2025年08月

 以下、元解放の視点からの「なぜ?」

3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?

彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。

 それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
 この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
 1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
 
 都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
 そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
 当時の新左イメージ 2翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。

そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。


 大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。(法政大学 1970年)



4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。

(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは171年6月明治公園での全国反戦主催沖縄闘争集会における中核派解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
 そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
 このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。 

 

<ここに至る若干の経緯>

1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
 議題は、10・8の総指揮者について10・8の闘争戦術について。
 以上二点である。

 だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
 全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A(秋山)、Y(吉葉)を迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。

 この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
  ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。

2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
 「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。

 解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。

3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。        それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
 法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
 こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
 そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
 そして、中核派政治局(S.=清水,H=本多,K=●●)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。

 この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。

 10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
 かくして、三派全学連の分裂は確定した。


気が付くとずいぶん長い間、更新できていません。
さらにまた、「グーブログ閉鎖の予告」がお知らせとして届いていました。
11月にはこのブログも閉鎖になるのだとのことです。

今から準備をしないと消えたままになりそう。
再開する場合にはやはり『狂おしく悩ましく』のタイトルで立ち上げるつもりなのでよろしくお願いいたします。https://hatena.blogと『狂おしく悩ましく』の二つで検索してください。
ただ、前回の引越しの時にも、大事ないくつかが欠落してしまいました。今度はそんなことがないことを願うばかりです。

この間はおおむね中央派をメインとして『中核派ウオッチング』に特化してきましたが、最後のひと踏ん張りとしてはやはり、69年「最初の内ゲバ死」の一つでもある埼玉大学での滝沢紀昭さんの死に関わる「下大久保事件」をまとめておきたいと思います。

結局、私が「真正の中核派」になり切れなかったのも、一つにはこの事件そのものを抱えていたからでもありました。
「正義の戦争はあるのか?」……「正しい戦争の仕方」……正しい戦争の中の不正義や不条理。
普遍や全体がどうであれ、個別や特殊ではまた別だという「現実」。それらを糺すことは同時的にはたぶんできない。なぜなら、神や仏はいないから。

で、私なりに応えにならない答えを求めておきたいと思います。
しばらくはウォッチングも交えて、終章へとひと踏ん張りします。





 
 
【ブログ注】あおざかなの買物日記(goo版備忘録 から引用 
 直接は元中核派系の障害者解放闘争の話です。
『障害者』固有の闘い方や、ペースをキーワードに語られています。けれど同時に、70年代初期の諸問題を語っていて、示唆に富む。


……… ……… ………

趣味的に読む本じゃないかもだけど

2006年06月04日 00時13分53秒 | memo
 楠敏雄「『障害者』解放とは何か」を読んで、今の自分の立場でまず反応してしまうのは当時の中核に対する指摘である。
 もちろん「趣味的」によまれるべき本では決してないと思っているが、、。

楠敏雄『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きる ...



「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」
「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」
「組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました」
「ところが、71年12月に起きた革マル派による中核派の2名のメンバーへの非道な虐殺と、72年5月の沖縄闘争における『敗北』は、中核派の危機感とあせりを強めることとなり、大衆運動に対する方針を急激に転換することとなりました。すなわち、72年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争については一応中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、『障害者』への日常的働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。また、『障害者解放戦線も革マルセン滅をかかげるべきだ』とか『白ヘルメットをかぶって中核派の集会に結集すべきだ』といった主張にみられるように、教条的セクト的対応をも強めてきました。さらに、情報の手段や、学習の機会を奪われている『障害者』に対して、基本的な学習を保障せず(他の党派の内容との違い、およびさまざまな組織の内容も含めて)ひたすら彼らの機関紙『前進』の読み合わせをさせるのみだったのです」(26ページから28ページ)
「『障害者』の圧倒的多数は、新左翼運動はおろか、政治からも、教育からもあらゆる情報からさえ遮断されて、家の片隅や施設に隔離されていることはすでに何度も確認されてきたはずです。にもかかわらず、このことの持つ重さについて、中核派をはじめとするほとんどの新左翼党派も、そして私たちすらも正しく把握しきれてはいませんでした。そして、それがゆえに『「障害者」のペース』という言葉の意味を理解しきれず、『障害者』解放運動の独自の発展を無視したり、妨げたりしてきたのです。」
「私たちは、いついかなる闘いにおいても、まず何よりも『障害者』大衆と共に闘い、互いの発展をかちとり得るような闘いをするべきだと考えています。したがってそこでは、当然『障害者』固有の闘い方や、ペースが要求されるでしょうし、言葉一つにしても常に点検されねばならないのは当然といえるでしょう。」
 「彼らがこうした『障害者』との日常的な関係作りを軽視して、政治課題を最優先させるといった方針は断じて認めるわけにはいかなかったし、現在もなお認めるわけにはいかないのです。彼らは私たちに対し『政治闘争と大衆闘争を対立させる』と批判していますが、むしろその批判は彼らにこそピッタリと当てはまるといえるでしょう」
 「レーニンは、その著『共産主義における左翼小児病』や『何をなすべきか』において党が大衆運動を抱え込んだり、教条主義を持ち込んだりすることを厳しくいましめています。自らレーニン主義者たることを自称する中核派は、自分たちに都合のよいところしか目に入らないようです。72年5月以後の中核派の私たちに対する対応は、まさにセクト主義そのものに他なりません。先にも述べたように、関西『障害者』解放委員会の大衆組織としての確認を無視してひたすら中核派に従属することを迫り、それが通らぬと知るや自分たちの地位を利用して何人かを抱え込んで、さっさとわが組織から逃亡して、私たちと同じ名前を名乗る。これがかりにも『前衛党』と自称する者のなすべき対応でしょうか。さらに、自ら情報を得ることを奪われてきた『障害者』に対し基礎的学習すら保障せずに自分たちの路線のみを一方的に教え込んだり、『施設で園生をいじめる職員は革マルのようなものだ、だから革マルセン滅だ」などと提起するに至っては利用主義そのものであり、差別的対応といわざるをえません」(52ページから53ページ)

長く引用したが、いまだに生き続けている批判ではないか?
そのわずか1年半前(70年10月26日)には中核派は「入管闘争の中間的総括」を発表している。せっかく「内乱と武装の論理」に掲載されているからせめて繰り返し読まれるべきだと思う。
というか、「現役」のときにこの「中間的総括」をもっと読んでいなければならなかった。

楠敏雄 - Wikipedia


【ブログ注】『前進』編集局にいたこともあって、初期の「障解委」メンバーとの付き合いも少なくは無かった。70年か71年か?社会福祉事業大学の障害者解放運動に関わる多くの学生たちが、革共同集会に参加したという。そのほとんどはマル学同にも加盟していない人々だったが、参加者の発言として?「中核派は障がい者解放に不十分だ」という趣旨の発言をしたのだそうだ。
 批判に応えて北小路敏さんが登壇して、「その通りだ。出来る事なら中核派の一員として内部から変えて欲しい」というような演説をしたのだそうな。
 その演説に応えて社事大生などが大量に中核派に加盟した。障解委の東日本の母体と言えそうだ。
  
 ただ、私が本社編集局に移った78年、その初期の障解委メンバーたちは多くが、「戦線=部署」を移行していた。ある人は、『障がい者』の自立支援、
「自立のための個人経営」の支援に力を注いでいたが、「任務」の都合にかまけている間に破綻してしまっていた。その後のメンバーの心の崩壊は目も当てられなかった。あえて自分を痛める場所で、いたぶられ続けることで長く生きた。ようやく人として立ち直ったのは、私の知らない場所だった。

  あえて言えば、この「固有のペース」や「固有の闘い方」は、いつでもどこでも、あまりにもあたり前のこと。普遍的なことでしょう。
 「不揃いのリンゴたち」というタイトルが新鮮だったのは、私達が大人になる過程、あるいは「組織者になる過程」で後ろに押しやり、忘れていたたもろもろを再び三度突き付けられておたおたしたというに過ぎない気もします。もちろん、対革マル戦争の軋みが破滅的なほど大きかったということも欠かせませんが。

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