知人から、「しきい値」についての物理学会での議論の一端を転送されました。
そのまま全文載せてみます。
 
「専門家にとって事実とは何か?」という問題でしょうか?
 
元「物理学徒」として感銘深いものがあります。
 
大学闘争のただなかで論議されたそのものであるようにも感じます。ヒロシマ・ナガサキの被爆者にも通じる。
 
「境界領域」「学際研究」という言葉で理解することもできるかもしれません。以下‥。
 
物理学者の社会的責任と物理学会誌の責任
                                         日本物理学会誌編集委員各位
                                         日本物理学会会員各位
                      山田耕作 kosakuyamada@yahoo.co.jp
 
1.はじめに
福島原発事故は東北・関東地方をはじめわが国全土、海洋など世界に放射性物質を放出した。私は史上最大のチェルノブイリ事故に匹敵する深刻な事故と考えている[]。田畑や海を汚染し、農林・漁業の被害も重大である。未来の世代も含めて、地元福島はもとより、多くの人々に取り返しのつかない重大な被曝の被害を与えてしまった。豊かな山野、海を守り育ててきた先人に如何にわびてもわびつくせないと思う。子供達の将来の健康も心配である。
 
とりわけ、核エネルギーの利用は物理学者が当初からかかわってきたことであり、全ての物理学者が何らかの責任を感ぜざるを得ない問題であると思う。特に私はわが国のような世界でも例を見ない地震多発国で原発が安全に運転できるかは重大な問題であり、その危険性を強く社会に訴えるべきであったにもかかわらず、力が及ばなかったと反省している。129日、原子力安全保安院発表によると、今回の地震動も新たに設定された耐震設計の基準地震動さえ超えたということである。
 
大規模化した科学技術は大きな社会的役割を持ち、人類の将来を決定する。その安全な利用は、科学技術が総合的になった現在、全ての分野の科学者のたゆまない協力によって維持しなければならない。私は日本物理学会員として、私たちが地震や放射線の影響について軽視してきたことが結果として原発を容認し、今回の事故を事前に防ぐための努力を強めることが出来なかったのではないかと思う。科学者は集団として総合的な判断をし、社会にあるべき科学技術について提案したり、警告する社会的責任があると思う。なぜなら、他に総合的な判断ができるところがないから、各分野で自発的で積極的な活動が必要である。
 
それゆえ、私はささやかな責任の一端として、本誌会員の声に物理学者の責任について投稿した。4月に投稿すると6月に掲載された[1]7月に投稿したものはなぜか9月掲載のはずが10月になった[2]。ところが11月号を見ると6月号の私の「会員の声」に対する稲村卓氏の批判が掲載されていた。名指しで私を無責任とするもので次のようなものである。
 
冒頭に「山田耕作氏の原発批判には放射線被曝に関する迷信があるのでこれを正したい。・・・ここでは、放射能・放射線に限って、氏の意見に反論する」とある。そして最後に「事実から目をそらし、あるいは事実を知らないで旧態依然たる発言をつづけるとすれば、いたずらに社会を混乱させるばかりで、物理学者の責任をはたしているとはいえない」という。ここで稲村氏が言う事実とは氏の題名の「もっと真実を知ろうー被ばく線量にはしきい値があるー」である。
 
 さらに、不思議なのは稲村氏の会員の声の直後に会誌編集委員長旭耕一郎氏の次の言葉が続いていることである。「被ばく線量のしきい値の有無は未だ結論の出ていない、物理学の専門領域を超えた問題であるため、本欄においてこの問題の正否に直接関わる議論はこれで打ち切りとします。」というのである。
 
私が6月号で取り上げたのは福島原発事故に対する物理学者の責任であり、原発の耐震性も含めた安全性に関するものである。確かにその中で私は「撒き散らした放射性物質による内部被爆について意図的に触れず、すぐさま影響が出ないと誤魔化している。過去の被曝研究による明確な真理がゆがめられている。それは第一に、被曝線量に閾値はなく、これ以下なら安心とはいえないことである。低線量でも被曝量に比例して被害が出るのである。さらに、細胞分裂が活発な胎児、乳児、幼児はいっそう危険である。第二に自然に存在する放射性物質と人工の放射性物質の生物的影響の違いを無視している」と書いた。そして上記の明確な証拠として市川定夫氏の環境論を引用しておいた[3]。被曝の真実が問題になっているのでその内容を少し紹介する。
 
そこにはイギリスのアリス・スチュアートの妊娠中の低線量被曝による幼児白血病による死亡率の増加の報告がある。さらに市川氏は記している。アメリカのマンクーゾらは「ハンフォード原子力工場で働いた全労働者の被曝記録とがん発生の記録を調査し、さまざまながんの発生率と被曝線量が明白な関係を持つことを1977年に立証している。この調査によれば、骨髄がんの発生率はわずか0.8レム(8ミリシーベルト)で倍加し、白血病など造血系がんの発生率も2.5レム(25ミリシーベルト)で倍加していたという」。
 
私の投稿に関する経過は以上であるが、稲村論文をめぐる問題は単なる一投稿文の問題ではなく、物理学会にとってその存在意義に関わる重要な問題点があると思う。指摘して会誌編集委員や会員諸氏に考えていただきたいと思う。
 
 
2.問題はどこにあるか
1)被曝の評価が原発震災の事故評価にとって、根本となる重大問題であること
政府、東京電力など原発推進の立場に立つ人は現在安全神話を捨て、原発事故はやむを得ず認めるが、被曝を過小に評価し、被害を消し去ろうとしている。いっせいに100mSv以下は害がないとの大合唱である。文部科学省は新たな副教材を提案してこの合唱を先導している。それ故、科学者集団としての物理学会の被曝の問題に対する見解は社会的にも極めて重要であり、人命と子供達の未来に関わることである。
 
2)手続き上の民主主義の否定は学会の民主主義をゆがめ、真理をゆがめる
これまでの私の経験では、私がコメントで名前を挙げて意見を述べると、批判された人が意見を書き、それがわたしにも送付され、合意の上で両者の文章が同時に掲載されるのが通例であった。(例えば藤森・吉田氏との「フェルミアーク」に関する論争)。
 
しかし、今回は違っていた。今回批判された私が知ったのは11月号が出版され、しかも議論打ち切りの編集長コメントつきであった。あわてて、稲村氏の誤りを指摘して投稿したが、案の定、私の反論(以下に資料を添付)は編集長コメントを盾に拒否されたのである。あたかも、あらかじめ反論を封じるために編集長コメントがあったように私には感じられた。しかも困ったことに稲村論文が論理的に混乱していることである。
 
3)稲村論文の内容の非科学性と不正確な引用
 つまり、稲村氏の論文はしきい値の存在を証明せず、逆に修復・免疫機能があっても遺伝子の損傷が起こることが示されており、私の記述に合致し、稲村氏自身の主張に反しているのである。ただ、環境因子で遺伝子損傷がバックグラウンドに埋もれ「区別が出来なくなる」という記述があるのみである。この区別が出来なくなるというのは損傷がないということでなく、遺伝子の損傷は稲村氏の導出した式にしたがって依然として存在するから、遺伝子の損傷を否定するものではないので被害は生じるのである。この点を指摘してコメントの掲載を求めた(資料1-1,1-2)。それに対する回答が資料2である。後は読者の判断に任せようと思う。編集長のコメントに反して、稲村氏の誤りは誰にも明確であるからである。
 
さらに細かいことであるが、稲村氏のしきい値があるという引用文献の原子力学会誌FOCUS「被曝による健康への影響と放射線防護基準の考え方について」(2011vol.53.No.6)では次のように記述している。「100mSv以下の被曝で確定的影響は発生していないとしています。一方、100mSv未満の被曝であっても、がんまたは遺伝的影響の発生確率が、等価線量の増加に比例して増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしいとしています。これを確率的影響と呼んでいます」。原子力学会誌では註があり、「確率的影響:しきい値がないと仮定し、被ばく線量が低くてもその線量に応じたある確率でがんや遺伝的影響が発生するかもしれない影響。低線量被曝による人体への影響の下限があるかどうかについては現在では諸説あり、検証が進められている」と記されている(同上FOCUS p429)。これは旭編集長のコメントに合致し、「被ばく線量にはしきい値がある」という稲村氏の断定的な「真実」とは整合しないように見える。稲村氏は原子力学会の「検証が進められている」とする解説よりもしきい値の存在法則を強く主張しており、しきい値100mSv以下の被曝には危険性がなく、危険性を言うことは「いたずらに社会を混乱させる」という。この主張は、物理学会としては多くの人命に関わる問題であり、その責任を問われる見解である。批判なしには済まされないと思う。その責任を回避するのが編集長コメントの目的かもしれないとも推察する。
(つづく)
 
 
物理学会誌