2026年04月

習近平の対米パンダ外交から見えてくるイラン情勢

【ブログ注】アメリカ中心の記事や論評が多い中で、中国問題に足場を置いた論考はとても参考になります。青文字は原文のまま。関連記事にリンクしています。
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 習近平国家主席がやっと動いた。

習近平は、友好国イランを米イスラエルに攻撃されて、トランプ大統領を北京に迎えることが困難になっていた。しかし今パンダ2頭をアメリカに貸与することになったということは、トランプを北京に迎えても大丈夫な状況が見通せたということではないのか?それはすなわち、イラン情勢が好転することを習近平がつかんでいるということを意味する可能性が高い。

◆表立って動かなかった習近平が対米パンダ外交に

イラン攻撃が始まったその日から、習近平は王毅(外交部長兼中共中央政治局委員)に全ての中東関係国と接触させ、ひたすら即時停戦を呼び掛けさせてきた。何と言ってもトランプ訪中が約束されていた中で突然、中国の友好国イランが攻撃されたのである。

本来なら友好国イランを守りたいところだが、昨年まで続いてきたトランプとの「蜜月」を壊すことはできない。だから習近平は全ての関係国に即時停戦を求めるよう王毅を動かししたが、トランプを表立って批判することはしていない。

その板挟みから、4月9日の論考<トランプ「中国がイランを停戦交渉の場に引き込んだ」 習近平の思惑は?>に書いたように、停戦仲介という大きな仕事をしながら、「中国に功労があったわけではない」という種類の、それを否定するような事さえ、その後中国では発信する者が現れている。

しかしここに来て、突如、アメリカにパンダを2頭貸与することを決定したのは、イラン情勢に好転がみられていることを把握しているからではないのだろうか。イラン情勢の内部事情を一番よく知っているのは中国だからだ。

もちろん現在アメリカにいるヤンヤンというパンダがかなり衰弱していて返還の時期も来ているという要素もあるかもしれないが、それにしてもタイミングが絶妙だ。

 

◆イラン代表がパキスタン、オマーンとロシアを歴訪 

何かあると思っていたところ、案の定、4月24日、中国の中央テレビ局CCTVは<イラン外相がイスラマバードとモスクワを歴訪>という見出しの報道をした。それによれば、イランの情報筋として「イランのアラグチ外相は現地時間4月24日夜からイスラマバード、マスカット(オマーンの首都)、モスクワへの歴訪を開始する予定だ」とのこと。

CCTVは同日、<情報筋:アメリカとイランが第二回会談をする見込み>と報道した。しかし、これはあくまでも「見込み」で、その後、アメリカによってもイランによっても否定され、アメリカはウィトコフ代表などが行く予定はあるが、バンス副大統領はワシントンで待機しているというアメリカ側のニュースが流れた。もっとも、アラグチ外相が同日夜にイラン代表団を率いてパキスタン入りする予定だというのは確かなようだ。ここはあくまでも流動的である。

それでもCCTVは同日、<米代表団が明日(4月25日)、イスラマバードに到着するかもしれない>という、パキスタン情報筋の新しい情報を流した。

中国は、兄弟国パキスタンとの関係をますます緊密にしており、4月22日に新華網は<中国の有人宇宙計画への最初の外国人宇宙飛行士の選抜が無事に完了 最終的に2名のパキスタン人候補者が選ばれた>と報道している。天宮宇宙ステーションに外国人が選ばれたのは初めての出来事で、それがパキスタン宇宙飛行士だったというのは注目に値する。

つまり事実上、中国はパキスタンとペアになって動いており、4月9日の論考<トランプ「中国がイランを停戦交渉の場に引き込んだ」 習近平の思惑は?>に書いた事実は真実であった判断していいだろう。

一方、2023年4月6日の論考<脱ドル加速と中国仲介後の中東和解外交雪崩現象>にも書いたように、習近平はイランとサウジアラビアを和解に持ち込み、その後「中東和解雪崩現象」を招いたという実績を持っている。

そのイランが、いくら米イスラエルによる奇襲を受け、ハメネイ師を含む数十名の指導層をいきなり爆殺されたからと言って、米軍基地のあるすべての中東諸国を爆撃したというのは、習近平にとっては、この上なく頭が痛いことだったにちがいない。

しかし、イランに攻撃を受けた中東諸国が、イランに対して怒ってはいても「米イスラエルが、オマーンが仲介してイランとアメリカの和平交渉をしている最中に、突如イラン爆撃を始めた」ということに対する憤りの方が大きいという事実には注目しなければならない。

中東の平和を乱したアメリカに強い憤りを持ち、常にイスラム国家を破壊しようとするイスラエルのネタニエフ首相を「絶対に許さない」という、激しい怒りをイスラム国家として抱いているということは重要だ。

 

◆中東イスラム諸国8人の外相が「イスラエルに非難声明」

現に、4月24日には、中東イスラム国家<8人の外相が共同声明を発表し、イスラエルのアル=アクサー・モスクへの入植者侵攻を非難した>とCCTVは報道している。

アル=アクサー・モスクというのはエルサレム旧市街の「神殿の丘」と呼ばれる聖域の南にあるモスクで、イスラム最初期に建てられたモスクの一つである。当初はイスラム教の最高聖地だったが、立地がイスラエルの実行支配下にあるが、管理はイスラム国であるヨルダン宗教省が行っている。
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【ブログ注】事件の前後の諸問題は別途。先ずは、前夜の襲撃と未明の転落死までに絞る。

            その実像だけでも長いので、冒頭部分や一部を除いて、ひとまずはその「目次」だけにする。

            赤字はくり返し出てくる名前の索引替わり。

            今回は調書の正確な引用をせず、要旨のみ書いた。
★★私事だが、体調不良と技術上の問題で、全体像と詳細を分かりやすく論ずる力が無い。
で、ひとまずはこれをアップして、おいおいより充実した中身にしたい。
一部では訂正も必要になるかもしれないが、大枠は抑えた。

 

【1】     前夜の襲撃(79年9月17日夜)

㋑この日は後期期末試験の最中だったらしい。

北浦和の文理キャンパスのバリケード封鎖を受けて、大学当局は当初の下大久保キャンパスへの全面移転計画をさらに前倒しにし、2年生はもちろん、ほとんどの学部学生たちも下大久保キャンパスに移っていた、らしい。以下はほぼすべて、文理キャンパスでの話。(北浦和キャンパス・常盤キャンパスともいう)。ほかに下大久保キャンパスと、経済学部キャンパスがある。

 

㋺経闘委部屋の襲撃

事件のあった「経闘委部屋」(教養部長室=事務棟)では、この夜、広義の反戦連合などのメンバーが数人、テレビを見ながら談笑していた。バリケード封鎖した本部棟にはここしかテレビが無いので自然とみんなが集まる場所になっていた。

夜の21時頃か?「56人」とされるメンバーがこの部屋を急襲した。

「見慣れないヘルメット」と角材や鉄パイプで、脅しをかけるが、初めは「悪質な冗談」かと思ったが、じきに「襲撃」を体感した。侵入者が殴りかかった。

テレビの画面を鉄パイプで突き破り、

○○はいるか?」「××はいるか」と糾問する。

それぞれの名は、反戦連合のリーダーやリーダー格とみられる学生の名前だった。

 

リーダーの重尾氏は、とっさに2階の窓から飛び降りた。ズデンドウとモンドリ撃ったがなんとか立ち直った。重尾氏は元埼大中核派キャップ。民青執行部を打倒して、自治委員総会で全学執行委員会の委員長になり、副委員長の私とタッグを組んだこともある。

リーダー格の武闘派君は、「お前は誰だ。名前を言え」という糾問に「オレは○○」と偽名で応じたが、自分が狙われていることを知って、重尾氏に続いて2階の窓から樋に伝って、するすると脱出し、下に降りた。

同じくリーダー格の教養学部委員長の反スタ君は、偽名を答えて誤魔化した。彼は私と同学年だが、中でも最初にマル学同に加盟した人物だ。

 

「経闘委部屋が襲われたらしい」という報に、学内にいて駆け付けたやはりリーダー格の東大全共闘君(以下東大君)は部屋の外の見張りに「お前は誰だ」と問われて「東大だ」と答えて、「お前が東大か」と部屋の中に連れ込まれた。

東大君は先に名前をあげられた一人だった。

 

同じ階の別室で仮眠していた、直近まで中核派だった離脱君は襲撃と見張りを見て、あわてて向かいの文理3番棟に逃げた。

 

㊁この時、文理キャンパスには6人くらいの埼大中核派メンバーも居たが事態は知らずだ。うち4人は理工学部。

 

㋭その一人のの免許証君はノンセクトの黒ヘル君と中庭にいた。事務棟と文理3番棟のあいだの中庭で、バリケードのゴミなどを燃やしながら焚火に当たり、雑談していたらしい。

 

㋬早稲田革マルの偽装?

 

㋣東大君の拉致

 

【2】】深夜の緊急集合

 

1時間後の22時頃には、事態を知った学生たちが駆けつけてきた。30人から40人ほど。

埼大生たちは、襲撃者が去った後、活動家や元活動家などの下宿を訪ねて事態を知らせた。喫茶店では会議をしていた東大闘争の被告団10人ほどが話を聞いて駆けつけた。何人かが「内ゲバ」に嫌気がさして消えた。ほかの数人がやはり数か所の下宿を訪ねた。

 22時頃には経闘委部屋に数人が、0時頃(1時?)には30人か40人ほどが集まってきた。この時点では襲撃者は、民青かどこかの右翼か?という推論があった。「早稲田の革マル派」を疑う声も強くあった。ごく一部には「中核派も疑わしい」という声もあった。

負傷者たちに同行して深夜に近くの診療所に行く人もいた。

 

㋷「中核派による襲撃」が明るみに

   2階の窓から飛び降りた重尾氏が戻ってきて、「中核派説」が確定した。

   

彼が飛び降りた時、暗闇の中から滝沢紀昭さんが飛び出してきて襲い掛かり、数百約メートルにわたって、叫びながら追いすがったという。

この直前、異常を感じた黒ヘル君が焚火から離れて駆けつけると、滝沢さんに「捕まえろ」と指示されて、抱き着いた相手が旧知の重尾氏だったので、あわてて離した、という。

ただ彼は、「中核派の襲撃」と知って免許証君ほかに「襲ったのは中核だ」と言い捨てて憤然としてキャンパスから帰ってしまった。結果としては中核派以外には話は伝わらずにいた。

 

ただ、すでに、東大君の拉致の事実は知れ渡っていて、「救出」が喫緊の共通の課題になっていた。

 

深夜0時頃(1時頃?)には事務棟と文理3番棟の間の中庭には埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループの全てが集まっていた。

 

㋦埼大中核派が各々「自己批判書」

 

【3】東大君の奪還工作

㋸現役中核派の責任者が前進社に工作電話

㋾「拉致・監禁は芝工大か?」

㋻現役の免許証君が芝工大に

経済学部キャンパスで待ち伏せ工作

㋕免許君たちの責任感

 

【4】未明の芝工大突入

㋵「埼大の全勢力」が救出に突入

㋵❷滝沢さんの転落死と他大学中核派3人の転落・重傷

㋟前進社での幹部による「指導」=「権力責任」説

㋹突入当事者たちが、当夜の通夜と翌日の「全学葬」

 

【5】下大久保キャンパスでの追悼集会と陶山氏の発言

㋞陶山健一氏の追悼発言

㋡埼大中核派

 

【6】転落した4人の学生

㋧死亡した滝沢さん以外の3人。慶大生は記憶喪失。都立大生は1215日に逮捕。芝工大生は「行方不明」

 

【7】12月、一連の一斉逮捕

㋤超広義の「反戦連合」(埼大の反日共系全勢力)の一斉逮捕

㋶関連する中核派の逮捕も

㋰マスコミの報道と『前進』

㋒裁判とその結果――被告たちのその後

 

【8】仮の結論

㋼もし、拉致事件が無かったら?

㋨生死の分かれ目。 もし、未明で無かったら???

 もし、未明で無かったら? もし、下がコンクリートでなかったら? もし、 もし、 もし、

㋔「権力の大謀略」論という世界とは?

㋗その後の「広大、勝共の謀略」論、ほか

https://yuigadokuson999.livedoor.blog/archives/316173.html
【以上】

★★その後の『前進』は「腐敗分子の意図的虐殺」論
 その後の『前進』 追悼文は「腐敗分子による意図的虐殺」論を踏襲して10年近く続いて、やがて終わった。
 78年に私が『前進』編集局に移行して以来、「滝沢紀昭同志追悼」記事は毎年9月に掲載された。
 筆者は毎回持ち回りで、ほぼ「元埼大生」。
 私を除いてほぼすべての人が書いていた。
 改めて検証しても、事件の69年以来、私の「追悼・哀悼」の文は一つも無い。
 
★「湯本外し」と私の沈黙
 記事を点検し、印刷まで校正する「面担」からも、私は問題なく外されていた。私自身は「ほっとした」。そして沈黙し続けた。当時の編集局長は水谷氏。
 【注】「面担」=紙面の各面の担当者。LCが交代して務める各号の総括指導のもとで原稿の校正な面割の責任を持つ。

 後に私が本社を去る時の「送別会」の席で、こっそりと「湯本をEB(編集局)に呼んだのは俺だって知ってた?」と水谷氏。私の革共同への加盟書も読んだ、という。
 「加盟書」は、埼大から神奈川に移行した時に書き、梶さん(のちに除名)に提出したもの。芝工大事件が前夜の中核派による襲撃によって起こったものとする事実認識と、「意図的虐殺」を否定したはずだ。
 さらに、学内政治での反戦連合との関係を「彼らに主導権を渡しても良かったのかも」と総括したものだ。ただこの文章ではたぶん、反戦連合メンバーの前夜の拉致とその救出のための芝工大への突入という重要な事実が認識されていたかは不明。

 とはいえ水谷氏も、M先輩(その後、東京都委員長)も、一定の事実関係を知っていたのだ。事件の2年後の「追悼文」が「権力の大謀略論」を変化させたのも、何か関連が有るのかもしれない。(水谷氏は事件当時は獄中)
 ただ、今ではその加盟書の全体の流れや個々の「想い」はリアルには思い出せない。対革マル戦争の日々や、その後の日々が、私の記憶や想いをも上書きしている。

 編集局長は、水谷氏がその後に下獄した期間を除いて、岩本・藤掛氏(学者さん)がショートリリーフで担ったこともある。その指導は、「キャップの無限の裁量権」を感じさせる。それが「中核派の中核派たる所以」。

★M先輩の声かけ
 78年に前進社に移籍してほどなくだと思う。前進社の中でM先輩とすれ違った。
 「おう、元気か?」というようなあいさつの後、「ちょっと話さないか?」と先輩の「個室」に呼び込まれた。
 「✖✖と会っているそうだな」「うん、会っているよ」。
 思わず身構えた私に「いろいろ有ったけど、もう一度会いたいな」。私、「??」
 「一度ゆっくり会いたいな」「…」
 「ふん、相手が断るだけだ!」。私は部屋を出た。
 この時私がもう少し話に応じていたら、その後の何かが変わったのかもしれない。

 けれども、この前後も、「権力に金をもらった腐敗分子による意図的虐殺」論は変わってはいない。

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