以下、元解放の視点からの「なぜ?」
3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?
彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。
それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
当時の新左イメージ 2翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等―これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。
そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。
大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。(法政大学 1970年)
4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。
(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは1971年6月明治公園での全国反戦主催―沖縄闘争集会における中核派―解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。
<ここに至る若干の経緯>
1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
議題は、①10・8の総指揮者について②10・8の闘争戦術について。
以上二点である。
だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A(秋山)、Y(吉葉)を迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。
この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。
2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者―解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った㋑。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった㋺。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴る㋩ということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致㊁され、リンチされるという事態に発展した。
解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。
3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。 それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
そして、中核派政治局(S.T=清水,H=本多,K=●●)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。
この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。
10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
かくして、三派全学連の分裂は確定した。