2026年07月

 

No112  「週刊読売臨時増刊号」各党派インタビュー  中核派

[ブログ註]「謀略論の世界」について深めたいと思いつつ、行き悩んで時間が過ぎていきます。正直、私の手に負えない。

 「閑話休題」の意も込めて、『野次馬雑記』から引用して、ひとまずは、少し幅を広げます。
 当時の中核派の「11月決戦」論とはどんなものだったのか?

 (その実態は?結果は?) 実は、このブログの究極の本題でもあるけれど、じっさいの課題ではない。以下引用。  … … … …    … … … …
 

野次馬雑記(引用元)

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。
 
 No10919691113日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。

1回目は中核派。

写真は友人のK氏が持っているマル学同中核派法大支部の「中核旗」。
 K氏は反戦高協と行動を共にしていたので、68年後半から69年頃のものと思われる。赤旗に黒マジックで「中核」の文字。
 時間が無い時は、このようにマジックで旗に文字を書いていた記憶があるが、街頭闘争で使ったものか?


 … … … …    … … … …
[ブログ註]改めて、当時の主張を読むと、改めて度肝を抜かれる思いがする。今回の「芝工大事件」「その謀略論の世界」、を検証するには…。ま、とにかく、読んで欲しい。歴史の大きな一齣だ。

(中略)は元のブログによる。

【勝利の展望は、機動隊の粉砕から】
週刊読売 
1969.11.13臨時増刊号(引用)
  [ブログ註] 今回の場合は「発行日」=発売日らしい。

『全学連中核派副委員長 林 信次(横浜国立大)

<まず70年安保を、どういうふうに、なんのために闘わなければならないか>

はっきりいえば、革命のために闘う。(中略)革命というものは帝国主義あるいは資本主義そのものの生み出す矛盾が人民の耐えられないところまできたときに、人民そのものが不満と怒りをその権力者に対して向けるときに起こる。

そういったものを社会主義の方向にいかに導いていくのかが問われるわけで、それをぼくらが、あるいは組織というものがになわなければならない。

この原則に基づいて安保粉砕の闘いを70年あるいは70年代においてやろうというわけだ。(中略)

<中核派の幹部としてあなたに聞きたいが、安保粉砕に追い込む見込みと、その時期について>
 おそらくは、70年代の階級闘争というのは安保粉砕、日本帝国主義打倒を掲げて闘われるだろう。そして、その安保が粉砕できたら日本帝国主義は倒れる。
 となると70年代の全闘争に新たな地平を切り開くであろう11月闘争のいかんにかかっているとしかいえない。

<すると11月の佐藤訪米阻止闘争が重要になってくるのか?>
(中略)10月非常時体制が敷かれている。(中略)全国十何万、東京で二万五千、防犯部、刑事部の私服刑事をすべて公安刑事として登用するというふうにして、われわれを押さえつけようとしている。(中略)
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月非常時体制、この新しい統治形態の過程を打ち破るかどうかによって、70年、あるいは70年代は決まるというふうに見ていいだろう。
 そういった意味で11月佐藤訪米阻止闘争こそはきわめて歴史的な意味をもった決戦であると思う。(中略)

<民衆のエネルギーの爆発がなければ、革命は達成されないと思うが、具体的に中核派としてそれをどういうふうに動員していくのか?>
(中略)組織というのは目的を追求するけど、大衆は勝てないと思ったらやらない。いまの大学闘争についても若干いえると思うが、かって大学治安立法といえば1万人近い人数が東京だけでも集まっていた。

 それが最近少なくなっている。それはなぜか。

 機動隊万能主義というものにぼくらが十分にまだ打ち勝っていない。あんなに機動隊が出てはもう大学闘争に勝てないんじゃないか、ということが一つの問題になって伸び悩んでいる。
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月にぼくらが機動隊を一部において、できれば全部においても粉砕できるかのどうか、やはり国家権力の暴力と、われわれの暴力との対決になっている機構を知っておく必要があると思う。打ち破らなければ勝てはしない。(中略)

 やはり機動隊をいかに粉砕できるか、しかもそれが機動隊粉砕の闘いと同時に、その方向性は沖縄奪還であり、安保粉砕、日帝打倒であることを全体にしみわたらせようということだ。

 やっぱり大衆に勝つという展望を与えてやる必要がある。それはぼくらが一部分でも機動隊を粉砕すれば、大衆は「勝てるじゃないか」という気がする。
 必ず後からついてくる。(中略)

[ブログ註] ウーン!「決戦前夜」の高揚感は伝わる。「わき目も振らず真っ向勝負」「武装闘争一直線」。「その頂点的戦い」

ただ、今回のテーマから見ると、「わき腹を衝く謀略」への配置は見えない。反戦(労働者)の決起の持つ意味も欠けている。ま、「中略」部分もあるが…。また、学生の任務と党の配置の違いかもしれない。
 別な側面から言えば「前衛・ボルシェビズム・選ばれたる者がすべて」観も絶頂に。
 たぶん私も東拘の中で読んだのだろうと思うが。

参考までに以下。

10.21国際反戦デー闘争 (1969) - Wikipedia

1969年の 10.21国際反戦デー闘争 10.21こくさいはんせんデーとうそう)は、 1969 1021 東京都 新宿区 を中心に発生した 日本の新左翼 暴動 事件。 国際反戦デー にあたるこの日、新左翼各派は前年の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)に続き大規

佐藤首相訪米阻止闘争 - Wikipedia

佐藤首相訪米阻止闘争 (さとうしゅしょうほうべいそしとうそう)は、 1969 1116 - 17日に行われた 新左翼 による闘争・事件。 警察官487人、一般人65人を負傷させたほか、学生1人が死亡し、近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、 

 

事件についての主たる訂正・補足部分と要旨

  中核派の拉致事件のターゲットについて。私は「人違い」説だったが、必ずしもそうではない。

  事件の関係者=逮捕者(起訴・不起訴とも)に現役の埼大中核派メンバーが含まれていたこと。

事後対策において、同人の潜伏・逃亡を中核派中央が指導していたこと。

③何よりも、
拉致された反戦連合メンバーの奪還のための議論と行動に、滝沢さんの死亡までは埼大中核派が全体として関与していたこと。
 その結果、「その時私がそこにいたならば、もしかしたら私も芝工大突入し加わり、被告になっていたかもしれない」という想いを抱くようになったこと。いわば天動説から地動説への転換を体感したこと。
  「転落死」に関連するいくつかの事実。(未)

 中核派の「正史」の書き換えを(未)

こんなことを並べてみると、どうしても滝沢さんへの弔意が後回しになってしまう。現役または元中核派の他の人がもっともっと協力してくれれば書き方も全く変わると思うのだが、ここでは止むを得まい。

『前進』 第 2019号 滝沢紀昭」での検索結果

https://www.bing.com/search?q=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&sc=1-4&sk=&cvid=F4A2363FB96A4FE993F456642DA9F7A0

事件の被告・逮捕者

「死闘の」7か月の中で中核派として逮捕・起訴されたメンバーは少なくない。第1次羽田・第2次羽田・王子野戦病院突入・占拠、そして東大安田講堂などだ。ちなみに羽田弁天橋で装甲車の上で革共同の旗を振り回して事後逮捕されたのも、「教養学部」の中核派だった【注1】。

事件の時には芝工大には行かなかったが、少なくとも2人の中核派が関連して逮捕され、事後逮捕・不起訴になった。

    
【注1】教養学部とは、主として1,2年生向けの教養部とは違い、独立した学部。理工系ブームの時代に、理系と文系の垣根を超えた「学際」学部として新たに設立された。

羽田弁天橋の革共同の旗




【注2】10・8羽田弁天橋での装甲車の上に翻る革共同の旗。山崎博昭君の虐殺を弾劾するのは北小路敏氏、川口顕氏、など。さらにもう一人は日大闘争時の日大中核派cap?⇒前進社印刷工場長)。旗を振るの埼大中核派。

北小路さんは失脚し、三里塚で逝去。日大生は離脱、川口さんは離党して近過去(near past) 奥浩平への手紙 (RED ARCHIVES 02)
埼大生は、私の前高の同窓。「ジッパチ羽田」では唯一の事後逮捕、か。「革共同の旗を振った『旗振り罪』」とも言われた。後の芝工大事件の被告。

埼大中核派の行動と立ち位置(補足)

総じて埼大中核派は、滝沢さんが転落死するまでは、救出工作に積極的に関わり、この点に限ってはいわゆる「反戦連合」【注2】に協調・協力的だった。

 

埼大中核派は、反戦連合ほかの諸グループに対しては政治的優位を感じてはいたが、学内政治では孤立に近かった。
 

[補足]
①その場にいた埼大中核派は、襲撃・拉致直後には、襲撃から逃げた2人が負傷して倒れていないかを、「反戦連合」とともに探してもいた。


②中核派メンバーは「芝工大突入」の会合には同席していながら、参加していない。「行こう」の声もかからなかったからーーというのが一因、とも言えそうだ。


 中核派中央の関与は?

前夜17日の埼大バリケードへの「黒ヘルメット」での襲撃への、中核派中央の関与の程度は正確には不明だ。ただ、他大学生の部隊など、学生中央指導部の指導・関与が有ったとみるのが順当だ。


転落した人々は、前夜の襲撃者の一員だったと見るのが順当だ。


また、前夜の襲撃・リンチ・破壊の様態や落ち着いた立ち居振る舞いは、ゲバ慣れを思わせるが定かではない。襲われた人の述懐では、「喧嘩慣れしていない」という感想もあった。

早稲田革マルの偽装?

 その上、この夜、早稲田の革マルに「今夜、埼大と早稲田の反戦連合が襲撃をかける」という予告電話が入っていた、という落ちまである。!!という。

……… ……… ………


その後の私

 

 一度だけ、浦和地検に乗り込んだ。事件の公判資料を読みたかったからだ。資料の閲覧はすぐできたが、中身は全く理解できなかった。あまりにも膨大すぎて、しかも限られた時間の中での閲覧だけ。
 対革マル戦の真っただ中、互いに住民票などの公式資料を閲覧しあっているというマスコミ記事もあった。敵権力のど真ん中で、私自身の緊張感も高かった。たぶん、70年代のなかば。

 
冒頭にあげた諸問題にはここではほとんど応えられなかった。


判決を報じる毎日新聞記事71年12月18日

芝工大 判決記事(処理済み)

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 この時期は、71年11月決戦の直後。71年「12・4反革命」の直後でもある。
 たまたまこの日の社会面の記事には、解放派との内ゲバの記事もある。
 中核派は、「全方位」の内ゲバにあけ暮れていたらしい。
  

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