野次馬雑記

20180511

No492 10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点-

 1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。昨年の10月8日には10・9山﨑博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。

私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。
 この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
 佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。
 この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。
今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。

 

【10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点―】

この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。


<1967年10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死>


 山﨑博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。

だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。
 複雑な気持ちとはなんであろうか。

 60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山﨑博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。

 このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を貶めるものではないと確信している。


 ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。
 この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。
 今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。

 

<10・8前日に起きたこと>

10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも『社青同解放派』)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。
 この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。
 凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。
 ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。
 1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。
 しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。

 

<原因は何だったのか>

1)ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。
 第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。
10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が 重大な焦点となった。
本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。
  【ブログ注】A.K=秋山勝一 A.T=青木忠
 理由は次のようなものであった。
 「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長A(秋山)もそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。
これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。
 大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。
 今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。

 要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。
 この主張が無理筋であることをA、Y(吉葉忠)は認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている)
   
 ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Yと中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかし、A、Yは、最終的には全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。

2)思い起こせば、1966年12月に結成された『(三派)全学連』(全国35大学、71自治会、1800人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。

 ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。
 大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。
だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。
 この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。
【ブログ注】そういえば思い出すのは、分裂が確定した後、中核派中央のビラには「全学連主流派」の発行者名義が着くようになった。「秋山全学連とか全学連(秋山委員長)で充分なのにね??」という感想を語り合ったものだった。私達埼大中核派は、「少数派」であることを誇りにも思う気風もあった。

 これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。この「前衛党建設論」こそが安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった(注。第2次分裂のこと?)。

 だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
 
 ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。
1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった)
 「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う)

 中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。
 後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。

 他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。

【ブログ注】けっこう長いので分割して掲載のつもりでしたが、つごうで変更。
 続きはもともとの『日本の古本屋』でお読みください。

 https://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365869.html