2019年06月

今更ながらですが…

【以下『前進』から転載】

星野文昭さんへの仮釈放不許可 弾劾

 解放へさらに巨大な運動実現する

2019.04.04

四国地方更生保護委員会が3月25日に星野文昭さんの仮釈放を許可しないことを決めて、4月1日に星野さん本人に伝えたことが星野暁子さんの面会でわかりました。その決定を行った井坂巧委員長は、4月1日付で退職し逃亡しました。この暴挙を満身が震える怒りで弾劾します。

 星野文昭さんは、面会した暁子さんに「僕は逆境に強いから、こういうことがあると、かえって元気になる。絶対に勝利するよ」と語りました。

暁子さんは次のように訴えています。

「本当に怒りをもちます。私たちはやれることは全部やりました。にもかかわらず更生保護委員会は、検察官の意見に従ってしまいました。仮釈放と再審を一体で取り組み、絶対に文昭を取り戻します」

 星野さんを生きて取り戻すという全人民の怒りと声は、このような暴虐に絶対にくじけはしません。獄中44年を不屈に闘いぬいた星野さん、ともに闘いぬいた暁子さんと家族の悔しさはいかばかりか。私たちはこの悔しさを激しい怒りに変えて、一刻も休むことなく星野さんを取り戻す闘いに立ち上がろう。

 2017年2月、「30年問題に全力で取り組み、星野文昭さんを取り戻す」という、星野文昭さんと暁子さん、星野全国再審連絡会議の呼びかけを受けて以来、あらゆる闘いを積み重ねてきました。同年7月に四国地方更生保護委員会への申し入れを行い、今年の2月まで13回の申し入れを重ねてきました。4月15日に角田義一元参議院副議長らの第14回申し入れを受け入れることを更生保護委員会が約束していました。

 申し入れで提出した要望書は1万8千人を超えます。この2年余りの間の星野絵画展は170カ所に迫り、約5万人が星野さんの描いた絵を見ました。高松市で2回の全国集会とパレードが取り組まれました。地元紙と全国紙に3回にわたって実現した意見広告が全国に大きな反響を呼び起こしました。

 星野解放の訴えは海を越えて広がり、韓国・テグでの絵画展と放送。国連人権理事会への通報を行い、それを報じた外国特派員協会での記者会見は世界に大きな衝撃を与えました。3月19日には参議院議員会館で院内集会が開かれ、無期刑の終身刑化が強く弾劾されました。

 安倍政権と更生保護委員会は、これらの巨大な闘いによって星野さんを仮釈放するしかないところに追いつめられました。しかし更生保護委員会は、改憲と戦争に突進する国家権力の意思を体現するために、道理も何もなく今回の決定を強行したのです。

 星野文昭さんに「不許可」を伝えた同じ日に、新元号「令和」が大キャンペーンされました。「令」の字源は「人がひざまずいて神意を聴くさま」(『大漢語林』)。不許可の大暴挙を黙って(=和)聴けと言うのが新元号です。

 起きていることは、沖縄県民投票・県民大会と辺野古土砂投入との関係と同じです。支配階級が追いつめられているからこそ、既成事実を強引につくり「労働者階級にあきらめさせる」ことを狙っているのです。

 星野絵画展と要望書運動が支配階級を追いつめていることに、さらに確信を深め、より巨大な大衆運動を組織することで、星野文昭さんの解放を絶対にかちとりましょう。

その最初の決戦こそ、4月14日に告示が迫った杉並区議選(4月21日投票)です。立候補するほらぐちともこさんの当選を絶対にかちとろう。今回の暴挙への怒りを力に変えて全国から杉並に駆けつけよう。

一先ずライブドアへの移行は完了したようです。

ただ、点検や新たな設定が未完で、これから時間をかけて行くことになりそうです。

「カテゴリー」や「公開・非公開」、それと読者のコメント欄などの扱いが残っています。

記事の追加も遅れたままですが、「おいおい」です。

今後ともよろしくお願いいたします。
白土拝  19年6月

仮釈不許可と医療センターへの移管や手術ほか
【以下転載】

追悼投稿

青羽玲音 @aoba_lain 18 時間18 時間前

① 昨日の21:44に星野文昭同志が逝去されました。星野同志は沖縄闘争に連帯して渋谷暴動闘争に参加し、そこで機動隊員が1人死亡したことの「実行犯」として冤罪を被り、デタラメな「証言」や「証拠」を元に無期懲役となり、獄中に44年いたことになります。まずは哀悼の意を表したいと思います。

② 星野同志は昨年初めから体調を崩していました。昨年の8月22日、激しい腹痛と血が逆流するような感覚に陥って倒れたそうです。しかし徳島刑務所の医師は「胃けいれん」と診断しただけでまともな検査も行わず、星野同志は以降、体重が減少し食欲がなく、酷い疲労感を感じるようになっていったそうです。

③ 家族・弁護団・救援会が医療データの開示や検査などを何度も要求しましたが、徳島刑務所は無視し続けました。体重が6キロも減少した今年3月4日になってやっとエコー検査が行われましたが、刑務所は検査結果を星野同志に伝えず、家族や弁護士に対しても隠し続けたのです。

④ 結局肝臓ガンだったわけですが、星野同志自身も「ガンかもしれない」と危機感を吐露していました。家族・弁護団は更生保護委に、「星野さんの健康状態を責任もって調査し、重篤な病気ならば解放し、信頼できる病院で検査・治療ができるようにすべきだ」と懸命に訴えてきました。

⑤ 徳島刑務所は星野同志がガンであると知りながら、仮釈放させないためにそれを押し隠し、治療の機会を奪ったのです。そして仮釈放の不許可が決まった直後の今年4月18日に徳島刑務所から東日本成人矯正医療センターへ移監されました。ここでガンであることが伝えられたのです。

⑥ 医療センターでは食事なども徳島刑務所より良くなり、ある程度体調も回復したようですが、今月28日にガンの手術を行ったそうです。手術自体は成功したようですが、29日の朝から容態が悪化し、出血が止まらなくなり、意識も失ってしまったようです。星野暁子さんも「面会」したそうですが、たった10分。

⑦ その後も星野同志は懸命に生きようとしましたが、昨晩9時44分、逝去されました。 本当に悔しく、悲しいことです。

⑧ そのうえでまず、星野同志は無実であること。これは事件当時の写真や証言で「犯人」とされた人物と星野同志の服装がまったく違うこと等々で明らかです。権力がでっち上げた「証拠」だけで有罪になってしまったのです。更に権力は都合の悪い証拠を隠しているので、こちらは全証拠開示を求めていました。

⑨ そして次に、今回の星野同志の死亡は国家権力による虐殺だということです!重いガンであることを知りながら放置した徳島刑務所と更生保護委員会の態度が原因です。手術した翌朝に体調急変ということもあり、明らかに対応の遅れが引き起こしたものであり、断じて許すことはできません。

⑩ 私たちは偉大な革命家、しかしながら無実であった星野文昭同志を虐殺した国家権力を絶対に許しません。更にこれは星野闘争だけの問題ではありません。今までどれだけの「受刑者」が医療を受けられずに亡くなっていったのかということです。
【注】「宝の山」さんは私にとっては正体不明ですが…全国再審連絡会議や『前進』の記事などの要旨をまとめてくれています。

新藤 健一(元共同通信)
釈放請求の星野文昭さん肝臓がんで死去 
移送先の医療センターで
1971(昭和46)年11月14日、東京 渋谷で沖縄返還協定に抗議するデモで中核派が投げた火炎ビンで機動隊員1名が死亡した。
...
この事件で現場を指揮していたとして当時、高崎経済大学の学生 星野文昭さんが逮捕された。星野さんは一貫して無罪を主張してきたが殺人罪などで無期懲役が確定した。徳島刑務所での獄中生活は45年近くになった。
今年4月18日、星野文昭さんは突然、東京都昭島市の横田基地近くにある「東日本成人矯正医療センター」に移監された。前夜 家族には徳島刑務所から「エコー検査に異常があったので移監する」と連絡があり、翌朝護送車など3台の車を連ね、手錠、捕縛のまま移動し、トイレも車内で済まされるなどして夕方医療センターに着いた。
28日同センターで肝臓がんの手術を行い成功の報。
だが翌29日未明から容態が急変し危篤状態にあった。
30日夜、医療センターから妻の星野暁子さんに「星野文明さんは同日午後9時44分、死去した」と連絡があった。

なお星野文明さんの再審を求めてきた岩井信弁護士(通知人)は次のような「通知書」を医療センターに送った。
▼徳島刑務所の責任は重大
 通知人やその家族、弁護人らは徳島刑務所の段階から、本人の体調がすぐれないことを、長らく、また繰り返し、具体的な症状をもって指摘し、適切な検査を求めてきました。当職らも何度も書面を送付してきました。にもかかわらず、肥大化した患部を有する進行癌が突然発見され、突然貴医療センターに移監されたことは、徳島刑務所の医療措置に重大な過誤があったことを示すものです。
 
特に仮釈放審理において「心身の状況」は調査事項であり(犯罪をした者及び非行のある少年に対する社内における処遇に関する規則第18条4号)、同事項に変動があった場合には刑務所長には保護観察所長への通知義務があります(同規則第7条8号)。
 この点、遇知人は3月4日、エコー検査を受けています。エコー検査は、超音波を発する装置を当て、音波のはね返る様子を画像にすることで体内の状態を観察する検査であり、結果は直ちに判明するものです。
特に、患部の大きさは肝臓の半分ほどで非常に肥大化していたのですから、刑務所は少なくとも検査直後に直ちに患部を認識、把握していたはずです。
▼仮釈放の意図的な妨害行為
通知人は4月17日の移監前夜になってはじめて、徳島刑務所の医務担当からエコー検査の結果、肝臓に問題があり、医療施設での検査が必要という結論になったことを知らされました。3月14日には、四員会の井坂委員長が通知人と直接をじていますが、その際にもエコー検査の結果には言及されず、ことさら体調についても話題になっておらず、同検査結果を把握していなかったと思われます。
 
仮釈放審理の結果通知の直後に突然、貴医療センターに移送するほどの病気の疑いが告知されたことは、通知人に進行癌の疑いがあるという「心身の状況」について徳島刑務所が隠蔽したか、もしくは適切に報告せず、その結果、仮釈放を認めさせないように画策した疑いがあります。仮に徳島刑務所において通知人の「心身の状況」について正確な報告がなされていなかったとすれば、仮釈放をしないという四国地方更生保護委員会の判断の前提に誤りがあったとの重大な疑いが生じています。
 また移監方法も、手錠をしたまま徳島から昭島まで1日かけた車での移動によるものであり、トイレも車内での簡易トイレを強要されました。貴医療センターの医師の説明によれば、最悪、何らかの衝撃で破裂する可能性もあるほど患部は肥大化していたのであり、車での1日かけた移動は、およそ進行癌の疑いのある患者に対する配慮がない極めて非人道的なものです。
釈放請求の星野文昭さん肝臓がんで死去 
移送先の医療センターで
1971(昭和46)年11月14日、東京 渋谷で沖縄返還協定に抗議するデモで中核派が投げた火炎ビンで機動隊員1名が死亡した。
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この事件で現場を指揮していたとして当時、高崎経済大学の学生 星野文昭さんが逮捕された。星野さんは一貫して無罪を主張してきたが殺人罪などで無期懲役が確定した。徳島刑務所での獄中生活は45年近くになった。
今年4月18日、星野文昭さんは突然、東京都昭島市の横田基地近くにある「東日本成人矯正医療センター」に移監された。前夜 家族には徳島刑務所から「エコー検査に異常があったので移監する」と連絡があり、翌朝護送車など3台の車を連ね、手錠、捕縛のまま移動し、トイレも車内で済まされるなどして夕方医療センターに着いた。
28日同センターで肝臓がんの手術を行い成功の報。
だが翌29日未明から容態が急変し危篤状態にあった。
30日夜、医療センターから妻の星野暁子さんに「星野文明さんは同日午後9時44分、死去した」と連絡があった。
なお星野文明さんの再審を求めてきた岩井信弁護士(通知人)は次のような「通知書」を医療センターに送った。
▼徳島刑務所の責任は重大
 通知人やその家族、弁護人らは徳島刑務所の段階から、本人の体調がすぐれないことを、長らく、また繰り返し、具体的な症状をもって指摘し、適切な検査を求めてきました。当職らも何度も書面を送付してきました。にもかかわらず、肥大化した患部を有する進行癌が突然発見され、突然貴医療センターに移監されたことは、徳島刑務所の医療措置に重大な過誤があったことを示すものです。
 
特に仮釈放審理において「心身の状況」は調査事項であり(犯罪をした者及び非行のある少年に対する社内における処遇に関する規則第18条4号)、同事項に変動があった場合には刑務所長には保護観察所長への通知義務があります(同規則第7条8号)。
 この点、遇知人は3月4日、エコー検査を受けています。エコー検査は、超音波を発する装置を当て、音波のはね返る様子を画像にすることで体内の状態を観察する検査であり、結果は直ちに判明するものです。
特に、患部の大きさは肝臓の半分ほどで非常に肥大化していたのですから、刑務所は少なくとも検査直後に直ちに患部を認識、把握していたはずです。
▼仮釈放の意図的な妨害行為
通知人は4月17日の移監前夜になってはじめて、徳島刑務所の医務担当からエコー検査の結果、肝臓に問題があり、医療施設での検査が必要という結論になったことを知らされました。3月14日には、四員会の井坂委員長が通知人と直接をじていますが、その際にもエコー検査の結果には言及されず、ことさら体調についても話題になっておらず、同検査結果を把握していなかったと思われます。
 
仮釈放審理の結果通知の直後に突然、貴医療センターに移送するほどの病気の疑いが告知されたことは、通知人に進行癌の疑いがあるという「心身の状況」について徳島刑務所が隠蔽したか、もしくは適切に報告せず、その結果、仮釈放を認めさせないように画策した疑いがあります。仮に徳島刑務所において通知人の「心身の状況」について正確な報告がなされていなかったとすれば、仮釈放をしないという四国地方更生保護委員会の判断の前提に誤りがあったとの重大な疑いが生じています。
 また移監方法も、手錠をしたまま徳島から昭島まで1日かけた車での移動によるものであり、トイレも車内での簡易トイレを強要されました。貴医療センターの医師の説明によれば、最悪、何らかの衝撃で破裂する可能性もあるほど患部は肥大化していたのであり、車での1日かけた移動は、およそ進行癌の疑いのある患者に対する配慮がない極めて非人道的なものです。
【注】新藤健一さんは星野署名の賛同人でもあり「新藤健一意見書」を作成した人でもある。
画像に含まれている可能性があるもの:1人、スケッチ

【以下転載】

昨日(30日) 午後9時44分星野文昭さんが逝去されました。
医療センターから星野暁子さんに連絡がありました。
暁子さんは、昨夜対面した後一度戻り、本日、明日朝9時に医療センターに行きます。
手術が成功したと聞いて心から喜んだだけに、本当に残念です。詳細は後日掲載します。

星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議

星野受刑者が収容先で死亡 渋谷暴動事件で無期確定

 1971年、東京・渋谷の沖縄返還協定反対闘争で警察官を殺害したとして、殺人罪などで無期懲役が確定した星野文昭受刑者(73)が30日、収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡したことが分かった。関係者によると、5月に肝臓がんの手術を受けていた。
 事件は71年11月14日に発生。米軍駐留を認めた沖縄返還協定の調印に反対する学生らのデモ隊が暴徒化し、東京・渋谷で、機動隊や派出所を火炎瓶や鉄パイプで襲撃した。新潟県警の巡査が死亡、同県警の別の警察官3人も重傷を負った。
 星野受刑者は無罪を主張したが、87年に最高裁で無期懲役が確定した。
(共同)

直前の経緯
星野さん、肝臓がん切除 容態急変し暁子さんが面会
5月28日、星野文昭さんの肝臓がん切除が、東京・昭島市の東日本成人矯正医療センターで行われた。手術時、家族のセンター内での待機を要求したが、矯正医療センターはこれを認めず、暁子さんと支援はセンター門前の車で待機し続けた。途中から暁子さん、いとこの星野誉夫さんら家族はセンター内に入ることができた。5時間の大手術後、主治医は星野暁子さんに「手術は無事終わった。病巣は全部取った。現在、星野さんも意識が戻って病室にいる」と告げた。

ところが翌朝8時前、矯正医療センターから暁子さんに「周術期出血に伴う急性肝不全で重症状態です。すぐ来てください」と電話が入り、暁子さんと誉夫さんが急きょセンターへ。再審弁護団の和久田修弁護士、全国再審連絡会議の狩野満男共同代表、三多摩・救う会、革共同も門前に駆けつけた。

 午前11時、暁子さんと誉夫さんが病室に入り、文昭さんと対面した。文昭さんは呼吸が荒く苦しそうだったが、しっかりと目を開き、暁子さんの呼びかけにうなずいた。2人が86年9月に結婚して33年、初めてのアクリル板なしの「会話」だった。

その後、主治医と面談、「手術中に出血が多かったが止まった。しかし、午前5時に血圧が下がり、ショック状態に陥った。出血が続いていたということだろう。肝機能、腎機能が不全に向かっている。現在、輸血、輸液、昇圧剤で手当てしている」というのだ。血圧も100まで回復、文昭さんの生きるための闘いが続いた。「絶対に死なせるわけにはいかない。こんないい人がなぜこんな目に会うのか」と暁子さん。

しかし夜になって、再び矯正医療センターから呼び出しがあり、暁子さんは文昭さんの元へ。暁子さんが手を握ると、文昭さんは最大の力を込めて強く握り返した。急を聞いた岩井信弁護士、杉井吉彦医師、三多摩・救う会、婦人民主クラブ全国協など30人が門前に駆けつけた。

 30日午前7時、センター内の待合室で文昭さんの回復を祈りながら一夜を明かした暁子さんが、文昭さんの元へ。暁子さんの手を握り返した手には、前夜ほどの力はなかった。しかし、文昭さんは必死に生きようとしている。暁子さんは声をかけ続け、身体をさすり、熱く抱きしめた。なんとしても文昭さんの命を守らなければならない。

 星野文昭さんはでっち上げ逮捕から44年、非人間的な拘禁状態にありながら誇り高く生きてきた。「誰もが人間らしく生きることができる社会を」と呼びかける星野さんの解放は、沖縄を始め全労働者民衆の声だ。
星野さんの命を守ろう!

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