2020年09月

清水丈夫【ブログ注】
 写真は『前進』から。

上記の表題で『試練』にアップされた。
https://blog.goo.ne.jp/shiren-shinsayoku/e/f0758c1ab99c73c1f40d7b937c5f6ab3

 『試練』氏には失礼だが、このあと冒頭部分の【管理者コメント】は「演説」の後に回した。
 ただ、「 清水氏登壇にたいしては、埼玉県委員会が抗議し総退場したそうである。また、演説中に数回にわたって女性の声、男性の声で野次が飛んだとのことである。仮にも議長の発言にたいする党員の反応としては、異例のこと、驚くべきことが起こったのである。」
そうだ。

【以下引用】……… ……… ………


2020-09-10 06:21:23 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって 

清水丈夫氏が51年ぶりに浮上
開き直りと恫喝と哀願~~最悪の自己保身演説(全文掲載)

 


………………………………………………………………………………………………………
2020年夏 革共同政治集会特別報告
現実から遊離し革命的情勢に対応できなかった党と私
――今後、自ら大衆運動の現場に立ってたたかう
清水丈夫革命的共産主義者同盟議長



(満場の大きな拍手に迎えられて清水氏が舞台左袖から登場、演壇に立つ。)
 このような革共同集会で発言するのは51年ぶりです(照れ笑い)。(拍手) 長期にわたって権力の弾圧を粉砕して非公然活動を貫くことができたのは、やっぱり党と階級の力だと思います。(大きな拍手)
 今日あえてこういう場で発言を求めたことはなぜかと申しますと、やはり、今、前の人の基調報告でも出ましたけれど、旧政治局のもとで旧政治局の誤りが深刻な党的な危機と混乱をもたらしたという問題があります。それで三里塚の人も「危機」ということをいいましたけれど、党的な危機をもたらしたということがあると思うんですね。で、それはその過ちは、基本的に、その責任はわたくしにあります。それを認めたいと思うんです。(野次「そうだ!」「徹底的に認めてくれ!」)わたくし自身が直接にどうしたかというと、党の自己批判をして、何が問題なのかを明らかにして、(野次「徹底的に自己批判してくれ!」)というのが必要だと思います。で、そういうことをちゃんとやらなければ絶対、共産主義者とはいえないと、こう思ったんです。(野次)

 次にちょっとその内容的な面に入りますけれど、わたくしは26全総(各報告)の旧ライター批判の、旧政治局批判というのを真正面から受け止めたいと思います。わたくし自身がやっぱり7回大会路線を誤りを支えて推進する役割を果たしたということをはっきりさせて、その点を自己批判していかなければいけないと思います。

 その上で、その内容についてまた入りますけれど、やはり非常に重要なのは7回大会の路線の誤りというのはどういう誤りだったのかということをはっきりさせる必要があると思うんです。その点で、今、基調報告でも縷々述べられましたけれども、現在の情勢が世界大恐慌の情勢、あるいは3・11によって暴露された新自由主義の危機、そういったものによって現わされている、(いいよどむ)何というか、ちょっと待って……(野次)(しばし立ち往生)(野次「コロナを理由にしてマスクをしているんじゃあないよ!」、清水氏マスクを取る)(野次)旧政治局の誤りという問題を考える場合に、7回大会というのはどんな状況のもとで開かれたかと、どういうことと対峙すべきだったかということを考えて、ということから、始めていく必要があると思うんです。そういう点で明らかに7回大会当時は、今いった大恐慌とか、3・11とか、そういったことによって表されているように新自由主義の破綻がはっきりと現れていた。今日のコロナ×大恐慌情勢で現れているようなものすごい革命的な情勢というか、新自由主義の総破産ということがあの時点から始まっているというふうにとらえるべきだと思うんです。
 そしてその7回大会は、その始まりはじめた大恐慌、革命的情勢にたいして党がどのように対応すべきかということについて、やっぱり間違ったというところで押えるべきだというふうに思います。
 その場合に、……(いいよどむ)重要なことは革命情勢というふうにいいますけれども、革命的情勢というのは何か革命がやりやすくなったというように簡単に考えるような問題ではない。革命情勢が始まったということは、階級闘争の質がそこで大きく変わって、非常に厳しい対応に迫られているということが、あの時点で、7回大会で問題にすべきことだったと思うんです。
ところが、あの当時、4・9政治和解、4・9反革命といっていますけれど、それが国鉄労働運動をつぶすということのために出てきた、行われた。このことにたいして、真っ向からどうやって対決するのか。4・9政治和解というのは階級的労働運動の根をそのものを絶つ。具体的にいえば、始まった、前進を始めている動労千葉のたたかいを完全に圧殺する、そういうことをあの時点で革共同に迫ったというものとしてあったと思うんです。
 そのことを、革命的情勢を革命に転化するといいますけれど、革命的情勢を革命に転化するというのは大変な問題なわけです。そして、大体、革命的情勢というのはそれまでの党のあり方そのものでは対応できない、そういう情勢をもたらす、階級情勢が次元を異にして厳しくなると、そういう意味ではものすごい質的な転換があるという、そこのところをちゃんととらえるべきだったということが、まず(いいよどむ)……あります。

 7回大会とはそういう情勢のなかで、しかし、革命的情勢はあるけれど、革命に転化すべき階級の主体的情勢はまだ成熟していないという、このときに革命党はいかにたたかうべきか、問われていました。7回大会はしかし、これにたいして安易な方向で、先ほど(基調報告で)いわれたように、安易な方向で空論主義的に流れた。4・9との対決から逃亡するということになったと思うんです。ここんところが、自己批判するという場合の、しっかり押さえていくことだし、なぜ、そういうことが起こったのか、なぜ、そこまで頑張ってきた人間がどうしてそういう空論主義の方向に流れたかということを自分自身の反省も含めて考えなければならないということを、革命情勢の到来というのは続いていると思うんです。それは現在の革命情勢そのものという、ものすごい、かつてない、資本主義の終わりがどんどん見えているというような時期に、今、革命情勢をほんとうに革命に転化するというのは大変な問題で、それを飛躍になるようなことが、党の変革が絶対に必要になっている、そのことの出発点を7回大会は、築くべきだったと。それを安きに流れて、空論主義に走ってしまったというところが、非常に痛恨の極みだと思います。

 問題は、わたくし自身の問題と関係しますけれども、わたくしは7回大会に関して第1報告という形でかかわってきました。第1報告のところでは、リーマンショックと世界大恐慌という問題を押さえて、今起こっていることがほんとうに世界大恐慌なんだということを明らかにして、ほんとうに世界大恐慌というのは資本主義にとってものすごく深刻な問題をもたらしますから、大変な階級闘争の激化というか、深刻な事態が現われてくるということであるんですけれども、この革命的情勢を革命に転化するためには、……。4・9という形で、革命的階級的労働運動が始まって、その先頭に動労千葉が立っていると、これを根絶しようという形で、支配階級が真っ向から反革命的に暴力的にやってきたものが4・9政治和解だったというふうに思います。そういう意味では、ほんとうに到来しつつあった、始まった革命情勢を革命に転化するというのを本当にやろうとしたら、この4・9の挑戦に党は自己の変革をかけて真っ向からたたかわなければならなかった。そういう意味では、動労千葉を先頭にして、国鉄闘争破壊、労働運動破壊という攻撃にたいして血みどろの階級闘争を展開する、そういう労働運動の現実と格闘するというなかで、革命に転化する道を開いていくということを、やっぱり求めるべきであったというふうに思います。

 その点、わたくしの第1報告というのは、今読み返してみても、革命情勢が到来しているということを強調していますけれども、革命情勢がどんな問題を党につきつけるのかということについて、はっきり提起することができなかった、ということがあります。そこのところが根底的な誤りだった。だから結局、空論主義的なものにたいして、それを支えて推進するということに、結局なってしまったということが、自分の非常に、革命情勢はそういう形で論ずるだけでは何にもならない、やっぱりそれを革命に転化するためには、現実の労働運動と格闘して、革共同がほんとうに労働運動の中で大きな力をもつということがなかったら、できないということをはっきりさせていくことをすべきであった。それが第1報告ではできてないという点で、わたくし自身の誤りの基礎というか根本にそれがあったということを今、非常に痛切に思っています。
 要するに、それはなぜ、そういう事になったのかというと、やっぱり現実に行われていた国鉄決戦とか、具体体な労働運動の現実と具体的に結びついて、階級とどう結合していくかという道を自分自身がほんとうにちゃんとやってなかった、そこから遊離していたというような、階級からの遊離というような、そういうことが自分の中で起こっていたということが、革命情勢を語っても、ほんとうにそれを革命に転化するための党のほんとうのたたかいの方向を出すことができなかったということが私の誤りというふうに思っています。

 そういう意味で、わたくしは階級闘争の現場に飛び込み、一緒になってたたかうなかで自己批判を深めていかなければならないと思っています。だから、今いったような自己批判をするということでは終わらない、むしろ始まりであって、何というか、現実に階級闘争の現場に飛び込んで一緒にたたかうなかで、そして討論し、自己批判を深めていくということのなかで、……(聴き取れず)にしていかなければならない。それは決して無駄なことではなくて必ずこれから今日の階級闘争にとって意味のあることにもなる、そういう討論のなかから生み出されてくると信じております。
 今、そういう意味ではほんとうに皆さんのたたかいのなかに自分も飛びこんで、何というか、たたかうという決意をしてるんですけれども、そのことをほんとうにやりきれるかどうかというところに、わたくし自身共産主義者であるかどうかということが問われているというふうに思っています。やっぱり一人の共産主義者として生き抜きたい、たたかい抜きたいと思っています。今、その自己批判をほんとうにやっていくということは、必ずエネルギーを生み出すと思っています。

 今、コロナ×大恐慌情勢というか、猛烈な危機、新自由主義の根底的破壊を引き起こしつつあると思います。現在のコロナ情勢のもとでの大恐慌情勢の進展というのは、わたくしも50年見てて、こんなことはない。全然、ものすごい危機が始まっている。それはその他にも3・11に関連しますけれども、福島原子力発電所が爆発したというような問題なんかも、新自由主義の危機としては、今日に至るまでものすごく大きな問題を投げかけていると思います。さらに、地球温暖化ということが問題になっていますけども、それも新自由主義がもたらしたものとして、非常に、今の新自由主義の崩壊の仕方というのは尋常一様ではない、もうぐちゃぐちゃであるということだと思うんです。
 そういう非常に、どうやって苦境を突破していいかわからないという状況で、新自由主義というのは凶暴化している。凶暴化する資本主義という新自由主義は打倒しなければならない。新自由主義を打倒する階級的な労働運動を今ほんとうにつくり出すために革共同はどのようなことをしてでも頑張んなきゃいけない、ということじゃないかと思うんです。
 そういう意味で、最後に、現在進行している大量解雇、組合つぶしを絶対に許さない、それから労働運動を甦らせる、新自由主義を覆すたたかいをつくるということを、やっぱり決意したいと思います。11月の労働者集会に結集したいと思います。私もともにたたかうつもりです。どうもありがとうございました……(いいよどんで声が出なくなった)。(中程度の拍手。登場時の拍手より少ない。)
(おわり)
2020年9月6日/サンパール荒川・大ホール

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【管理者コメント】

 2020年9月6日の革共同(中央派)政治集会で議長の清水丈夫氏が登壇した。振り返れば、1969年4月27日、本多延嘉書記長らが日帝国家権力による革共同への破防法の適用・発動によって不当逮捕されたとき、清水氏はただちに地下活動に入った。それから、実に51年ぶりの浮上である。しかも、革共同集会で多くの聴衆を前にしゃべったということは、度外れの演説嫌いで有名な清水氏がよほどの意を決してのことであったろう。
 清水氏登壇にたいしては、埼玉県委員会が抗議し総退場したそうである。また、演説中に数回にわたって女性の声、男性の声で野次が飛んだとのことである。仮にも議長の発言にたいする党員の反応としては、異例のこと、驚くべきことが起こったのである。
 ある参加者から、清水氏の演説全文(文字起こししたもの)がサイト管理者に送られてきた。そこには、「あまりにひどい。無責任極まる。聴くに堪えなかった。多くの人たちが拍手したが、その感性が信じられない。抗議の退場と思われる動きもあり、野次も飛んだが、当然のことです。公表は委ねます」というコメントが付されていた。
 演説全文を一読すると、内容はびっくりするほど最悪、最低のものである。何を自己批判するのかまったくいわないでおいて、自己批判になるわけがない。それこそ開き直りである。党員にたいして、オレはもう自己批判した、だから追及するな、前に向かって一緒にたたかうべきだという恫喝と哀願に終始するものであるといえる。清水氏の自己保身が最悪の形で表れている。
 しかし、内容の当否を問わず、やはり歴史的に記録されるべき貴重な演説なので、全文転載します(約18分間)。なお、タイトルと見出しは、公平であるべく、清水氏の意を汲んで、管理者がつけたことをお断りします。








【以上転載】……… ……… ………

写真は『前進』から。清水発言は遅れて「要旨」として紙上に掲載された。

革共同集会 特別報告(要旨) 革共同議長 清水丈夫


【ブログ注】闘うあるみさんから無断転載

 

革共同中央派の、辺野古闘争からの逃亡(富田晋の栄光と逃亡)

 2015.06.02

 さて、沖縄・辺野古現地で革共同はどう行動したか…って、そりゃ「やぐらの闘い」では、85年の10・20三里塚第一公園や、11・29浅草橋戦闘で活躍した、鎌田雅史元全学連委員長が、やぐらから落ちて怪我をするということまで起こっている。関西からも全国からも、それなりに「辺野古現地闘争」に参加していたわけだ。その代表格が、現在IJBS労組 の書記長の富田晋氏である。
 彼はやぐらの闘いから、その後の環境アセスメント阻止行動を、ウエットスーツに身をつつんで果敢に闘った。ウヨさんの世界でも有名だが、「A級戦犯が祭られている以上、自分は靖国には参拝しない」という意味の昭和天皇の話をメモしていた「富田侍従長」の孫であり、親は「元全共闘」である。東京で「ひきこもっていた」のを、中核派系(当時はそこまで党派色はなかったが)のリサイクルショップの沖縄・名護支店である「じゅごんの家」に行き、辺野古での闘いを真面目に取り組むことになる。「じゅごんの家」はHPを作って積極的に現地情報を発信し、私も良くチェックしていた。当時はそれ以外に、辺野古現地の運動情報を使えるHPやブログは、無かったのだ。もともと「いいヤツ」だったから、現地での人間関係も悪くなく、昨日書いた、あちこちで大阪行動などの、辺野古の情勢を本土に持ち帰って運動する団体にも、彼と親しい人間は多かった。「ウエットスーツで迎えた成人式」と報道され、あつこちから「講演」の依頼もあった。
 平夏芽氏が女性問題を起こして精神を病み、脱落・逃亡した後も、彼は現地を支え続けていた・・・ハズだが、なぜか08年の秋に「解雇撤回闘争」なるものを始め、大々的に自らのHPを使って「支援」を呼びかけ出す。その時の混乱は、私が当時書いた記事
富田晋君を支持したいがこれじゃ出来ん(前篇)  (後編) に書かれている。ここでも「ヘリ基地反対協」等からは何の説明もなく、いわば「わけがわからん状況」であった。

 後で事情が分かったため、本来はこれをフォローすべく記事を書かねばならなかった(いや、書いたかも知れない)のだが…富田晋の「解雇」の真相とは・・・

 私が彼と初めて会った時、彼は「命を守る会 書記長」という肩書の名刺を持っていた「何じゃこりゃ」と思いながらも見ていたが、はっきりいって人口6万(中心街だけでは、もっと少なくなる)程度の名護市で小さな「リサイクルショップ」で食っていけるわけでもない…で、「専従の活動家」として「給料」をもらっていたわけだ。(その他、東京の「本家」からの援助もあったであろう)で、そのまま真面目に辺野古の運動に関わっていればよかったのだが、「本家」がだんだん中核色を強く出していく…富田晋も「11月集会」に呼ばれて発言するようになる。そのうち一緒に店を切り盛りしていた女性との間に、子どもが出来た…辺野古のオジー・オバーからの「信頼」も厚かった彼のところに「まるで自分の孫が出来たみたいだ。」と祝福された・・・そこらへんが彼の「絶頂」だったのだろう。

 やがて彼は「中核系」の独自路線を運動内で全面に出すようになる…ただその「理屈」はある意味、正しいところもあるので、前述の記事では私も「評価」はしている。しかしやがて彼は「独自の運動」で忙しくなったせいか、昼間他の人が海上阻止行動をやっている間、冷房の効く「拠点」で寝っ転がってTVばかり見ているという生活が続く。時には「自分の家」に帰って、子どもと過ごしていたということもあったそうな。これでは周りで真面目にやっている人から見れば面白くない・・・当然、「苦情」も出る・・・そこで安次富さんたち中心メンバーが「お前もっと真面目にやれ 」ときつく言った。当然である。
 彼の言っている「独自路線」≒「労働運動路線」も怪しいもので、「うるまユニオン」を立ち上げ、辺野古に来ている仲間を「オルグ」して「組合員」にしていったのであるが、「組合員」の誰もが「賃金労働者」ではなかった…それって「労働組合」か

 ぶっちゃけた話、みんなから「持ち上げられ」有頂天になった所に釘をさされたところ、逆ギレした…というのが本当の所である。
 これを「富田晋」一人の問題で止めておけば良かったところを、中核派は「全国問題」「労働運動路線に対する敵対」ととらえ、現地の運動と一線を画すようになる。かくして富田晋は辺野古から「逃亡」し、「党の助力」を得て「労働運動」を行いだす…辺野古をはじめ沖縄北部には、「振興策」+「安い人件費」をあてこんで、企業のコールセンターが多く立地した…ここの労働者をなんとかうまく組織できたのが「IJBS労組」である。(そのこと自体は、評価しよう…しかし彼はこれまで本当の「賃金労働」をしたことがあるのか…悪く言えば、70歳になるまで「労働者」経験がなかった「塩見隆也」元赤軍派議長と変わらないのではないか?)

 ということで、辺野古現地には中央派系の人間は来なくなってしまった。「じゅごんの家」も閉鎖…その後、中央派から完全に距離を置いた人が「じゅごんの海」として再建し、今日に至る。(「じゅごんの海」は、賛助会員方式で運営されている…私もその一人…といっても、要するに「カンパ」で食っているわけだが、その人は曲がりなりにも「賃金労働者」の経験があり、本当の「解雇撤回闘争」を闘ったこともある人だ)

 「中央派」の「辺野古現地に行かない」病は、すさまじい…mixiで友人になった「中央派」の人間は、わざわざ「富田晋」の演説画像をアップした。そこで彼は何と言ったか?「辺野古から来ている労働者が、(シュワブ前テント等の)現地に行って勝てるだろうか?と聞いてきた…違う、勝つためには『安倍を打倒』しなければならないんだ…」????あのぉ~「安倍を打倒」するために、多くの人が辺野古現地へ行き、陸や海で闘っているのに、地元の人間に「そこに行っても仕方がない」というようなことを平気で言ってのけたのだ (その演説画像、保存しておきゃよかったな…
マル共連 でも一時話題になったのだが)

 沖縄大学に「中核派全学連」が再建されたそうな…ではそこで人を集めて、辺野古現地に行く体制なぞ、なんぼでも取れるのに、全く来ない。別のマイミクさん、辺野古で「沖縄大学の方から、カヌーを教わった」と書いていたので「おお、なんやかんやで中央派も『復活』したか」と思ったら、実は中核派とは全く関係の無い人物であったそうな。来るのは「県民大会」などの大きな集会がある時のみ、自派の方針を訴えるビラを撒くだけ・・・これではカクマルと同じである。(5月9日の「中谷防衛大臣訪沖弾劾闘争」では、カクマルは「真面目」に来ていたのに、沖縄大「中核派」は姿を見せず…この辺はカクマルにすら劣る)

 ネトウヨさんにも教えておこう…「辺野古現地には『革マル派』や『中核派』は来ている」…これは正確ではない。革共同中央派・・・「中核派」から確実に距離をおいた人々が、来ているのだ。

投稿者 あるみさん 時刻 21時28分 かくめいのための理論 | 固定リンク



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革共同中央派の、辺野古闘争からの逃亡(大阪・本土編)

2015.06.01 

  さて私は関西に居たころ、「何か反戦運動やりてぇなぁ~」という気持ちで「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」 に参加、ビラまきや署名活動なりを行っていた。この団体は毎週土曜日、大阪駅御堂筋口の市営バスのターミナル付近で行動している。
 もともと2004年に辺野古でボーリング調査を阻止するための「やぐら攻防戦」に参加してきた人達が、地元に「辺野古基地建設問題」を持ち帰って、「本土」で訴えるために作った団体である。団体を立ち上げたのが8月の始め・・・そのすぐ後に「沖縄国際大学」にヘリが墜落…こんな大変な「事故」が起こったにも関わらず、「本土」の新聞や報道は、オリンピック一色だった…ヘリ墜落事故はだいたい3番目ぐらいの扱いである。
 私はこの団体に、だいたい結成の翌年6月ぐらいから参加しだしたわけであるが、そこにはいろんな人が居た…やぐらの攻防に参加した人だけでなく、ただ反戦の気持ちが強い個人、沖縄が大好きという人から、「法政大学」で黒ヘルをやってて中核派とドンパチやってた人、大井川から西の青ヘルを組織した経歴を持つツワモノ…もちろんここには「前進社関西支社」関連のグループや中核派全学連、「AU(アクト アンド ユナイト)」という、中核派系といわれた若い反戦運動集団もやって来た。なんでも運動を立ち上げた際には、カクマルも来ていたそうな。ま、「辺野古基地建設反対」の気持ちがあれば、誰もが参加できる場であったわけである。
 そういった団体…
京都行動 や名古屋行動、東京行動といったものや、個人、少人数グループで「辺野古基地建設反対」を、辺野古現地にも参加しながら訴え続ける人たちが出てきたのが、このころである

 大阪行動や京都行動では、集めた署名は当時の防衛施設庁(現在は近畿中部防衛局)などに「提出行動」を行い、「基地建設の問題は、沖縄だけの問題ではない!日本の問題である。おなじ役所としてあなた達はどう考えるのか?」などゴリゴリやっていたし、今もやっている。(ただ、役所が開いている平日しか出来ないので、私がそれに参加したのは1回こっきり)・・・そのうち、「渡した署名がどうなっているのか分からない…追跡できる『国会請願署名』をやろう!」と京都の連中が言い出した。いわゆる「請願法」に基づく署名である。当時は小泉の「郵政選挙」で自公が圧倒的多数を誇っていた時代…「請願法」には紹介議員が必要なのだが、どれだけ「紹介議員」になってくれるかも分からない…そんな楽な運動ではなかったが、とにかく現地で繋がった仲間達にも呼びかけ、大々的に全国から署名を集めた。最終的に何筆集まったのかは忘れたが、北海道から九州・沖縄まで、全国規模で署名が郵送されてきた。
 だが、一番の「票田」となる「東京行動」からは、ほとんど音沙汰がない 「東京行動」は、当時現地で闘う「富田晋」氏の本家でもあるが、中核派の影響のみが大きくなっていったようだ…そこから「はじかれた」おっさんが一人で「国会署名運動」をがんばっていたような状況だった。
 10月の国会請願の日、私も年休をとって東京に行った。議員会館をお借りして「総括集会」みたいなことをやったのだが、東京からの参加者は、「労働運動で革命を・・・」という、いわゆる「11月集会」のことばかりしゃべっていた。当時は私も「11月集会」には参加していたので(というか中核派分裂前だから、大阪行動内の中核系は参加していた)が、まわりからは「なんだかなぁ~」という空気がありありであった。

 その後、中核系で後に「中央派」に行く若い連中…全学連からAUまで・・・が、「大阪行動」の中で沖縄のこと、基地のことは何もふれず、ただだた「労働者は・・・団結して・・・資本主義を倒さなければならないっ 」てなことばかり言い出すようになった。おなじ中核系の「大衆運動大好き」人間からも「あれはマイクジャックだ!」と批判されるぐらい、酷くなった。

 そこに辺野古現地で、「平良夏芽脱落」事件が起こる…「違法」環境アセス阻止行動において、海上阻止行動を牽引してきた「平良夏芽」氏が、女性問題を起こした上で精神を病み、「本土」に帰ってしまうというものであった。ただこの時、当事者である「ヘリ基地反対協」からもロクな説明がなかったこともあり、全国の運動は「動揺」した・・・夏目氏は「牧師」でもあって「信望者」も多く、衝撃を受けた人が多いのは良く分かる。ただ後に訊いた話では、「海上阻止行動」が激しさを増す中で、海上阻止行動がまるで「軍隊」のようになったという・・・もちろんその「責任」は夏芽氏にある。

 当然、「大阪行動」の内部からも「平良夏芽」氏の責任を追及すべきである・・・という声が、後に中央派に行く人間(かつ平良夏芽の信望者」から出てきた・・・そのくせ「うつ病」を口実に「会議」には出席せず、裏からメールや電話で人を動かそうという形でやってきた。実際、私のところにも件の人からメールが来たりしている。そして会議では、「夏目氏が精神を病んでいる以上、彼の『責任追及』に力を入れることより、これまで通り運動を続ける」という結論となった。別に「平良夏芽」氏のために運動をしているわけではない・・・辺野古基地建設反対のために運動をしているのだから・・・そうゆうわけだ。
 この「会議」に出ていた「中央派」の人間は、「AU」の若い女性が一人…で、その「結論」を聴いた後、そっと会場から出ていって、後に残った議題については知らんふり・・・でその日から「中央派」系の連中は「大阪行動」に来なくなった。「全学連」はいざしらず、「AU」内部でも路線闘争があったらしく、今大阪行動に来ている人間は、「AU」袂を分けた。現在、「大阪行動」の一部を支えているのは、「再建協」に行った人間ばかりである。

 「中央派」は「大阪行動」に来なくなったばかりではない…関西では「第四インター」系など「反中核」の組合や団体もあって、長いこと非日共系左翼の統一行動とかがとれなかったのであるが、第一次安倍内閣の「教育基本法改悪」阻止運動あたりから、徐々に「1日共闘」をしたりする関係が出来てきた…そのような中で、「中核も反中核も、ノンポリに近いのもOK」という「大阪行動」の果たしてきた役割は大きい…「再建協」側が不十分ではあるものの「第四インターへのゲバルトへの自己批判」を出したこともあり、反戦・反在特そして反橋下の運動では、ゆるやかな統一戦線が組まれたりもしている・・・しかし「中央派」は一切、そのような場に現れない。「自分たち」だけの内輪の集会をこっそり組むだけである。少なくとも関西では、彼らの運動に対する影響力は、ほとんど無いと言ってよい。

これが「中央派」辺野古闘争からの逃亡の「あらすじ」である。次は沖縄における「富田晋」グループの「逃亡」について書く。

 

【ブログ注】闘うあるみさんから無断転載


かくめいのための理論

あるみさんワールドも面白い。ここははやる気持ちを落ち着かせて、ゆったりした気持ちで読みこみたい。

3回連続の予定。記事の中身には06-07年の「党の革命(関西の3・14)」から東西の分裂のころの大衆運動の現場の空気も伝わってくる。

 

相変わらずの「中央派」沖縄闘争
http://tatakauarumi.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-2fa0.html

 2015.05.31

昨日「沖縄報告会」 をしてきたのだが、事前の宣伝が不十分だったこともあり、十名そこそこの参加であった。(そもそも「歴史は消せない」みんなの会」自体、弱小団体であり、主要にチラシをまいたりすることが出来る人が現在体調不良、おまけに私も先週は体調不良でデキモノ直し…というハンデにハンデが重なったものであるが)


 まず最初に、私が辺野古現地でお会いした香川の「映像作家」の方から、辺野古の闘いの記録をDVDにまとめたものを上映(ただし、「作品」としては未完成)…そして私の「辺野古報告」…やたら写真が多くて、けっこう長い時間をとってしまった。どちらかというと、「辺野古現地に行って、闘うための『情報』をセレクトしたつもりではあったのだが…内容はこれまでブログに書いてきたとおり+「辺野古初心者」のための辺野古紹介も入れた。

 その後、NAZEN香川の若い人による5月15~17日の「沖縄闘争参加」の報告である。さすがに「パワーポイント」を使って、要領よく説明してもらった。(ちなみに報告にはプロジェクターを使ったのであるが、最近のノートパソコンはプロジェクターに繋がるコードがついていないぐらい「薄く」なっている…私も古い「XP」のパソコンをわざわざ持ってきて発表した。プロジェクター側も、USBでつなげるようにならないと、こうしたPC内画面を映写することが出来なくなってしまうだろう…ということで各メーカーや「公共機関」には要請したいものだ)

 さて、NAZEN香川の若い人の報告によれば…どうやら岡山の「マスカットユニオン」の人たちと一緒に行動したらしい…神戸空港から沖縄へ、15日には「辺野古の浜」で集会参加、16日は「戦跡めぐり」と、沖縄の「IJBS労組」等との交流会、17日はセルラー球場での県民大会でビラまき、県民大会参加後、独自デモで自らの「沖縄全島ゼネストで闘おう」アピールをしてきたということだ。なお、そのデモには「飛び入り参加者」もいたそうな。

 私がかなり「時間」をとってしまったため、その後の「質疑応答(ゆんたく)時間はあまりなかった…小豆島からわざわざ参加した方から「では、何をすればよいのか、提起して欲しい」と言われたので、発表者3名からそれぞれ答えた。

 香川の「映像作家」の方と私は、「辺野古の”体験”を本土に持ち帰って世論を動かさないといけない。」と言ったのに対し、NAZENの青年は「沖縄は”ゼネスト”状況にある…飛び入り参加者がいたことが何よりの証拠だ。沖縄でゼネストを!」などと答えた。

 残念ながら、何度も言っているように、高松での否共産党系反戦運動は、今回主催してくれた「歴史は消せない!」みんなの会と、「香川連帯ユニオン」ぐらいが細々とやっているに過ぎない。「脱原発運動」になると、やっと
渡辺さと子 氏とその関係者が来ているくらいである(今回はそこらへんまでも「宣伝」が行き渡らなかった…「原発」と「沖縄」は非常に密接につながってる問題なのに、残念である。ま、「四電前抗議行動」に来ている人で来てくれた方はいるけれども)・・・ここで「小さなこと」で「路線闘争」なんぞ行って、ケンカしても始まらない…「中央派」系の方で、「大衆運動の何たるか」が分かっている人からは「今、沖縄でいきなり『ゼネスト』ができる状況では無い・・・云々」とフォローはあった。とにかく、安保法制改悪阻止も含め「出来ることをやろう」としか、「市民運動」的には言いようがないわけだ。(質問者には悪いが、「出来ること」を自ら考えだして実行することが大切で、「何をすれば良いか?」と提起してもらう場所・場合ではないのだ…そのための「ゆんたく」の場である)


会場には「前進」速報版(2015年第5号)や、「星野さんの絵を見にゆく」チラシが置かれていた。
 それにしても、「富田晋」IJBS労組委員長(だったかな、肩書は)のしゃべっている写真を、久しぶりに見ることができた・・・本来なら彼は、「辺野古現地」でカヌーに乗っていなければならない人だったのだ・・・そこから「逃亡」して、「労働運動」を始めたわけであるが、現地闘争の主体(この場合はヘリ基地反対協議会」から批判されたあげくに、「解雇撤回闘争」なるものを立ち上げて運動を「混乱」させたあげく「逃亡」し、「労働運動」を始めた人間…もちろん、「振興策」の元でコールセンターなどが増え、そこで働く非正規労働者を組織しようという「方針」自体は、まったくもって間違いではないが、それが「辺野古基地反対」現地闘争と全くむすびついていないのだ。それは最近「全学連」を再建した沖縄大学での運動にも言える…せっかく「組織」が出来たのだから、そこで「現地に行く」部隊はナンボでも作れるハズだ!かつての「中核派」はそうやってきて、それが「党の権威・信頼」になっていたのだから…
 もちろん「現地」で真面目に闘うことを「前提」とした上で、「オール沖縄」批判や「ゼネスト路線」を掲げてもらうことは、一向にかまわないだろう…それが「受け入れられてくれるか」どうかは、沖縄の民衆が決めることである。

 私的には、人数が少ないことも含め、かなり「脱力」した報告会ではあった…しかし「ここから」はじめないといけないのだ。

 とはいえ、「ゼネスト情勢があるわけではない」と適格に言った方も、「中央派」がどのくらい「辺野古基地建設反対問題」をネグレクトしているかは、よく理解してないらしい。だから次回はその辺の「事実関係」を明らかにしていく予定である。

【ブログ注】
あるみさんが大阪に移ったのだそうな。いつの間にか??

【ブログ注】
ひとまず O'Hanlon  さんのコメントの続きをまとめました。
>以下の行は私の設問の引用。 時に O’Hanlonさんの強調も。
次の行から O'Hanlon  さんのコメントです。
……… ……… ……… 以下 O'Hanlon  さんのコメント…

 すこし間違いがあります。
「翁長は反安保・反基地闘争を終わらせるために知事になった」は私が書いたこと(翁長の著書『戦う民意 』や発言から判断して)であり、「中央派の記事」ではありません。
また、「県民投票への参加」は間違いです。県民投票はそもそも翁長が「埋め立て許可の撤回を先送りにするために持ち出されてきたもの」だからです。
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/c3422df14ba4604cc194aa5b23019047?fbclid=IwAR1QhW7jVzI10d53HqrbHi9FprIYuhqjhfmvm75Ez0c4r12Wc3U8OEDD_oA

   2020-08-05 14:49:27

 「翁長は反安保・反基地闘争を終わらせるために知事になった」となぜ判断したのか。それは翁長の政治的主張を読めば明らかです。
翁長は安保支持・基地支持の姿勢を明確にしています。しかし現状では沖縄「県」にのみ過重な基地負担が強いられており、このままでは沖縄「県民」の安保支持が揺らぎかねないから、より「品格のある日米安保」を求める、ということが、繰り返し語られた彼の主張です。そして翁長は辺野古より規模が大きい浦添軍港については翁長は推進の立場です。浦添軍港を推進するのは、そこに金秀グループの利権がからんでいるからというのは、それほどうがった見方ではないと思います。

    2020-08-05 15:03:05

>「那覇市職労破壊に手を染めてきた根っからの新自由主義者」
     
>この二つの断定を正しいと思いますか?

 「那覇市職労破壊に手を染めてきた根っからの新自由主義者」については、やや不十分ですが正しいと思います。不十分というのは、翁長は単なる「新自由主義者」ではなく、金秀グループの利権代弁者でもありました。

>翁長氏が政治生命をかけて、最後には生死をかけて「辺野古」にこだわり続けたことをどう思いますか? 何よりも「オール」沖縄の下で熱く燃えた県民の思いに共感しますか?

 まず事実認識に違いがあります。翁長が「政治生命をかけて」辺野古にこだわり続けた、とは私は思えません。翁長は言を左右にして「埋め立て許可の撤回」を避け続けたばかりではなく、安倍政権との密室協議に応じて安倍政権を助け、さらに反基地闘争弾圧のために警視庁や大阪府警の機動隊を要請した沖縄県公安委員会に対して何もしませんでした。知事の権限として公安委員を任免することができるにも関わらず、弾圧を許さない公安委員を任命しようとはせず、警察の弾圧を容認し続けたのです。

 「県民の思い」については、翁長の正体についてきちんと報道するマスコミがなかったこと、すべての既成勢力・体制内勢力が翁長の正体を暴露しなかったがためにもたらされたものです。人民をすべての既成勢力・体制内勢力との決別・琉球解放革命(中核派の「沖縄奪還論」は断固として拒否します)へと導く勢力が必要でした。

    2020-08-05 15:43:42

>>1のURL訂正お願いします。

那覇軍港移設は辺野古新基地建設と同根
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/9d02415520552a19daec6fa04a3fb7dc

これもよく読んでください。

>那覇軍港移設容認は翁長雄志前知事が強く主張したことだったことを改めて想起する必要があります。玉城氏の姿勢は「故翁長雄志前知事の容認の立場を引き継ぐ」(19日付沖縄タイムス)ものにほかならないのです。

>これまで繰り返し主張してきたように、「オール沖縄」とは革新勢力を懐柔するために保守勢力がつくりあげた虚構にほかなりません。沖縄県、そして「本土」の革新・民主勢力は、「オール沖縄」のくびきを解き放ち、辺野古新基地と同様、那覇軍港移設にも明確に反対すべきです。

    2020-08-21 08:38:35

>そもそも、あなたは「県民投票に行こう」なのかそれとも中央派も体制内に転落した、論なのか?

 中核派は沖縄においては1968年の主席公選いらい一貫して「革新共闘」という体制内勢力であったと認識しています。
 「革新共闘」は琉球が日本の一部であると認めるものであり、「反復帰・琉球解放」を否定するものです。その意味で中核派も体制内勢力であったということです。

    2020-08-21 08:43:02

>「主観的には辺野古の一点共闘」に政治生命をかけるにせよ、客観的には「終わらせるために」だ。だから主観的にも「終わらせるために」なのだ。上記のような三段階論法をスターリン主義の得意技にしていたことをご存知ですか?

 すみませんがこの部分、主語が抜けているので意味がよくわかりません。わかるように説明お願いします。

>>>たぶんそんなことかと、私があらかじめ「応えた」ことへの回答を下さい。
>つまり仮に O’Hanlonさんや中央派のいう通りだとして、ではどういう態度をとるのか?という問題です。「寝返り転向した革新共闘」とその下の「労働者階級」と無条件に、かつ全面的に決別するのか?あるいはどういう関係を持つのか?断定しっぱなしで済むのか? 話を戻して、「どんな対応をするのか?」、少しでも応えるよう努めてください。

 「労働者階級と決別する」などという馬鹿げた路線があるわけがありません。「労働者階級を体制内勢力から引きはがす」に決まっているではないですか?

>「県民投票に行こう」なのかそれとも中央派も体制内 ?

 県民投票には行かないし、中央派は「沖縄奪還」という「左翼帝国主義」を唱える勢力だと考えます。

    2020-08-22 00:54:29

>「解放革命」とは独立論の一種だとも思える。

 琉球解放革命は、何より反米・反日・反天皇制を強調したものにならなければなりません。中核派が「沖縄奪還」を主張する中、解放派・フロント・ブントが反復帰を掲げたのは正しかったのです。琉球民族解放軍が必要です。

 革マル派も明言はしないものの「オール沖縄」を支持する体制内勢力です。革マル派は県民投票の結果を「沖縄人民の反戦・反基地闘争の一大前進によってもたらされた」とし、自分たちがその戦いを最先頭においてけん引してきたと述べています。さらに日共の「議会主義」だの「反安保の放棄」だのを批判しながら、「オール沖縄」そのものはいっさい批判しないし、辺野古現地闘争には参加していますが浦添軍港については一言もなし。やはり、革マル派は体制内勢力なのです。

    2020-09-17 05:06:39


【ブログ注】勝手にペンネームをつけさせてもらいました。

 

お疲れさまです…【前略】

…コロナ…。

さて、NC(注 中核派の符丁)の「オール沖縄反対論」は、沖縄関係の人にはとても口にできない最悪の論です。私は、沖縄に行くたびに、元中核派であることが恥ずかしくなりました。70年世代の人からも、かつての中核は、すごかった、と聞かされるたびに暗澹たる思いをしました。

基本的に、中核派が、「階級」と「民族」の問題を革命論的(路線的)に止揚できず、歴史的にブレてきた結果ではないか、と私は思います。「労働運動で沖縄闘争に勝利しよう」は、中核派の混迷の結末であり、どんなに公平に見ても、沖縄(現地)的には革マル以下の彼方に中核派は行ってしまいました。少なくとも、現地ではいかに闘うか、いかなる支援を行うか、に尽きます。ある意味、中核派には三里塚闘争の経験と蓄積があり、最も得意とすることろであったはずですが。

しかし、単純な「オール沖縄」で、基地問題が解決できるとは思いません。問題の立て方は、「オール沖縄、か否か」ではないと私は思います。

また、違う観点から言えば、八重山諸島の現在進んでいる自衛隊配備、「先島の最前線基地化」問題については、「オール沖縄」主義者たちは完全に切り捨てています。基本的に自衛隊配備を問題にせず、米軍基地のみを問題にしているところに、「オール沖縄」論の本質があります(沖縄本島と宮古、石垣など離島問題も)。宮古でも石垣でも、現地の反対派に引きずられるように日共…

右から左までの「オール沖縄」の持つ「沖縄ナショナリズム」の危険性について、田仲康博氏は、警鐘を鳴らしています。彼は、「沖縄アイデンティティ論」や琉球独立論についても批判的であり、沖縄左派最後の「本土との連帯論者」だと私は見ています。

田仲康博氏(元ICU教授)

以下を参照ください。講演を聞いて、地域でも来てもらって講演会を行いました。仲間に琉球独立論者の女性がいますが、田仲氏の話を聞いて納得していました。著作も色々出されていますので、参考までに。

 

https://honto.jp/cp/review/dokushojin/08.html 

 

【ブログ注】

 

 「奪還論」とは「沖縄奪還・安保粉砕、日帝打倒」と表現されていた。『前進』などでは「沖縄問題は民族問題ではなく、歴史問題」ともされたと思う。

当時は「帝国主義本国内での民族問題を語るのは反動的」というような議論が圧倒していた。新左翼の世界ではそれが大勢だったと思う。だから「沖縄解放」論が多かった。「奪還=復帰」論自体がそんな批判にさらされていた。今と違って「エスニック」などという概念はなく、民族とは「独立を為しうる力を持った大民族」という意味しかなかったと思う。
 問題はそれ以降中核派の中でも何一つ深まらなかったことにある。
 いや、2つの内戦の中でそんな問題意識も蒸発し、革共同創立以来の蓄積も「実践的に消滅」したというべきなのかもしれない。
  「沖縄を日本革命の火薬庫に」といういいかたもあった。「革命前夜情勢の急速な接近」だっけ? そこから沖縄問題を革命に直結して捉え、いわば日本革命の最短のコースとして捉えて、革命論から逆規定する。当否・正否は別として、見事に破綻してきた現実を長いあいだ認めずにきたその「空洞化」への無自覚・居直りがこのざまだとしか言いようがない。
 言い換えれば「沖縄は日本革命の礎になれ」と要求するもの。
 O’Hanlon  さんの議論のしかたもその延長というべきなのかもしれない。「奪還論」という言葉はたぶん今では中央派でも使われていない、『死語』に近い。また70年に至るあの時代に、復帰運動が沖縄現地で燃え上がっている時に、「復帰はナンセンス」ということの意味を考えて欲しい。歴史を踏まえて欲しい。
 「革命的、革命的」と空回りして自身を神に直結するような選民論に陥って、自縄自縛にいるとしか思えない。
 屋久杉 実感としては、オール沖縄批判は、批判というよりも沖縄県民から相手にされていないことを正当化するための、そして運動に噛めていないことを正当化するための、極めて内向きの論理でしかないと思います。

  こんな論理がまかり通るなら、三全総の路線などあり得ないはずです

民同に支配されているから、ダラ幹に支配されているから、そんな組合運動はナンセンスだと言っているようにしか思えません。

 つまり、自分たちが闘わないことを正当化しているだけです。

 (過去の)三全総路線は、そんな組合でも現場労働者は制動をはね除けて、必死に闘っているわけで、だからこそ革命党として責任をもって、内側から組合を変革するために現場労働者と一緒に闘い、防衛していくっていうことじゃなかったんじゃないですか? 


 白土 当ブログではひとまず以下を参照してください。

 44      ソ連崩壊と反スタの終り
   の中の
 
  ほんの少しだが、白土と水谷氏との民族問題をめぐるやり取りが描かれている。91年?のこと。


その意味でも、故白井朗さんの著作の歴史的意義は大きい。

 参考までに。

ToppageCritic図書室リンクEmigrant
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2010.01.01
更新履歴
2016年02月09日更新<2001.1.1創設/2009.5.7停止96,037アクセス/2010.01.01再開>2020年9月


                        

                     

【ブログ注】

友人のエイサー氏から話を聞きました。

エイサー 翁長知事誕生からしばらくして、数日間沖縄の知人宅に逗留して色んな話を聞く機会をえました。

ついでに観光もして英気を養ってきました。

翁長知事を生み出した力には保守派の人々が「辺野古の一点共闘」に与して動いたことはだれもが知ることですね。選挙に際しても、その後の色んな動きにもその流れは続いていました。

色んな会合に「私は自民党員」という人たちが顔を出して発言していたと聞きました。

「現役の自民党」という人も少なくない。「限定的」であるにせよ政治的焦点の辺野古・普天間に沖縄保守・自民党員が声を上げること自体、かつてないと言えるのでしょう。

翁長知事誕生を一つの契機に、「文化」の面でも新しい動きがあるようです。

例えば「うちなーぐちを学ぼう」という動きです。首里城の消失ではすごい反響があったと聞きましたが、沖縄の歴史を学び直す、掘り返すという動きです。

「本土復帰」から45年、沖縄も恐ろしいほど変わりました。何一つ変わっていない「米軍基地」とともに変化も大きい。復帰闘争をになった人々も、いまや70代―8090代…。沖縄のおとなたちはいまやほとんどなまりのない「やまとぐち」「共通語」を駆使し、復帰後に生まれた世代にはうちなーぐちを話すことができない人も少なくない。オジーやおばーの言葉を聴くことはできても自分では話せない。そんな世代にもう一度うちなーぐちを取り戻そう、ということのようです。

「沖縄的なものは沖縄的でいいじゃないか」。方言には方言でしか表せない思いや表象もある。

沖縄的な慣習もそれ自体で、ひとまずはそれでいい。変えるにしても本土のシステムや制度・慣習にあわせることはない。

沖縄の中でも、色んな違いや共感の差異も大きいという。地理的や歴史的にもそれぞれの生活史でも、矛盾はもちろんある。

そんな動きも保守の中からも生まれてきた、と。

もともと基地撤去も辺野古も、沖縄を主語にすれば、「なんでそんなものを沖縄に押し付けるのか」「なんで沖縄だけに」は揺るがせにできない問題です。そして「沖縄のことは沖縄に決めさせろ」ということは叫びに近い問題です。

そんな思いや声・動きが「保守」の中からようやく声になり形になってでてきたことは大事だ。それはそれで「保守自身」が問うことでもあり、たんに「革新に移り替われ」という問題でもない。

単なるエピソードや「面白話」に終わらせず、保革あいまっての地殻変動ともいえる動きをしっかりと見つめていきたいと思う。

 

白土 現状の辺野古の厳しさでどうしても論点が絞られて、運動の側からは表に出しずらいことでもある?もちろん語られてはいるが、本土側にゆとりがないのかもしれない。

横須賀 なるほどね。「イデオロギーからアイデンティティへ」とは、沖縄的なものの再発見や再創造という意味や思いもあるということなのか?

 「キャラウェイ王朝」との闘いや復帰闘争以来、基地や対本土の関係で政党の対立や分断が固定化され、保守も革新も2極化・系列化してきたことを「イデオロギー対立」というとしたら、「アイデンティティ」とはもっと多くの広い課題を改めて見つめ直すことでもあるのかもしれない。それは本土側でも似たような問題でもありそうだ。

横須賀 それにしても沖縄と本土の「温度差」はあまりにも大きい。大きな米軍基地を抱える横須賀では「米軍のコロナ」も日常の会話になる。となりの横浜では話題にするにもハードルがある。沖縄の放送も新聞も日常の中で基地がある。これも「構造的な問題」でもあり「構造的差別」の一端だ。やはり沖縄を見据えること、身近に感じることで見えてくる問題は少なくない、小さくない。本土の人間にとっては「本土問題」「自分の身の回り問題」いいかえれば「本土内の問題」でもありそうだ。

  読んでいる限りでは、 OHanlonさんの「解放革命」とは独立論の一種だとも思える。けれど片言隻句だけで、批判されることを恐れて、豊かに語ろうとしない。やっぱり中核派=中央派そのものの論理や発想の一変形の姿ですね。中央派か革マル派? OHanlonさんに聞きたいのは、そんな、人口の半数に近い「保守」を突き跳ねて「労働者階級」や「人民」だけの「独立」論などあるのか?ということですね。もちろん沖縄内の格差や差別ももちろん無視できない。

 

「設計変更」問題も

  「承認撤回」から県民投票、そして今、設計変更問題が県政と政府の激突点のひとつになっている。

 それは知事選勝利の大きな地平だ。安倍政治が「法の枠組み」をあまりに踏みにじってきたとはいえ、「だから無駄」という話ではない。今回はここでまとめることにしたいが、あらためてそのことは確認しておきたい。

 安倍の退陣と遠くない衆議院の解散、そしてコロナ対応での玉城県政と県民生活の現状、それらをめぐってもいろんな火種がある。ま、アメリカ大統領選挙のゆくえも気になる。

ただそれらは別の機会にしたい。

白土 次回は、読者や友人からのコメントをアップしてふくらましていこう。

スマホだとコメントが読めないという話がありました。
記事の右上辺りに四角があります。そこをクリックしてください。
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