事件についての主たる訂正・補足部分と要旨
① 中核派の拉致事件のターゲットについて。私は「人違い」説だったが、必ずしもそうではない。
② 事件の関係者=逮捕者(起訴・不起訴とも)に現役の埼大中核派メンバーが含まれていたこと。
事後対策において、同人の潜伏・逃亡を中核派中央が指導していたこと。
③何よりも、拉致された反戦連合メンバーの奪還のための議論と行動に、滝沢さんの死亡までは埼大中核派が全体として関与していたこと。
その結果、「その時私がそこにいたならば、もしかしたら私も芝工大突入し加わり、被告になっていたかもしれない」という想いを抱くようになったこと。いわば天動説から地動説への転換を体感したこと。 「転落死」に関連するいくつかの事実。(未)
④ 中核派の「正史」の書き換えを(未)
こんなことを並べてみると、どうしても滝沢さんへの弔意が後回しになってしまう。現役または元中核派の他の人がもっともっと協力してくれれば書き方も全く変わると思うのだが、ここでは止むを得まい。
『前進』 第 2019号 「滝沢紀昭」での検索結果
https://www.bing.com/search?q=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&sc=1-4&sk=&cvid=F4A2363FB96A4FE993F456642DA9F7A0
事件の被告・逮捕者
「死闘の」7か月の中で中核派として逮捕・起訴されたメンバーは少なくない。第1次羽田・第2次羽田・王子野戦病院突入・占拠、そして東大安田講堂などだ。ちなみに羽田弁天橋で装甲車の上で革共同の旗を振り回して事後逮捕されたのも、「教養学部」の中核派だった【注1】。
事件の時には芝工大には行かなかったが、少なくとも2人の中核派が関連して逮捕され、事後逮捕・不起訴になった。
【注1】教養学部とは、主として1,2年生向けの教養部とは違い、独立した学部。理工系ブームの時代に、理系と文系の垣根を超えた「学際」学部として新たに設立された。
北小路さんは失脚し、三里塚で逝去。日大生は離脱、川口さんは離党して近過去(near past) 奥浩平への手紙 (RED ARCHIVES 02)。
埼大生は、私の前高の同窓。「ジッパチ羽田」では唯一の事後逮捕、か。「革共同の旗を振った『旗振り罪』」とも言われた。後の芝工大事件の被告。
埼大中核派の行動と立ち位置(補足)
総じて埼大中核派は、滝沢さんが転落死するまでは、救出工作に積極的に関わり、この点に限ってはいわゆる「反戦連合」【注2】に協調・協力的だった。
埼大中核派は、反戦連合ほかの諸グループに対しては政治的優位を感じてはいたが、学内政治では孤立に近かった。
[補足]
①その場にいた埼大中核派は、襲撃・拉致直後には、襲撃から逃げた2人が負傷して倒れていないかを、「反戦連合」とともに探してもいた。
②中核派メンバーは「芝工大突入」の会合には同席していながら、参加していない。「行こう」の声もかからなかったからーーというのが一因、とも言えそうだ。
前夜17日の埼大バリケードへの「黒ヘルメット」での襲撃への、中核派中央の関与の程度は正確には不明だ。ただ、他大学生の部隊など、学生中央指導部の指導・関与が有ったとみるのが順当だ。
転落した人々は、前夜の襲撃者の一員だったと見るのが順当だ。
また、前夜の襲撃・リンチ・破壊の様態や落ち着いた立ち居振る舞いは、ゲバ慣れを思わせるが定かではない。襲われた人の述懐では、「喧嘩慣れしていない」という感想もあった。
早稲田革マルの偽装?
その上、この夜、早稲田の革マルに「今夜、埼大と早稲田の反戦連合が襲撃をかける」という予告電話が入っていた、という落ちまである。!!という。
……… ……… ………
その後の私
一度だけ、浦和地検に乗り込んだ。事件の公判資料を読みたかったからだ。資料の閲覧はすぐできたが、中身は全く理解できなかった。あまりにも膨大すぎて、しかも限られた時間の中での閲覧だけ。
対革マル戦の真っただ中、互いに住民票などの公式資料を閲覧しあっているというマスコミ記事もあった。敵権力のど真ん中で、私自身の緊張感も高かった。たぶん、70年代のなかば。
冒頭にあげた諸問題にはここではほとんど応えられなかった。
判決を報じる毎日新聞記事71年12月18日

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この時期は、71年11月決戦の直後。71年「12・4反革命」の直後でもある。
たまたまこの日の社会面の記事には、解放派との内ゲバの記事もある。
中核派は、「全方位」の内ゲバにあけ暮れていたらしい。
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