィズムの反対者であると声明した。」そののち、あたたかい衣類をいくつか持参することを許されて、この病み疲れ、さいなまれた人はルビヤンカの刑務所へとひきたてられて行った。 エフゲニア・ラップ》(『わが生涯』)

 22年夏

 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放

《しばらくのあいだ私は比較的平穏に暮らすことができた。一九二二年の春いらい情況は変った。反宗教的戦線が形成せられ、反宗教的迫害がはじまった。一九二二年の夏をわれわれはズヴェニゴロドスク都のボルヴヒですごした。そこはモスクワ河畔の魅力に富んだ土地で、近隣には当時トロツキーが住んでいたユスホフ家の領地アルハンゲルスコエがあった。ボルヴヒをとり巻く森林はまったく素晴らしかった。われわれは茸がりに熱中した。われわれはおそろしい政体のことを忘れた。事実また田舎ではそのようなことはなにも感じとれなかったのである。或るとき私は一日の予定でモスクワへでかけた。はからずもその日の夜、この夏を通じて私がわれわれのモスクワの住まいですごしたただ一度の夜――家宅捜索が行なわれ、私は捕えられた。ふたたび私は、爾来ゲ・ぺ・ウと呼ばれたチェ・カーに拘禁された。私はおよそ一週間そこに拘留されなければならなかった。予審判事のまえへ連れて行かれた私は、彼からソヴェートロシアを退去して、外国へ立ち去るように通告された。ふたたびソヴェートロシアの国境を踏むときは、射殺されなければならないという宣言に、署名させられたのち、私はふたたび釈放された。外国旅行の準備がととのうまでに、それからおよそ二カ月が経過した。コミュニズムへの転向を絶望視された著述家、の一団が外国へ追放された。これはのちに二度とは適用されなかった異例の処置であった。私は故郷から追放されたのである――政治的な理由からではなくして、イデオロギー的な理由から。君は追放されるのだと聞かされたとき、郷愁が私を襲った。私は亡命者になりたくはなかった。私は亡命者たちからのけ者にされているのを感じた、もともと彼らとは共通ななにものをももっていなかったのである。しかしまた同時に、よりいっそう自由な国に行けるだろう、そしてよりいっそう自由な空気を呼吸することができるだろうと、私は感じた。私は私の追放が二十五年以上もつづきうるとは思っていなかった。》(同書)
2.
 レーニン倒れる

5月:レーニン、脳梗塞で倒れ右半身不随となり、執務の現場から離れる。
12
月:2度目の脳梗塞。
2008.10.25
〔未定稿〕


【注】「私の20世紀」了。技術上の問題で読みにくさが残。あしからず。

4) 宗教を否定する宗教としてのボリシェビズム

《社会現象としてのボルシェヴィズムは、通常の政治運動ではなく、一つの宗教と考えることができる。世界にたいする重要で効果的な精神的態度は、宗教的態度と科学的態度とに大別できるであろう。科学的態度は試行錯誤的で、断片的であり、証拠のあるものは信じ、ないものは信じないという態度である。ガリレオ以来、科学的態度には重要な事実や法則を確認していく能力があることがますます立証されており、そのことは気質、利益、政治的圧力の如何にかかわりなくすべての有能な人々の認 めるところである。太古の時代より世界におけるほとんどすべての進歩は、科学と科学的気質によるものであった。ほとんどすべての主要な悪は、宗教によっている。
 私が宗教というのは、独断として抱かれている信仰の体系を意味する。その独断は生活の振舞いを支配し、証拠を超越し、あるいは証拠に反し、知的ではなく感情的ないし権威主義的な方法で教え込まれる。この定義では、ボルシェヴィズムも宗教である。その教義が証拠を超え、あるいは証拠に反する独断であることは、後で証明することにしよう。ボルシェヴィズムを認める人々は科学的証拠を 受けつけなくなり、知的に自殺してしまう。ボルシェヴィズムのすべての理論が真実であるとしても、この知的自殺ということには変りはない。その理論を偏見抜きで検討することは、許されていないからである。私のように、自由な知性が人類の進歩の主要な原動力であると信じるものは、ローマ教会と同じくボルシェヴィズムに根本的に反対せざるを得ない。
 ボルシェヴィズムは、宗教の中ではキリスト教や仏教よりもイスラム教と同列におくことができる。キリスト教と仏教は本来、神秘的な理論、冥想好みの個人的な宗教である。イスラム教とボルシェヴィズムは実際的、社会的、非精神的で、現世の国を獲ちとることに関心を持っている。この両者の創始者は、聖書でいう荒野の第三の誘惑に敗けたことであろう。イスラム教がアラブ人にしたことを、ボルシェヴィズムがロシア人にすることになるかもしれない。シーア派の初代教祖アリーが、予言者ムハメットが勝った後ではじめて集まってきた政治家たちの前に膝を屈したように、真の共産主義者が今ボルシェヴィキの隊列に集まりつつある人々の前に屈することになるかもしれない。もしそうなれば、壮観華麗をきわめたアジア帝国が発展の次の舞台となり、後に歴史的に回顧すれば共産主義はボルシェヴィズムの小さな部分でしかなかったということになるかもしれない――ちょうど禁酒が、イスラム教の小さな部分でしかないように。革命勢力が帝国主義的勢力であるかどうかはともかく、一つの世界的勢力としてのボルシェヴィズムが成功すれば、遅かれ早かれアメリカと絶望的な対立に陥ることであろう。そしてアメリカは、ムハメットの部下が直面させられたどのような勢力にもまして堅固で強力である。しかし共産主義理論は長期的にはほとんど確実にアメリカの賃金労働者の間で前進を遂げるであろう。したがってアメリカは永遠にボルシェヴィズム反対という訳にはいかなくなるであろう。ロシアでボルシェヴィズムが倒れることになるかもしれない。しかしそうなっても、他の国で再び出現してくるであろう。それは、困窮の立場に立たされた工業人口にはお挑むきに適しているからである。その悪い点は主として、困窮の立場に起因したという事実によっている。問題は、善と悪をより分け、絶望のあまりまだ残忍さに駆られていない国で善を採るようすすめていくことである。》

 本書は48年に第2版が発刊されており、そこでラッセルは「いま書くなら、いくつかのことでは違った言い方をするであろうが、すべての主要な点で、私は一九二〇年の私のロシア共産主義観を今もそのまま持ち続けている。」と記し、「それ以後のロシア共産主義の発展は、私がかつて予想したものと似ていなくもない。」としている。それから60年を経ったいまでも、彼は同じ感想を記すことになるのではないかと思う。


6) 農業(民)問題の無策

《文明世界は遅かれ早かれ、ほとんど確実にロシアの実例に従って社会の社会主義的改造を試みようとしているかに見える。私は、その試みは次の数世紀間の人類の進歩と幸福にとって本質的に重要なことだと信じているが、同時にその移行は恐るべき危険を伴うとも信じている。移行の方法についてのボルシェヴィキ理論が西欧諸国の社会主義者の採用するところとなれば、その結果は長期の混乱であり、社会主義にも何か他の文明の体系にも至ることなく、ただ暗黒時代の野蛮に逆戻りするだけだと、信じている。社会主義のため、さらには文明のためには、ロシアの失敗を認め、かつそれを分析することが至上の命令であると、思うのである。他ならぬこの理由のために、ロシアを訪問した多くの西欧の社会主義者が必要と考えている秘匿の陰謀に、私は加わることができないのである。
 先ず、ロシアの実験は失敗だったと私に考えさせる事実を要約し、次いで失敗の原因を探し出すことにしよう。
 ロシアにおけるもっとも初歩的な失敗は、食糧をめぐる失敗である。かつては穀物やその他の農産物では魔大な輸出可能の余剰を生み出していた国、非農業人口は全人口の一五%でしかない国では、都市に充分な食糧を大した困難もなく供給できて然るべきである。しかし政府は、この点ではひどく失敗している。配給は不充分、不定期で、市場で投機的価格で非合法に買った食物がなければ、健康と活力を維持できない。輸送網の崩壊は食糧不足の有力な原因ではあるが主要な原因ではないと考える理由を、私はすでに述べておいた。主要な理由は農民の敵意であり、それはさらに工業の崩壊、強制徴発の政策によっている。小麦と小麦粉については、農民が自分と家族に必要としている最低限以上に生産したものを、政府がすべて徴発している。代りにある一定額を地代として取り立てていたならば、農民の生産意欲を打ち破ることもなかったであろうし、あれ程までに強い農産物を隠匿しようとする動機を生み出すこともなかったであろう。しかし、この計画では農民は富裕になることができ、いわば共産主義の放棄を告白することになったであろう。だから強制的な方法を用いた方がよいと考えられるようになり、それは当然に破滅をもたらすことになった。》

7) 工業政策の不在失敗

《ボルシェヴィキの不評は、第一に工業の崩壊によっているが、その不評は政府がやむなく採った政策によって一層大きくなった。ペトログラードとモスクワの普通の住民に充分な食糧が与えられなかったことから、政府は、ともかくも重要な公共の仕事に従事している人々には能率を維持できるだけの栄養を与えるべきだという決定を下した。お偉い人民委員はもちろん、共産党員一般がイギリスの基準でも贅沢な暮しをしているというのは、根も葉もない中傷である。彼らは彼らの支配下の人民とは違って、厳しい餓え、それに伴う精力の衰弱にさらされていないというのが事実である。この点では彼らを非難できない。政府の仕事は遂行しなければならないからである。しかし一つにこのようにして、階級間格差を追放することを意図していたところで、それが再現してきたのである。私はモスクワで、明らかに腹を空かせている労働者と話したが、彼はクレムリンの方を指して、「あそこでは喰うものはふんだんにある」と言った。彼は、国民の間に広く拡がっている感情を表明したにすぎなかったが、それは、共産党員の理想主義的な呼びかけに致命的な打撃となるであろう。
 ボルシェヴィキは、評判が悪いがために軍隊と非常委員会に頼らねばならなかった。そしてソヴィエトを中身のない形式だけのものにせざるを得なかった。プロレタリアートを代表しているという主張は、ますます見えすいた嘘になってしまった。政府のデモや行進や集会の真只中にあっても、本物のプロレタリアは無感動で幻滅したような顔で傍観している。異常なまでの精力と熱意のあるプロレタリアならば、資本主義下の隷属よりもはるかに進んだこのソヴィエトの隷属状態から自分を解放するために、むしろサンジカリズムやIWWの思想の方に向かうであろう。苦役労働者並みの賃金、長時間労働、労働者の徴用、ストライキの禁止、怠業者にたいする禁固刑、生産が当局の予想を下回った時には、ただでさえ不充分な工場の配給をさらに減らすという措置、政治的不満のあらゆる気配を密告し、不満を煽動するものを投獄しようと狙っているスパイの大群――これが、今でもプロレタリアートの名で統治していると公言している体制の現実なのである。
 同時に、国の内外の危機のために大規模な軍隊を創出することが必要となった。軍は中核部分だけが党員で、一般の兵士はほとほと戦争には嫌気のさした国民から徴兵制で集められている。もともと国民は、ボルシェヴィキが平和を約束したから、彼らを政権につけたのである。軍国主義は、必然的な結果として苛酷で独裁的な気運を生み出す。政権の座にある人々は、自分たちの指揮下には三百万の武装兵力があり、自分たちの意志にたいする民間人の反対は簡単に粉砕できることを意識しながら、彼らの日々の仕事をこなしていく。》
《十月革命以降のロシアとボルシェヴィズムの全発展過程に、ある悲劇的な宿命性が漂っている。外見的に成功しているにもかかわらず、内的な失敗は次々に不可避的な段階をたどって進んでいった――この各段階は、充分な鋭さがあれば初めから予見できたものであった。ボルシェヴィキは外の世界の敵意を挑発することによって、農民の敵意、遂には都市の工業人口の敵意あるいは徹底した無関心を挑発せざるを得なかった。これら多様な敵意は物的な破滅をもたらし、物的な破滅は精神的な崩壊をもたらした。この一連の悪全体の窮極的な根源は、ボルシェヴィキの人生観にある。その憎悪の独断論、人間の本性を力によって完全に変えられるとするその信念にある。資本家を傷つけることが社会主義の窮極の目標ではない。しかし憎悪に支配された人々の間では、それが活動に熱意をこめていく一要素となる。世界中の敵意に直面するのは英雄的行為であるかもしれない。しかしその英雄的行為の代償を支払わねばならないのは、支配者ではなくて国民である。ボルシェヴィズムの原理の中には、新しい善を築こうという願望より古い悪を倒したいという願望の方が大きい。破壊での成功の方が建設での成功よりもはるかに大きかったのは、この理由からであった。破壊したいという願望は憎悪によってかき起てられている。それは建設的な原理ではない。ボルシェヴィキ的精神のこの本質的な特徴から、ロシアを現在の殉教的苦難にさらそうとする意欲が発生した。まったく別の精神からしか、より幸福な世界は作り出せない。》
《ボルシェヴィキの哲学は、漸進的な方法にたいする絶望によって非常に大きく助長されている。しかしこの絶望は忍耐力のなさの現れであり、実は事実の裏付けのあるものではない。近い将来、立憲的な方法によってイギリスの鉄道、鉱山で自治を獲得するのは、決して不可能なことではない。これはアメリカの経済封鎖を発動させたり、内乱やその他の破滅的な危険――現在の国際状況にあっては、本格的な共産主義革命が生じれば、そのような危険を覚悟しなければならない――をもたらすような政策ではない。産業自治は実現可能であり、社会主義にむかっての大きな一歩となるであろう。それは社会主義の多くの利点をもたらすと同時に、生産の技術的停滞をひき起すことなく社会主義への移行をはるかに容易にしていくであろう。
 第三インターナショナルの提唱している方法には、もう一つの欠点がある。それが唱えているような革命は、実際には国家的な不運の時でしか決して実行可能ではない。事実、戦争での敗北が不可欠の条件のようである。その結果この方法によっては、社会主義は生活条件が困難な国、道徳的退廃と社会組織の解体のために革命の成功がほとんど不可能になっている国、人々が激しい絶望の気分に襲われ、工業建設にとって非常に不利な状態にある国でだけ開始されることになるであろう。もし社会主義にも公正な成功の可能性がなければならないとすれば、それは繁栄している国で開始されねばならない。しかし繁栄している国は、第三インターナショナルの用いている憎悪と世界的動乱の議論によっては容易に動かされないであろう。繁栄している国に訴えかけるには絶望よりも希望に重点をおき、繁栄を失うような災厄に見舞われることなくいかにして移行できるかを示すことが必要である。これには暴力や破壊活動の必要性は小さく、より多くの忍耐と建設的な責任が必要であり、決意を固めた少数者の武力に訴える必要も小さいであろう。》

 破壊に比べると建設ははるかに困難であるだけでなく、根気が問われる作業である。気が遠くなるほどのこらえ性がなければ果たせない事業なのだ。何百年もかけてつくられてきたものを、わずか10年や20年で一変させることが、果たして必要だったのだろうか。それほどの急激な変化をロシアの人民は望んでいたのあろうか。すべては急ぎすぎにある。それ以前に、そんなことが可能であると本気で考えたとすれば、人間という生きものに対する無知としかいいようがない。

8) 観念論の極地としてのボリシェビズム

《政治理論を哲学理論の上に基礎づけようとするのは、もう一つ別の理由からも望ましくない。哲学的な唯物論がいやしくも真実であるとすれば、それはすべての所で、常に真実でなければならない。それにたいする例外がある、例えば仏教やフス派の宗教改革運動は例外であると、期待してはならない。そのため、ある哲学の帰結として政治をやっている人は、その哲学の政治への適用において絶対的で全面的であり、歴史の一般理論はせいぜい、全体として、主要な点で真理であるとしか言いようのない性質のものであることを認められないであろう。マルクス主議的共産主義の独断的性質は、その理論の哲学的基礎とされているものに支えられているのである。そこには、カトリック神学に見られるような固定された確実性がある。近代科学における常に変化する流動性、懐疑的な実際性がない。》
《すべての政治は、人間の願望によって支配されている。つき詰めていえば唯物史観には、政治意識のある人は皆、唯一つの願望――自分の持ち分の財貨を増大させたいという願望に支配されているという前提が必要である。さらに、彼がこの願望を実現する方法は通常、彼自身の個人的な持ち分だけでなく、自分の階級の持ち分を増大させようとすることであるという前提を必要としている。しかしこの前提は、真実とはほど遠い。人々は権力を欲する。誇り、自尊心の充足を欲する。対立の相手にたいする勝利を欲し、勝ちたいという無意識の目的のためには対立関係をデッチ上げたりもする。これらすべての動機が純粋に経済的な動機と交錯しており、この交錯の仕方が実際には重要なのである。》

 ボリシェヴィキの思考の根底には、マルクス主義者はあくまでも善でありブルジョアジーは悪の塊であるとする救いがたい観念がある。そこにはいさいの人間にかかわる観察がない。多くのボリシェヴィキが類い希な善意の人間で構成されていたことについては疑いの余地がない。(そのことはラッセルも認めている。)だが、たとえそうであったにしても、その多くのなかに優れた組織力をもつ権力欲の塊のような人物が紛れ込んでいないとする保証はないし、根拠もない。レーニンという卓抜した指導者が没すると同時に、そのことが明らかになる。

(5章終わり)


2) レーニンという人物

《モスクワに着いて間もなく、私はレーニンと英語で一時間対談した。彼は英語をかなりうまく話す。通訳が同席していたが、その助けはほとんど必要がなかった。レーニンの部屋にはまったく飾り気がない。大きな机、壁の数枚の地図、本棚が二つ、二、三の固い椅子の他に来客用の安楽椅子が一つあるだけであった。彼が贅沢はもちろん、安楽ささえも好んでいないのは明白であった。彼は非常に親しげで、一見単純で、倣慢そうなところは全然なかった。誰であるかを知らずに会えば、彼が強大な権力を持っていることにも、彼が何らかの意味で著名であることにさえも気付かないであろう。これ程までに尊大さのかけらもない人物に、私はかつて会ったことがなかった。彼は来客をじっと見つめ、片方の目を細める。それがもう一方の目の人を見抜く力を驚くほど強めるように思える。彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。彼は独裁的で平静、恐れを知らず、私利私欲が異常なまでに欠け、理論が骨肉化したような人物である。唯物史観が彼の生命の源という感じである。自分の理論を理解してもらいたいと願う点で、誤解したり反対したりするものに怒る点で、また説明するのが好きな点でも、大学教授に似ている。私は、彼が多くの人を軽蔑しており、知的貴族であるという印象を受けた。
 私が尋ねた最初の質問は、彼がイギリスの経済的、政治的状態の特殊性をどの程度まで認識しているかであった。暴力革命を支持することが第三インターナショナル加入の不可欠の条件であるかどうかも知りたかったのだが、他の人々が公式にその質問をすることになっていたので、私は直接には訊かなかった。彼の答は、私には不満足であった。彼は、イギリスでは今、革命の可能性はほとんどないこと、労働者はまだ議会制政府に愛想をつかしていないことを認めた。しかし彼は、この愛想づかしが労働党政権によってもたらされるだろうと考えていた。例えば労働党指導者のヘンダーソン氏が首相になったとしても、重要なことは何も行なわれないであろうし、その場、組織された労働運動は革命の方向に向うと、彼は信じている。この理由から、彼はイギリスのレーニン支持者が議会内で労働党の多数を得るために全力を尽くすよう願っている。彼は議会選挙に棄権するのは賛成していない。誰が見ても議会を軽蔑できるようにするのを目的に、選挙に参加することを奨めているのだ。われわれ大部分のものにとってイギリスで暴力革命を試みるのはおよそあり得ないことで、望ましいことでもないように思えるが、その理由は彼には取るに足らぬことで、たんなるブルジョワ的偏見のように思えるのであろう。イギリスではおよそ可能なことならば流血なしで実現できると私が言ったところ、彼はこの意見を空想的だとして軽く一蹴した。イギリスについての知識や心理的な想像力があるという印象はあまり受けなかった。むしろマルクス主義の全体的傾向が、心理的想像には反対なのである。マルクス主義は、政治における一切のものを純粋に物質的な原因に帰属させるからである。
 私は次に、農民が大多数を占めている国で共産主義をしっかり充分に樹立できると思うかと尋ねた。彼は困難であることを認め、農民が食糧を紙幣と強制的に交換させられていることを笑った。ロシア紙幣が無価値であることが、彼には喜劇的なことのように思えたのであろう。しかし彼は、農民に提供できる商品があれば、事態は自然によくなるだろうと言った――それは間違いなく正しい。この点では、彼は一つに工業の電化に期待を寄せていた。電化はロシアにとって技術的に必然なことだが、完成するには一〇年かかるだろうと、彼はいう。党員はみなそうだが、彼は熱意をこめて泥炭による発電の大計画について語った。もちろん根本的な対策としては外からの封鎖の解除に期待しているが、他国に革命が起らなければ、封鎖解除は完全かつ長期的には実現できないだろうと考えていた。ボルシェヴィキ・ロシアと資本主義諸国間の平和は常に不安定なものにならざるを得ないと、彼は言った。協商国側は厭戦気運と各国相互間の不一致のためにロシアと講和するようになるかもしれないが、その平和は短期的にしか続かないと確信していた。平和と封鎖解除については、彼はわれわれ代表団よりもはるかに熱意がなかったし、その点ではほとんどすべての指導的党員も同じであった。彼は、世界革命と資本主義の廃止がなければ真に価値のあることは何も達成できないと信じていた。資本主義諸国との貿易再開は価値の疑わしい一時しのぎの措置と考えていると、私は感じた。
 彼は富農と貧農の間の対立、貧農にたいして行なわれている政府の富農反対の宣伝について語った。そのため暴力行為が起こっていることを、彼は面白いと思っているようだった。彼は、農民にたいする独裁は長期にわたって続けねばならぬといわんばかりの口調であった。農民が自由貿易を望んでいるからであった。この二年間、農民はそれ以前よりも多くの食糧を持っていることを統計で知っていると言った(これは充分に信用できることである)。「それでも彼らは、われわれに反対しているのだ」と、彼はいくらか物悲しげに付け加えた。農村では共産主義ではなくて、農民の土地所有が創出されただけであるという批判者にたいしては、どう返答したらよいのかと、私は彼に尋ねた。それはあまり真実ではないというのが、彼の返事であったが、何が真実であるかについては何も言わなかった。
 私の最後に尋ねたのは、資本主義諸国との貿易がもし再開されるとすれば、資本主義的影響力の中心部が各所に作り出され、共産主義の維持をもっと困難にしないであろうかという質問であった。熱烈な共産党員ならば、外の世界との商業的交流は異端の浸透を招き、現存体制の硬直性をほとんど維持できなくしてしまうとして恐れているのではないかと、思っていたからである。私は、彼がそのように感じているかどうかを知りたいと思ったのである。彼は、貿易が困難を作り出すだろうということは認めたが、戦争の困難よりは小さいだろうと言った。二年前には彼も彼の同志たちも、世界中の敵意に対抗して生き延びることはできないと考えていたと、彼は言った。彼らが生き延びたのは、さまざまな資本主義国家間の嫉妬心と利害の分裂、それにボルシェヴィキの宣伝によるものだと、彼は言う。ボルシェヴィキが大砲にたいしてビラで戦おうとした時、ドイツ人は笑ったが、しかし事態はビラも同じように強力だということを証明したと、彼は言った。西欧の労働党や社会党がその事態の中で一役果したことを、彼は認めていないと、私は思う。イギリス労働党の親ソ的な態度のために、イギリス政府はこそこそやれること、また否定してもあまり空々しい嘘にはならないことしかできなくなり、こうしてロシアにたいする本格的な戦争は不可能になったことについては、彼は知らないようであった。
 彼は、イギリスのタイムズ紙の社主ノースクリッフ卿の反ソ攻撃を大いに楽しんでいた。ボルシェヴィキの宣伝に貢献したというので勲章をさしあげたいとまで思っていた。強奪という非難はブルジョワにはショックかもしれないが、プロレタリアートには逆の効果があると、彼は言った。
 誰であるかを知らずに彼と会ったら、彼が偉大な人だということに気付かずに終っただろうと、私は思う。あまりに強く自説にこだわり、偏狭なまでに正統的だという印象を受けた。彼の強さは彼の正直さ、勇気、不動の信念から来ていると、私は想像している。彼の信念は、いわばマルクス主義の福音にたいする宗教的な信仰である。マルクス主義の福音の方が利己主義的でないという点を別とすれば、この信仰がキリスト教殉教者の天国への願いの役割を果しているのである。彼は、ディオクレティヌス帝の迫害のもとで苦しんだが後に勢力を得てから復讐したキリスト教徒と同じく、自由にたいする愛着をほとんど持っていなかった。おそらく自由への愛着は、人間のあらゆる苦しみを治療できる万能薬があると心から信じる態度とは両立しないのであろう。そうとすれば、私は西欧世界の懐疑的な気質を喜ばざるを得ない。私は社会主義者としてロシアへ行った。しかし疑いを持たぬ人々と接して私自身の疑いは千倍にも強くなった。社会主義そのものにたいする疑いではなく、信条を固く抱いてそのために広く不幸をもたらすのは賢明なことかという疑いである。》

 レーニンという人物は不可解な人物である。趣味はなにかと問われれば「マルクス主義と革命」と答えるのではないかと思えるほどに無趣味であり、かつ私心がない。快活であり、尊大なところを人に感じさせない点でも希有な人物である。しかし、私には「彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。」とラッセルは記している。このラッセルの直感には、さすがだと思わせる鋭さがある。

4章 引き続きベルジャーエフ

1.

《ソヴェートロシアで過した私の生涯のまる五カ年のあいだ、小ヴラス横町のわれわれの家では(私の記憶に間違がなければ)毎火曜日に集会が開かれた。そこでは講演や討論会*が催された。この時期には私はまた公開の席上で、あとにもさきにも経験したことのない大聴衆のまえに登場した。このような或る集会のことを私はとくによく記憶している。アナーキストのクラブ(当時はまだ許されていたのである)がキリストに関する討論会を開催しようとした。彼らは私の参加を望んだ。主教や司教もまた招待された、しかし彼らは姿をみせなかった。出席者はトルストイ信奉者や復活についてのN・フョードロフの埋念をアナーキ的コミュニズムと結びつけようと試みたフョードロフ信奉者、そのほかに単純なアナーキストや単純なコミュニストであった。人々で満ち溢れた広間に入ったとき、私は沸騰点にまで高まって極度に緊張している雰囲気を感じた。そこには多数の赤軍兵士や水兵や労働者がいた。それは革命時代の雰囲気、しかしまだ十分に完成しておらず、まだ十分に組織化されておらぬ雰国気であった。それは一九一九年のはじめのころのことであったか、或るいはたぷん一九一八年末のことであったろう。
* N・Aは、このテロの時代には他の人々との精神的連繋は絶たれてはならず、精神生活は死に絶えてはならないという意見をもっていた。すべての集会が、それがどこで開催されようと、禁止されていた時代に、私たちの家では講演が行なわれ、種々の問題が論議された。もちろんボルシェヴィストを除外してのことだが、極左にはじまって極右におわるさまざまの党派に所属している人々が毎火曜日に集まってくる、こんなことはモスクワで私たちの家一軒であった。冷えきったサロンに、招待された人々は短い毛皮の半外套をっけ、フェルトの長靴をはいて腰を下ろしていた。敷物の上には一面に雪溜りができた。凍えている出席者をすこしでもあたためようと思って、私は白樺の皮でつくった熱い茶を出し、それに人参を細かくすりつぶしてこしらえた小さな菓子を添えた。砂糖はなかった。或るとき友人の一人がルミャンツェフ博物館からフランスの新聞をもってきた。その記事のなかで筆者のP氏は、ボリシェヴィキ革命の時代にロシアには言論の自由が支配していることを指摘し、その証拠として、つぎのようにのベていた。毎火曜日に高名な哲学者ベルジャーエフの邸に多種多様の党派の代表者が会合して、えぞいちご色の絹布で張られた豪華な安楽椅子によりかかり、金めっきの古代茶碗からお茶を飲み、そのうえ小型の素敵な菓子を食べながら、こころおきなく多種多様な問題を論じている、と。この記事の筆者はたいへん素朴で、素晴らしいコミユニズムの神話に感激したあまり、もっとも幸運な場合でも、この記事のためにN・Aが逮捕される危険のあることを夢にも考えていなかったのである。これらの集会こそ彼の逮捕の機縁を与えたのだと、私は信じている。たぶん同じ筆者の手になったと思われる記事が「イズヴェスチャ」にのったことがある。それにはつぎのように書かれていた、木曜日の或る晩、N・A・ベルジャーエフの邸で、レーニンはアンチクリストであるかいなかの問題が論議され、彼はアンチクリストではなくして、ただその先駆者にすぎないという決論が下された、と。 エフゲニア・ラップ》(同書)

2.

《私は、私がソヴェート極力の側からとくべつに迫害されたということはできない。それにしても私は二度逮捕され、チェ・カーとゲ・ぺ・ウに――ながいあいだではなかったが――収監され、そして、これははるかに重大なことであるが、ロシアから追放されて、それいらいほとんど二十五年のあいだ外国でくらしている。最初に私は一九二〇年にいわゆる「戦術中央本部」の事件に連坐して拘置された。この機関とは私は直接の関係をもっていなかったが、私の親しくしていた知人が多数逮捕されたのである。これは結局大きな裁判沙汰になったが、それに私は捲き込まれずにすんだ。かつて私がチェ・カーの内部刑務所に拘留されていたとき、真夜中の十二時ごろに尋問のために呼びだされた。私は暗い廊下や階段を数限りもなくひきまわされ、ついにあかるく照らしだされた、絨毯の敷かれてある清潔な廊下に達し、そこから床に北極熊の毛皮の拡げられている大きなあかあかと照明された書斎に入った。事務机の左手に私に面識のない一人の男が赤色の屋形勲章をつけた軍服姿で立っていた。彼はブロンドで、細いとがった髭をもち、灰色の、濁った、憂鬱そうな眼をしていた。彼の外貌や身のこなしは教育のよさと洗練さをあらわしていた。彼は私に腰をおろすようにすすめて、いった、「私はジェルジンスキーです。」このチェ・カーを創設した男の名前は血にまみれたものと取沙汰されて、全ロシアがそのまえで震えていた。移しい拘禁者のうち、ジェルジンスキーみずからによってとり調べられたのは私一人であった。私の尋問は厳粛な性格を帯びた。この尋問にはカーメネフが姿をみせ「チェ・カーの議長代理であるメンジンスキーもまた立会った。彼とは昔からすこしばかりの面識があった(私はぺテルブルグで彼と出会ったことがあった。当時彼は著述家で、芽の出ない長篇小説作家であった)。私の性質の顕著な特徴は、人生の危険に満ちた、のみならず破局的な瞬間にも、すこしもうちひしがれず、またすこしもたじろがないで――むしろ反対に、躍動を感じて、ただちに攻撃に移ることである。おそらくこれは、私の体内に流れている軍人の血の仕業であろう。私は尋問の際には自分を弁護しないで、問答の全体をイデオロギー問題にひきこむことによって、攻撃をかけようと決心した。私はジェルジンスキーにいった、「私は私の考えていることを卒直にのべることが思想家、著述家としての私の品位にふさわしいことと考えます、このことに御留意願いたい。」ジェルジンスキーは答えた「それこそあなたからわれわれが期待するものです。」そこで私はまだ私に質問がむけられないさきに語ろうと決心した。私はおよそ四十五分間語った。それはまぎれもないひとつの講義であった。私ののべたことはイデオロギー的な性質を帯びていた。私は私がどのような宗教的・哲学的・道徳的根拠から共産主義の敵なのかを、示そうと努めた。同時に私は、私が人間として非政治的であることを頑強に主張した。ジェルジンスキーは注意深く耳を傾け、ただときおり簡単な所見を挿んだ。たとえば彼はこんなことをいった、「理論においては唯物論者、生活においては観念論者の人がいる。また逆に、理論においては――観念論者で生活においては唯物論者の人もいる。」私のながい議論はその誠実さのゆえに、あとで聞くと、彼の気に入ったとのことである。しかしそのあとで彼は特定の人々に関係をもつさまざまの質問を私にむけた。これらの人々に関してはなにひとつ言うまいと私は固く決心していた。私は旧政体のもとにおける尋問にすでにいささかの経験があった。もっとも不快なひとつの質問にたいしては、ジェルジンスキー自身が答を与えて私を困惑から救ってくれた。逮捕された者の多くが自分で自分に不利な申立てをして、その結果彼ら自身の供述が告訴の主因をつくったことを、私はあとで知った。尋問のおわったのち、ジェルジンスキーは私にいった、「私はあなたをただちに釈放します、しかしとくべつの許可なしにモスクワを離れることは禁止されるでしよう。」それから彼はメンジンスキーの方をむいて、「おそくなった。このあたりには迫剥が徘徊している。ベルジャーエフさんを自動車でお宅までお送りできたらよいのだが。」自動車はみつからなかった。しかしオートバイが私を私の手荷物といっしょに自宅まで送ってくれた。刑務所を出るとき、いぜんに近衛騎兵の曹長であった刑務所長が自分で私の所持品をつみこみながら私に訊ねた、「われわれの所はお気に召しましたか?」チェ・カーの監獄行政ははるかに苛酷で、革命の監獄規律は旧政体時代の監獄に比べて非常に俊厳である。われわれは互に完全に遮断されていた。このようなことは昔の監獄ではおこらなかった。ジェルジンスキーはきわめて信念の強固な、公明な人物という印象を私に与えた。彼は卑劣な人間ではなく、彼の本性はたぶん決して酷薄ではなかったと、私は信じている。彼は狂信者だったのだ。彼は魅入られた人間という印象を与えた。彼には或る不気味さが漂っていた。彼はポーランド人であった、そして彼の挙措には或る洗練さが窺われた。彼はかつてカトリックの僧侶になろうと欲したことがあった、それから彼は彼の熱狂的な信仰をコミュニズムに移したのである。逮捕があってからしばらくして、「戦術中央本部」の裁判が開始せられた。それは公開して審理された。傍聴が許可されたので、私はすべての公判に出席した。被告席には私が個人的関係を結んでいた人々の姿も見出だされた。この裁判は私に陰鬱な印象を与えた。一切が演出であって、すべてはすでにあらかじめ決定されていたのである。被告のうちの数人はなみなみならぬ威厳を示した。しかしまた不面目な、卑屈な振舞をした人々もいた。判決はとくべつにおもくはなく、執行猶予が下された。》(同書)
5章 1920――一外国人が見た「革命」直後のソ連

1.
 B・ラッセルのソ連観察

 ボリシェビズムを革命とのからみで批判した西欧の知識人が書いたものとしては、A・ジイドのものが有名である。親ソ連的な小説家として知られていたジイドだが、36年に訪問したソ連の観察からそこで見たものが喧伝されているものとは真逆のものである知り、帰国後の36年に『ソヴィエト紀行』(36)を公刊。さすがはジイドという評判をうる。と同時に左翼からは罵倒に等しい批判が浴びせられ、即座に『ソヴィエト紀行修正』(37)を書いて反論している。早い時期のボリシェビズム批判である。しかし、世界は広い。ジイドのほかにも慧眼の士はおり、ジイドに遡ること16年も前に(ということはスターリン体制が確立する以前に)17年の10月にロシアで強行されたクー・デタが、およそ革命の名に値しないことを告発していた人物がいる。B・ラッセルである。
 ラッセルはベルジャーエフと同じ伝統的な貴族であるが、若いころから資本主義に対しては批判的であり、広い意味の社会主義者でもあった(自らは公然と社会主義者を名乗っている)。そこでマルクスの資本論をつぶさに検証したうえで20世紀直前のドイツに赴き、著名なマルクス主義者との交歓を通じてマルクス主義なるもの、あるいはマルクス主義者なるものを透徹した目で観察している。そこで獲得した視座をもってラッセルは革命直後のロシアを訪れ、ボリシェヴィキがおこなったクー・デタがおよそ革命の名に値しないことを明かしている。
 ラッセルは、新生ロシアを西欧に向かって宣伝してもらうというボリシェヴィキ政権の思惑の下に、イギリス労働党代表団の随行者として20年5月初旬にソ連入りし、6月中旬に出国するまでの約1カ月半、ロシア各地を旅行した。基本的行動については労働党派遣団と行をともにするという条件を除けば、かなり自由に行動することが許されたものだった。
 とはいえ、国境入りしてからの旅程は、「社会革命や万国の労働者などのスローガンを一杯に書きつけた特別の豪華列車で運ばれた」ものであり、「どこでも兵士たちの出迎えを受け」「軍楽隊はインターナショナルの歌を奏し、市民は起立して脱帽し兵士たちは捧げ銃で敬礼し」、「各地の指導者が祝辞を述べ、われわれに同行していた著名な共産党員が答辞を述べ」、「列車への入口は、きらびやかな軍服の堂々たるバシキール騎兵の兵士たちが護衛」するというものであり」、「要するに一切のことが、われわれ一同にイギリス皇太子であるかのように思わせるよう取りしきられていた」。
 視察行はおおむねこのような条件の下におこなわれたものではあったが、ラッセルは代表団の一員ではないという優位性を生かし、通訳の助けをかりて「街路や農村でたまたま出会った普通の人々と多く会話を交し、普通の非政治的な男女の目には全体制がどのように見えているのかを知ることができた」。
 ペテルブルクとモスクワでの滞在には多くの時間がとられたものの、政府要人とも直に接する機会を得て彼らの見解と人柄もうかがうことができた。レーニンとはほとんどふたりだけで1時間ほど話し、同席者はいたがトロツキーとも会い、カーメネフとは一夜をともに過している。野党の政治家と会う完全な自由も許されており、メンシェヴィキやさまざまな党派の活動家ともボルシェヴィキの同席なしに自由に意見を交換している。
 ラッセルは、この視察行を終えた直後に『ボルシェヴィズムの実践と理論』(邦訳は『ロシア共産主義』河合秀和訳)を上梓した。以下に紹介するのは、同時代の外国人が描いたリアルタイムの「新生ロシア」の実態であり、忌憚ない見解である。

1)
 プロレタリア独裁の実態

《ロシア支持のイギリス人たちは、プロレタリアート独裁とはたかだか新しい形態の代議制政府ぐらいのもの――ただし働く男女だけが選挙権を持ち、選挙区は地理ではなく部分的に職業で定められているが――と考えている。彼らは「プロレタリアート」は「プロレタリアート」であるが、「独裁」の方はまったく「独裁」という訳ではないと考えている。これは真実の正反対である。ロシア共産党員が独裁という時、彼はその言葉を文字通りの意味で使っている。しかしプロレタリアートという時には、その言葉には独特の意味がある。プロレタリアートの「階級的に自覚した」部分、つまりは共産党を意味している。(レーニンやチチェリンのように)全然プロレタリアートではないが正しい意見を持つ人々がそれに含まれており、賃金労働者ではあるが正しい意見を持っていないものは、ブルジョワジーの手先として排除されているのである。》

 プロレタリアといいプロレタリアートというからわかりにくくなるが、これを労働者、労働者階級といえば話がわかりやすくなる。早い話がボリシェヴィキの最高指導部(政治局員)で労働者出身はひとりもいない。あとでふれることになるが、クロンシュタットで反乱を起こしたのはほぼ全員が水兵とその家族であるが、ボリシェヴィキに対して武装して反攻したゆえにプロレタリアートではなく「ブルジョワジーの手先として排除」されることになる。

2)
 すでに死滅しかけていたソヴィエト

《私はロシアに行く前は、代議制政府の新形態についての興味ある実験を見に行くのだと想像していた。私は興味ある実験は見たが、代議制政府の実験を見たのではなかった。ボルシェヴィズムに関心のある人は誰でも、村の集会から全ロシア・ソヴィエトにいたる一連の選挙のことを知っている。政府各省にあたる人民委員部の権力はこの選挙から発生すると考えられている。リコール、職業による選挙区等々によって、人民の意志を確認し記録するための新しい、はるかに完全な機構が工夫されたと、われわれは聞かされていた。われわれが研究したいと思っていたことの一つは、この点でソヴィエト体制が議会主義よりも本当に優れているかどうかという問題であった。
 われわれはそのような研究をすることはできなかった。ソヴィエト体制はすでに死滅しかけていたからである。どう工夫しても自由な選挙制度では、都市でも農村でも共産党は多数を得ることはできなかったであろう。そこで政府候補者に勝たせるための色々な方法が採用された。第一に、投票は挙手で行なわれ、政府に反対投票を入れるものはみな要注意人物になる。第二に、共産党員でない候補者は印刷物を出せない。印刷工場はすべて国家の手中にあるからである。第三に、非党員の候補者は集会で演説できない。会場はすべて国有だからである。もちろん新聞はすべて政府のものである。独立の日刊新聞は許されていない。このようなあらゆる障害にもかかわらず、メンシェヴィキはモスクワ・ソヴィエトの千五百議席中四〇許りを得るのに成功した。いくつかの大工場では選挙連動を口伝てで行なうことができ、候補者の名を知らせることができたからである。現実にメンシェヴィキは、争った議席はすべて獲ちとった。
 しかし、モスクワ・ソヴィエトが名目的にモスクワの主権者であるとはいうものの、それは実際には四〇人の執行委員会を選出するための選挙人団にすぎない。この執行委員会から、次いで九人の幹部会が選ばれ、それが全権力を持つのである。全体としてのモスクワ・ソヴィエトは時たましか集まらない。執行委員会は週に一度集まるといわれているが、われわれがモスクワにいる間には開会しなかった。逆に幹部会は毎日集まっている。もちろん政府が執行委員会の選挙に、さらには幹部会の選挙に圧力をかけるのは簡単なことである。自由な言論、自由な新聞が絶対的に完全に抑圧されているために、効果的な抗議はおよそ不可能であることを想起しておかねばならない。その結果、モスクワ・ソヴィエトの幹部会は正統派の共産党員だけで構成されている。
 モスクワ・ソヴィエトの議長カーメネフは、リコールは非常に頻繁に行なわれていると、われわれに打ち明けた。モスクワでは、一月平均三〇件のリコールがあるという。そのリコールの主要な理由が何であるかと私が彼に尋ねると、彼は四つの理由を挙げた。飲酒、前線への出動(したがって議員としての義務を果せなくなる)、選挙人の側での政策の変更、すべてのソヴィエト議員がすることになっている半月に一度の選挙人への報告を怠ったことである。リコールが議員に圧力をかける政府の道具になっているのは明白であるが、この目的で利用されているかどうかを知る機会はなかった。
 農村地域では、用いられている方法はいくらか違っている。村ソヴィエトが共産党員から成るようになるのは不可能である。一般的に言ってもそうであるが、ともかく私の見た村では党員がいないからである。しかし私が村でヴォロスト(村より一つ上の地域)やグーベルニアで村人たちはどう代表されているのかと尋ねたところ、いつも全然代表されていないというのが答であった。私はそれを実証できなかったが、おそらくは言い過ぎなのであろう。しかし、もし彼らが非党員を議員に選んだら、その議員は鉄道のパスを入手できず、だからヴォロストやグーベルニアのソヴィエトに出席できないだろうという主張には、誰もが同意した。私は、サラトフのグーベルニア・ソヴィエトの集会を見学した。議員は、都市労働者が周辺の農民よりも圧倒的に多数になるよう代表制が仕組んであった。しかしそれを考慮に入れても、非常に重要な農業地帯の中心地にしては、農民の比率は驚くべく少なかった。
 全ロシア・ソヴィエトは憲法上の最高機関であり、政府各省に当る人民委員部はこのソヴィエトにたいして責任を負うが、めったに開会されず、ますます形式的なものになっている。私が知り得た限りでは、現在のところその唯一の機能は、憲法がソヴィエトの決議が必要としている問題(特に外交政策にかんする問題)についての共産党の事前の決定を、討議なしで批准することである。
 真の権力は一切、共産党の手中にある。党員は人口約一億二千万のうち、約六〇万を数える。しかし、たまたま党員と出会ったという経験は私には一度もない。私が街や農村で出会って対談するようになった人々は、ほとんど一人残らず支持政党がないと言った。唯一つ別の答が返ってきたのは数人の農民からで、彼らははっきり自分たちは帝政主義者だと言った。農民がボルシェヴィキを嫌う理由は非常に不充分だということを、言っておかねばならない。農民は以前よりも暮し向きがよくなったと言われており、私が見たすべてのことがその主張を確認していた。村では誰一人――男か女か子供かは問わず――、栄養不良らしい人を見かけなかった。大地主は土地を奪われ、農民は利益を得たのだ。しかし都市と軍隊はやはり食糧を必要としており、政府は食糧と交換に農民に与えられるものとしては、紙幣しか持っていない。そして農民は、その紙幣を受け取らざるを得ないことに腹を立てている。帝政のルーブルにはソヴィエトのルーブルの一〇倍もの価値があり、農村ではその方がもっと広く流通しているのは、異常な事実である。帝政ルーブルは非合法であるが、それを一杯入れた札入れは市の開かれているところでは大っぴらに目についた。農民が帝政の復活を期待しているという推測は下すべきではないと、私は思う。農民はたんに習慣と新奇なものを嫌うということで動かされているのだ。彼らは経済封鎖については一度も聞いたことがなく、したがって、彼らの欲しがっている衣服や農機具を何故、政府が彼らに与えられないのかを、理解できないでいる。土地は得たし、近隣の外のことには無知であるから、彼らは自分たちの村が独立することを望み、政府の要求には何であれ腹を立てるのである。
 共産党の内部には、もちろん、官僚制に常にあるようにさまざまな派閥がある――これまでのところ、外からの圧力のために分裂は妨げられてきたが。官僚制の人員は、三種類に分類できるようである。先ず迫害の歳月の試練を受けた古参の革命家がいる。これらの人々が、最高の地位の大半を占めている。牢獄と亡命のために彼らは強硬に、かつ狂信的になり、彼ら自身の国とむしろ疎遠になった。彼らは正直で、共産主義は世界を再生させるという深い信念を抱いている。彼らは自分たちでは感傷はまったくないと思っているが、現実には共産主義と彼らが創出しつつある体制については感傷的である。自分たちの創出しつつあるものが完全な共産主義ではないという事実、また農民たちは自分自身の土地を欲しているだけで、共産主義は大嫌いであるという事実に、彼らは直面できない。彼らは腐敗や泥酔を官吏の間で発見した時には、容赦なく罰する。しかし彼らは、ささやかな腐敗の誘惑がきわめて強いような体制を作り上げており、彼ら自身の唯物論からして、このような体制のもとでは腐敗が横行することを承認すべきなのであろう。
 官僚制の中の第二の部類は、おおよそ最高の地位のすぐ下の政治的職務を占めている連中で、ボルシェヴィズムの物質的成功のために熱心なボルシェヴィキになった立身出世主義者から成っている。ほとんど帝政時代からひき継がれた警察官、スパイ、秘密機関員などの大軍もその中に算えねばならない。彼らは、誰も法を破らずには生きていけないという事実のおかげで儲けている。ボルシェヴィズムのこの側面を例証するのが、非常委員会である。この機関は事実上、政府から独立しており、赤軍よりもよい食物を当てがわれているそれ自身の軍隊を所有している。この機関は、投機や反革命活動の容疑で誰でも裁判なしで投獄できる権限を持っている。これまでまともな裁判なしで何千人も銃殺してきた。今では名目上は死刑を課する権限は失ったが、実際に完全にその権限を失ったのかどうかは、決して確かでない。それはいたるところにスパイを放っており、普通の人間はそれを恐れながら暮している。
 官僚制の第三の部類は、熱心な共産主義者ではないが、政府が安定していることが証明されたために政府を支持して結集してきた人々である。彼らが政府のために働くのは、一つには愛国心のためか、そうでなければ、伝統的諸制度の邪魔を受けずに自分の理想を自由に発展させていく機会を楽しんでいるからかである。この部類には、実業家として成功しそうなタイプの人々、アメリカで独立独歩、トラストの大立物になった人々に見られるのと同じ才能を有しているが、金銭のためではなく成功と権力のために働く人々がいる。疑いもなくボルシェヴィキは、この種の才能を持った人々を公務に登用しながらも、資本主義社会でのように彼らが財を蓄えるのは許さないという問題を解決するのに成功している。おそらくこれは、戦争の分野を別とすれば、これまでのところ彼らが収めた最大の成功であろう。このことから、次のように推測することができよう。ロシアが平和を維持することを許されたなら、驚異的な工業発展が起ってロシアをアメリカのライバルにするという推測である。ボルシェヴィキは、彼らのすべての目標で産業主義者である。彼らは、資本家に過大の報酬を与えることを別とすれば近代工業のあらゆるものを愛している。彼らは労働者に厳しい規律を課しているが、それは、これまで欠けていた勤勉と正直の習慣を何としても自国の労働者に与えることを企図したものである。それが欠けていたばかりに、ロシアは最先進工業諸国の一つになれなかったのだと、いうのである。》

 ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを掲げて権力を奪取し、翌18年には憲法を制定。国名を「ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国」と名乗る。ラッセルのロシア訪問の2年前のことである。22年には国名からロシアが外され「ソヴィエト社会主義共和国連邦」となり、24年に1回目の憲法改訂がおこなれる。以降、36年と77年に改訂されるが、国名から「ソヴィエト」が外されることはない。建前のうえでは、あくまでもロシア語でソヴィエトと呼ばれる自発的な評議会が立国の基礎とされている。が、実態はといえば、ラッセルの報告が記しているとおりであり、その後もより形骸化される一方で2度にわたる革命で示したソヴィエトの生き生きした姿はどこにも見られなくなる。


分量が多いので分割して転載します。

私の20世紀


191722

 ロシア革命の経験は、私のながらく抱懐していた思想、自由は民主主義的ではなくして、貴族主義的である、ということの正しさを証明した。自由は蜂起する群衆の関知するところではなく、また必要なものでもないのである。彼らは自由の重荷に耐ええない。このことをドストエフスキーは深く理解していた。西欧におけるファシズム運動もまたこの思想を理解したのである。ファシズム運動は大審問官の徴{しるし}のもとに――パンのための自由の放棄、のもとに立っているのである。ロシア・コミュニズムにおいては、権力への意志が自由への意志よりも強いことが実証された。コミュニズムにおいては、帝国主義的要素が革命的、社会的要素よりも優勢である。       ――A・ベルジャーエフ


1章 ウェーバーのロシア革命論

1.
 その概要

 ロシア革命は2つの革命から成っている。05年の1月および12月の蜂起と17年2月の蜂起および10月(いずれも旧暦)のボリシェヴィキによるクー・デタである。前者を第1次革命、後者を第2次革命と呼ぶが、前者が体制側に押し切られて権力奪取に至らなかったのに対して、後者のクー・デタは帝政を打倒したあとの臨時政府(中身はどうあれ革命政権である)の権力を簒奪し、いらい74年にわたってロシアを支配した。そのことがあずかって、ふつうは17年の10月クー・デタをもってロシア革命ということが一般的である。
  マックス・ウェーバーのロシア革命論としてまとまった残されているものは4つある。そのうちの2つは、いわゆる第1次革命に関するもので、分量的にも大きい。原注も含めると邦訳で140ページと330ページになるもので、ウェーバーならでの本格的なロシア革命論である。あとの2つは、いわゆる第2次革命の2月蜂起にかかわるもので、分量的にもさほど大きくない。内容的には第1次大戦末期のドイツの対外政策、とくに和平政策推進の観点からロシアで起こったこの政変をどう評価するかという視点から述べた時論的色彩の濃いものである。
 第1次革命について論じたもののうち早く書かれたものの標題は「ロシアにおける市民的民主主義の状態について」(邦訳では第一論文と略称している)、あとに書かれたものが「ロシアの外見的立憲制への移行」(第二論文と略称)で、いずれも『マックス・ウェーバー全集』第1部第10巻に収録されている。
 17年2月革命について論じたもののうち1つは「ロシアの外見的民主主義への移行」(第三論文と略称)であり、17年4月に発表されたもの。もう1つは「ロシア革命と講和」(第四論文と略称)で同年5月に発表されたものであり、いずれも『全集』第1部第15巻に収録されている。邦訳は雀部幸隆と肥前榮一を中心とする名大グループによっておこなわれ、第一、第三および第四論文を『ロシア革命論』(97)、第2論文が『ロシア革命論』(98)に名古屋大学出版会によって刊行されている。

2.
 刊行が遅れた理由

 ウェーバーにロシア革命を論じたものがあることはごく少数の研究者には知られており、邦訳もあった。が、いずれも部分訳であることもあって、ウェーバー学者のあいだでも議論の対象に挙がることなくここまできたというのが実情だった。この事情は欧米でも似たようなもので、ウェーバー没後60年を記念して『全集』の刊行が始まり、前述した10巻と15巻の刊行があって議論が始まったようである。
 当初は人類の希望の星とまでいわれた「ロシア革命」が、そのうたい文句とは裏腹にとんでもないものであることが『全体主義の起源』で明かされたこと、加えて91年にソ連崩壊という20世紀最大の事件があったことを考えれば、これは不可解なことだといえる。
 では、なぜ、刊行がここまで遅れてしまったのか。
 つめていうと、その理由は書いた本人がこの論文を時論的な「編年記」呼んで、厳密な学術論文でないゆえんを機会あるごとに強調していたことにある。大先生が自らそういっているんだからということで、弟子たちがそれに引きずられたということに尽きる。大学者によくあることだが、忠実な弟子はいても師と同じ目線をもつ弟子は、そうおいそれとはいないということである。
 結果、死後60年を期して全集を出すということがあって、はじめてこの論文は日の目を見ることになったというのが実情であるらしい。

3.
 動機

 この論文を書いたおりのウェーバーの主要な研究対象は、東エルベ農村労働者問題だった。つまり、ロシア同様、深刻な農業・農民問題を抱えていたドイツの国内に彼の関心はあったといえる。そのウェーバーの関心を、ロシアに引きつけたのは05年のロシア革命だった。ロシアがドイツと同じように深刻な農業問題を抱えていたこともある。ロシアの民主化が進めば、うしろからの脅威がいくぶんかでも緩和されるとする彼に特有の民族意識もあっただろう。しかし、そのこと以上にウェーバーが抱懐していたのは、彼独自の理念だった。
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でアメリカの可能性を論じたウェーバーは、アメリカに若々しいあるべき民主主義の姿を見ていた。と同時にロシアを、それが遅れた国であるゆえに資本主義の「悪」に汚されていないものを見ていた。この2つの国が世界をリードする時代に期待し、そこに資本主義があるべき未来の姿を見ていたのである。そこに起こった05年の革命は、ウェーバーにしてみれば、なにをさておいても取り組むべき課題だったのである。だが、国内メディアが報じるロシアの情報は、拝外主義的なバイアスがかったものであり、彼の慾求を満たすものではなかった。どうしても事件の経過を自分の目で確かめようとしたウェーバーは、マリアンネ夫人の証言によると数週間でロシア語を修得したという。類い希な能力の持主だったとはいえ、なみの集中力では不可能なことである。ウェーバーの意気込みを感じさせるエピソードである。(以下、稿を改めて書くことにする。その理由について別記を参照のこと。)

【付記】
 以下、稿を改める理由について書くことにした理由について要点を書く。
1)
 ウェーバーのロシア革命論は、分析の中心に80パーセントが農民で占められているロシアの現実に視座を据える。そこにはロシアにおける「非西欧的原理」の典型ともいうべきロシアに固有の原始共産主義的共同体=「オプシチーナ」と呼ばれる体制の問題、伝統的な地主階級の協議機関であるゼムストヴオが築いてきた正と負の遺産の分析、ふつうは農民的小営業と訳されるクスターリと呼ばれる家内制手工業など、ロシアに固有の農村にからむ構造の詳細な分析がある。
 右に挙げた3つの歴史的存在は、いずれも正負の2つの側面をもつ一筋縄ではいかないものである。最小限度、この3つについて、基本的な認識を頭に入れないことにはウェーバーがなにを提起しようとしているのかがわからない。また、レーニンが採用した政策や方針の裏側も読み取ることができない。
2)
 ロシア革命は多くの革命家や思想家を輩出した。が、ウェーバーと同じような視座を据えてロシアを分析しているのはレーニンだけであり、彼のほかに農業・農民問題に真正面から取り組んだものはいない。
 ロシアの将来が農業問題にあるという視座の据え方で両者は同じだが、分析する両者の抱懐する思想のあり方には相容れないものがあり、当然のことながら導き出される方向性にも違いが出てくる。ここから、互いに相手を意識することになり、直接ではないものの両者のあいだには激しい議論が交わされている。この議論は、最終的にはレーニンが主張する独裁を是認するか否かというところに収斂するものであるだけに、両者の主張についてそれなりに得心しないことには軽々に論じられない側面がある。その準備が、今号の私にはもてなかった。
3)
 そうであるなら、中途半端な形で書くことなどはせずに、いっそのことこの章を外してしまうことも考えた。しかし、私が試みようしているのは、ロシアとロシアを震源地として開花した全体主義としてのボリシェビズムの検証にある。そのことを考えると、最大の問題である農業・農民問題から取りかからないことには武器をもたないまま戦に臨むことになる――と私は判断した。それだけウェーバーのロシア革命論は重みをもつものであると私には映ったのである。だから、それだけは避けなければなるまいと考えたことが1つ。もう1つは、前にふれたことだが、まずは全体を素描してグランドデザインを描くための材料を確保し、しかるのちに時間不足のために書こうと試みながら留保してあるものを盛り込むことによって全体をふくらませるという作業に入る。そのことををもってつぎに稿を進める――という当初の方針を貫くためにも、時間が許す範囲内で書けるだけよいから、まずは書いてしまうべきだと判断したのである。

2章 1917年の「革命」

 では、1710月の「革命」とはいかなるものだったのか。このクー・デタの現場に立ち会った生き証人の観察と「革命」の翌年に生まれたロシアの知識人の見解を紹介しよう。

1.
 同時代人の観察

《革命の一年まえにモスクワで秘密の政治集会が開かれた。これらの集会には知識階級の左翼の分子もまた参加した、しかし過激な者は参加していなかった。穏健な社会民主党員と社会主義革命家および左寄りの立憲民主党員、いわゆる「カデット」が出席するのをつねとした。E・クスコヴァとS・プロコポヴィチが中心人物であった。A・ポトレソフはヴェーラ・ザスーリッチと腕を組んでやって来た。彼女は当時すでに高齢に達していた。ボリシェヴィキ派のスクヴォルツェフ・スチェパーノフ、のちの『イズヴェスチヤ』の主筆、も二、三度出席した。私はこれらの集会に積極的に参加し、ときおりは議長席にもついた。さまざまの革命的、野党的傾向を代表しているこれらの人々はすべて、自分たちが統御することも、自分自身の意識にしたがって操縦することもできぬ自然力的、運命的な力に支配されていると思っている、このような印象を私はうけた。いつもそうであるように、私はこの団体との連帯感をまったくもたなかった。実際、私が能動的に振舞ったときでさえ、私はよそ人であり、遠くかけ離れた者であった。二月革命がはじまったとき、私はこれらの団体のどれにも親近を感じなかった*。革命が勃発したとき、私は私自身を無縁、無用の余計者と感じた。私ははなはだしい孤独を感じた。革命的インテリゲンチャの代表者たちが臨時政府のなかで出世欲にとりつかれ、掌をかえして顕栄の官吏になったことが、私の嫌悪を非常にそそった。人間の豹変性は私の生涯のなかでもっとも苦渋にみちた印象の一つである。私はこの現象を敗北後のフランスでもふたたび観察した。「自由を愛する」二月革命のあまたの事柄が私を反撥させた。恐怖に満ちた一九一七年の夏のあいだ、私はとくにいやな思いをした。私は当時の数多くの集会に出席し、その環境のなかで限りなく不幸を感じ、ボリシェヴィキの力の増大を明瞭に感得した。私は二度とそこを訪れなかった。革命が二月の段階で停止しようはずのないことは、私には火をみるよりあきらかであった。革命は無血的で同時に自由愛好的でありえようはずがなかった。奇妙に聞こえるであろうが、一九一七年の夏と秋よりも十月革命いごのソヴェート時代の方が、私には快よかったのである**。すでに当時私は内的な震憶を経験しており、諸事件を独自に解釈することができるようになって、きわめて積極的に働きかけはじめていた。私は多くの講義を行ない、講演会を催おし、執筆にはげみ、論争し、著作家連盟のなかで非常に積極的に活動し、「精神文化のための自由アカデミー」を設立した。前線でロシア軍の大規模な逃亡がはじまったとき、私は大きな衝撃をうけた。おそらくこの場合には、私が古い軍人家族に属し、私の先祖たちがゲオルギ勲章凧用の騎兵であったことと結びついている伝統的感情が、私の内部に燃えあがったのであろう。しばらくのあいだ私は名状し難い苦悩におちこんだ。私は旧軍隊の将軍たちとの連帯性を宜明する用意があった、しかし実際には、そのようなものは私には縁もゆかりもなかったのである。そののち私の内部に一つの決定的な深化過程がおこった。私は諸種の事件をより多く精神的地平において体感した。そして私は、ボリシェヴィズムの経験を通過することがロシアにとって絶対的に不可避であることを、認識した。これはロシア民族の内的運命の瞬間であり、その実存的弁証法である。ボリシェヴィキ革命いぜんにあったものへの逆行はありえない。旧秩序再建のすべての試みは無力、有害である、たとえそれが二月革命の諸原理の復元であったとしても! もし可能なものがあるとすれば、それはヘーゲル的意味における「止揚」だけであろう。しかし意識のこの深化は私にとっては決してボリシェヴィキの暴力との和解を意味しなかった。一九一七年の十月には私はまだはげしい感情の嵐につつまれていて、十分に精神的ではなかった。なんらかの理由で私は短期間ソヴェート共和国の構成員、いわゆる「予備議会」に所属させられたが、これは私にはまったく似つかわしくなく、きわめて愚かしいことであった。私はそこであらゆる色合いの革命的ロシアに通暁した。そこには多くの昔の知人がいた。そこでいぜんの被迫害者、かつては非合法的に、或るいは亡命者として生活し、そしていまは――権力のあたらしい坐についている! そういう人々に再会することが、私を苦しめた。私はどんな国家権力にたいしてもつねに嫌感を感じた。私は、非常に戦闘的な気分になっていたので、数人のいぜんの知人にはもはや挨拶もしなかった。のちになって私はこれらすべてのことに超然たる態度をとることを学んだ***

*
 二月革命の日々N・A(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ)の革命活動はつねに非凡な、英雄的な行動としてのみ示された。私はいまもあの日のことをありありとおぼえている。ぺテルブルグから革命勃発の報知がとどいた。モスクワの通りを人々の群れが行進し、口から口へありそうもない噂が伝わった。市の雰囲気は灼熟していた。いまにも爆発がおこりそうな気配であった。N・A、私の姉妹、それに私は、馬場をめざして押し寄せていた革命大衆に加わろうと決心した。私たちがちかくまで行ったとき、馬場はすでに大群衆によってとりまかれていた。馬場に隣接した広場では隊列を組んだ軍隊がまさに火ぶたをきらんとして行進していた。威嚇的な群衆はしだいしだいにちかづき、びっしりと広場をとりかこんだ。恐ろしい瞬間であった! いまにも一斉射撃の音が炸裂するかと思われた。私はその瞬間にふりかえって、N・Aになにごとかをいおうとした。彼はそこにはいなかった。彼の姿は消え失せていた。私たちがあとで聞いたところによると、彼は群衆をかきわけて軍隊のところまで達し、そこで一場の演説を試み、射たないように、血を流さないようにと、兵士たちに勧告した……軍隊は射撃しなかった。彼がその場でただちに指揮官によって射殺されなかったのが、こんにちでも私にはまるで奇蹟のように思われる。(エフゲニア・ラップ)
**
 十月の日々、つまりボリシェヴィキ革命がおこるまでの会期間中、N・Aはいいようもなく暗鬱な気分におちこんでいた。私たちの多くの友人が感激に満ちて「ロシアの無血革命」という言葉を使ったり、ケレンスキーの美辞麗句を褒めそやしたり、自由と正義の政体の開始を期待したりしたとき、彼が洩らした皮肉な微笑を私は忘れることができない。彼は無血革命が血まみれに終らねばならぬことを知っていたのである。彼は口数がきわめてすくなくなり、悲しげであった。ただときおり、有頂天になって革命を信じている話相手に答えるとき、怒りをこめて、のみならず憤怒を爆発させて、邪悪な革命的要素を糾弾することができた。すると話相手は身をひいた、N・Aを反動者とみなしたからである。

 或るとき私は家にひとりでいた。呼鈴がなった。客間の敷居ぎわにA・ベールイが立っていた。挨拶も交わさずに、彼は興奮して訊ねた、「私がいまどこにいたかご存知ですかで」答も待たずに彼は言葉をつづけた、「私はみましたよ、彼を、ケレンスキーを……演説をしていたのです……なん千人という聴衆……彼は 演説を……」そしてベールイは恍惚となったように両腕を天にさし上げた。「私はみましたよ」、彼はつづけた、「一条の光が空から彼のうえに降り注ぐのを。私は(あたらしい人間)の誕生をみました……――――人間――です。」

 そのあいだにN・Aは客間に気づかれずに来ていて、ベールイの最後の言葉を聞くと同時に、はじけるよ うな哄笑を爆発させた。ベールイは彼に燃えるような眼差しを役げつけ、いとまも告げずに部屋から走り去った。それからながいあいだ、彼は私たちのところに姿をみせなかった。 E・R
***
 十月の日々、ボリシェヴィキによるモスクワ包囲の際、私たちの家は射程圏内にあった。弾丸が家の窓下で炸裂した。N・Aは平静に彼の書斎にこもって、或る論文を書いていた。炸裂するたびに女中(当時はまだ使用人を雇うことは禁じられていなかった)が金切声をあげたので、物凄い悲鳴が家中を満たした。N・Aは書斎からでできて、しずかに訊ねた、「どうしたというんだね?――べつに変ったことはないのに……」或る晩私たちは彼の書斎に集まった。私たちの上の部屋に同居していた一人の大佐もそこに居合わせた。とつぜん――猛烈な爆裂音。家全体が震動した。それは獰猛な巨人が家を土台から揺さぶったような感じであった。「迫撃砲が命中したんだ」、大佐が叫んだ、「はやく地下室へ!」私たちは階段を駈け下りた。N・Aはしかし一緒ではなかった。彼はまず愛犬をさがし、それを腕にかかえでから地下室へおりて来た。天井がいまにも頭上におちかかってくるのではないかと片唾をのみながら、私たちはそこに数分間とどまっていた。物音一つ聞こえず、あたりはしんかんと静まりかえっていた。翌日大佐づきの女中がN・Aの書斎の上の部屋に不発の留弾をみつけた。E・R》(『わが生涯』A・ベルジャーエフ)
〔E・Rはエフゲニア.ラップのイニシャル。姉のとともにベルジャーエフと生活を共にした同伴者で、『わが生涯』はベルジャーエフの死後に彼女が編集して上梓されたもの。多くを語ることをしなかったベルジャーエフに代わって、このような補注がいくつかのところでおこなわれている。〕

2.
 革命後世代の見解

《独裁を打ち立てるときに、新型の牢獄の設置を遅らせるどんな理由があったと言うのか。いや、言いかえると、新旧のいずれにせよ、牢獄の設置は絶対に遅らせてはならなかったのである。すでに十月革命後まだ数カ月も経ないうちにレーニンは、「規律を上げるために、最もきびしい、苛酷な措置を取るよう」要求した。ところで、苛酷な措置というものは、いったい、牢獄抜きでできるものだろうか。この件に関してプロレタリア国家はどのような新しい措置を導入することができるのか。イリイッチは新しい道を手さぐりで捜した。一九一七年十二月、彼は試みに次のような一連の罰則を提唱した。「全財産の没収……本法の違反者すべてを投獄し、前線に送り、強制労働に付すこと」この事実からわれわれは《群島》の指導原理、すなわち、強制労働が十月革命後のすでに最初の月に提唱されていたことを確認することができるのである。
 山蜂のぶんぶんと飛びかう香り豊かなラズリフ(ペテルブルク西北三四キロにある別荘地)の草原にのんびり暮しながら、イリイッチは早くも未来の懲罰制度のことを考えなかったわけはないのだ。すでにそのとき彼はぬかりなく計算して、われわれを次のようになだめているのだ。「多数者である昨日までの賃金奴隷が少数者である搾取者を抑圧することは、比較的容易で、簡単で、かつ自然なことであるので」以前の少数者による多数者に対する抑圧と比較すると、「流血もより少なくてすみ……人類にとってより少ない犠牲ですむはずである」と。亡命した統計学者クルガーノフ教授の計算によると、この「比較的簡単な」国内における抑圧は十月革命から一九五九年までにいたる間に……なんと六千六百万人の犠牲者を必要としたのである。もちろん、われわれはこの数字の正しさを保証できないけれども、他の公式数字を持ちあわせていない。》(『収容所列島』木村浩訳)



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