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☆革命的共産主義運動の略年表
http://www.zenshin.org/blog/contens/w-profile.html#ko-z2410c

【前史】

1955年7月 日本共産党6全協
1956年3月 ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」/10月 ハンガリー革命
1957年1月 革命的共産主義者同盟創立
1958年~59年 東大、早大など日共大学細胞で、スターリン主義との闘いに次々勝利
1958年夏 第1次分裂。トロツキー教条主義との闘い/12月 共産主義者同盟(ブント)結成

  【革共同全国委員会の歴史】

1959年8月 第2次分裂。トロツキー教条主義と闘い、革共同全国委員会結成/9月 全国委員会機関紙『前進』創刊
1960年4月 マルクス主義学生同盟結成。ブントとともに安保闘争の先頭に立つ
1961年1月 マルクス主義青年労働者同盟結成/3月 ブントの革命的部分が革共同に結集/夏 革共同第1回大会
1962年9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。戦闘的労働運動の防衛と創造、地区党建設、革命的統一戦線について決定。動労千葉労働運動の原点/年末から翌春 3全総にたじろぎ、黒田と松崎らカクマル派が逃亡
1964年 原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争
1965年 日韓闘争(日韓条約批准阻止闘争)/8月 反戦青年委員会結成
1966年8月 革共同第3回大会
1967年2~7月 砂川基地拡張反対闘争/10月 10・8羽田闘争。羽田、佐世保、三里塚、王子の「激動の7カ月」 
1968年10月 米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)
1969年1月 東大安田砦攻防戦。68年以降、日大・東大など全国大学闘争が高揚/4月 沖縄闘争(破壊活動防止法扇動罪適用。本多書記長ら逮捕)/10、11月「第1の11月決戦」。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて学生と労働者が武装闘争に決起
1970年6月 安保闘争。革命的左翼が社・共を上回る大衆的な決起/7月 闘う中国人青年からの糾弾を受け「連帯戦略」を形成(7・7自己批判)
1971年2~9月 三里塚軍事空港粉砕の土地強制収用阻止闘争/11月 沖縄返還協定批准阻止の「第2の11月決戦」(再度の破防法適用)。11・14渋谷暴動闘争で、後に星野文昭同志にデッチあげ殺人罪で無期懲役攻撃(現在獄中35年)/12月 関西でのカクマルの武装襲撃で中核派の2学生虐殺(12・4反革命)。二重対峙・対カクマル戦に突入
1973年9月 革命的報復戦の開始
1975年3月 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺(3・14反革命)。3・14報復戦に突入。「先制的内戦戦略」を確立
1977年8月 動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争に突入
1979年3月 動労千葉が動労本部から分離独立
1981年 第5回大会。先制的内戦戦略フェーズⅡ(第2段階)に転換。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入
1985年10月 三里塚2期着工阻止決戦/11月 国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。中核派が11・29浅草橋戦闘
1986年5月 迎賓館ロケット弾戦闘。権力は革共同壊滅の「5・7宣言」体制発動/10月 「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い
1989年7月 長谷川英憲氏が都議に当選
1990年 天皇・三里塚決戦
1991年5月 5月テーゼ路線への転換
1994年6月 マルクス主義基本文献学習シリーズの刊行開始
1995年秋 19全総
1997年12月 20全総。清水丈夫議長―天田三紀夫書記長の最高指導体制を公表
1999年11月 闘う労働運動の新しい潮流の形成へ3労組呼びかけの11月労働者集会始まる
2001年 第6回大会。黒田=カクマル完全打倒の勝利宣言
2003年 新指導路線/11月 日韓米の国際連帯闘争始まる/12月 新生マルクス主義青年労働者同盟結成
2006年3月 関西の労働者同志を先頭に「党の革命」に突入
2007年1月 階級的労働運動路線打ち出す/7月 7月テーゼを発表/秋 塩川一派が7月テーゼと階級的労働運動路線に敵対し革共同から逃亡/12月 新生関西党員総会を開催、労働者指導部を軸に新体制確立
2009年7月 サンフランシスコ国際労働者会議/9月 25全総開く
マル学同1000人、マル青労同1000人建設へ、世界革命勝利へ驀進中!

「共産趣味者」の過去記事から
 【ブログ注】80年代の当時現役の革マル派の「世界観」が恐ろしいほど率直に描かれている。おぞましい。
   段落はブログで付けた

Name: すえいどん(【注】趣味者の中心の1人)
Date: 03/19 17:45

[4678]竹田先生(革マル)の回想に基づく78年以降の横国大情勢性の利用

>中核派は、78年9月以降、横国大を武装制圧し始めた。
 そして、中共派の日本労働者党の協力の下、横国大を拠点化しようとした。1978年9月30日の文化系サークル連合の総会に出席するために全学連の学生は、9月29日の夜10時ごろに、横国大を武装制圧した。9月30日に総会に出席する事は、広く宣伝してあった。その日、中核派を来させないためである。
 しかし、我々が大学を武装制圧した後に、中核派はやってきた。中核派は、我々と遭遇すると、トラックで、我々に向けて、突っ込んできた。トラックに2人がひかれた。1人は半身不随になり、学習院大学の同志・堀は、倒れている所を鉄パイプで止めをさされ、虐殺された。
 10月1日からも、中核派は、機動隊に守られて、大学を武装制圧し続けた。そこで、革マル派は、10月の中旬のある日に、大学に登場するとの情報を広く流した。朝、大学構内に入った機動隊は、そこに居るのが、革マル派だと間違えて、中核派40名を逮捕した。機動隊に中核派を逮捕させた事は、革マル派の権謀術策の勝利だった。
 1978年11月、僕は、2000人の学生を前にして、アジテーションを行い、拍手喝采を浴びた。その勢いにのって、僕達は、経済学部自治会を、翌年の1979年1月に再建し、当初、ノンセクト主導であった自治会執行部を、同年、6月には、革マル派竹内寿一を執行委員長とする執行部に変革した。
 横国大学生運動の主導権は、43歳の革共同最高幹部・佐々木(北海道学芸大学札幌分校音楽科卒業、ピアノの教師、根本仁の盟友)の指導を受け、東京工業大学退学処分の佐野という現地指揮官に従う、10代の少年活動家の手に掌握された。
 1979年11月16日の佐藤修平、小林智(北大生)虐殺事件で、野島三郎は失脚し、北小路路線の下、謀略追認路線にウジ虫は舞い戻り、1980年の東京工業大学7名の学生の虐殺をも追認するのである。
 佐藤にとって、「内ゲバ」こそ、現代日本社会の矛盾を象徴するものであった。革マル派系学生が殺されれば、殺されるほど、闘争に決起するもの、革マル派の運動に参加する者が増加していった。
 M(横国大工学部)は、同志・堀が横国大で殺された事を新聞で読み、親戚一同の反対を押しきって、横国大に入学した。松川は言った「人間は血を流して闘う事が必要だ」「横国大に血を流して闘う人が居る事を知って、自分も生命を危険に晒したいと思って、この大学に来た」
 竹内寿一は、佐藤修平が虐殺された事を知り、自分も同じ道を辿ろうと決意した。僕も同じだった。佐藤修平の死によって、「いつ死んでもいい」と言う覚悟ができた。

 1980年頃には、中原の後継者=狭間による滝口派に対するテロが続発した。狭間が精神病になり、学生解放派は分裂し殺し合いを始めた。
 しかし、学生解放派両派の死者の多くは「知りすぎたスパイ」の抹殺を意図した権力の謀略部隊によって殺されたのである。
 解放派のスローガンは「感性の無限の解放を!!」であり、「殴りたい時に殴れ、セックスしたい時にはセックスしろ」というものであった。解放派の女はヤリマンで、男子活動家の共同便所だった。女とやりたくて解放派に入った学生も多い。
 解放派のメス青虫のオルグ方法は肉体オルグであった。性に関する純潔を求められる革マル派とは、正反対であった。ちろん、動労青年部においては、後輩を風俗営業店に連れて行く事が奨励されていた。しかし、同志間の恋愛には、指導部の許可が必要であった。

【以上転載】

【ブログ注】以下は「竹田 革マル」の検索結果から

  • https://ali0001.jimdofree.com

    竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、 「自分は公安警察と共にJR総連革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。 中核派最高幹部。 JR、JP、沖縄

  • https://sevgi-us.wixsite.com/makoto-takeda

    革マル派について教えて下さい」と言って来た。 竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、「自分は公安警察と共に革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1939032186

    2015/02/21 · 以後、革マル派幹部の制止を押しきって、歴代の首相、公安警察最高幹部に対するスパイ工作を貫徹。革マル派に多大の利益を与える。 1997年、極悪極右反動分子=石井吉也学長の犯罪行為を弾劾し懲戒解雇処分

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1938671348

    2002/11/19 · 革マル派のゲバルト部隊は学生によって構成される全学連特別行動隊である。 この祭典には、全学連の学生は一人も参加していなかったのである。 革マル派に暴力を行使する …

  • https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4688010&id=48321236

    竹田誠博士の、家系が、皇族そのものであったという、事実は、 これで、証明されたものと、思います。 黒田寛一だの、革マル派だの、まったく、小さな、事柄では、 ありませんか。誇 …

  • www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/...

    竹田誠氏の事件見解】 竹田誠氏の「第4章 国家権力の謀略とネオ・ファシズム体制への傾斜」に「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件」について次のように触れている。 …

  • https://money4.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1124204647/l50

    ついに、竹田誠博士が、英断を、下しました。. 博士は、革マル派内部で、英雄的な、プロレタリア. 分派闘争に、乗り出すことを、断固として、決意し、. ここに、革マル派改革協議会を …

  • https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516710

    2019/06/10 · かつて革マル派の活動家だった大藪龍介さん(80)は50年近く前、内ゲバの標的になった。. 「しばらくどこかに身を隠した方がいい」。. 仲間に ...

  • https://money2.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1082808448

    >竹田博士が、革マル派の中では黒田寛一と並んで >その理論的柱を担っている事実はどう説明するのかね。 94 :名無しさん@3周年:04/04/27 06:58 ヶヶて毎日何して生計たててるんだろ …

  • https://namagusa.com/archives/6559

    2017/06/08 · 革マル派・中核派のメンバーは、大衆の中に紛れ込んでいると言われています。それぞれに数千人の構成員がいますので、「隠れ

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