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滝沢同志の追悼文  芝工大事件
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No112  「週刊読売臨時増刊号」各党派インタビュー  中核派

[ブログ註]「謀略論の世界」について深めたいと思いつつ、行き悩んで時間が過ぎていきます。正直、私の手に負えない。

 「閑話休題」の意も込めて、『野次馬雑記』から引用して、ひとまずは、少し幅を広げます。
 当時の中核派の「11月決戦」論とはどんなものだったのか?

 (その実態は?結果は?) 実は、このブログの究極の本題でもあるけれど、じっさいの課題ではない。以下引用。  … … … …    … … … …
 

野次馬雑記(引用元)

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。
 
 No10919691113日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。

1回目は中核派。

写真は友人のK氏が持っているマル学同中核派法大支部の「中核旗」。
 K氏は反戦高協と行動を共にしていたので、68年後半から69年頃のものと思われる。赤旗に黒マジックで「中核」の文字。
 時間が無い時は、このようにマジックで旗に文字を書いていた記憶があるが、街頭闘争で使ったものか?


 … … … …    … … … …
[ブログ註]改めて、当時の主張を読むと、改めて度肝を抜かれる思いがする。今回の「芝工大事件」「その謀略論の世界」、を検証するには…。ま、とにかく、読んで欲しい。歴史の大きな一齣だ。

(中略)は元のブログによる。

【勝利の展望は、機動隊の粉砕から】
週刊読売 
1969.11.13臨時増刊号(引用)
  [ブログ註] 今回の場合は「発行日」=発売日らしい。

『全学連中核派副委員長 林 信次(横浜国立大)

<まず70年安保を、どういうふうに、なんのために闘わなければならないか>

はっきりいえば、革命のために闘う。(中略)革命というものは帝国主義あるいは資本主義そのものの生み出す矛盾が人民の耐えられないところまできたときに、人民そのものが不満と怒りをその権力者に対して向けるときに起こる。

そういったものを社会主義の方向にいかに導いていくのかが問われるわけで、それをぼくらが、あるいは組織というものがになわなければならない。

この原則に基づいて安保粉砕の闘いを70年あるいは70年代においてやろうというわけだ。(中略)

<中核派の幹部としてあなたに聞きたいが、安保粉砕に追い込む見込みと、その時期について>
 おそらくは、70年代の階級闘争というのは安保粉砕、日本帝国主義打倒を掲げて闘われるだろう。そして、その安保が粉砕できたら日本帝国主義は倒れる。
 となると70年代の全闘争に新たな地平を切り開くであろう11月闘争のいかんにかかっているとしかいえない。

<すると11月の佐藤訪米阻止闘争が重要になってくるのか?>
(中略)10月非常時体制が敷かれている。(中略)全国十何万、東京で二万五千、防犯部、刑事部の私服刑事をすべて公安刑事として登用するというふうにして、われわれを押さえつけようとしている。(中略)
 10
月非常時体制、この新しい統治形態の過程を打ち破るかどうかによって、70年、あるいは70年代は決まるというふうに見ていいだろう。
 そういった意味で11月佐藤訪米阻止闘争こそはきわめて歴史的な意味をもった決戦であると思う。(中略)

<民衆のエネルギーの爆発がなければ、革命は達成されないと思うが、具体的に中核派としてそれをどういうふうに動員していくのか?>
(中略)組織というのは目的を追求するけど、大衆は勝てないと思ったらやらない。いまの大学闘争についても若干いえると思うが、かって大学治安立法といえば1万人近い人数が東京だけでも集まっていた。

 それが最近少なくなっている。それはなぜか。

 機動隊万能主義というものにぼくらが十分にまだ打ち勝っていない。あんなに機動隊が出てはもう大学闘争に勝てないんじゃないか、ということが一つの問題になって伸び悩んでいる。
 11
月にぼくらが機動隊を一部において、できれば全部においても粉砕できるかのどうか、やはり国家権力の暴力と、われわれの暴力との対決になっている機構を知っておく必要があると思う。打ち破らなければ勝てはしない。(中略)

 やはり機動隊をいかに粉砕できるか、しかもそれが機動隊粉砕の闘いと同時に、その方向性は沖縄奪還であり、安保粉砕、日帝打倒であることを全体にしみわたらせようということだ。

 やっぱり大衆に勝つという展望を与えてやる必要がある。それはぼくらが一部分でも機動隊を粉砕すれば、大衆は「勝てるじゃないか」という気がする。
 必ず後からついてくる。(中略)

[ブログ註] ウーン!「決戦前夜」の高揚感は伝わる。「わき目も振らず真っ向勝負」「武装闘争一直線」。「その頂点的戦い」

ただ、今回のテーマから見ると、「わき腹を衝く謀略」への配置は見えない。反戦(労働者)の決起の持つ意味も欠けている。ま、「中略」部分もあるが…。また、学生の任務と党の配置の違いかもしれない。
 別な側面から言えば「前衛・ボルシェビズム・選ばれたる者がすべて」観も絶頂に。
 たぶん私も東拘の中で読んだのだろうと思うが。

参考までに以下。

10.21国際反戦デー闘争 (1969) - Wikipedia

1969年の 10.21国際反戦デー闘争 10.21こくさいはんせんデーとうそう)は、 1969 1021 東京都 新宿区 を中心に発生した 日本の新左翼 暴動 事件。 国際反戦デー にあたるこの日、新左翼各派は前年の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)に続き大規

佐藤首相訪米阻止闘争 - Wikipedia

佐藤首相訪米阻止闘争 (さとうしゅしょうほうべいそしとうそう)は、 1969 1116 - 17日に行われた 新左翼 による闘争・事件。 警察官487人、一般人65人を負傷させたほか、学生1人が死亡し、近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、 

 

事件についての主たる訂正・補足部分と要旨

  中核派の拉致事件のターゲットについて。私は「人違い」説だったが、必ずしもそうではない。

  事件の関係者=逮捕者(起訴・不起訴とも)に現役の埼大中核派メンバーが含まれていたこと。

事後対策において、同人の潜伏・逃亡を中核派中央が指導していたこと。

③何よりも、
拉致された反戦連合メンバーの奪還のための議論と行動に、滝沢さんの死亡までは埼大中核派が全体として関与していたこと。
 その結果、「その時私がそこにいたならば、もしかしたら私も芝工大突入し加わり、被告になっていたかもしれない」という想いを抱くようになったこと。いわば天動説から地動説への転換を体感したこと。
  「転落死」に関連するいくつかの事実。(未)

 中核派の「正史」の書き換えを(未)

こんなことを並べてみると、どうしても滝沢さんへの弔意が後回しになってしまう。現役または元中核派の他の人がもっともっと協力してくれれば書き方も全く変わると思うのだが、ここでは止むを得まい。

『前進』 第 2019号 滝沢紀昭」での検索結果

https://www.bing.com/search?q=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&sc=1-4&sk=&cvid=F4A2363FB96A4FE993F456642DA9F7A0

事件の被告・逮捕者

「死闘の」7か月の中で中核派として逮捕・起訴されたメンバーは少なくない。第1次羽田・第2次羽田・王子野戦病院突入・占拠、そして東大安田講堂などだ。ちなみに羽田弁天橋で装甲車の上で革共同の旗を振り回して事後逮捕されたのも、「教養学部」の中核派だった【注1】。

事件の時には芝工大には行かなかったが、少なくとも2人の中核派が関連して逮捕され、事後逮捕・不起訴になった。

    
【注1】教養学部とは、主として1,2年生向けの教養部とは違い、独立した学部。理工系ブームの時代に、理系と文系の垣根を超えた「学際」学部として新たに設立された。

羽田弁天橋の革共同の旗




【注2】10・8羽田弁天橋での装甲車の上に翻る革共同の旗。山崎博昭君の虐殺を弾劾するのは北小路敏氏、川口顕氏、など。さらにもう一人は日大闘争時の日大中核派cap?⇒前進社印刷工場長)。旗を振るの埼大中核派。

北小路さんは失脚し、三里塚で逝去。日大生は離脱、川口さんは離党して近過去(near past) 奥浩平への手紙 (RED ARCHIVES 02)
埼大生は、私の前高の同窓。「ジッパチ羽田」では唯一の事後逮捕、か。「革共同の旗を振った『旗振り罪』」とも言われた。後の芝工大事件の被告。

埼大中核派の行動と立ち位置(補足)

総じて埼大中核派は、滝沢さんが転落死するまでは、救出工作に積極的に関わり、この点に限ってはいわゆる「反戦連合」【注2】に協調・協力的だった。

 

埼大中核派は、反戦連合ほかの諸グループに対しては政治的優位を感じてはいたが、学内政治では孤立に近かった。
 

[補足]
①その場にいた埼大中核派は、襲撃・拉致直後には、襲撃から逃げた2人が負傷して倒れていないかを、「反戦連合」とともに探してもいた。


②中核派メンバーは「芝工大突入」の会合には同席していながら、参加していない。「行こう」の声もかからなかったからーーというのが一因、とも言えそうだ。


 中核派中央の関与は?

前夜17日の埼大バリケードへの「黒ヘルメット」での襲撃への、中核派中央の関与の程度は正確には不明だ。ただ、他大学生の部隊など、学生中央指導部の指導・関与が有ったとみるのが順当だ。


転落した人々は、前夜の襲撃者の一員だったと見るのが順当だ。


また、前夜の襲撃・リンチ・破壊の様態や落ち着いた立ち居振る舞いは、ゲバ慣れを思わせるが定かではない。襲われた人の述懐では、「喧嘩慣れしていない」という感想もあった。

早稲田革マルの偽装?

 その上、この夜、早稲田の革マルに「今夜、埼大と早稲田の反戦連合が襲撃をかける」という予告電話が入っていた、という落ちまである。!!という。

……… ……… ………


その後の私

 

 一度だけ、浦和地検に乗り込んだ。事件の公判資料を読みたかったからだ。資料の閲覧はすぐできたが、中身は全く理解できなかった。あまりにも膨大すぎて、しかも限られた時間の中での閲覧だけ。
 対革マル戦の真っただ中、互いに住民票などの公式資料を閲覧しあっているというマスコミ記事もあった。敵権力のど真ん中で、私自身の緊張感も高かった。たぶん、70年代のなかば。

 
冒頭にあげた諸問題にはここではほとんど応えられなかった。


判決を報じる毎日新聞記事71年12月18日

芝工大 判決記事(処理済み)

画像を拡大するには、右クリック➡その他のツール➡画像の拡大
 この時期は、71年11月決戦の直後。71年「12・4反革命」の直後でもある。
 たまたまこの日の社会面の記事には、解放派との内ゲバの記事もある。
 中核派は、「全方位」の内ゲバにあけ暮れていたらしい。
  


【ブログ注】先ずは、前夜の襲撃と未明の転落死までに絞る。

          赤字はくり返し出てくる名前の索引替わり。

          今回は調書の正確な引用をせず、要旨のみ書いた。

 

【ブログ注 2

「埼大生たち(新左翼系諸党派やグループ・諸個人)の想いに沿って、まずは事件の全体像を描き出す」

今回の項は、大きく増補してまとめ切りたい。結果、前にアップしたものよりもだいぶ長くなる(本文はA44.5枚。文末脚注も同量)。

【ブログ注3】㋑㋺㋩は一部で削除したので飛んだ。

 

【1】     前夜の襲撃(79年9月17日夜)

㋑この日は後期期末試験の最中だったらしい。

北浦和の文理キャンパス[a]のバリケード封鎖を受けて、大学当局は当初の下大久保キャンパスへの全面移転計画をさらに前倒しにし、休み明けには2年生はもちろん、ほとんどの学部学生たちも下大久保キャンパスに移っていた、らしい。以下はほぼすべて、文理キャンパスでの話。もちろん、芝工大大宮校舎も舞台だ。

事件の数日前には、反戦連合のリーダー格の3人が経闘委部屋に押しかけて、滝沢さんに20番台教室に移れと要求[b]している。その時滝沢さんが殴られて、眼鏡が飛んだ、という話もある。部屋のドアを外して[c]、中庭に放り出した、とも。この後、中核派は、抗争を避けて、拠点を理闘委(中核部屋)に移した。狭義の反戦連合と中核派の不和・対立が高まっていた。

 

㋺経闘委部屋の襲撃

事件のあった「経闘委部屋[d]」(教養部長室=事務棟=本部棟)では、この夜、広義の[e]反戦連合などのメンバーが数人、テレビを見ながら談笑していた。バリケード封鎖した本部棟にはここしかテレビが無いので自然とみんなが集まる場所になっていた。

夜の21時頃か?「56[f]」とされるメンバーがこの部屋を急襲した。

「見慣れないヘルメット」と鉄パイプで脅しをかけるが、初めは「悪質な冗談」かと思ったという。じきに「襲撃」を体感した。侵入者が鉄パイプで滅多打ち。

反戦連合のリーダーの重尾さん[g]は、とっさに2階の窓から飛び降りた。地面でモンドリ撃ったがなんとか立ち直った。

 

ブラウン管(テレビの画面)を鉄パイプで突き破り、

○○はいるか?」「××はいるか」と糾問する。

それぞれの名は、「反戦連合」のリーダーやリーダー格とみられる学生の名前だった。

 

リーダー格の武闘派君[h]は、「お前は誰だ。名前を言え」という糾問に「オレは○○」と偽名で応じたが、自分が狙われていることを知って、重尾さんに続いて2階の窓から脱出し、樋に伝って、するすると下に降りた。

 

「経闘委部屋が襲われたらしい」という報に、学内にいて駆け付けたやはりリーダー格の東大君[i]は、部屋の外の見張りに「お前は誰だ」と問われて「東大だ」と答えて、「お前が東大か」と部屋の中に連れ込まれ、リンチ。東大君は先に名前をあげられた一人だった。

ほかに5~6人の埼大生が部屋にうずくまり、1人が倒れていた。多くがケガをしていた。

この時、襲撃者たちは「お前ら、早大の文学部1号館を襲ったろう。早大ではよく見かけるな」というような事を言っていた。[j] 

同じ階の別室に居た、中核派の団交君[k]は騒音に目が覚めて襲撃と見張りを見て、あわてて向かいの文理2号館[l]に逃げた。

 

㊁この時、文理キャンパスには6人くらいの埼大中核派メンバーも居たが事態は知らずだ。うち5人は理工学部。

 

㋭その一人のの免許証君[m]はノンセクトの黒ヘル君[n]と中庭にいた。事務棟と文理2号館のあいだの中庭で、バリケードのゴミなどを燃やしながら焚火に当たり、雑談していたらしい。

 

㋣東大君の拉致 やがて襲撃者たちは、東大君を目隠しなどして連れ出して、人目のつかない所で車に乗せて消え去った。

 

【2】】深夜の緊急集合(17日~18日)

 

㋠事態を知った学生たちが駆けつけてきた。

埼大生たちは、襲撃者が去った後、活動家や元活動家などの下宿[o]を訪ねて事態を知らせた。喫茶店ロビンでは会議をしていた東大闘争(安田講堂)の被告団10人ほどが話を聞いて駆けつけた。何人かが「内ゲバ」に嫌気がさして消えた。

 22時頃には経闘委部屋に数人が、0時頃(1時?)には30人か40人ほどが集まってきた。女性も数人いた。この時点では襲撃者は、民青かどこかの右翼か?という推論がほとんど。「早稲田の革マル派」を疑う声も強くあった。ごく一部には「中核派も疑わしい」という声もあった。

負傷者たちに同行して深夜に近くの診療所に行く人もいた。

 

㋷「中核派による襲撃」が明るみに

 2階の窓から飛び降りた重尾さんが戻ってきて、「中核派説」が確定した。

   

彼が飛び降りた時、階下の暗闇の中から滝沢紀昭さんが飛び出してきて襲い掛かり、数百約メートルにわたって、叫びながら追いすがったという。

この直前、異常を感じた黒ヘル君が焚火から離れて駆けつけると、滝沢さん[p]に「捕まえろ」と指示されて、追い着いた相手が旧知の重尾さんだったので、あわてて離した、という。

ただ彼は、「中核派の襲撃」と知って免許証君ほかに「襲ったのは中核だ」と言い捨てて憤然としてキャンパスから出てしまった。結果としては中核派以外には話は伝わらずにいた。

埼大中核派はこの時、文理2号館2階の「独元」の部屋を拠点としていたが、「中核派による襲撃」と聞いて、急遽、簡易のバリケードを築いた。しかしそのバリケードを抜けて入ってきた埼大生に頼まれて、先に逃げだしていた二人の消息を求めて、路上を歩き回った。

 

ただ、すでに、東大君の拉致の事実は知れ渡っていて、「救出」が喫緊の共通の課題になっていた。相手が革マルだとすれば、早稲田の例があり、半殺しのリンチの末、山中に放置されて野垂れ死ぬ恐れさえ感じられた。

 

深夜0時頃(1時頃?)には事務棟と文理3番棟の間の中庭には埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループ[q]のほぼ全てが集まっていた。重尾さんに続いて、黒ヘル君もまた、襲撃者の中に滝沢さんがいたことを話した。

 

㋦埼大中核派が各々「自己批判書」 襲撃者たちが中核派であることが確定して、居合わせた埼大中核派(この時点では4人)の各々に自己批判が要求された。

30分」の時間が与えられ、その間に1人を除いた全員が書いた。

中庭で襲撃への自己批判、「知らなかった」「知らされた居なかった」「そういう形での滝沢さんの独断への批判 など」(略)

批判[r]に応じてさらに新たな自己批判書。

 

【3】東大君の奪還工作

いずれにせよ焦眉の課題は、「どう奪還するか」だった。

経闘委部屋に場所を替えて、議論された。司会役は重尾さんと大物さん[s]。マル学同書記局員だったが、この間は事実上離脱していた人だ。

彼の「仲裁」も有って、埼大中核派は報復のリンチを逃れ、会議にも参加していた。

 

㋸現役中核派の責任者が前進社に工作電話

拉致された場所も不明なまま、最初の案は、前進社に電話することだった。現役中核派の理闘委君[t]が大役を任されて、ほかに数人が付き添った。結果は思わしくなかった。前進社には留守の電話番しかいなくて話にならない。拉致の場所はおろか、滝沢さんの居場所もわからない。「知らない」。当てにしていた埼大出身の初期局員のMさんもFさんもいない。

埼大生の声。「中核派も堕ちたな。中央書記局の奴らは、埼大中核派を見殺しにするのか」

 

㋾「拉致・監禁は芝工大か?」 そのうちに守衛室に滝沢さんからの電話があり、理闘委君の呼び出しがあった。別の埼大生が電話に出ると、切られてしまった、という。ただその時、電話口からザワザワと人の声が有ったという。  「滝沢さんは芝工大にいる」。色んな推測の結論は出た。

 

㋻中核派・免許証君が芝工大に

 滝沢さんをおびき出し、拉致された東大君との人質交換をしよう。

 現役中核派の免許証君がその大役を引き受けた。人質交換の場は埼大経済キャンパスで。

もちろん、滝沢さんもろとも捕まえて、自己批判も迫る。

免許証君の「負傷」の偽装のための包帯姿はそこにいた女性が担った。

午前1時半か2時頃、免許証君は芝工大にタクシーで飛んだ。

芝工大の中核派との交流にも参加していた免許証君は、キャンパスやバリケードの様子も知っていた。

会議室で寝ている滝沢さんを見つけて起こして反戦会議の部屋に。

「埼大中核派が学内に取り残されて、報復のリンチを受けている」「どうしたらいいのか?指導を望む」。

しかし滝沢さんは[12時間待て]「もうちょとまて」と答えただけで天井を見つめるだけだ。自分の借りたレンタカーが芝工大にあることは分かった。時間が過ぎていく。外にはタクシーを待たせている。免許証君はあきらめて、タクシーで埼大に戻った。未明の4時半ころか?

会議の間に回ってきたお握りを食べた。

㋕免許君の責任感[u]

 

【4】未明の芝工大突入(18日)

「埼大反日共系の全勢力」が救出に突入

ぐずぐずしていると東大君がどこか別の場所に移される恐れがある。

東大君の行方の唯一の手掛かりの滝沢さんも居なくなるかもしれない。だから朝早く出発しよう。「やるんならこの期を除いてはチャンスがない。あとは幸運を祈るしかない」。

多くの埼大生が芝工大突入を決意した。同席していた埼大中核派には声がかからなかったが、団交君は「中核派同盟員の責任」として参加を決めた。

北浦和駅から大宮へは、始発を待って国鉄で行った。大宮からの始発はより遅い。バスも来ない。で、駅前のタクシーに分乗した。

芝工大の近くで再結集して学内に入った。

学内の大まかな地図は、免許証君の話で分かったので、一部のメンバーはヘルメットを被ったが、被らない人もいた。

 

バリ封鎖されている2号館の近くで、立てカン用の角材で一部が武装。一部はバリの中で手ごろな角材で武装した。ある人はこーもり傘を手にしていた。結局武装したのは一部にとどまった。

バリはすごく狭い通路で、相手の出方も分からず、本当に不安。バリを抜けて広い場所に出てホッとした。そーっと2階に上がっても物音もしない。

先頭の一部は「反戦会議」[v]の部屋を覗いたが誰もいなかった。別の学生は、隣の部屋で、寝ていた男を起こして「東大君の居場所を知っているだろう」と詰問した。各自がバラバラに別々の部屋に侵入していた。

会議室のバリケードを抜けた発見者君[w]は、78人が椅子や机で仮設したベッドで寝ているのを発見した。滝沢さんもいた。

「滝沢が居たぞ」と叫ぶ。

その声に目が覚めた滝沢さんが慌てて眼鏡を付け、周りを見渡す。

声を聴いて埼大生たちが会議室に駆けつけた。

会議室に泊まり込んでいた学生の内、滝沢さんを含めて4人が朦朧状態で窓際に集まった。

 

㋟滝沢さんの転落死と他大学中核派[x]3人の転落・重傷

そして、相次いで窓から飛び降りたり、転落した。

「逃げたぞ」と誰かが叫ぶ。「落ちたぞ」の声も。

階下に駆けつけた人たちは、頭から血だらけで身動きしない滝沢さんを発見した。

反スタ君は慌てて、電話ボックスから119電話をした。

「滝沢さんは死んだ!」そう思うしかない。バラバラに逃げた。

 

㋹芝工大で学生が死んだというニュースが遅くとも午前11時か正午頃には流れていた。

残されていた埼大中核派はこの時点で、その場にいた4人全員が池袋・六つ又ロータリーの前進社に向かった。駅から前進社に電話した[y]

前進社では数人の「幹部」が「権力責任」説を語り、免許証君の潜行[z]を指導した。他の学生は埼大に帰った。

 

㋞当夜の通夜と翌日の「全学葬」(埼大生=広義の反戦連合)

その日の夜12時頃、広義の反戦連合が文理の文4教室で通夜。10数名が参加した。

「通夜」らしく事件の話はしないで滝沢さんの想い出話。「短距離は苦手だったが長距離は得意だった」。約4時間ほど。

芝工大に突入して後に逮捕された学生も、芝工大には不参加だった学生もともにいた。

19日の昼、午後3時頃?、バリケードを撤去し、祭壇を作り「全学葬」。

㋡拉致後の東大君[aa] 

 

【5】下大久保キャンパスでの追悼集会と陶山氏の発言

㋧陶山健一氏の追悼発言(前記記事)

埼大中核派のその後[bb]

 

【6】転落した4人の学生

㋶死亡した滝沢さん以外の3人。慶大生君は記憶喪失。
    都立大生君は1215日に「建造物侵入」で逮捕(前記事)。芝工大生はその後「行方不明」(潜行?)

 

【7】12月、一連の一斉逮捕

㋰超広義の「反戦連合」(埼大の反日共系全勢力)の一斉逮捕(12月~1月?)

㋒関連する中核派の逮捕も(12月から1月にかけて(都立君・免許証君))

㋼マスコミの報道と『前進』(略)

裁判と判決(脚注)[cc]――

 

【8】仮の結論 もしも?もしも

㋔もし、拉致事件が無かったら? もしも、「革マル派の偽装」も無かったら??

事件も滝沢さんの死亡も無かった?!

㋗生死の分かれ目。 もし、未明で無かったら??? 寝ぼけまなこで

 もし、下がコンクリートでなかったら?
(前夜の襲撃でやはり「2階から飛び降りた」重尾さんとの対比で)

 もし、拉致から逃れた東大君の電話が通じていたら? もし、 もし、

前夜の襲撃と拉致計画の素描[dd]

㋳「権力の大謀略」論という世界観とは?(後日)

㋮その後の影響。「広大、勝共の謀略」論、ほか。

https://yuigadokuson999.livedoor.blog/archives/316173.html



[a] 文理キャンパス 北浦和キャンパス・常盤キャンパスともいう。ほかに大学当局の本部を含む下大久保と、経済学部のキャンパスがある。

当時の学生総数は約3千人。東大・早稲田・法政の1割程度だが、元々は「中核派の拠点校」 

 

[b] 20番台教室 文理2号館2階の一室は理工学部闘争委員会(理闘委)の「割り当て」?中核部屋とも。狭い中庭を挟んで本部棟と向かい合う。本部棟=事務棟・管理棟とも 

 

[c]部屋のドアを外して 【註】以前に「バリケードの破壊はすさまじかった」と書いた私の記事の一部は、この行為によるものだったらしい。

テレビや書棚のガラスが砕けていた。

 この時、「(滝沢は)埼大から出ていけ」とも言われた、と。滝沢さんが「俺を権力に売り渡すのか」と憤慨。下記、「6・12事件」参照。

 この時、中核派としては、「反戦連合の連中も弱みをさらけ出したものだと嘲笑的に受け取り、胸を張って堂々と移転した」。

 以前から感情的に対立していたこともあった、という。中核派が反戦連合に「」「腐敗分子」「」反革命」というレッテルを貼り、面と向かって言ったこともある。(下記・【d】経闘委部屋、参照)

 

6・12事件 下大久保キャンパスで羽仁五郎氏の講演会をめぐり民青と激突。新左翼系はゲバ棒で民青を襲い、会場を確保した。共産党員の教授らにより告訴。結果として6人ほどが逮捕された。新左翼系をまんべんなく覆う逮捕で、痛手も大きかった。滝沢さんも手配されていたらしい。数人が起訴。私も東京拘置所から逮捕・移送されたが不起訴。 この時の行動隊長(部隊指揮)はやはり重尾さん。

 

[d] 経闘委部屋 教養部の学部長室。教養部と教養学部とは別。元々は「闘争者連合(東大君など)」の割り当てで、その活動停止を受けて、この間は経闘委部屋になっていた。事実上中核派の部屋。

問題の端緒は、闘争者連合が復活して、部屋割りを戻せと求めたことにあったらしい。

 

 活動方針上の対立では95日の全国全共闘の結成を受けて「埼大全共闘」の結成を求める中核派と、「実態は8派の党派的野合」とする反戦連合の反発もあった。今やほとんどの学生が通う下大久保キャンパス内の理科棟の封鎖を言い出した中核派に、叛乱会議が反対、反戦連合も後者を支持。(民青が武装支配する下大久保への進出は、長期・大規模なゲバルトと「告訴」を伴う総力戦)。

直接の対立ではないが、理工学部では、19日に予定した当局との団交を進める他グループや団交君と、団交そのものに反対する滝沢さんの対立があった。理工学部執行委員会は事実上、消滅していたが、名目としては残っていた。(民青との2重執行部)。

襲撃のあった時も、経闘委部屋の近くの叛乱会議の部屋で、67人で団交の打ち合わせをしていた。

主に下大久保キャンパスで活動する「1連協」の改組という中核派の動きもあった。 

 

[e] 反戦連合 埼大では、主に教養学部(教養部とは別)が拠点で、学部自治会(執行委員会)も握っていてが、中には別の2,3のグループが有ったとも。(被告の構成)

 全国的には東西で展開されたらしいが、首都圏では、早稲田の「全共闘」と埼大が拠点。法政や東大駒場は「非公然」に潜行したという。ま、中核派も革マル派も許すはずがない! 反戦連合の消滅で「中核派には内紛や分裂はない」という「神話」が確立した。早稲田革マルも参照⇩。 

 

[f] 56 経闘委部屋に突入した前夜の襲撃者。ただこれに滝沢さんを加えると「67人」ということになりそうだ。東大君の拉致で同乗したのは、4人ほどだとすれば、残りは徒歩で解散か??

 

[g] 重尾さん 反戦連合のリーダーの重尾さんは元埼大中核派キャップ。「激動の7か月」の過程で民青執行部を打倒して、臨時全学自治委員総会で全学執行委員会の委員長になった。副委員長は私。「7か月」の後、埼大中核派は疲れ果てて、滝沢さんの経済学部を除いて休眠状態になった。 

 

[h] 武闘派君 異色の反骨の人。「反戦連合」系の非左翼?両者の対立の先鋭化に、暴力的「仲裁」? 

 

[i] 東大君 安田講堂の前後?「ホンの一時」、中核派に加盟した。ただ、学内などで中核派として活動したことはなく、東大などに入り浸っていたらしい。

 彼の演説を聞く限り、東大助手共闘など「研究者」たちの論理だ。「反戦連合のリーダー格」ではあるが、元中核派のそれとは違う。「物理学科闘争者連合」は、当時の3年生たちの有志。かつては「中核派のシンパ名簿」にあった人たちなど。ま、埼大には反日共系や3派系は中核派だけだったころだ。 

 

[j] 早稲田革マル そのリンチと拉致
 この年69519日、早稲田の1文学生大会で激突・流会。逃げ込んだ革マル派を反戦連合など全共闘が火炎瓶などで攻撃。駆けつけてきた諸党派がリンチ。翌日以降、全国動員の革マル派に襲われた反戦連合7人がリンチされる。高橋公氏ら7人が長時間のリンチの末、狭山や多摩などの山奥に放置された。川口大三郎君虐殺(1972118日)に先行する。この前年、解放派は革マル派との攻防で敗北して東大駒場に逃げ、そこでも敗退していたらしい。私の知らない所で、「革マル派のテロ支配の時代」が始まっていた。

 

高橋公氏の兵どもが夢の先 | 人文・社会 | 株式会社ウェイツ参照。

 

当事者が語る学生運動|桑原亘之介 - note(ノート) から 

(略)…その当事者は自分の体験を時系列で説明し始めた。1969年4月、大学本部を占拠中に全共闘と革マル派との戦いが勃発して、5月の文学部の学生大会は全共闘と革マル派執行部が競い合い、流会になった。

 革マル派が学友会室に逃げ込み、それを全共闘が追いかけ、外から投石、火炎瓶 で攻め立てた。機動隊が入り、革マル派10数人を理工学部のサークル部屋に連れ 込んで、他大学のセクトが来ていて「テロった」。

 それは5月下旬のことだった。

 「俺たち全共闘は止めろと言った。全共闘は大衆運動を重視し、テロで相手の肉 体を痛めつけるような理論武装をしていなかった。しかし、セクトは日頃のうらみつら みからやってしまった。そこで機動隊が入った」。  

 

狭山の山中でリンチに遭う

 その後、何日か経って、革マル派が全国動員をかけて襲ってくるという情報が入っ て来たので、どう対応するかということで早大全共闘の会議を開いた。革マル派を早 大で迎え撃つか、逃げるかの結論が出なかった。

それぞれのセクトで対応を決めてから1時間後に再び集まろうとしたが、各セクトはみんな逃げてしまって再び集まるこ とはなかった。

最終的に残ったのは早大反戦連合の7人だった。本部バリケードを死 守することにした。しかし、一日中意見を戦わせていたので疲れてしまって、不覚にも 、見張り番も含めてみんな寝てしまった。

そこに革マル派が襲ってきた。証言者はいう「拉致されました。15号館の地下でリンチされた。7人は(リンチの後)次々にホロ付のトラックに乗せられて、都内各地で一人ずつ捨てられて、ある者は上野公園に、私は狭山の山の中に連れていかれ、リンチされた」。

「全身打撲だった。ほふく前進して山道まで出て、工事現場にパンを入れているおば ちゃんに拾われた。アジトに電話をしてもらい、生きていると伝えてもらった。本川越駅まで送ってもらい、西武新宿駅に着くと仲間が来ていて、高田馬場の病院に入院し た」。 

 

[k] 団交君 中核派メンバー。913日の経闘委部屋での反戦連合側による事件以来3日ほど、文理キャンパスに行かなかった。で、滝沢さんに叱責された。本人は、「中核派の同盟員としての責任」という自覚で、芝工大に行った。理工学部。 

 

[l] 文理2号館 「20番台教室」とも言う 

 

[m] 免許証君 理工学部。下の【v】免許証君の責任感を参照。 

 

[n] 黒ヘル君 理工学部。純無党派。 

 

[o] 下宿 正しくは「間借り」か。当時は、主として食事つきを下宿、と呼ぶ頃。ま、地方によってという面も。こんな時間にも、留守が多かった。階段下の3畳一間、便所(トイレ)は共同、も。 

 

[p] 滝沢さん この日「久しぶりにバリケードに来た」。遅くともこの年の春には、革共同に加盟し、埼玉県委員会にも所属していたらしい。併せて中核派系の全学連中央執行委員でもあり、中央の諸任務や県内中核派の指導的役割で忙殺されていたらしい。 

 

[q] 埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループ 中核派や反戦連合のほかに、理工学部叛乱会議(構改=構革系)、物理学科闘争者連合、教育学部闘争委員会(育闘委=無党派=元中核)、1年生連絡協議会(1連協)、安田講堂被告団(諸党派・個人)など。その他ブント系も。『前進』紙上などでの報道や追悼文などもあるので、時に「広義の反戦連合とも」「埼大生」とも表記する。中核派の主な大衆団体としては、経済学部自治会・経済学部闘争委員会(経闘委)、理工学部闘争委員会(理闘委)など。事件の後に革マル派が別の「育闘委」を名乗り登場。 

 

[r]自己批判への 更なる批判 「第1に、党派闘争であるならば、白ヘルを被って来るべきだ」など。 

 

[s] 大物さん  私が入学時のマル学同キャップ。その後、SOB(中央書記局員)。69年の冬に書記局を離れて、埼大にいた。事件の当時は中核派と反戦連合を取り持つような位置にいた。私も含めて埼大中核派のメンバーも多くが慕っていた。 

 

[t] 理闘委君 中核派。68年の春?私から理工学部の大衆団体の指導を譲った。 

 

[u] 免許証君の責任感 中核派としての党派性ははっきりした人だが、他党派の人々と親しく付き合う人だった。この夜も、中庭で黒ヘル君と談笑し、数日前には反戦連合のメンバーらと喫茶店で団らんしている。この頃はまだ、普通の光景だった、と言っても良さそうだ。
 この日午後3時前、彼は川口でレンタカーを借りた。事務棟の器具を質に入れる予定だった。そのキーを、滝沢さんに言われて渡した。その車が拉致事件に使われたのだ。彼は「前夜の襲撃」の話も聞いていない。その痛憤と、拉致に自分が借りてきたキー(車)が使われたことに「自分にも責任がある」。「私は東大君を救出するのに力を貸すのは嫌ではありませんでした」 

 

[v] 反戦会議の部屋 この頃、諸大学では中核派直系の大衆組織として、この名を使う場合が多かった。突入した埼大生たちは、東大君がこの部屋に拉致されている可能性を想像していたらしい。 

 

[w] 発見者君 反戦連合。狭い入り口を抜けて会議室に侵入した彼は滝沢さんを発見し、「居たぞ」と叫んだ。声を聴いて応援に駆けつけて会議室に入ったのは15人ほど。元々は私の理工学部での最初期の仲間・後輩。三里塚現闘に派遣された‘△△君と並んで、理工学部中核派の中堅だった。芝工大の会議室に泊まり込んでいたのは7人ほど。他に別室に2人?

 

 

[x] 転落した他大学の中核派3 慶大君、都立君、芝工大君。慶大君は転落して、転落・頭蓋骨骨折、左耳内部損傷、腰椎骨折など。「逆行性健忘症」で、事件の1年前から事件後の記憶を失った。都立君の逮捕を受けて、芝工大君も長く潜行。ともに不起訴。滝沢さんは、脳損傷(脳挫傷)などで即死。ちなみに、他に泊まり込んでいた他党派などの芝工大生は、軽傷か無傷。 その後、バリストなどの闘争を継続した、という。

  1. 余談ですが、芝工大のバリケード・芝工大闘争は、その後も続いたそうです。山田純一さん(元芝工大全学闘委員長)を追悼する


 

[z] 「権力責任」説と免許証君の潜行 幹部クラスらしき23人。「事件は反戦連合が仕組んだものだ。反戦連合は権力のスパイだ。滝沢君は反戦連合の白色テロに殺されたのだ」

 翌19日、「権力から任意出頭がかかるかもしれないから、免許証君は法政に残った方が良い」その後、免許証君は、鳥取市局や群馬で活動(潜行)。年末に帰宅し正月3日、逮捕➡不起訴。 

 

[aa] 拉致された東大君のその後 東大君は猿ぐつわと目隠しをされて事務棟から連れ出された。生協の裏手?あたりで座らされ暴行された。それからまた別な場所で座らされた。その後、キャンパスの外で車に乗せられた。同乗したのは4人ほど、と想像している。

車はたぶん1時間ほど走り、「浦和へは戻るな。戻れば命が危ないぞ」などと脅された末、田んぼの広がる所で解放された。熊谷の近くだったらしい。知らぬ土地でうろつき、電話を借りてタクシーを呼び、友人宅にたどり着いたのは午前2時過ぎ頃?

応急手当のあと、文理に電話をかけたが通じなかった。(守衛室は巡回中で留守だった?)。主に下半身、腕、背中、頭にも擦り傷や打撲の区のキズがあった。疲れ切っていて4時過ぎには眠りについた。

この日18日中には学友と間接的には連絡がついたが、多くの学友と連絡がついたのは20日ころ?その間、病院ではレントゲン検査で骨折は無かったので、以降は自分で市販の薬や湿布薬で治療した。 

 

[bb]  埼大中核派のその後 下大久保キャンパスでの追悼集会絡みでは、滝沢さんの親族の応対。その後も数人が、「中核部屋」にとどまり、11月決戦に臨んだ。事件の前には??経済学部でも自治委員選挙で民青に敗北。民青の学部執行委員会が樹立されていた。「経済バリケードの解除決議」も。その後、安田講堂被告たちが戦列に復帰して、いわば「新生埼大中核派」が生まれた。 

 

[cc] 裁判の結果・判決  

 70424日、「統一被告団」(15人)の公判始まる。傷害致死罪などの2人(α組)と凶準などだけの13人(β組)の二つに分けられた。αβは便宜上ブログでつけた【ほかに、未成年の少年審判が2人、個々人の分離裁判が6人】。

 711217日、統一被告団の同日判決。傷害致死などの2(α)には懲役3年、執行猶予4年、凶準などの13人(β)には、懲役16月~懲役1年。執行猶予3年。
 α組は、検察側・被告側の双方が控訴。減刑。

 

予期せぬ出来事 (毎日新聞7112/18

()傷害致死、凶器準備集合罪などに問われていた****の判決公判は17裁判長は二人に懲役3年、執行猶予4を言い渡した。(α組)

 同裁判長は判決理由で

学生が死亡したことと、重尾、発見者らの暴行とは因果関係はあるが、直接結びつかない

学生が窓から転落死したのは予期せぬできごとだった

前日の内ゲバで重尾と発見者は被害者だったーーなどをあげ、予想以上に軽い判決となった。

 また共犯の13人(β)に対する公判も同日、別に開かれ、全員に執行猶予つきの懲役1年1年6月の判決が言い渡された。

α組は、検察側・被告側の双方が控訴。

 

埼大生らに執行猶予 (東京新聞71 12/18

 芝工大の内ゲバ殺人判決

(略)同裁判長は判決に当たり「被告らの行いの発端には同情すべきものがある。また深く反省しているので更生の道を与える」と執行猶予を付けた。

 

 

[dd] 前夜の襲撃と拉致計画の素描の考察

 改めて検討すると、そのずさんさ、ご都合主義的で無謀なプランは、度外れだ。「時代の風潮」としての内ゲバそのものの問題性をおいて、以下、検討したい。

   埼大中核派に知らせもせずに、学外からの動員だけで襲撃を敢行したこと。いったいなぜ?
取り残された埼大中核派はどうなると思っていたのか?

   前夜の襲撃は、当時学内にいた(同じ本部棟や向かいの文理2号館)埼大生の新たな逆襲の危険を冒した。中核派の白ヘルを被らない襲撃だったからだ。

 同じことだが、「中核派による襲撃」を押し隠せば、翌日からの学内展開も、自由にできる、という事だったのか?

 当時の党派間内ゲバの姿からしても、あまりに「常識外」だ。

 

   このことを何度も考えていると、やはり「拉致」「革マルの偽装」こそが襲撃計画のかなめ・本丸であったと思えてくる。そしてあまりにも「幼稚な主観的・思い付きプラン」だ。

 中核派性を隠し、早稲田革マルの拉致事件を装えば、①②はクリアーできる。襲われた側は数倍の恐怖と危機感に追い込まれる。

 結果として、恨みと怒りに満ちた反戦連合の存在を埼大から消滅させることができるかもしれない。
 仮に、リーダーの重尾さんを捕えていれば、拉致後のリンチも格段の差があったのかも? もし2階から跳び下りた時に滝沢さんが追いかけていなければ、別の展開になっていたのかも?
 とはいえ、やはり甘い。

   計画の立案者が本当のところ誰だったかは不明だ。あるいはちょっとした遊び心が芽生えたのかも知れない。「ブラックユーモア」だったのかもしれない。多くの新左翼系の若者がやくざ映画にしびれた時代でもある。陰謀渦巻く世相を描いた映画に人気が集まった時代でもある。

 

 しかし結果は最悪で重大な事件につながり、滝沢さんの死や、埼大新左翼勢力の逮捕と消滅につながった。

   伝聞によると、出獄後の本多さんは事件の詳細を聴き、「○○××」と犠牲者を罵った、という。

   重尾さんの回想によると、69年のはじめ?、腹を決めて池袋の六つ又ロータリーの前進社を訪れ、1階の喫茶店で本多さんと対面したという。

 色々な想いを話したのち、本多さんに問われた。「で、お前はどうする?」「反戦連合で行きます」。「そうか、自分の思うとおりにやれ」。

 本多さんは学生たちに「自由にやれ」、と勧めていた、という。 

【ブログ注】事件の前後の諸問題は別途。先ずは、前夜の襲撃と未明の転落死までに絞る。

            その実像だけでも長いので、冒頭部分や一部を除いて、ひとまずはその「目次」だけにする。

            赤字はくり返し出てくる名前の索引替わり。

            今回は調書の正確な引用をせず、要旨のみ書いた。
★★私事だが、体調不良と技術上の問題で、全体像と詳細を分かりやすく論ずる力が無い。
で、ひとまずはこれをアップして、おいおいより充実した中身にしたい。
一部では訂正も必要になるかもしれないが、大枠は抑えた。

 

【1】     前夜の襲撃(79年9月17日夜)

㋑この日は後期期末試験の最中だったらしい。

北浦和の文理キャンパスのバリケード封鎖を受けて、大学当局は当初の下大久保キャンパスへの全面移転計画をさらに前倒しにし、2年生はもちろん、ほとんどの学部学生たちも下大久保キャンパスに移っていた、らしい。以下はほぼすべて、文理キャンパスでの話。(北浦和キャンパス・常盤キャンパスともいう)。ほかに下大久保キャンパスと、経済学部キャンパスがある。

 

㋺経闘委部屋の襲撃

事件のあった「経闘委部屋」(教養部長室=事務棟)では、この夜、広義の反戦連合などのメンバーが数人、テレビを見ながら談笑していた。バリケード封鎖した本部棟にはここしかテレビが無いので自然とみんなが集まる場所になっていた。

夜の21時頃か?「56人」とされるメンバーがこの部屋を急襲した。

「見慣れないヘルメット」と角材や鉄パイプで、脅しをかけるが、初めは「悪質な冗談」かと思ったが、じきに「襲撃」を体感した。侵入者が殴りかかった。

テレビの画面を鉄パイプで突き破り、

○○はいるか?」「××はいるか」と糾問する。

それぞれの名は、反戦連合のリーダーやリーダー格とみられる学生の名前だった。

 

リーダーの重尾氏は、とっさに2階の窓から飛び降りた。ズデンドウとモンドリ撃ったがなんとか立ち直った。重尾氏は元埼大中核派キャップ。民青執行部を打倒して、自治委員総会で全学執行委員会の委員長になり、副委員長の私とタッグを組んだこともある。

リーダー格の武闘派君は、「お前は誰だ。名前を言え」という糾問に「オレは○○」と偽名で応じたが、自分が狙われていることを知って、重尾氏に続いて2階の窓から樋に伝って、するすると脱出し、下に降りた。

同じくリーダー格の教養学部委員長の反スタ君は、偽名を答えて誤魔化した。彼は私と同学年だが、中でも最初にマル学同に加盟した人物だ。

 

「経闘委部屋が襲われたらしい」という報に、学内にいて駆け付けたやはりリーダー格の東大全共闘君(以下東大君)は部屋の外の見張りに「お前は誰だ」と問われて「東大だ」と答えて、「お前が東大か」と部屋の中に連れ込まれた。

東大君は先に名前をあげられた一人だった。

 

同じ階の別室で仮眠していた、直近まで中核派だった離脱君は襲撃と見張りを見て、あわてて向かいの文理3番棟に逃げた。

 

㊁この時、文理キャンパスには6人くらいの埼大中核派メンバーも居たが事態は知らずだ。うち4人は理工学部。

 

㋭その一人のの免許証君はノンセクトの黒ヘル君と中庭にいた。事務棟と文理3番棟のあいだの中庭で、バリケードのゴミなどを燃やしながら焚火に当たり、雑談していたらしい。

 

㋬早稲田革マルの偽装?

 

㋣東大君の拉致

 

【2】】深夜の緊急集合

 

1時間後の22時頃には、事態を知った学生たちが駆けつけてきた。30人から40人ほど。

埼大生たちは、襲撃者が去った後、活動家や元活動家などの下宿を訪ねて事態を知らせた。喫茶店では会議をしていた東大闘争の被告団10人ほどが話を聞いて駆けつけた。何人かが「内ゲバ」に嫌気がさして消えた。ほかの数人がやはり数か所の下宿を訪ねた。

 22時頃には経闘委部屋に数人が、0時頃(1時?)には30人か40人ほどが集まってきた。この時点では襲撃者は、民青かどこかの右翼か?という推論があった。「早稲田の革マル派」を疑う声も強くあった。ごく一部には「中核派も疑わしい」という声もあった。

負傷者たちに同行して深夜に近くの診療所に行く人もいた。

 

㋷「中核派による襲撃」が明るみに

   2階の窓から飛び降りた重尾氏が戻ってきて、「中核派説」が確定した。

   

彼が飛び降りた時、暗闇の中から滝沢紀昭さんが飛び出してきて襲い掛かり、数百約メートルにわたって、叫びながら追いすがったという。

この直前、異常を感じた黒ヘル君が焚火から離れて駆けつけると、滝沢さんに「捕まえろ」と指示されて、抱き着いた相手が旧知の重尾氏だったので、あわてて離した、という。

ただ彼は、「中核派の襲撃」と知って免許証君ほかに「襲ったのは中核だ」と言い捨てて憤然としてキャンパスから帰ってしまった。結果としては中核派以外には話は伝わらずにいた。

 

ただ、すでに、東大君の拉致の事実は知れ渡っていて、「救出」が喫緊の共通の課題になっていた。

 

深夜0時頃(1時頃?)には事務棟と文理3番棟の間の中庭には埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループの全てが集まっていた。

 

㋦埼大中核派が各々「自己批判書」

 

【3】東大君の奪還工作

㋸現役中核派の責任者が前進社に工作電話

㋾「拉致・監禁は芝工大か?」

㋻現役の免許証君が芝工大に

経済学部キャンパスで待ち伏せ工作

㋕免許君たちの責任感

 

【4】未明の芝工大突入

㋵「埼大の全勢力」が救出に突入

㋵❷滝沢さんの転落死と他大学中核派3人の転落・重傷

㋟前進社での幹部による「指導」=「権力責任」説

㋹突入当事者たちが、当夜の通夜と翌日の「全学葬」

 

【5】下大久保キャンパスでの追悼集会と陶山氏の発言

㋞陶山健一氏の追悼発言

㋡埼大中核派

 

【6】転落した4人の学生

㋧死亡した滝沢さん以外の3人。慶大生は記憶喪失。都立大生は1215日に逮捕。芝工大生は「行方不明」

 

【7】12月、一連の一斉逮捕

㋤超広義の「反戦連合」(埼大の反日共系全勢力)の一斉逮捕

㋶関連する中核派の逮捕も

㋰マスコミの報道と『前進』

㋒裁判とその結果――被告たちのその後

 

【8】仮の結論

㋼もし、拉致事件が無かったら?

㋨生死の分かれ目。 もし、未明で無かったら???

 もし、未明で無かったら? もし、下がコンクリートでなかったら? もし、 もし、 もし、

㋔「権力の大謀略」論という世界とは?

㋗その後の「広大、勝共の謀略」論、ほか

https://yuigadokuson999.livedoor.blog/archives/316173.html
【以上】

★★その後の『前進』は「腐敗分子の意図的虐殺」論
 その後の『前進』 追悼文は「腐敗分子による意図的虐殺」論を踏襲して10年近く続いて、やがて終わった。
 78年に私が『前進』編集局に移行して以来、「滝沢紀昭同志追悼」記事は毎年9月に掲載された。
 筆者は毎回持ち回りで、ほぼ「元埼大生」。
 私を除いてほぼすべての人が書いていた。
 改めて検証しても、事件の69年以来、私の「追悼・哀悼」の文は一つも無い。
 
★「湯本外し」と私の沈黙
 記事を点検し、印刷まで校正する「面担」からも、私は問題なく外されていた。私自身は「ほっとした」。そして沈黙し続けた。当時の編集局長は水谷氏。
 【注】「面担」=紙面の各面の担当者。LCが交代して務める各号の総括指導のもとで原稿の校正な面割の責任を持つ。

 後に私が本社を去る時の「送別会」の席で、こっそりと「湯本をEB(編集局)に呼んだのは俺だって知ってた?」と水谷氏。私の革共同への加盟書も読んだ、という。
 「加盟書」は、埼大から神奈川に移行した時に書き、梶さん(のちに除名)に提出したもの。芝工大事件が前夜の中核派による襲撃によって起こったものとする事実認識と、「意図的虐殺」を否定したはずだ。
 さらに、学内政治での反戦連合との関係を「彼らに主導権を渡しても良かったのかも」と総括したものだ。ただこの文章ではたぶん、反戦連合メンバーの前夜の拉致とその救出のための芝工大への突入という重要な事実が認識されていたかは不明。

 とはいえ水谷氏も、M先輩(その後、東京都委員長)も、一定の事実関係を知っていたのだ。事件の2年後の「追悼文」が「権力の大謀略論」を変化させたのも、何か関連が有るのかもしれない。(水谷氏は事件当時は獄中)
 ただ、今ではその加盟書の全体の流れや個々の「想い」はリアルには思い出せない。対革マル戦争の日々や、その後の日々が、私の記憶や想いをも上書きしている。

 編集局長は、水谷氏がその後に下獄した期間を除いて、岩本・藤掛氏(学者さん)がショートリリーフで担ったこともある。その指導は、「キャップの無限の裁量権」を感じさせる。それが「中核派の中核派たる所以」。

★M先輩の声かけ
 78年に前進社に移籍してほどなくだと思う。前進社の中でM先輩とすれ違った。
 「おう、元気か?」というようなあいさつの後、「ちょっと話さないか?」と先輩の「個室」に呼び込まれた。
 「✖✖と会っているそうだな」「うん、会っているよ」。
 思わず身構えた私に「いろいろ有ったけど、もう一度会いたいな」。私、「??」
 「一度ゆっくり会いたいな」「…」
 「ふん、相手が断るだけだ!」。私は部屋を出た。
 この時私がもう少し話に応じていたら、その後の何かが変わったのかもしれない。

 けれども、この前後も、「権力に金をもらった腐敗分子による意図的虐殺」論は変わってはいない。

【ブログ注】その後の『前進』とその評価の一端を色々と。
 
 事件から2年後、『前進』紙上で、元埼大生の追悼文が掲載された。
 たぶんこの頃は「『前進』経営局長」。もしかしたらまだ、対革マル戦争の「軍団長」??
  いわば「有名人」 でもある。……… ……… ………

『前進』552
号 71920日号 4面左肩 7
段分 

故滝沢紀昭同志追悼

遺志をうけつぎ、日本革命の成就にむけてまい進する ○○‘△△

918日、埼玉大学の同志滝沢紀昭が白色テロルに斃れてから2年目をむかえた。
  生前の彼と数年間たたかいをともにした○○△△氏(元埼玉大生・元全学連書記次長)の追悼文を掲載します。(編集局)

【ブログ注】追悼文の流れを示すために、各段落の導入を残して、不要な部分を削除した。



同志滝沢紀昭が憎むべき反革命集団によって殺害されてから、ちょうど2年経つ。

彼の面影の中で…

私は、65年に彼が入学して以降2年半埼大において活動を共にし、…

突然、暗闇に乗じた襲撃を受け、…。彼は死体となって肉親に対面した時、彼の身は国家権力の思いのままに解剖によって切り裂かれ、得手勝手な死因発表まで終わっていたのであったi。…

同志滝沢は、緊張みなぎる階級闘争の戦場において殺害iiされた。…


 同志滝沢は、埼大における革命的学生運動の防衛・純化・発展のために尽くした点で、おそらく最大の功労を果たした人間である。…

 また、「埼大反戦連合」を名のる反革命的脱落分子iiiを中心とする腐敗的徒党とも戦い続けていた。…革命的学生運動の純化のために力をつくした。

 同志滝沢よ、君の文字通りの死闘によって、遂に今日では、「反戦連合」なる不敗分子は、完全に消え去っている。iv

(筆者は埼玉大学教育学部出身。元全学連書記次長)

 

(滝沢)略歴 (略)69918日未明、芝工大…内にて仮眠中、テロ集団により襲撃され、虐殺される。享年25。

 ありし日を偲ぶ 長野 実家で3回忌 (追悼文の中のコラム記事の形で)
埼玉大学の親しい友人、同級生、先輩に加えて、革共運動を代表して北小路敏、全学連委員長松尾真の両同志も参列して、ありし日の同志滝沢を偲んだ。……… ……… ………

【追悼文の脚注】

 i
 
得手勝手な死因発表  権力を弾劾するのはこの辺だけ。全文を通して「権力の謀略」論は消えている。

ii 階級闘争の戦場において殺害 上に同じ。

iii 埼大反戦連合を名のる反革命的脱落分子 初めてこの名が現れる?701月には「小野田譲二一派」など?

中核派はかつてから敵対党派は正式名称を付さない「伝統」がある。結果、知らない人には誰のことかが分からない。この場合は、

70年末からの「反戦連合」の一斉逮捕・起訴があり、事実上、消滅したことも。

ただ、芝工大に突入して逮捕されたのは、前述したように、埼大の反日共系諸勢力ほぼすべて。彼らはもちろん「反戦連合」ではない。



iv「反戦連合」なる不敗分子は、完全に消え去っている。 上に同じ。…「弾圧万歳⁉」。日共の「トロツキストの泳がせ」論を想起するのはわたしだけ? それとも「10・8世代」「70年世代」だけ?

 *** 結局のところ、「権力の大謀略」論は音もなく封印された。読者や支持者にも説明もなく、いつの間にか…。
  芝工大事件の被告たちには「テロ宣言」を布告したまま、そ知らぬふりだ。
  
  私自身はというと、やはりこの文章も読んだ記憶がない。
  すでに、70年10月には保釈出獄していて、「身元保証人」の埼大教授宅での生活を経て、横浜で働いていた頃。寿でバイト⇒ガソリンスタンド⇒こん包屋➡非破壊検査の仕事をしていた頃だ。
 もしかしたら水戸の原発・実証炉に1か月、民宿に泊まり込んでいた頃かも。
 いちおう神奈川県党には属していたが、好き好んで民間中小の現場作業をしていた。
 そんな時はもちろん? 『前進』など読んでない。

  ……… ……… ………
 
 本社での会話
 
 78年の春か夏に、私は前進社本社に異動した。
 数日後に廊下で、埼大のM先輩(故人)に会い、彼の「個室」に呼び込まれた。
 後に?東京地方委員長になったひとだ。

 「**とは会っているのか?」「うん、会ってるよ」「ふーん」
 「**とはいろいろ有ったけど、どうしてるかな? 一度、ゆっくり会って話してみたいな」
 「ははっ、相手が会わねえだろ!」

  本社では最初で最後の会話だった。
 この時にもう少し話し込んでいたら、芝工大事件の「公的な評価」の内実も分かったのかもしれない。
 話次第で、その後の私の心も身の振りも、変わっていたのかも、とも思う。

 **とは、私が入学した時の埼大マル学同支部の委員長。M先輩とは同期。69年初期に、マル学同書記局から離れて一時期、埼大の指導にも関与。4-5月以降、反戦連合と埼大中核派の対立が日ごとに激化する中では、両者の緩衝材・調停者としてかかわった。芝工大事件では、その立ち位置は変わらず、学内に残された中核派を「かばい」、「拉致被害者の救出」計画にも関与した。

 いずれにせよ、いま思えば、「権力にカネをもらって手先になった腐敗分子論」「権力に指示されて襲撃した」論もまた、公式的には行き残り、非公式には絵空事=空論として、それぞれの中で処理されたのかと思う。前述のように、新左翼系諸党派や関連団体でも、ほぼ例外なく、「内ゲバ」扱いだ。


 ……… ……… ………


【ブログ注】逆順になりますが、資料として

糟谷人民葬

6911月決戦でも「権力の虐殺」 糟谷君 『前進』 11月17日付け

13日夕、大坂で佐藤訪米阻止の行動に決起した学生、岡山大学文学部Ⅱ回生、プロ学同の活動家糟谷孝幸君(21才)は機動隊の打ちふるった警棒を頭に受けて重傷を負い、14日午後大阪市行岡脳外科病院で死去した。…。

樺、山崎、滝沢、津本同志に続いてまたも学生を虐殺した国家権力に対し、…(略)

【ブログ注】13日は㈭。羽田=蒲田の前段? プロ学同(共労党)他が、独自の位置づけで闘った。
   ここでは、「権力の虐殺」論にピントを合わせた。
 右翼・体育会による虐殺では、日大・中村君他がいるが記事では無視されている。

つまりこの時点の『前進』記事では、明示の形で滝沢さんの死は、正真正銘の「権力の手による直接の虐殺
」論。
 
  【参考】中村克己君は、1970年2月25日、日大全共闘文理学部闘争委員会の仲間とともに駅前で日大闘争のビラを配布中に、体育会系右翼集団から襲撃され、頭部の重傷により3月2日に亡くなった。享年22歳だった。


11月決戦が闘われた後、12月には「超広義の」「反戦連合」の一斉逮捕が続いた。

1月には埼大と都立の中核派が逮捕。


AIとのやり取りの結果です


【ブログ注】短い文の行替えを削除して、「普通」にした。          
     電子書籍なので、一部はAIでも文字が読み取れない。誤読がある。

逮捕された学生の名前は○○(都立大生)、’△△(埼大生)に書き換えた………以下

 

Sさん、了解です。

 ここからは、あなたが求めている 最も高度なレベル──  「章ごとに細分化した長文版」×「超・原文調再構成」をお届けします。

 これは、・原文の語彙 ・原文の文体(煽動的・断定的・政治的) ・原文の論理構造 ・原文のリズムを最大限保持しつつ、著作権に触れないように「私が書いたが、原文のように読める」形で構成したものです。

 Word にそのまま貼って章立て文書として使えるよう、見出し・段落構造・論理展開を完全に整えています。

 

📘 **埼玉大学「○○・’△△ら弾圧事件」

 章ごとに細分化した長文版(超・原文調再構成)**

第一章 事件の発端──権力の魔手としての逮捕劇

  埼玉県警が○○・’△△らにふりかざした「殺人」「殺人未遂」なる重罪名は、革命的共産主義運動にたいする政治的攻撃を正当化するための露骨な謀略とデッチあげであった。


 権力は、埼玉大学における中核派の拠点性を破壊し、革命的学生運動の前進を阻止するために、事件を意図的に政治化し、反革命的に利用したのである。

 
 県警は、事件の真相を解明する意志など端から持たず、革命的学生の組織的前進を恐怖し、重罪名を乱発して別件逮捕を強行した。

 その暴挙は、11月決戦後の革命的高揚を押しつぶすための予防反革命攻撃として発動された。


第二章 権力の構図
──「中核派内部対立」なる虚構の創作


 事件発生直後から、県警と警視庁は「中核派内部対立」「内ゲバ」なる虚構を流布し、革命的学生運動の団結を破壊しようとした。


 しかし、この「内部対立」なるものは、権力が中核派の組織破壊を目的として意図的に作り上げた政治的構図であり、実際にはそのような対立は存在しない。

 権力は、革命運動の内部にを作り出すことで、運動の団結を破壊し、孤立化させようとしたのである。


第三章 小野田譲二一派の位置
──権力に利用された周辺勢力


 文書は、小野田譲二一派を、権力が中核派攻撃のために巧妙に利用した存在として描く。


 権力は、小野田派の動きを事件に結びつけ、下手人を隠蔽しつつ、中核派に責任を押しつける構図をつくりあげた。


 その目的は、埼玉大学における中核派の拠点性を破壊し、革命的学生運動の前進を阻止することにあった。

 
 小野田派の存在は、権力にとって「中核派内部対立」なる虚構を補強するための格好の材料として利用されたのである。

第四章 都立大生への攻撃──革命的中枢の政治的抹殺

 都立大生は、革命的実務を担う重要な同志であり、権力はその存在を見せしめとして抹殺しようとした。

 県警は、事件とは無関係な容疑を次々と積み上げ、山崎君を長期拘束し、組織的中枢を破壊しようとした。

 これは、革命的学生運動の要を狙い撃ちにする政治的抹殺攻撃である。

 都立大生の逮捕は、単なる刑事事件ではなく、革命運動の中枢を破壊するための計画的・政治的攻撃として位置づけられる。

第五章 11月決戦の余波──革命的高揚を恐れた反革命攻撃

 文書は、事件を196911月決戦の延長線上に位置づける。

 11月決戦で革命的学生は大きな政治的勝利をかちとり、その高揚は70年安保決戦へと連続していた。

 権力は、この革命的前進を恐れ、埼玉大学を最大の拠点として攻撃対象に定めた。

 事件は、革命運動の前進を阻止するための反革命的・予防的弾圧として発動されたのである。

 権力は、革命的高揚を押しつぶすために、埼玉大学を突破口として全国的弾圧を展開しようとした。


第六章 事件の真相
──謀略・デッチあげ・組織破壊の全体像


 文書は、事件の本質を次のように総括する。

 • 事件は中核派の仕業ではない

 • 権力は下手人を隠し、中核派に罪を着せた

 • 目的は、中核派の組織破壊と革命運動の封じ込め

 • 事件は、国家権力による謀略的・反革命的攻撃である


 事件は、革命運動の前進を阻止するために権力が仕組んだ政治的謀略であり、その全体像は、反革命攻撃としての性格を明確に示している。


第七章 結語
──弾圧粉砕・70年代革命への突入


 文書は最後に、

「弾圧を粉砕し、70年代革命へ突入せよ」という強烈な政治的呼びかけで締めくくられる。


弾圧に屈せず、全国的反撃を組織せよ

労働者・学生の団結を強化せよ

• 70年安保を革命的決戦として闘い抜け

 

 この呼びかけは、事件を単なる弾圧ではなく、革命運動の新たな段階への突入点として位置づける中核派の政治的立場を鮮明に示している。

 Sさん、ここまでで 原文の論理・語彙・文体を最大限保持した長文版が完成しました。

  さらに細かい章追加や、Word での体裁調整(目次風、脚注風など)も可能です。

続きを読む

『前進』463号(70年)11 9[1]
 
 【ブログ注】末尾に長い脚注あり

滝沢同志虐殺事件にかんする権力の謀略を打ち破れ

未曾有の暴挙、被害者○○君の逮捕を糾弾し、権力の手先小野田譲二一派を断罪せよ

 

(1) 去る918日早朝、芝浦工業大学大宮校舎においてわが滝沢紀昭同志を虐殺し7名の学生に重軽傷を負わせたテロ事件にかんして埼玉県警捜査本部は1210日、埼玉大学の反戦連合系学生23[2]」にたいする「殺人、同未遂、凶器準備集合、暴力行為、建造物侵入」容疑の逮捕状をとり、その執行に乗り出した。

その一方で同県警は、こともあろうに、テロによって重傷を受けた被害者の1人である都立大学学生[3]○○君を、15日夜、「建造物侵入」の名目で逮捕し去った。この「建造物侵入」とは、○○君が芝浦工大大宮校舎に「大学当局の許可なく立ち入った」ということである。断じて許すことができない。

 

(2) すでにわれわれが暴露したように、滝沢同志虐殺事件は、敵権力が仕組んだ凶悪な謀略事件である。

日共民青と共謀のうえ(告訴事件=前掲)

他方で「中核派内部の対立=内ゲバ」説[4]を執拗にいいふらし、

 

(3) こうした事態のなかで、いま県警が「埼大反戦連合」にたいする逮捕活動に乗り出したことは、いまやついに県警が下手人をかばいきれぬところにまで追い込まれたことを示している。「埼大反戦連合」がこのテロの下手人であること、ないしは下手人のなかに含まれている[5]ことを、県警は事件後83日目にして認めざるをえなくなったのである。

 「埼大反戦連合」とは、小野田譲二によって集められた腐敗堕落分子の集団である[6]。腐敗ゴロやわが同盟からの脱落分子をかき集めて。「埼大反戦連合」の動きは、敵権力によって巧妙に利用され、あやつられる[7]ところとなったのである。

 

(4) だがしかし、埼玉県警は、このテロ事件を中核派弾圧に転化するという当初の企図をまだ少しも放棄してはいない[8]

「中核派内部対立=内ゲバ」説が崩壊したのにかわって、今度は「前夜の埼大内における中核派の攻撃に反戦連合が復讐した」[9]という筋書きがデッチあげられようとしている。

 

 しかし、いま「中核派内部対立」説によるでっち上げに失敗した埼大県警は、

小野田譲二一派のみを下手人とすることによって事件に介在した権力の動きを抹消すると同時に、

小野田譲二一派にたいする取り調べという形をとおして、埼大内における中核派の活動の一端を事件の原因にすりかえ、それを口実として中核派をたたき、

あわせて小野田譲二一派の罪状を軽減しその救済の道をひらく、

 

という一石3鳥の謀略に乗り出しているのだ。[10]

 

このことは、小野田譲二一派の逮捕にまつわる不審な動きによっても、明らかに看取される。

。今後のわれわれの反撃がもし不十分なものに終わるならば、再び「中核派」内部対立説が作り出される可能性すら、なしとしないのである。

 

(5)

事態は重大である。

とくに、11月決戦後の事後弾圧攻撃[11]のさなかに、埼玉県警がこうした挙に出てきたことにたいして、われわれは厳重な警戒心を固め、ただちに反撃の活動を強化しなければならない。

滝沢同志虐殺と、それを利用した中核派への弾圧によって11月決戦をくじくという権力の当初の狙いは、たしかに失敗した。

滝沢同志虐殺の真相と本質をさらに広範に暴露し、中核派にたいするいっさいのデッチあげ弾圧を阻止せよ!

小野田譲二一派を憤怒をこめて徹底的に断罪し、放逐せよ!

 

 

 

脚注 やはり、私はこの記事を読んでいない。

東京拘置所の墨塗のゆえか?

そういえば、本多さんも、同じ? ただ、葉山弁護士などの「弁護士接見」は私に比べれば、はるかに数も時間も看守の立会い問題も



[1] 11 =新年号。前年末の月曜日かその前の月曜日に発行する。年末の地区や支部=細胞の冬季学習会・総会用に使われる。

 

[2] 埼玉大学の反戦連合系学生23 年末から、芝工大事件に関連した一斉逮捕が始まった。「23名」はその後全員起訴された。この時点で、芝工大事件は「内ゲバ」であることが言い逃れのできない事実であることがはっきりする。しかし、…。

 

[3] 都立大学学生 1215日のこと。その後、不起訴・釈放。

 

[4] 「中核派内部の対立=内ゲバ」説 読んでもらえば分かるが、狭義の反戦連合は、埼大では元中核派を中心に結成された。この意味で「内部対立・内ゲバ」。しかし、「中核派に分派や分裂の歴史は無い、許さない」のが「正統派の中核派歴史観」でもある。

 

[5] 「埼大反戦連合」がこのテロの下手人であること、ないしは下手人のなかに含まれている 「反戦連合」が一斉逮捕が進んでいることを実際には歓喜し、「もっとやれ。…」この辺は共産党の『赤旗』を読んでいるような気持がする。おぞましくて、不気味で。

 

[6] 腐敗堕落分子の集団である そう! 「中核派から離れた奴らはみな、腐敗し堕落し、権力の懐に飛び込むのだ!」 でも実際は、ほとんどの活動家は、活動して2,3年で、疲れ切って、分からなくなって、離脱してきた。残されたほんのわずかな「精鋭」が歴史と栄光をわが手にする。…そして誰もいなくなった。

 

[7] 県警が下手人をかばいきれぬところにまで追い込まれたことを示している。 「権力による謀略」論の枠内での手直し?

 

[8] 当初の企図をまだ少しも放棄してはいない  「謀略論への疑問や批判を持ったり口外するヒマはない!!」

 

[9] 前夜の埼大内における中核派の攻撃に反戦連合が復讐し マスコミなどで「前夜の襲撃」が取りざたされる。その記事を一部引用して「事実」を間接的に。

  ただこの語り口は、

ネトウヨか高市の語り口に似ている。相手の言葉を引用しながら「事実ではない」と言う、またはあざ笑う手法。

反戦連合メンバーの「拉致」は削られている。「拉致されたメンバーの奪還」のためにこそ、他党派や他の集団や、現役の埼大中核派メンバーも動いたのだ。

  後述するように、1月に入って、現役の埼大中核派のメンバーも逮捕される。

  社会的にあるいは左翼の内部世界では、「内ゲバか権力の謀略か」が第一義。下に続く。

 

[10] 一石3鳥の謀略 中核派による「謀略論の改定・手直し」というべきか?

 ここまでやるのか?

主導したのは誰?たぶん陶山さんだ。書いたのはだれか?

 

『前進』を読んだ人たち、読まなかった人たち。くり返し読んで自身を鼓舞し、叱咤激励した人たち。

決戦を前にして居場所を失った人たち。

決戦を終えて、消えていった人たち。

弾圧との攻防で必死だった人たち。

 

 

[11] 11月決戦後の事後弾圧攻撃のさなかに うーん?「決戦っていろんなことが同時多発するもんだ!!」 「決戦って何?」「聖戦って何?」

 改めて色んな人の顔が浮かぶ。

 「深紅の革共同旗」「中核旗」という「弔旗」に包まれるのはゴメンダ。「英霊」にはなりたくない!

芝工大事件 追悼葬

滝沢紀昭君虐殺抗議 母校の埼大で 怒りこめて追悼葬

『前進』452号(929日付け)
【ブログ注】前回と同じ

27日午後、「虐殺講義・滝沢紀昭君追悼葬」が滝沢同志の母校埼玉大学の下大久保校舎体育館で[1]行なわれ、約1800人の参列者が、暗殺者への深い怒りと日本革命への厳しい決意をこめて、花輪と数十本の弔旗にはさまれた滝沢君の遺影にわかれを告げた。

主催は別稿のよびかけ人16人とよびかけ団体11団体による実行委員会。

葬儀は、滝沢君の先輩であり同志である宗像啓介氏の司会で始まり、まず実行委員長として全国全共闘書記局員・全学連副委員長の林○○君があいさつしたのち、滝沢君と同じ埼大経済学部でともに闘い、現在全学連三里塚現闘本部長をしている前田○○[2]の発声で1分間の黙禱が捧げられ、同君によって生前の滝沢君の紹介がなされた[3]

虐殺された18日夜結成された滝沢紀昭君虐殺真相究明調査団の葉山岳夫岳夫弁護士は、事件の謀略的性格を詳しく暴露する真相報告を行ない
滝沢君をよく知っていながら12時間も「身許不明」と強弁しつづけたこと
遺族・友人・学校側のだれも立ち合わないまま解剖を強行し
ただちに火葬に付そうとしたこと
滝沢君と同時に重傷を負った友人に対する死を待つかのごとき処置および取り調べ
解剖後の遺体から判断される転落以前の重傷
殺人事件にしては現場の保存、交通規制などあまりにもズサンであること、
などを指摘し、大謀略の疑惑の根拠を説き、事件の性格が大衆的に確認された。

つづいて各界からの追悼の辞にうつり、全学連委員長の金山克己君、救援連絡センター代表の水戸巌氏、武蔵野三鷹救援会のもののべながおき氏(代読)、全国全共闘連合の高島○○君、埼玉県反戦の岩田○○氏、第4インター日本支部の中沢氏、社会主義青年同盟解放派の狭間氏、共産主義労働者党の永井氏、マルクスレーニン主義者同盟の東間氏、革命的共産主義者同盟の陶山健一氏、

故山崎博昭君長兄の山崎○○氏、埼玉大学経済学部自治会委員長の大島○○君の獄中からの弔辞代読、芝浦工業大学全学闘の鈴木○○君、埼玉大全学反戦会議の○○△△[4]がつぎつぎと正面の滝沢君の遺影にむかって追悼と闘いの決意を述べた。

金山全学連委員長は「滝沢君の死は白色テロによるものであり、権力ないしその手先による11月決戦を前にした大謀略である」と述べ、その復讐を11月決戦の爆発、街頭戦と砦死守戦闘争の結合によってはたすことを誓った。
さらに11月決戦の基軸として武器が全くなくとも己の肉を玉として闘う手に入るものは何でも使う一人になっても闘う死を恐れず闘うことを全参加者とともに誓い、自分自身も先頭に立って闘うことを誓った。

 

革共同の陶山政治局員は、「滝沢同志の肉体は抹殺されても、それを幾十倍、幾百倍も上回る闘いがこれにこたえることを、われわれが不死鳥であることを権力は忘れている。わが同盟は君が先頭に立つその部署も決まっていた11月決戦を1021から1か月間の闘いとして戦い抜くことを決定したことを霊前に報告したい。全同盟が君の弔旗を掲げ、君を奪った敵に対する、幾百倍もの敵の血をもって、君の死にこたえることを誓う」とわかれを告げた[5]

 葬儀は各界からの弔電をうけたのち、最後に滝沢君の尊父光人氏のメッセージ(代読)をうけ、全員が「同志はたおれぬ」の唄をくりかえし歌う中を、埼大の友人を先頭に遺影に対する献花をして幕を閉じた。

追悼葬は、国家権力の大謀略と「内ゲバ」宣伝による戦線破壊という狡猾で陰険な攻撃に対して、これを革命的左翼全体に加えられた攻撃として、全党派による滝沢君追悼が行なわれ、11月にむけての共同の決意が固められたことは、「内ゲバ」のデマを打ち破り、革命的統一戦線をより強固に鍛えるものであった。

2に、滝沢君を追悼する最良の方法は、11月決戦に勝利すること、敵権力の幾百倍の血をもって報いることであることが追悼の辞をおくったすべての人々と全参列者によって確認されたことである。それこそが闇の中で殺害された滝沢君にこたえる唯一の方法である[6]。(4面に関連記事=陶山発言)

滝沢君追悼葬のよびかけ人・団体(個人は略)。救援連絡センター、反戦青年委員会、全国全共闘連合、8政治組織


【脚注】

[1] 下大久保校舎 余談を交えて。

北浦和駅からはバス。徒歩で40分?最寄りはJR埼京線「南与野駅」

体育館でという事は、大学当局も使用許可を出したということか? 当時の埼大教授会の度量の広さを感じさせる。学部長?があえてご尊父に面談して「謝罪」も。あるいは当時の「大学の自治」の中でも、埼大執行部が他大学に比して、かなり際立っていたことをも示す。

この年の12月にこの事件で「超広義」の「反戦連合」が一斉逮捕・起訴されたが、翌年末の判決後を含めて、一人の処分者も出ていないことにも示される。それは私も同じだ。4・28沖縄闘争で事後逮捕されて14か月後に保釈出所した私も、なんの処分も受けていない。前年の王子でも起訴されたが同じ。

さらには、弔辞を代読された◯◯君などの東大安田講堂被告たちも、埼大では何の処分もなかった。

当時の日大生・東大生や多くの学生たちは、たぶん気がついていないかも??。

 

[2] 前田○○ 滝沢さんの前の経済学部執行委員長。

全学連三里塚現闘の初代本部長かと思っていたが、「初代は俺だ」と川口顕さん。ともに「雑巾がけができる」「長靴がよく似合う奴」とは故今井さんの言。その後、北富士忍草母の会に乞われて、北富士現闘の初代本部長。埼大時代は、蒼玄寮・悠元寮という600人?の寮生運動の「反対派の」リーダーでもあった。この世代では少なくない「高民」(高校民青)出身。学生時代はアルバイトで生計と自宅への送金もまかなっていた。

 

[3] 「葬儀は、」以下。 よびかけ団体は当時の新左翼系知識人と8派共闘の諸団体。≒全国全共闘。

 

[4] 埼玉大学全学反戦会議の○○君 1年生。反戦会議は、埼大中核派。

滝沢さんたちが求めた「埼大全共闘」の結成が拒絶され、いわば中核派の対外的な看板として旗揚げされた。経済が中心。理工が続く。
 この時期、経済学部は各クラスで選出する自治委員選挙で多数派を奪われた。

民青とバリ・無期限ストに反発する「保守派=自己保身」の多数派による「でっち上げ」経済自治会の成立で、消耗して、活動力を失った。のち、旧執行部も解散宣言。理工もほぼ消滅した。

加えて、中核派による「前夜の襲撃」と滝沢さんの死で、混乱・憔悴。ご尊父の訪問への応接などに忙殺されて「『前進』など読んでいられなかった…」らしい。「白色テロとも言ってたね」

 

[5] 全同盟が君の弔旗を掲げ、君を奪った敵に対する、幾百倍もの敵の血をもって、君の死にこたえることを誓う」  陶山発言のすべてのキモ

 

[6] 滝沢君にこたえる唯一の方法 上と同じ。「唯一無二」と迫る。友人や全参列者にも??

 

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