【ブログ注】その後の『前進』とその評価の一端を色々と。
事件から2年後、『前進』紙上で、元埼大生の追悼文が掲載された。
たぶんこの頃は「『前進』経営局長」。もしかしたらまだ、対革マル戦争の「軍団長」??
いわば「有名人」 でもある。……… ……… ………
『前進』552号 71年9月20日号 4面左肩 7段分
故滝沢紀昭同志追悼
遺志をうけつぎ、日本革命の成就にむけてまい進する ○○‘△△
9月18日、埼玉大学の同志滝沢紀昭が白色テロルに斃れてから2年目をむかえた。
生前の彼と数年間たたかいをともにした○○△△氏(元埼玉大生・元全学連書記次長)の追悼文を掲載します。(編集局)
【ブログ注】追悼文の流れを示すために、各段落の導入を残して、不要な部分を削除した。
同志滝沢紀昭が憎むべき反革命集団によって殺害されてから、ちょうど2年経つ。
彼の面影の中で…
私は、65年に彼が入学して以降2年半埼大において活動を共にし、…
突然、暗闇に乗じた襲撃を受け、…。彼は死体となって肉親に対面した時、彼の身は国家権力の思いのままに解剖によって切り裂かれ、得手勝手な死因発表まで終わっていたのであったi。…
同志滝沢は、緊張みなぎる階級闘争の戦場において殺害iiされた。…
同志滝沢は、埼大における革命的学生運動の防衛・純化・発展のために尽くした点で、おそらく最大の功労を果たした人間である。…
また、「埼大反戦連合」を名のる反革命的脱落分子iiiを中心とする腐敗的徒党とも戦い続けていた。…革命的学生運動の純化のために力をつくした。
同志滝沢よ、君の文字通りの死闘によって、遂に今日では、「反戦連合」なる不敗分子は、完全に消え去っている。iv…
(筆者は埼玉大学教育学部出身。元全学連書記次長)
(滝沢)略歴 (略)69年9月18日未明、芝工大…内にて仮眠中、テロ集団により襲撃され、虐殺される。享年25。
ありし日を偲ぶ 長野 実家で3回忌 (追悼文の中のコラム記事の形で)
…埼玉大学の親しい友人、同級生、先輩に加えて、革共運動を代表して北小路敏、全学連委員長松尾真の両同志も参列して、ありし日の同志滝沢を偲んだ。……… ……… ………
【追悼文の脚注】
i 得手勝手な死因発表 権力を弾劾するのはこの辺だけ。全文を通して「権力の謀略」論は消えている。
ii 階級闘争の戦場において殺害 上に同じ。
iii 埼大反戦連合を名のる反革命的脱落分子 初めてこの名が現れる?70年1月には「小野田譲二一派」など?
中核派はかつてから敵対党派は正式名称を付さない「伝統」がある。結果、知らない人には誰のことかが分からない。この場合は、
①70年末からの「反戦連合」の一斉逮捕・起訴があり、事実上、消滅したことも。
②ただ、芝工大に突入して逮捕されたのは、前述したように、埼大の反日共系諸勢力ほぼすべて。彼らはもちろん「反戦連合」ではない。
iv「反戦連合」なる不敗分子は、完全に消え去っている。 上に同じ。…「弾圧万歳⁉」。日共の「トロツキストの泳がせ」論を想起するのはわたしだけ? それとも「10・8世代」「70年世代」だけ?
*** 結局のところ、「権力の大謀略」論は音もなく封印された。読者や支持者にも説明もなく、いつの間にか…。
芝工大事件の被告たちには「テロ宣言」を布告したまま、そ知らぬふりだ。
私自身はというと、やはりこの文章も読んだ記憶がない。
すでに、70年10月には保釈出獄していて、「身元保証人」の埼大教授宅での生活を経て、横浜で働いていた頃。寿でバイト⇒ガソリンスタンド⇒こん包屋➡非破壊検査の仕事をしていた頃だ。
もしかしたら水戸の原発・実証炉に1か月、民宿に泊まり込んでいた頃かも。
いちおう神奈川県党には属していたが、好き好んで民間中小の現場作業をしていた。
そんな時はもちろん? 『前進』など読んでない。
……… ……… ………
本社での会話
78年の春か夏に、私は前進社本社に異動した。
数日後に廊下で、埼大のM先輩(故人)に会い、彼の「個室」に呼び込まれた。
後に?東京地方委員長になったひとだ。
「**とは会っているのか?」「うん、会ってるよ」「ふーん」
「**とはいろいろ有ったけど、どうしてるかな? 一度、ゆっくり会って話してみたいな」
「ははっ、相手が会わねえだろ!」
本社では最初で最後の会話だった。
この時にもう少し話し込んでいたら、芝工大事件の「公的な評価」の内実も分かったのかもしれない。
話次第で、その後の私の心も身の振りも、変わっていたのかも、とも思う。
**とは、私が入学した時の埼大マル学同支部の委員長。M先輩とは同期。69年初期に、マル学同書記局から離れて一時期、埼大の指導にも関与。4-5月以降、反戦連合と埼大中核派の対立が日ごとに激化する中では、両者の緩衝材・調停者としてかかわった。芝工大事件では、その立ち位置は変わらず、学内に残された中核派を「かばい」、「拉致被害者の救出」計画にも関与した。
いずれにせよ、いま思えば、「権力にカネをもらって手先になった腐敗分子論」「権力に指示されて襲撃した」論もまた、公式的には行き残り、非公式には絵空事=空論として、それぞれの中で処理されたのかと思う。前述のように、新左翼系諸党派や関連団体でも、ほぼ例外なく、「内ゲバ」扱いだ。
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【ブログ注】逆順になりますが、資料として
糟谷人民葬
69年11月決戦でも「権力の虐殺」 糟谷君 『前進』 11月17日付け
13日夕、大坂で佐藤訪米阻止の行動に決起した学生、岡山大学文学部Ⅱ回生、プロ学同の活動家糟谷孝幸君(21才)は機動隊の打ちふるった警棒を頭に受けて重傷を負い、14日午後大阪市行岡脳外科病院で死去した。…。
樺、山崎、滝沢、津本同志に続いてまたも学生を虐殺した国家権力に対し、…(略)
【ブログ注】13日は㈭。羽田=蒲田の前段? プロ学同(共労党)他が、独自の位置づけで闘った。
ここでは、「権力の虐殺」論にピントを合わせた。
右翼・体育会による虐殺では、日大・中村君他がいるが記事では無視されている。
つまりこの時点の『前進』記事では、明示の形で滝沢さんの死は、正真正銘の「権力の手による直接の虐殺」論。
【参考】中村克己君は、1970年2月25日、日大全共闘文理学部闘争委員会の仲間とともに駅前で日大闘争のビラを配布中に、体育会系右翼集団から襲撃され、頭部の重傷により3月2日に亡くなった。享年22歳だった。