カテゴリ:☆☆続『狂おしく悩ましく』 > 人びと 当時とその後あれこれ

アップしたつもりが、操作ミスだったらしい。
「草の根政治運動」「草の根分けても」の逸話。
… … … … … …

 感想や議論をあれこれ書いてみたいと思ったのだけれど、「血債の思想」云々で喚き散らして後が続かない。
 それに、他の人が色々書いてくれてもいるので、まとまったことを書くのは止めようと決めたい。
その上で、断片的に諸々を書き留めて置こう。それぞれ「事実か否か」についての検証は未完なまま、あえて今回公開したい。
 ついでに?元編集局の大先輩の話。

……… ……… ………
①三全総とはのまとめ 選挙を加えた三つの柱
 一般に言われているのは「戦闘的労働運動の防衛」と「地区党建設」だ。
 しかし三全総の柱は「三つ」であり、「選挙=政治闘争」だと岩本さんは言う。
 中野体制の下での政治闘争を排除した「階級的労働運動路線」への批判も込められていそうだが、実際に黒田選挙ほかを如何に重視したか、当時の歴史的再検証の姿勢としても面白い。

 この問題は、水谷・江村氏の、本多延嘉 3・14虐殺死を超えて四五年 での向井卓司さんの発言を重ねるといっそう浮かび出る。
 75年3・14、本多書記長虐殺の直後、東京・西部地区委員長の向井さんは直近の杉並選挙をネグレクトすることなく取り組もうと中央=北小路・清水丈夫氏らに申し入れたのだという。そして渋る政治局を動かして「内戦下の選挙戦」を戦う道筋を作り出した。
 『前進』や集会で北小路さんが「カクマルの脳天にバールを!」と絶叫していた時だ。現場では、「何をイマドキ選挙だ!」という声も溢れた。当時私も「杉並はどうなるのかな?」などと呟いて、指導部に罵られた覚えもある。上記の本では「中核派=三全総」として語られているが、一応従来の表現で「二つの柱」に収まっている。今後三全総が語られる時には「三つの柱」が共通語になるのだろうか?
 ちなみに向井さんは富山県委員会の創立者でもあり、7〇年の法大会戦の現場での陣頭指揮をとった人でもある。古参中の古参だ。

 
②同じことだが、90万を超えた改憲阻止の百万人署名運動の意義と顛末を書き記している。
 いわば「草の根政治運動」とでもいえるだろうか?

  残念なのは、運動の意義と結末などはよく描かれているが、「指令塔」という高みに立った議論と見識にとどまることだ。
  動労千葉の物販運動や百万を現場で支えた人の話を聞いた。

 「駅から離れた山奥の職場を指定されてね。バスの本数も少ないから、田舎道をテクテク歩いてようやく職場に着くと埃だらけだったよね。でもアポは取ってあるからやめるわけにもいかない。で、とにかく挨拶すると、『良く、こんなところに来てくれたね。普通は来ないよね』と歓待された」
 「で、さっそく口上を言うと進んで署名してくれて、同僚たちにも回してくれる。」
 「そういう職場はさらにまた山奥の職場を紹介してくれて、時には電話をしてくれる。で、何時いつのアポも取れる。時間帯によってはそのまま行けるけど、出直すこともある」

 「全逓のルートで回った時は、昔、神奈川の本多さんの支部学習会に参加した、という人もいた」「楽しい学習会だったね」「だけど2回や3回で終わるんじゃなくて、ずーっとそばにいて欲しかったね。現場の話ももっと聞いて欲しかったね」と言われてジンとした。
 百万の大方針で、そんなにもあった。「今にして思えば、この中核派にいて、やっぱりあり得ないエピソードだったのかね」
 山のかなた、地の果てまでも、草の根を分けて、耕し、種を撒く。
 そんな膨大な「無」を重ねた日々もあったのだと…。
 
 少し遡るが、90年代初期?の『前進』紙上に長期連載された〈分割民営化と闘う北海道各地の現場から〉??を思い出す。筆者は後に「権力に情報を売っていた」として水谷・岸氏らのKGBによって長期にわたって「査問・思想闘争」の対象となった編集局員・元関東交通労連事務局長の人だ。

 「労働者・市民の党」になるということは、こんなことの積み重ねでもあるのかと、想いを新たにする。

 それにしても、「地べたを這いずり回ることなしに、天空から大地を見下ろす見識」というものも
「あるんだな~」と改めて感じさせられた。ただ、私の知る中核派(特に本社と学生)との断絶はあまりにも大きすぎて、目もくらむ。

「殿上人と地下人」という見出し付きでの小文はいかにも男爵らしく笑える。

「9 知識人がスターリン主義の元凶?」P252(略)

以下、転載します。
……… ……… ………
ガザに心を寄せている皆さん!

 

お元気ですか。

12月13日、ブログ「合言葉はハヤートナ」に藤永香織さんが「昨冬よりはできる

ことがあるはず」に加え、ガザからの写真と動画をアップしました。ご覧ください。

 

合言葉はハヤートナ:https://ameblo.jp/hayaat-na0518/

ハヤートナホームページ:https://www.hayaat-na.org/

 

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昨冬よりはできることがあるはず(2025-12-13

 

やっとマワシの写真と動画が届きました。

息子たちが到着した時には残ってはいませんでしたが、雪も降ったのだそうです。

洪水、水没、厳しい冷え込み、凍死

ネットにはいくつもの記事が並び、私は連絡を待ちながら悶々としていました。

 

テントが劣化していると浸水や雨漏りを防ぐことが難しい。

劣化しているテントは、早い時期からマワシで避難生活を送っている人達が多い。

最初はトイレをテントのそばに作っていて、そのため大雨の時に汚水として溢れる。

そして、より海岸に近い、つまり少し土地が低い場所だったりすると洪水のようにな

りやすい……なのだそうです。

 

つまり、テントを新しくするだけでは不十分で、

場所を移らないとまた同じことが起こるのは容易に想像がつきます。

でも、一体どこへ?

「これはもう、国連機関や政府が動くしかない事態だよ。被害が大きすぎる」

息子たちの言葉に、頭では頷いています。

 

でも、何かできないかと考えることを止められないのです。

今、いちばん必要な物は何だろう?

テントが劣化している家庭は「テント」と答えるでしょう。

まだテントが劣化していない家庭は「防寒着」と答えるかもしれません。

例えば

子どもの冬服は6070シェケル

ナイロンシートは100130シェケル

(値段は変動するので参考程度です)

テントは高価で手が出ないけれど、シートで補強であれば私たちにも可能です。

 

息子たちと話し合い、まずはマワシの学校の人達に協力してもらって、

そのネットワークで被害に苦しんでいる人の要望を聞くことにしました。

できる範囲、必要な物を必要な家庭に届けたい。

そして、少しでも移れる街の空きスペースがないか探して交渉してみる。

とにかくやってみよう、と決まりました。

 

「支援」というより「住民同士の助け合い」です。

もしかしたら、1枚のシート、1着の防寒着が生死を分けるかもしれません。

私たちハヤートナは小さな力ですが、

非力だからと、無駄だからと何もせずにいたら。

作冬も子どもや若者の凍死が続きました。

空爆続く中、私たちにできたのは、要望があった子ども達に冬服を届けることだけで

した。

「停戦」中の今、昨冬よりはできることがあるはずです。

そのためにも、皆様どうか力を貸してください。

 

寺子屋も放課後おやつクラブ(子ども食堂)も、皆様のご支援で成り立っています。

一緒に子ども達を守ってくださることに心から感謝です。

そこに重ねてのお願いで心苦しいのですが、よろしくお願いいたします。

(ハヤートナ 藤永香織)

 

ご支援の送り先:

  銀行:西日本シティ銀行 

  支店:西新町支店 

  口座:普通 3184916

  名義: ハヤートナ

 

     

 

 ガザに戻れず、日本で癌闘病中の藤永香織さんの夫はイスラエルの攻撃で心が破壊

され、七人いた子どもたちは二人が死亡、三人は行方不明、今は四男ムハンマドと五

男マッスーシの二人だけがハンユニスで避難生活を送っています。今回の攻撃が始ま

ったとき二人は「自分たちは殺される順番を待つだけの人生はいやだ、ガザから出た

い」とくり返していました。昨年、大きな転機がありました。

 マッスーシが離れ離れで殺されるより一緒にいたいという思いで婚約・結婚したの

です。

 二人に大きな変化を生み出しました。

 自分たちのコミュニティで、ガザで助け合いながら生きていきたいという思いです

 居場所と学びの場を奪われている子どもたちのために「寺子屋、子ども食堂、おや

つクラブ」を避難先のハンユニス、ガザ市、マワシと転々としながらも始めました。

 今はマワシ地区のテントでの放課後のおやつクラブを続けながら、ハンユニスでの

寺子屋を再開しています。

 ハンユニスでの寺子屋の再開は感動的でした。

 

 ハヤートナ(私たちの人生)の思いはガザで生活している人たちが、お互い助け合

い、みなさんの援助を梃子に、自分たちのコミュニティを自分たち自身で作っていく

ことです。援助の隙間に放り出されている若者や女性に仕事を、子どもたちに学びの

場と本を!と取り組んでいます。今回のガザの自然災害ではない大洪水と冬の寒さを

しのぐためには裁く仕様ではない頑丈なテント、仮設住宅、元住んでいた場所に戻れ

ることが必要です。しかし、イスラエルは「停戦」下でもそれを認めません。

 できることはあるはず、この思いで取り組みます。

 ご支援をお願いします。(ハヤートナ事務局 尾上光)

 以下、元解放の視点からの「なぜ?」

3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?

彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。

 それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
 この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
 1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
 
 都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
 そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
 当時の新左イメージ 2翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。

そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。


 大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。(法政大学 1970年)



4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。

(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは171年6月明治公園での全国反戦主催沖縄闘争集会における中核派解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
 そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
 このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。 

 

<ここに至る若干の経緯>

1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
 議題は、10・8の総指揮者について10・8の闘争戦術について。
 以上二点である。

 だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
 全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A(秋山)、Y(吉葉)を迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。

 この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
  ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。

2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
 「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。

 解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。

3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。        それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
 法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
 こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
 そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
 そして、中核派政治局(S.=清水,H=本多,K=●●)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。

 この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。

 10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
 かくして、三派全学連の分裂は確定した。


3・15「本多延嘉追悼50年」、126名で熱気あふれる集い

                             集会実⾏委員会事務局

1975年3⽉14⽇未明、反⾰命カクマルによって虐殺された本多延嘉⾰共同書記⻑(享年41。破防法被告)の死から今年は50年⽬。3⽉15⽇(⼟)、東京・御茶ノ⽔にある連合会館にて「本多延嘉追悼50年の集い」が開催されました。

集会を企画したのは、⾰共同を離党、除名された者、分裂独⽴した⼈々。呼びかけ⼈を全国から募り、23⼈の呼びかけ⼈による集会です。

参加者の数は、当初の予想を⼤きく上回り、定員72名の会場に126名が参集、極めて熱気のある集会としてかちとられました。また集会の後は近くの中華料理店で懇親会を持ち、あちこちが何⼗年ぶりかの再会を喜び、旧交を温める場となりました。

午後1 時から受付開始。参加者⼀⼈ひとりが本多さんの遺影に献花、DVD『怒りをうたえ ダイジェスト版』(50 分)上映の後、午後2 時から「追悼の集い」が開始されました。冒頭、事務局の東條守さん(⽇⼤全共闘)の説明でDVD『思い出の本多延嘉−−勝利に向かっての試練』(約3 分)が上映されました。

【注 以下の見出しは当ブログによる】   ……… ……… ………

前半の発言 石川一雄さんの遺影も

司会には結柴誠⼀さん(元東京都杉並区議会議員、横浜国⼤全共闘議⻑)。司会から、本⽇、本多さんのご遺族からのメッセージとご参加があることが紹介されました。全員で正⾯左に置かれた本多延嘉⾰共同書記⻑の遺影に黙祷。本多さんの遺影の隣には去る3 ⽉11⽇に急逝された狭⼭冤罪事件の⽯川⼀雄さんの遺影が置かれました。

開会の挨拶は、元⾰共同東京⻄部地区委員会委員⻑の向井拓治さん。続いて呼びかけ⼈の岩本愼三郎さんから、本⽇の追悼の集い開催にあたっての経過と報告「〈党と世界観〉―本多さんは何をめざしていたのか」が20分近くなされました。岩本さんはマル学同中核派書記⻑、「前進」編集⻑、破防法研究会などを担ってきました。それを受けて、呼びかけ⼈から制限時間3分の発⾔が続きました。まず⻑崎県壱岐の島から参加された斎藤政明さん。横浜市⼤出⾝で多数の同窓と共に参加。⽇⼤の今章さん(⽇⼤全共闘組織部⻑)。⽇⼤全共闘の皆さんも多数参加されていました。元全国部落⻘年戦闘同志会の楠⽊吉秀さん。⽯川⼀雄さん急逝に慟哭の弔辞を読まれました。⾰共同再建協議会、元広⼤全共闘議⻑の川嶋澄夫さん。反戦共同⾏動・福岡の北原⼤樹(ひろき)さん。「未来への協働」の茂⽊康さん。横浜国⼤出⾝、⼥性解放戦線を担ってきた槇(⽔⾕)けい⼦さん。元マル学同副委員⻑の⾚松英⼀さん。元⾰共同関⻄地⽅委員会幹部の⼭本清次さん。

元「破防法研究」編集・発⾏⼈の江村信晴さん。

後半でも諸発言 連れ合い・恵子さんのメッセージも

休憩時間を挟んで、午後4 時、再開。参加者からの発⾔が続きました。元ブンド⾚軍派の⾼原浩之さん。元全逓労働者の⽅。ジャーナリストの⼩林哲夫さん。

破防法弁護団だった辻恵さん。元東⼤闘争被告団の⼟⽥正昭さん。本多さんが虐殺された当⽇、本多さんの⾞のドライバーとして⾏動をともにしていました。⽇⼤全共闘副議⻑の酒井杏郎(きょうろう)さん。⾰共同再建協議会、元全学連副委員⻑の橋本利昭さん。川崎市⺠の会の喜多村憲⼀さん。元在⽇朝鮮⼈・中国⼈細胞のキャップであった李徹(リ・チョル)さん。他の在⽇同志の⽅たちも参加。

集会終盤に、本多さんのご遺族、闘病のため⽋席された連れ合いの恵⼦さんのメッセージが、⼩林智⼦さん(横浜国⼤出⾝、108 ⼭﨑博昭プロジェクト事務局)によって代読されました。とても毅然とした、聴く者の胸を打つ感動的なものでした。そして、埼⽟の地から杖をついてお越しになった本多さんの妹御の善⼦さん(88 歳)がご挨拶されました。なお、集会後、善⼦さんから「集いの熱気に圧倒されました。皆様の⻘春時代が映画のように映りました」とのご感想が寄せられました。最後に、事務局からの本多さん墓参りの提案と閉会のあいさつを元⾰共同政治局員の⽔⾕保孝さんが⾏いました。


 なお参加者にはパンフレット「本多延嘉年譜」(8ページ)と都合が悪く⽋席した呼びかけ⼈などのメッセージが配布されました。以下の9通です。

本多さんが命をかけた沖縄闘争(⼀瀬敬⼀郎)、狭⼭とパレスチナと沖縄と(尾上光)、本多さんの思い出―追悼50年、最後のお別れにあたって(楠⽊吉秀)、当初の思いは今も消えることなく(新城せつこ)、テレビも⾒ず、新聞も読まずに(たかだたけし)、戦争前夜情勢が切迫する沖縄で(宮城正明)、本多書記⻑がもし⽣きていたら(掛川徹)、本多延嘉追悼50年の集いへのメッセージ (滝本洋⼀)、「3・15本多延嘉追悼50年の集い」参加にあたって(⾼原浩之/⾚軍派)、⽯川⼀雄さんのご逝去にさいして 慟哭のことば(楠⽊吉秀)。

懇親会が満席に

懇親会には76⼈が参加し、集いの熱気をさらに盛り上げました。

⾚松さん提供のワインがふるまわれ、司会をその⾚松さんが務め、マイクを回しながら、集会で発⾔しなかった呼びかけ⼈や当⽇参加の⼈たち10数⼈が発⾔しました。元⾰共同東京⻄部地区委員会の伊藤隆明さん、元全学連副委員⻑の廣瀬健⼀さん、元⾰共同富⼭県委員⻑の村⼭和弘さん、⾰共同再建協議会、「未来」編集⻑の松⽥耕典さん、元関⻄⼤学全共闘議⻑の板倉元朝さん、元「前進」編集局の湯本憲⼆さん、「未来への協働」の掛川徹さん、東北⼤出⾝の渡部義就さん、元破防法裁判闘争を⽀える会の川⼝顕さん、元ブンドの垣沼真⼀さん、元⾰共同神奈川県委員会の杉⽥勝⽣さん、元⾰共同東京⻄部地区委員会の⻑尾由美⼦さん、元⾰共同秋⽥県委員⻑の⽜越(李)国昭さん、ほか。

懇親会は午後9 時過ぎまで、数⼗年ぶりの再会、交流が続きました。

墓参り。振り返り、命ある限り

本多さんの墓参りが4⽉14⽇(⽉命⽇)におこなわれ、これをもって「本多延嘉追悼50年」の事業の締めくくりとしました。

本多延嘉追悼50年を全国から呼びかけ、3・15に集いを実現できたことは、発起⼈、呼びかけ⼈、参加された皆さんにとって、ひとつの振り返りと前進の節⽬となったことと思います。全国からやってよかった、来てよかった、会えてよかったとの⾔葉が寄せられています。また、ある⼈は「⻑⽣きをしてください。55年、60年、可能な限り続けましょう」と⾔っています。命のある限り闘い続ける強靭な意志表明です。ともに前に進みましょう。

3・15「本多延嘉追悼50年の集い」の実⾏事務局にご協⼒いただき、ありがとうございました。会場設定等の準備不⾜など多々問題がありましたが、有意義な集いを実現できました。ありがとうございました。

2025年4⽉26⽇

3defd1f8

以下、呼び掛け文を転載します。

2025年の3⽉14⽇は、⾰共同書記⻑の本多延嘉が⾰マル派に暗殺されてから50年⽬を迎えます。
 この半世紀の間に、当然ながら関係者の⾼齢化が進み、故⼈となった⽅も少なくありません。
また、「⾰共同」を名乗る党派はいまも存在しますが、昔⽇の⾯影はなく、ここから分裂した党派や諸個⼈も各地に存在しています。
 相互の間の緊張と摩擦も横たわっています。
 本多さんがあの後ももし⽣きていたら、⾰共同はどうなっていたのだろうという想いとともに、改めて追悼の意を捧げたいと思います。

しかし私たちが、ここに「追悼50年の集い」に集まろうというのは、各地におけるそれぞれの孤軍奮闘が、世界戦争の切迫と⽇本階級闘争の危機の中で極めて重要であることを確認しつつ、⾰共同の短くない歴史を回想することで、これらの無数の闘いの⼀層の前進のための、何らかのヒントでも得られればとささやかに期待するからです。

いや、とてもそこまではいかず、「やあ久しぶり。何だ、まだあんた⽣きていたのか」と⾔葉を交わすことが精いっぱいの場合もあるでしょう。
それならそれでいいではないですか。

  ともかくこれは、おそらく本多さん追悼の最後の機会になるでしょう。

 本多書記⻑の思い出に導かれて、⾰共同の原点にたち戻ってみる、遠い過去にさかのぼって昔話に花をさかせる、そんな⼀時を過ごすのもまた⼀興ではないでしょうか。

 集会のあとには懇親会も準備しています。

みなさまのご参集をお待ちしております。
2024 年12⽉28⽇ 

3・15集会呼びかけ⼈⼀同
⾚松英⼀(⼭梨)、板倉元朝(兵庫)、⼀瀬敬⼀郎(東京)、岩本愼三郎(神奈川)、
江村信晴(東京)、尾上光(福岡)、川嶋澄夫(⼤阪)、北原⼤樹(福岡)、
楠⽊吉秀(⼤阪)、結柴誠⼀(東京)、今章(東京)、斎藤政明(⻑崎)、
新城節⼦(⼤阪)、⾼⽥武(広島)、廣瀬健⼀(京都)、槇(⽔⾕)けい⼦(東京)、
松⽥耕典(兵庫)、
⽔⾕保孝(東京)、宮城正明(沖縄)、向井拓治(東京)、茂⽊康(⼤阪)
(あいうえお順)

事務局 連絡先
Mail: honda.memorial50@gmail.com
電話 090-2425-7910 東條

  本多延嘉追悼50年の集い  集会要領
日時 2025年3⽉15⽇(⼟) 午後2時〜4時半 (1時開場)
場所 連合会館(総評会館) 402会議室
資料代 1,000円
懇親会費 参加⼈数確定後、お知らせします。(懇親会参加者のみ)

連合会館
〒101-0062 東京都千代⽥区神⽥駿河台3-2-11
TEL:03-3253-1771 

【ブログ注】

①呼びかけ人は第1次のもの。

②諸派・グループ系。当ブログの無責任な見立てでは、主な系譜・人脈・傾向として

㋑06年の3・14(関西地方委員会での決起)以来の。
 
関西派(橋本派)系、九州派(宇谷派)系。
  水谷・(故)岸系。旧戦闘同志会系。
  その後追放された人々≒岩本系など。
さらにまた、上記から
分離したグループや個人。
El5系(旧東北地方委員会の5人の地方委員)は不詳。

㋺それ以前に(60年代~90年代に)離脱した諸個人。
  社会評論社から出版した人々。
「9条改憲阻止の会」や経産省前テントなどに集う人々等々。
その他日大全共闘ほか。
元他党派の人々?

㋩もしかしたら「中央派(清水派)の一部もコッソリ顔を出す」???????(笑)

③私自身は私的事情から、本集会には不参加になりそうです。

  【お知らせ】新しいカテゴリーを始めました。

「共産趣味者」の過去記事から
 【ブログ注】80年代の当時現役の革マル派の「世界観」が恐ろしいほど率直に描かれている。おぞましい。
   段落はブログで付けた

Name: すえいどん(【注】趣味者の中心の1人)
Date: 03/19 17:45

[4678]竹田先生(革マル)の回想に基づく78年以降の横国大情勢性の利用

>中核派は、78年9月以降、横国大を武装制圧し始めた。
 そして、中共派の日本労働者党の協力の下、横国大を拠点化しようとした。1978年9月30日の文化系サークル連合の総会に出席するために全学連の学生は、9月29日の夜10時ごろに、横国大を武装制圧した。9月30日に総会に出席する事は、広く宣伝してあった。その日、中核派を来させないためである。
 しかし、我々が大学を武装制圧した後に、中核派はやってきた。中核派は、我々と遭遇すると、トラックで、我々に向けて、突っ込んできた。トラックに2人がひかれた。1人は半身不随になり、学習院大学の同志・堀は、倒れている所を鉄パイプで止めをさされ、虐殺された。
 10月1日からも、中核派は、機動隊に守られて、大学を武装制圧し続けた。そこで、革マル派は、10月の中旬のある日に、大学に登場するとの情報を広く流した。朝、大学構内に入った機動隊は、そこに居るのが、革マル派だと間違えて、中核派40名を逮捕した。機動隊に中核派を逮捕させた事は、革マル派の権謀術策の勝利だった。
 1978年11月、僕は、2000人の学生を前にして、アジテーションを行い、拍手喝采を浴びた。その勢いにのって、僕達は、経済学部自治会を、翌年の1979年1月に再建し、当初、ノンセクト主導であった自治会執行部を、同年、6月には、革マル派竹内寿一を執行委員長とする執行部に変革した。
 横国大学生運動の主導権は、43歳の革共同最高幹部・佐々木(北海道学芸大学札幌分校音楽科卒業、ピアノの教師、根本仁の盟友)の指導を受け、東京工業大学退学処分の佐野という現地指揮官に従う、10代の少年活動家の手に掌握された。
 1979年11月16日の佐藤修平、小林智(北大生)虐殺事件で、野島三郎は失脚し、北小路路線の下、謀略追認路線にウジ虫は舞い戻り、1980年の東京工業大学7名の学生の虐殺をも追認するのである。
 佐藤にとって、「内ゲバ」こそ、現代日本社会の矛盾を象徴するものであった。革マル派系学生が殺されれば、殺されるほど、闘争に決起するもの、革マル派の運動に参加する者が増加していった。
 M(横国大工学部)は、同志・堀が横国大で殺された事を新聞で読み、親戚一同の反対を押しきって、横国大に入学した。松川は言った「人間は血を流して闘う事が必要だ」「横国大に血を流して闘う人が居る事を知って、自分も生命を危険に晒したいと思って、この大学に来た」
 竹内寿一は、佐藤修平が虐殺された事を知り、自分も同じ道を辿ろうと決意した。僕も同じだった。佐藤修平の死によって、「いつ死んでもいい」と言う覚悟ができた。

 1980年頃には、中原の後継者=狭間による滝口派に対するテロが続発した。狭間が精神病になり、学生解放派は分裂し殺し合いを始めた。
 しかし、学生解放派両派の死者の多くは「知りすぎたスパイ」の抹殺を意図した権力の謀略部隊によって殺されたのである。
 解放派のスローガンは「感性の無限の解放を!!」であり、「殴りたい時に殴れ、セックスしたい時にはセックスしろ」というものであった。解放派の女はヤリマンで、男子活動家の共同便所だった。女とやりたくて解放派に入った学生も多い。
 解放派のメス青虫のオルグ方法は肉体オルグであった。性に関する純潔を求められる革マル派とは、正反対であった。ちろん、動労青年部においては、後輩を風俗営業店に連れて行く事が奨励されていた。しかし、同志間の恋愛には、指導部の許可が必要であった。

【以上転載】

【ブログ注】以下は「竹田 革マル」の検索結果から

  • https://ali0001.jimdofree.com

    竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、 「自分は公安警察と共にJR総連革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。 中核派最高幹部。 JR、JP、沖縄

  • https://sevgi-us.wixsite.com/makoto-takeda

    革マル派について教えて下さい」と言って来た。 竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、「自分は公安警察と共に革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1939032186

    2015/02/21 · 以後、革マル派幹部の制止を押しきって、歴代の首相、公安警察最高幹部に対するスパイ工作を貫徹。革マル派に多大の利益を与える。 1997年、極悪極右反動分子=石井吉也学長の犯罪行為を弾劾し懲戒解雇処分

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1938671348

    2002/11/19 · 革マル派のゲバルト部隊は学生によって構成される全学連特別行動隊である。 この祭典には、全学連の学生は一人も参加していなかったのである。 革マル派に暴力を行使する …

  • https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4688010&id=48321236

    竹田誠博士の、家系が、皇族そのものであったという、事実は、 これで、証明されたものと、思います。 黒田寛一だの、革マル派だの、まったく、小さな、事柄では、 ありませんか。誇 …

  • www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/...

    竹田誠氏の事件見解】 竹田誠氏の「第4章 国家権力の謀略とネオ・ファシズム体制への傾斜」に「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件」について次のように触れている。 …

  • https://money4.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1124204647/l50

    ついに、竹田誠博士が、英断を、下しました。. 博士は、革マル派内部で、英雄的な、プロレタリア. 分派闘争に、乗り出すことを、断固として、決意し、. ここに、革マル派改革協議会を …

  • https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516710

    2019/06/10 · かつて革マル派の活動家だった大藪龍介さん(80)は50年近く前、内ゲバの標的になった。. 「しばらくどこかに身を隠した方がいい」。. 仲間に ...

  • https://money2.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1082808448

    >竹田博士が、革マル派の中では黒田寛一と並んで >その理論的柱を担っている事実はどう説明するのかね。 94 :名無しさん@3周年:04/04/27 06:58 ヶヶて毎日何して生計たててるんだろ …

  • https://namagusa.com/archives/6559

    2017/06/08 · 革マル派・中核派のメンバーは、大衆の中に紛れ込んでいると言われています。それぞれに数千人の構成員がいますので、「隠れ

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