カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第4章 本社編集局

1      本社の空気

 豊島区要町に前進社は移っていた。1階は印刷工場。シャッターは鉄板で覆われ、外側には土のうが敷いてある。階段の下には鉄のドア、入口は2階に1ヵ所だけあった。鉄のドアの内外に社防(前進社防衛隊)が就いていた。専従も動員の労働者も、寝不足の目をぎらつかせている。疲れ・興奮・汚れ、と言えただろうか。
 2階にはDKの部屋が2つある。1つは小さな食堂、奥の居間は救対だ。奥の部屋が、私の属する編集局部屋だった。屋上のプレハブには、小さく区切られた会議室があり、奥に社防司令の小部屋があった。館内放送用のマイク、そして外には、巨大なサイレンとサーチライトが据え付けられていた。この本社に、『前進』編集局員として寝泊まりする事になった。
 
 以降、私は「刈谷」になる。
 
 内戦の真っただ中だ。本社業務の第1は、本社の防衛だ。全ての業務も戦争を中心に組み立てられている。
 
 3階のいくつもの小会議室で、地区委員や学生の会議が、同時に開かれていた。幹部の怒声が飛び続ける。「どうなんだ、日和るのか。死ぬ気あるんか」。「大衆運動主義じゃないか」。隣の小部屋と競うように、机を叩き罵り続けている。指導部による暴力が、日常茶飯事のようだった。神奈川とは、あまりに差が大きい。
 
 いつだったか、タバコの不始末のボヤが続いた後、「ライターを持つのは、各部局のキャップ以上」という決定が出た。ボヤを出したのは指導部だったけれど、彼は持つ権利がある。「何言ってんだ」と内心思ったけれど、黙り込む。タバコ1本吸うのに、指導部を捜し回り、時には会議中に頭を下げて火をつけてもらう。「社会人経験」をした私には、堪え切れぬ思いだ。
 
 埼玉のMさんも、職場で働く社防の常連だった。対革マル戦の最盛期にも、狭山、三里塚に、彼は一家総出で参加していた。父・母・兄妹、みんな一緒だ。「戦時下」に、日常生活について真剣に話し込む人だった。異色な人だ。
 ある時彼が、しんみりと言う。「刈谷さん、あなたも変わった人だね。中核派にはいないタイプだよ」。おやおや、そうなのかな?「刈谷さんみたいのがいるから、俺もやってられる」。返事が出来ない。
 

2      軍報で逮捕

編集局に移って数ヵ月も経たない時、私は軍報を所持して逮捕された。
 普通、「裏」から届いた軍報を編集局でリライトして、本物を破棄する。まずコピーを取り、元原を「ガサ対」として一旦外に避難する。私は、その役を任せられた。前日来の任務で睡眠不足、時間つぶしを兼ねて新宿のドヤ街を訪れた所で、不審尋問にあった。「中を見せろ」と言われて、見せれば済むかもしれない、けれど……。頑強に断っているうちにパトカーが集まり、近くの交番に連行されてしまった。
 中身を見て驚き小躍りした警察は、公安が飛び込んで来て逮捕。以下、23日間の留め置きとなった。新聞報道にもデカデカと出た。手書きの原稿、筆跡が明らかな原稿を奪われた事は大敗北だった。一歩間違えば、筆者に指名手配が出たかもしれない。私自身も長期投獄にも直結しかねない。
 
 釈放後、キャップと話し合った。事情はあまり問われず、「刈谷に指示したのが間違いだった」との総括が示された。刈谷=私本人の責は、全く問われなかった。会議でもその旨が示された。
 「日日の諸問題にかまけて軍事を直視しない指導の責任」として総括されたらしい。まだ編集局としては新人、都内を知らない私を指名したのが謝りだ、と。問題は、日日の雑務の多忙さを直視することなのだが……。
私は、こういう時の対応力に自信があった。普段なら簡単にすり抜けられた。ただこの時は別の事情があった。数ヵ月前の職質事件。「完黙の原則」が私を支配して、思考の自由を奪ってしまった。
 

記者会見

 釈放後、記者会見をもった。しかし救対が一方的に無実を述べ、質問にも答えない。立ち会わされた私への質問も答えさせない……。つまらない会見だった。「記者を引き込む」事など考慮の外の会見に、何の意味があったろうか。マスコミに対応する基本姿勢が、入り口から間違っていると思う。
 立花隆の『中核vs革マル』の面白さは何だったろう?もちろん、立花氏の手法の面白さがある。もう1つ、本多さん自身が登場して、嫌な質問に答えた事だ。生の会話が、中核派への共感、その政治的優位性を印象付けたのではないか。実はその為に、逆に中核派の限界が見えてしまった事もある。けれどもそれは、一応別の話だ。
 マスコミという事で、もう1つ。私たちのベトナム反戦闘争は、本多勝一氏と大森実氏らの戦場からのルポと切っても切れない。解放戦線は、彼らに自由な取材を許す事によって、自らでは決して語り得ないだろう、農民の生活と闘いを活写させた。情報操作を拒否する筆者たちの姿勢が、行間ににじみ出る。だからこそ、私たちの心が動いたのではないか。勝利して後の共産党の「変質」、これもまた、別の問題だ。
 権力を取る前から、こんな事では、私たちは勝てない[1]
 

編集局の日常

 編集局の2間の部屋は、共に6畳だったろうか。片方は編集室で、小机が9つくらい。片方は寝室兼居間で、3段ベッドが3つくらいだったろうか。当時の編集局はようやく10人を超えた程度、これで週刊『前進』と、月刊『武装』を発行する。季刊『共産主義者』は出版局だ。
『前進』三部局として、経営局・印刷局は三位一体だ。機関紙の発行は党の生命線。革マルの襲撃も相次いでいた。「非合法下の機関紙の維持」という熱意に燃えて、工場を立ち上げた古参同志も多い。
『前進』作成の最大の課題は、何よりも定時に出稿し、定時に完成する事だ。印刷・折り込みをやり終えた新聞をホロトラに積み込み、全国の地方委員会から来るホロトラに引き渡さなければいけない。この「脈管」の場面こそ、権力と革マルとの戦争の最大の攻防点だからだ。映画「クライマーズ・ハイ」のような、編集局と経営局・印刷局の熱いバトルが、日常的に起こっていた。
 

入稿問題

 編集局から出稿する。印刷局は入稿する。私たちはこれを「入稿」と呼んだ。入稿時間の厳守、それは軍事問題として第1級の課題だった。
 しかし、しばしば入稿時間を遅らせてしまう。理由は色々だ。まず編集作業それ自体で、手間取る事がある。せっかく組み上げた大組みに、政治判断で後から1筆付け加える事もある。「裏」から突然、指示や原稿が来る事もある。
 印刷工場の工場長が、怒鳴り込む。「いい加減にしろ、軍事をどう思っているんだ。政治より軍事優先だ。工場に尻拭いさせるな。編集のプロになれ!」。そのたびに謝り、仕事後の打ち合わせには自己批判文を出す。「プロになれ、印刷工場に見習え」。
 工場の作業は、植字・大組み・写真・製版・印刷、そしてビラなどのオフセット輪転機がある。後には自動製版になる。初期の人たちは、民間の印刷会社に勤めて、技術を持ち返って来た。「職人になる」、そのために日夜訓練を重ねている。そして、「この編集局・編集局員」のために生涯をかけている。
 
 水谷さんが下獄中、リリーフとして藤掛守さんが編集局のキャップになった頃、工場の怒りはすでに沸点に達していた。「俺たちが党員だからナアナアで済んでいるけれど、これ以上我慢できない」と言う声が溢れていた。
 誤字・誤植、それが「死活問題」に発展してもいた。同志会論文の時には、それが「差別」と糾弾されていた。藤掛さんの時代、会議の大半が、毎号の入稿問題の点検と総括に費やされていた。
 私は、誤植見落としの最たる存在だった。入稿問題の総括でも、いつも小さくなっていた。工場メンバーとの会話でも「入稿問題」に話が及ぶと、「すみません」と下を向くしかなかった。
 後日、私は「近眼」ではなく強度の乱視である事を知った。考えてみれば、これも1つの原因だったのだろうか。
 

離脱と死

 私が入って後、編集局からは3人の離脱者と1人の死者が出た。指名手配も1人だ。まず、初代・障解委(障害者解放委員会)キャップが本社を出て、戻るのを拒否していた。障解委さんは、元・社会福祉大学。新左翼系の全障連の主導権を、一時中核派が握ったのも、彼の功績がありそうだ。彼の障解委からの解任と移籍の理由は、詳しくは知らない。しかしこの頃、地区や「諸戦線」の首のすげ替えは珍しくなかった。
 彼の下にいた障害者のために、本屋さんが設けられていた。その経営が悪化して、その立て直しに彼は奔走していたのだ。破綻の原因に、障害者のサポーターの不在がある事を彼は苦しんでいた。障害者の自立と、党の任務の板挟みに苦しんだ。私が、「連れ帰る役」を任された。彼と会ってあきらめた。どうしていいか、私にも分からない。
 2人目は元全学連書記長。サブキャップとして着任したけれど、古参編集局員にいたぶられて逃げ出した。
3人目は学生時代から、勇猛さで名を馳せた女性だ。本社第2ビルが出来た後だと思う。「本社に行こうとすると、体が変調する」と苦しんでいた。何度もそれを繰り返して、来られなくなってしまった。
Fさんは、「問題の所在を考えて欲しい」と提起していた。けれど捉える事は出来なかった。この頃、「女性の突然のダウン」と言う事が、上層部でもようやく捉えられ出していた。「献身的な女性ほど、無理を押して突然倒れる」。女性問題とは何か、<男並み>を強要する組織とは何か。中々深まらないうちに、身体が悲鳴をあげていた。
 
 出労連(出版労連)から送り込まれた、編集のエースの大福さんが亡くなった。週刊誌の名アンカー。記者たちの取材や資料を基に、記事を書く仕事を経て来た人だ。彼の死は、余りに早過ぎた。
 
 私は、睡眠時間を8時間とらないと動けない。5時間、6時間で動ける人をまねようとしたけれど、出来ない。任務の間のわずかな時間を有効に使う人々に、どうしても追い付けない。


[1] マスコミ。70年闘争では、中核派は「マスコミ左翼」とヤユされた。白ヘルはテレビ映りが良い。マスコミをうまく使った

 

1      夏期合宿

 編集局では年に1度、夏期合宿があった。清水さんもほぼ毎回顔を出し、節々で発言していた。80年代、公然部門のトップだった北小路さんも時折加わった。当然、結集・解散は厳重な態勢で守られた。多くの同志たちに守られて、もちろん宿帳に書く人別・社名もシンパの実名だった。
 しかし、編集局メンバーの非公然活動の資質は、私から見て最低だった。「会社の上司と同僚」、そういう雰囲気とは全く無縁だ。「客を看る」旅館の人々に「不審感」を抱かれないかとヒヤヒヤした。ま、相手も商売だ。面倒は起こしたくないかもしれない。それが助け、か。
 
 時々の綱領的な主要命題を「チューター」が報告する。辞書によれば「教師・講師・ティーチャー」の意だ。ここで、現代戦争テーゼや国家論などが論議された。ベトナム戦争が終結し、アメリカは後退・再編にあがいていた頃だ。
「現代戦争テーゼ」は「帝国主義が帝国主義であり、スターリン主義がスターリン主義である限り、帝国主義間戦争、帝国主義とスターリン主義の戦争、スターリン主義国間の戦争は不可避である」というものだ。
 言い方を変えれば、「大国による小国への侵略戦争だけが問題ではない。大国間戦争が切迫している」と言う意味だ。ここに中核派の世界認識の出発点、特異性を獲得しようという事だ。
 約10年後、ソ連が崩壊した。中核派は、この崩壊の第一義的要因を「米ソ軍拡戦争でのソ連の劣勢」に求めた。
「スターリニスト国家間の戦争では、イデオロギー的対立が、大きな要因となる傾向がある」。これは中ソ対立、中越戦争をめぐる認識だ。
 
休憩時間、居並ぶ中で北小路さんがお茶を淹れる。さすがは「京都の公家さん」だ。作法に則り、番茶がおいしくなる仕草だ。清水さんがじりじりして「早くしろよ、飲めば同じだろ」と叫ぶ。清水さんの声が、異常にかすれている。会話不足の反映か。私の獄中時代の拘禁症状と似ている。やっぱり、孤独な地下生活は、苦しいのだろう。
 

国家の本質は暴力

季刊『共産主義者』で発表された「国家論」も、ここで討議された。レーニンが国家について書いた諸文献の、ひと言ひと言を追うだけの研究成果だ。でもつまらない。何を言いたいのかが見えて来ない。そんな本だった。
城戸の発言は印象的だった。「幻想国家論と暴力論の関係が、今までスッキリしなかった。これでハッキリした。国家権力の本質は暴力だ」。本多さんの「幻想としての国家」論が転換された一瞬だったろうか。清水さんはニコニコして聞いていた。
私はと言えば、「忍」の時代だ。ひと言で切り返す、そのひと言も浮かばない。「勝てば官軍」でもあるまい。そう思いつつ、沈黙だ。
 
 イラン革命が論じられた時だから、79年か80年だろう。私が書いた2つの「第4インター批判」論文が、清水さんにお誉めを頂いた。「俺はめったにいいと言わないけれど、あれは良かった」。
 2つの論文は、その9割が他の重要論文の切り貼りだった。水谷さんの指導でそうなった。口を尖らせて事情を言ったが、「いいものはいい」。憮然としながら腹の中で叫ぶ。「同じ切り貼りでも、お前らとは違う。ちょっとしたひと言を加えるかどうかの差だ」。
 

国家論について

 共産主義者にとって、「国家とは何か」「国家とどう向き合うか」は第一級のテーマだ。
 南北朝鮮の分断、東西ドイツ問題――民衆は統一の悲願を胸に苦しんでいる。何よりも、この日本で、敗戦・占領から「独立国」になった時の歴史的体験がある。そしてまた、沖縄の本土復帰闘争の実現。
 
 国家の本質は何か?「共同幻想」論か「暴力」論か。私は猿の群れを考えてみた。猿の群れは1つでは成立しない。いくつかの群れがあり、互いに親戚関係か赤の他人かの区別もある。1つの群れは分裂する事もある。まれに併合する事もある。ボスを先頭に、移動し敵と闘い生き延びている。群れの中の諍いや序列を調和させつつ群れとして生きる。この総体が、「群れの研究」であり「国家論」となる。
 この群れが、「共同体」であり「国家の萌芽だ」。「色々あるけど、仲間だから」、この仲間意識を成立させる内的なものを「共同性」「共同幻想」と呼ぶ。
 普通ボスは腕力勝負だ。けれど腕力だけで、凶暴すぎたり無能だったりすれば、袋叩きにされて地位を失う。「仲間を守れないボス」は、打倒されるのだ。長老猿の知恵を借りる事もある。合意の形成とその実現の仕方も対象になる。
 
 本多さんの依拠した「幻想としての国家」論とは、こういうものだと思う。その暴力論(『戦争と革命の基本問題』)では、国家は「内部統制と外部対抗」という2つの契機によって成立すると説く。「内」と「外」を隔てるのは、民族=国民という「幻想の共同体」という器だ。そしてこれを境にして、「外」への暴力と「内」への暴力は、全く違う。
 歴史を振り返れば、あの戦前の暗黒の時代でも、「外地」の植民地朝鮮と「内地」の日本本土では、「自由」には質的な差があった事がすぐ分かる。「7・7自己批判」もまた、こういう認識に支えられて生まれたはずだ。
 
「国家の本質は暴力であり、共同幻想などではない」と言い切る事は、「無知の独断」でしかない。いや、そもそも「本質は1つ」という短絡的思考こそが問題だ。思考の回路を自ら閉ざすような思弁を越えよう。黒田哲学のいう「開かれた環」に学べ。
あとは、「先制的内戦戦略」が暴力万能論でない事を祈るのみだ。
 

滝沢同志の追悼文

毎年8月に載る「滝沢同志追悼」の文には、「スパイ・反党分子」のフレーズが必ず入っていた。筆者は、埼大関係者が交代して書いていた。当時は獄中にいたけれど、私は「サブ・キャップ」。私こそが、まず書くべき立場だった。けれど編集局員になってからも、1度として声はかからなかった。
しかし、私はその都度、「ホッ」とした。たとえ議論しても、滝沢さんが生き返るわけでもない。「反戦連合」側も、傷が癒える事もない。「寝た子を起こし」て何になる。「臭いものには蓋」がいい。
滝沢さんのお宅に伺ったのは何時だったろうか?ご両親と話し合い、「被告」たちが何度も伺っていることを知った。
 

 

1      「高次段階」論の前提

「先制的内戦戦略の高次段階(PⅡ、フェイズⅡ)への突入」。大論文だけれど、誰も意味が分からない。マオさんの『革命的組み換え』論文で、みんなようやく少し分かりかけてきた。「2重対峙=対革マル戦」から、対権力闘争を第一義的な課題として闘う、という事か。
 対権力の革命的武装闘争に突入する。その下で、一部、大衆運動での凍結を解除する。対革マル戦も、その下でより本格的なものになる、そういう理解だったと思う。
 けれどみんな、よく分からない。対革マル戦はすでに総反攻のただ中だ。……東工大での5人完全せん滅は、戦争として彼我の差を決定的なものにした。「さらに進め」ではないのか。
 水谷さんの解説だったろうか。確かに革マルは戦意を失っている。「謀略」論による自家中毒も深刻だ。けれども、その勢力は衰えてはいない。若い世代を獲得し、今や動労本部も握った。教労その他の勢力も侮れない。中核派は陣形を立て直さない限り、「3頭目処刑」も「敗北する全革マル成員の総せん滅」もあり得ない。敵もまた、反革命的「人民の海」にいる。
 党は対権力・対革マルの2つの非公然軍を持つ。さらに公然の軍(行動隊)の下に、大衆領域へ打って出よ。さらに反軍工作を加えれば、蜂起の陣形は完結する。対権力闘争を通して、革マルを大包囲するさらに巨大な陣形を勝ち取ろう。
 何の事はない。革マルの勢力・態様への認識が、全く違っていたという事か。
『前進』1面の路線論文の書き方も変わった。第1章 対権力、第2章 対革マル……。
「対権力の革命的武装闘争の戦取」について、私は甘く捉えていた。「少しは大衆運動にとりかかれる」という思いが先に立った。
 

2      三里塚Ⅱ期決戦

三里塚実行委の盛衰

 近づくⅡ期攻撃に備えて、三里塚実行委員会が結成された。当初実行委は、中核派主導の統一戦線を目指していた。そしてその外に、より広大な共闘もある。課題は三里塚、そして動労千葉のジェット燃料輸送阻止闘争の支援だ。
 全国実行委の世話人に、10人の人士が並び、表のトップの北小路さんが出席する。ここの決定が最終決定となり、各地の実行委へ下される。私は実行委担当も兼ねた。取材の過程で初めて、世話人の人々の素顔を知った。
 宗教評論家の丸山照雄さんは、真宗本願寺派の同朋会運動に深く関わっていた。同朋会は、真宗の戦争責任を問い、部落差別の責任を自ら問う運動でもあった。本願寺派の謝罪決議を生み出した原動力となった。
 各地の実行委の世話人も、多くの人士で形成された。これらの世話人で成り立つ実行委運動の広さと豊かさを、私は充分に伝えたとはとても言えない。
 問題は「党」だった。行動隊の下、軍事編成された街頭宣伝隊は、道行く人になじめない。マイクの訴えも空を切る。
それでも、少しずつ少しずつ、変わって行った。動員力も増えた。組合で共に現地に参加する人も増えた。けれど組合旗を持って大衆動員に成功した所は、権力のガサと革マルの集中砲火を受けて自壊してしまった。
 
問題は『前進』だ。三里塚の反対同盟や動労千葉や解放同盟・荒本支部、そして各地の実行委を除いて、せっかくの運動を記事に出来ない。三里塚の記事でも他党派の存在すら無視する『前進』が讃える運動は、即ち中核系だと自己暴露する事になる。もちろん、非党派の住民運動や市民運動は、目玉記事ではある。やはり「人民の闘う砦・三里塚」だ。
 関西に飛び、実行委運動の展開を記事にした。渋る常任を口説いて、日々の活動を取材する。それをまとめて連載「広がる渦」に載せた。「これを見ると、関西も意外と頑張っているよな。見直した」。常任さんの感想だ。自分の闘いへのニヒリズム。これを解きほぐさなければ。
 
83年の「三里塚3・8分裂」の後も、世話人会はわずかに持ち堪えた。けれど、2波・8人の、第4インターへのテロに抗議して、世話人会は最終的に崩壊してしまった。地区の世話人会も大同小異だろう。
 後に残るのはただ、純粋中核派系の大衆動員組織だけだ。動員力は少しずつ伸びたものの、Ⅱ期決戦を闘うにはほど遠い。三里塚陣形の「豊かさ」も消えてしまった。「書ける記事」もさらに狭まる。
 
破防法に反対する人権と民主主義のより広範な陣形の獲得のため、『破防法研究』も改題された。しかしその第1号は、そのまま絶版になってしまった。投稿に応じた人士の中に、三里塚の脱落派(熱田派)の人がいた。また、アジア女性基金での「裏切り者」がいた。
 これで良かったのだろうか。様々な矛盾を抱えた幾重もの統一戦線。「党」というものは、そこで股裂きになりながら、体を張って堪える。そのためにこそ「党」があるのではないだろうか。「党の一体性」とは、この悩みを分かち合える人々の集合ではないのだろうか。第4インターへのテロルとその思想は、どこから生まれてしまったのだろう。
 

動労千葉

 片肺空港のまま、開港に向けて政府公団が突進する。それを阻んだのが、ジェット燃料輸送のパイプライン施設問題だった。千葉市花見川の住人たちは、「危険なパイプラインが住居近くを通る」事に反対していた。彼らもまた、三里塚集会に結集していた。
 78年5月、ジェット燃料の貨車輸送が始まった。闘いのさ中の79年3月、当時の動労本部・革マルから独立する。鉄道を使って、当面開港に間に合わせる。三里塚に参加する動労千葉にとって、死活・存亡の瀬戸際だ。
 
私は写真班として派遣されていた。いざ決戦の序章、実際に貨車を走らせてみる線見訓練の時、組合員に付いて私も機関区の中に入った。機関士が1人、職制に囲まれて立っている。機関士が職制に「スト」を通告する。タラップを下りて来る、その晴れやかな顔を撮りまくる。
闘いを準備する青年部集会の決意表明を聞いた。親組合の方針を1つ1つ噛み砕くように、自分の言葉で語ろうと葛藤している。そこに、真摯な思いがにじみ出る。
支部の組合員オルグも覗いた。乗務員控室だったか。ストーブの脇で、支部の役員が組合員と1対1で話し合う。時に中野委員長の言葉を、そして時に自分の思いも込めて語る。組合員はほとんど無口のままだ。信頼・不安・熱意……。わずかな表情の変化に出るだけだ。闘いの時、彼らは1人で職制と向かい合わなければならない。その決意を固める場所がここだ。気の遠くなるような、1人1人のオルグを経て、決戦は準備されていた。
 
 学んだ事は多い。1つは、高石闘争[1]以来の運転保安闘争だ。三里塚と連帯し、開港を阻むこの闘いも、「危険な輸送反対」という運転保安と固く結び付いていた。運転保安の闘いと熱意があったからこそ結びつけることが出来た。
 2つ目は、労農同盟。組合員の1人は、反対同盟の家族だった。組合員1人1人の利益と結合して、組織内問題としても労農同盟はあった。
 3つ目は、撤退のための闘いだ。動労千葉本部が、ストを中止して「ハンドルを握る闘い」「鉄路を支配する闘い」への転換を決めた後、実際の撤退まで、数ヵ月をかけていた。
 決起の時と同じかそれ以上に、組合員1人1人が納得するまで、丁寧で熱意を込めた説得が続いた。「これは裏切りではないのか」、「動労千葉はまた闘えるのか」。説得の役割もまた、支部の役員1人1人だ。
 反対同盟がもし、動労千葉を裏切りと呼んだならどうなっていたろう。この点では、反対同盟への中核派の影響力の大きさを抜きに、動労千葉の整然とした後退はあり得なかったと思う。戸村委員長のひと言が、流れを決めた、とも言える。
パイプラインが供用を始めた83年8月まで、動労千葉の組合員は悶えながら、成田空港へ燃料を輸送し続けた。動労千葉は潰れなかった。
 

 

[1] 高石闘争。72年の船橋事故で処分された高石運転士の処分撤回闘争。「事故の責任は当局にある!」。高石闘争は反合・運転保安闘争をレベルアップさせ、動労千葉は、「全国1」の労働条件を獲得した。
[2]POSB。諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。

楽しくやろうよ」

青木忠さん等の新4人組が台頭した。先輩Mさん、中部のキャップ……。「フェイズⅡ」への移行に伴って、遅ればせながら始まった改革は、大衆運動の作風を変えようとするものだった。「闘いは楽しく」が合言葉、デモや集会もイベント風に変わった。決起集会でも新4人組が段上で次々に「魅力ある運動」「希望ある……」を語った。
「楽しくやろうよ。闘いなんだから楽しく」。発言が終われば、「嵐のような拍手」と、白けた空気が同居した。実行委員会は暗礁に乗り上げていた。何とか活性化しよう。それは分かるけれど……。昨日まで、同志たちを「大衆運動主義」と口を極めて非難し、時に手を出して来た彼らがそんな事を言ったって。
それでも雰囲気は徐々に変わった。しかし、トップ4以外の人事は変わる気配もなかった。路線も不変のまま。結成された各地の実行委の事務局も、論功行賞による人事の横すべりが目立った。
 ある時、新4人組の1人と喫茶店で語り込む場面が生まれた。実行委の方向について、私も思いを語り大いに共感しあった。「一緒にやらないか?」と誘われた時、一瞬迷いがあった。「ようやく陽の目を見るか」との希望もあった。新4人組のスタッフになるのも悪いものではなかった。
 しかし、私は断った。「やらないよ」。上すべりの改革に、期待は持てなかった。青忠自身の過去も知っていた。私の心も運動の温度も、この程度で温まるとは到底思えなかった。
「楽しくやろうよ」運動が続いたのは、1年ちょっとだろうか。対革マル戦の局面変化もあった。笛吹けど踊らぬまま、運動は消えていった。水谷さんと旧4人組が復活して、騒ぎは元のサヤに収まった。
 
改革と北風
 多分この頃だったろう。「前進社は文化果つる地」という事が、政治局にもまともに論議された事があったらしい。隣接するビルを買い取り「前進社第2ビル」と名付けられた。
 文化の潤いを、理論の再建を。『前進』と編集局の位置づけが大きく変わった。まず、「憎きファシストめ、ドスン、バスン、ギャー。△△の恐怖に満ちた云々」。これを止めて「軍報」も淡白なものにする。大衆運動への回帰を促す論文や記事へ。
 多忙な任務を実情に合わせて削ぎ落とし、少しでも学習や生活を取り戻そう……そんな事があった。「編集局の指導部機関としての再定義」もこの脈絡にあったと思う。
 この頃、公然面のキャップは水谷さんだと思う。[1]しかし編集局メンバーの序列は、POSB (政治組織小委員会)よりはるかに低い。これをPOSBに準ずるとする事で、改善の糸口がつかめるかもしれない。地区の学習会への指導的立場からの参加、時には取材時の「特権」、党も少しは風通しがよくなるかもしれない。
 この頃、「編集局メンバーは2線級」という「悪しき慣例」があった。地区が欲しい人材を放さないからだ。そのため、全学連書記長が送り込まれてサブ・キャップに収まった。
「全党の活性化」が焦眉の課題だった。政治局から見ても、「軍令主義」の下で、君側の奸がはびこり、茶坊主化した編集局の作る『前進』に、堪忍袋の緒を切らしたのだろう。せっかく作りだした諸テーゼを、お題目のように繰り返すだけの『前進』は、あまりにひどいと。「少しは自分で考えろ」。しかし、一旦凍りついた体質は、少しの温風では容易には溶けない。
 
 社防体制でも、編集局メンバーは全員「隊長格」になった。正直気持ちがいい。世間知らずの若造に偉そうに指図される時、心身ともにぐったりと疲れる。その悪夢からようやく解放される。けれども、大先輩のマオさんや純正慶応ボーイの「先輩」、彼らの隊長になる時は、内心弱り果てる。お地蔵さんのように、にこやかに受けるこの人には、心が救われた。本当に頭が下がる。
 
 軍令主義的体質の綻びが見え始めた時、地区でも編集局でも、真っ先に指導部と指導体質への批判が広がっていた。「使える『前進』に」というアピールは、「使えない『前進』」への批判や不満を呼び起こしていた。
怨念とも言える「下部主義」の突き上げで、何人かの首が飛んだ。しかし中には、「棚上げ」されたはずの人間が、いつの間にか上級指導部としてのさばり返っている、という事も起こった。
 再び、寒風が吹いてきた。春の訪れが近いと思われた頃、「下部主義との対決」が強調されてきた。
「あれが無い、これが無いと言うな、党中央の立場に立って考えろ」。「指導部の責任は、中央に対する責任だ。被指導部に迎合してはならない」
 しかし、党全体を見渡すシステムも能力も壊れている中で、「党中央の立場に立って」という事は、「何も言うな」か、出世主義に走るか以外の何物をも意味しない。
 
変化に敏感な学生戦線では「ミサイル事件」が発生した。力をつけ、自信を強めていた法大支部で、支部丸ごとの「分派」が発覚した。法大オルグ、事実上の法大キャップである全学連委員長1人を残した全員による「分派」だった。
中心メンバーを幽閉して各地へ飛ばした事で、ひとまず反乱は収まった。狭い編集局にも1人幽閉されてきた。私はただ、「コーヒー飲むか」と言えただけだった。反乱分子の有能さや活力は、その後、幾多の場面で実感する。


[1]POSB。諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。

中核派の農地守論
69年に、埼玉大学に入学したその日から、私は活動を始めた。10・8羽田を含め「死闘の7か月」を私は行動隊として闘った。この時点で私は、起訴1、逮捕歴20回を超えている。けれど、「息切れ」も自覚していた。佐世保、王子で、何万を超える市民との合流に身を震わせながら、それが「街頭での合流」にとどまっている事に物足りなさを感じ出した。
 三里塚闘争は、農民との合流だった。私は、父母の故郷の匂いのする「三里塚の大地性」が好きになった。ここには生活がある。だから、「軍事空港粉砕」よりも「農地死守」に、より共感を持っていた。「このコンクリートをひっぺがし、緑の大地と村を取り戻そう」と訴える、故・戸村一作委員長のアピールに胸が熱くなった。空港という「公共性」――「公共性とは何か」、「住民エゴではいけないか」、それ自体が大事な争点だ。
岩山鉄塔決戦の前だから、74年だろうか。『前進』に、「農地死守について」という大論文が載った。私は飛びついた。そして、「えーっ」と驚いた。論文は言っている。これまで中核派は三里塚軍事空港粉砕論だったが、ここに改めて農地死守論を位置づける。今まではそうでなかった?
実践と理論のかい離という事を知る。うーん、理論の成長とはそういうものか。中核派とは、そういう厳格さを持つものなのか。
けれど新しく打ち出した農地死守論には合点がいかない。農民が私権として土地を扱うならば、それは反動的だ、けれどもそれを人民の共有財産として闘うならば、それは階級的・革命的だ……という内容だったと思う。
この論文は、用地内農民の「土地は売らない」という闘いを言っているけれど、用地外=騒音地区農民の闘いは位置づけが無い。石田さんの言う、「食える運動」にも触れていない。
農民の、農民としての生活と明日について語っていない。三里塚闘争は「全人民の砦」ではあるけれど、やはり農民の1個別闘争だ。条件闘争の余地のない農地強奪ではあるけれど、「革命なしに勝利はない」でもあるまい。
三里塚には各地の農民が駆け付けている。日本の農業をどうするかが、当然話題になる。けれどもそういう視線が無い。「労農同盟」の「農」の位置づけも無い。「言葉の綾」だけの「労農同盟」論……。
 
成田空港開港の中での「農を守る戦い」。中核派には、その問題意識が見えない。敷地内、親同盟への管理を強めるだけで、三里塚の「明日」が見えない。「売らなければ勝てる」のか?三里塚集会で、北原事務局長が読み上げる大会宣言は、現闘の原稿だ。北原さんの声が聞こえない。
轟音下の岩山で、お年寄りや子どもがおびえる。体を壊して移転して行く。反対同盟農民も、労わりの声で送り出す。答が出せない。
 

三里塚現闘の重み

 全学連現闘は、中核派の中核派たるゆえん、でもある。初期の現闘キャップのMさんは、今でも農民たちの語り草だ。激動の7か月の中で、埼大中核派はMさんともう1人を現闘に送り込んだ。援農、日刊三里塚、団結街道の行進――戸村さんのドキュメンタリーにも出ている。農民と共に住み、共に闘う。三里塚の熱い日々の数々、私たちの火炎瓶も角材も、それは農民の実力闘争の手となり足となる闘いだった。
 もし、共産党が農民と共に座り込んでいたら、もし彼らが座り込み現場から逃げ出さなければ、共産党の主権力が奪われる事はなかったかもしれない。そしてもし社会党が、会議の「上座」に固執しなければ、邪険に扱われたりはしなかったかもしれない。
 現闘こそ、三里塚闘争そのものだ。全国への檄を発する現闘、それに応える全国の支援。誰もが知る事実だ。
 
 けれど、Ⅱ期決戦の中で、私は別の疑問を膨らませた。「党中央がいない」。中央独自の判断が示されない。「現闘からの垂れ流し」だけだ。
 現地と全国の支援、その共感と矛盾、その矛盾を克服する努力、それを中央は果たそうとしているのか?三里塚実行委員会の発展のために何をしようとしているのか?
 89年の2つの斎藤論文の中で清水さんは、杉並選の敗北の責任を、北小路さんを筆頭とする「表」指導部の無為・無策として、口を極めて非難した。確か、「動物的勘にまで高めた科学」だっけ。三里塚基軸路線という、基軸中の基軸でも同じだったのではないか。
 

「3・8分裂」の経緯

1983年3月8日、三里塚・芝山空港反対同盟は分裂した。中核派などは「北原派」を、第四インター派らは「熱田派」を支持した。主として北原派は用地内、熱田派は騒音区域を制した。中核派は熱田派を「脱落派」と呼んだ。
分裂の原因は主に「成田用水」や「1坪再共有化運動」の是非をめぐる対立だと言われている。中核派は「1坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した[1]
 
編集局の会議で、反対同盟の分裂の経緯が報告された。水谷さんが基調を、三里塚担当が補足をしたと思う。
分裂を決定づけたのは、青年行動隊らが主催する「大地の祭り」だという。主導権奪取のための「祭り」という分裂集会、その集会を許さぬという事で、分裂が決定した。[1]
主導権をめぐって、いくつもの争いがあった。故・戸村委員長の後継委員長の選出問題、そして成田市議選問題など。共に反対同盟を代表する北原事務局長の地位や権限を、「互いに分有し合う」という口実で削ぎ落とす攻撃だ。そして、北原さんに象徴される反対同盟と中核派の絶対的と言える信頼・信義の関係に、クサビを打ち込もうというものだ、と。
 
 Ⅰ期の開港という既成事実の重み、軒先まで工事するという凶暴な攻撃、そして成田用水への公団による補助というからめ手からの懐柔――そうした中で、青行らの動揺、裏切りの道が始まっているのだ、と。
 

 私には、現地の実情は分からない。けれども、こうした形での分裂については疑念が解けない。「脱落派」の委員長になった熱田さんは、断固とした人だという。しかし、この硬直した対応を批判して、敵の側に回ってしまったのだという。仮に分裂不可避だったとしても、必要な妥協を重ねる事で、より有利な分裂になったのではないか。

 中核派と新左翼諸党派は共に、ある意味で三里塚闘争に存亡をかけて来た。その意味で、第4インターへのテロ以上に、この「3・8分裂」そのものの功罪が、中核派の功罪を決するものになるだろう。
萩原進さんも、青行の言う「農民としての闘い」について、1面、大いに共鳴していたと聞いた。三里塚闘争の開始以来20年弱、1世代分の時間が経った。世代間抗争としての側面もあるという。成田用水に対抗して、援農としての暗きょ排水工事も遅ればせながら始まった。こうした問題に、しぶしぶ政治的に対応する後手・後手に、不安が増す。
いずれにせよ、反対同盟の豊かな「農民性」が消えてしまった痛手は大きい。
 

土木作業員の死

 83年6月7日、空港関連へのゲリラ戦で、土木作業員2人が焼死した。焼き打ちした現場事務所に、たまたま2人が泊まり込んでいた。「革命軍軍報」の速報では、悪辣な会社幹部への当然の……とする表現があった。「速報」は、直後の『前進』に載せるため、「表」で書かれる。
 
直後の編集局の会議で、私は抗議した。「たまたま居合わせて死んだに過ぎない。これを正当化するのはおかしい」。
水谷さんが形相を変えて反論する。「誰の立場で言ってるんだ、寄せ場の悪質な暴力手配師でもある[2]。せん滅されて当然だ」。
私は言い返した。私の友人は、寄席場の近くの土建会社の社員だ。この伝でいけば、彼もまた、せん滅されてしまう。「寿に行って聞いてみろ。建設会社の社員であるだけで、せん滅当然と言うかどうか。殺すのが目的のゲリラではなかったはずだ」。水谷さんがなおも言い返す。他のメンバーは黙ったままだ。彼らに寄せ場のことなど分かるはずがない。
 
数日後、緊急の会議が招集された。水谷さんが提起する。「今回のゲリラの目的は焼き討ちにあり、せん滅を意図したものではなかった。この件に関して、〝せん滅”の用語は使わない。ただ公団への脅しとして、〝第2、第3の6・7”はある、という言い回しをする事もある」。
事実上の撤回だった。しかし、自己批判も、私への非難の撤回もなかった。そして、会議は事もなく終わった。
数日後、K教授に電話を入れて「会いたい」と言うと、ただちにOKがもらえた。北浦和のいつもの飲み屋で、しかし今回は特別に1室を用意して待ってくれた。傍らに弟子のWさんがいた。K教授は「大丈夫か?三里塚はこれで終わりじゃないか?」と心配した。私は、公式の立場を伝えた。そして「大丈夫です。意図してやったのではないという事をハッキリ示せば、私たちの世代は受け止めてくれると思います」と付け加えた。Wさんが、これを保証した。そしてK教授も安心の表情を浮かべた。私もホッとした。
 

「ドン百姓」呼ばわりへの怒り
 革マルの『解放』が、三里塚の「ドン百姓」と罵倒する。「へき地の地域エゴに、何の意味がある」と侮蔑する。三里塚担当の城戸は、「三里塚は日本の政治的中心だ」と反駁記事を書いた。ゲラの校正をしていた私は、「これは違う」と意見する。デスクでもある城戸が、無視する。私が繰り返し言うと、「黙れ、抗弁するのか」と一喝する。体中の血が逆流するのを堪える。
水谷さんが部屋に入って来たので、同じ事を言う。「革マルは、農民差別や地方への偏見で、大事な事が見えない。この点を衝くべきだ」。水谷さんが「刈谷の言う通りだ」と受けた。
原稿は訂正された。しかし城戸は「抗弁」もしない。


[1] 再共有化。反対した。その後98年、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく転換した。
[2]寄せ場。日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。大阪=釜ヶ崎、東京=山谷、横浜=寿などが有名。70年代、暴力手配師追放の運動が発展し、暴力団や警察との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が何度も闘われた。高齢化が進んでいる。関連記事、8章「寿越冬ルポ」

 

市東さんへの暴行

84年9月27日、成田用水阻止闘争。座り込む市東さんを乱闘服の機動隊が取り囲む。周囲にいるのはマスコミだけ。支援は排除されている。私は、外周を守る機動隊を「報道だ」と叫びながら突き飛ばして中に入る。

業を煮やした機動隊が市東さんを殴る。シャッターを切ったが、うまく撮れたか不安だ。小突き続ける機動隊。指揮官を指しながら叫んだ。「殴れ!殴れ!もっと殴れ!」。叫びながら、カメラを構える。指揮官は呆然としている。いくら私服とはいえ(公安!)、そんな指示があるものか…。

数分間シャッターを切り続けるうちに、ホンモノの私服が飛んで来て、したたかに打ちのめされた。「フィルムを抜け!」と叫んで襲いかかる私服をかわしてようやく脱出。「報道だ!報道だ!」という叫び声が功を奏したのか。現場を離脱して、帰途につく。闘いはこれからが本番だが、私の任務は終えた。
後日、市東さんに焼き付けて渡した。「よく撮れてるな、貼っておこう」と喜んでくれた。紙面には、殴打の瞬間は載らなかった。血を流しながら胸を反らす姿の方が良い。
 

「報道」の腕章

デモ隊が機動隊の阻止線に突入する――という方針が決まった。カメラマンは私と△△の2人。この場面をどう撮るか。温めていた構想のチャンスだ。拾って隠しておいた「報道」の腕章を写真に撮り、記章旗の店に持っていく。同じ色・同じ文字で、10本を注文した。色がぴったりの布地が無いので、「似ている青」で我慢した。
 
 当日。デモ隊が12列のデモに広がって、機動隊と対峙した。慌てふためく機動隊の盾や警棒が、異様な音を立てる。マスコミも、道端から双方を追う。
 ワッショイ!ワッショイ!腰を入れて気勢を上げるデモ。にらみ合う10mほど。その中に飛び込んだ。機動隊の直前から、デモ隊に向かってカメラを構える。超広角レンズでワイド画面。球面収差で、両端はせり上がって映るはずだ。長い時間に感じた。カメラを覗いて数枚、地面スレスレのローアングルで数枚、狙いに狙ってシャッターを押した。
 突然、道路端の私服が叫び出した。「刈谷だ!中だ!カメラを取れ!フィルムをとれ!」。
「報道」の腕章をしたカメラマンに襲いかかる、「帽子・サングラス・マスク」の男たち。今度はマスコミ記者たちが、フラッシュを集中させる。ボコボコにされながら、何とか脱出。フィルムは守り切った。撮影済みのフィルムを助手に預け、腕章をはずして現場に戻った。
「デモの1員として中から撮るか、デモを被写体として捉えるか」。70年に、若者たちの議論があった。しかし「従軍記者」にとっては、無縁の議論だ。
 
三里塚、北原事務局長が呼びかける。「マスコミの皆さん<報道>の腕章をはずして下さい。そして各社の腕章を着けて下さい」。
しかし、会場内をうろつくカメラマンは従わない。「カメラマンの皆さん、ここは反対同盟の敷地内です。警察=公安に渡された<報道>の腕章で取材することの意味を考えて下さい。マスコミとしてのプライドを捨てないで」。外国人カメラマンたちは、最初から社章つきだ。
寸又峡事件[1]の時の記者たちの、警察への協力は忘れる事は出来ない。
 
 
写真班のキャップは、デモの写真を改造する。何枚かの写真から、ヘルメットを切り取り、貼り付ける。青や赤のヘルメットを白に塗り替える。私の反スタの原点は、スターリンによるトロツキー抹殺のための、「写真の偽造」にあった。こうして歴史を偽造する、こいつの反スタはどこにあるのか、と憤る。
けれども軍令的指示だ。私も何度も何度も、同じ事を繰り返す。集会では、撮影場所の近くに人を集め、ボリューム感を出す。赤ヘルが邪魔な時は、赤のフィルターを使い白ヘルに変える。[1]
 

写真パネルの販売

カンパが底をついてきた。支給額も不足したまま。その上、社防その他でカンパに行く時間もない。
 「使用禁止」や、東峰団結会館の強制撤去をめぐる、写真のパネルを作った。鳥かごと放水、立ち木に体を絞りつけた戦士、そして血を流して座り込む市東さん。感動の場面を再現するパネル集を作り、街頭宣伝に使おう。インパクトもあるはずだ。
実行委運動の最盛期、思いついて企画を立てた。1式10枚近くで○千円、見本の他にベタ焼も付けて、希望のコマを選んでもらおう。勝手に企画し、全国・地区に予約を募った。特に狙い目は、東京実行委と各地の大学だった。
「どうしたんや?編集局は、何か変わったの?」。関西のキャップが声をかけて来た。「イヤ、金儲けさ。自分の活動費を捻り出す手段を考え付いたのさ」。「ム。それにしてもいい事だ。地区の要望に応える編集局はうれしいヨ。中央も変わったのかね」。
 暗室での作業は意外と難しかった。安い電球では、極端に拡大すると、中心と周辺の光量の差が大き過ぎた。覆い焼の失敗作が山となった。それでもやり遂げた。
 すでに地区の財布は底を突いていたようだ。「パネルで街頭カンパも増えるから」と力説したが、地区のキャップたちの反応は良くなかった。「上納金が増えるだけ」という冷めた奴らもいた。東京実行委が、好意的に応えてくれた。数セットをまとめ買いして、有料貸し出しすることになる。
注文が狙いより少なく、初期投資(失敗作)が比較的大きく、小遣いは2万円ほどにしかならない。
 


[1]寸又峡事件。68年、在日韓国人2世の金嬉老(キム・ヒロ)氏による殺人を発端とする監禁事件。寸又峡温泉の館に宿泊客を人質として篭城し、警察官による在日コリアンへの差別発言に謝罪を要求した。テレビ等で実況され、社会的に衝撃を与えた。最後は、記者団に紛れた警察に逮捕された。大規模な弁護団が結成され、日韓の政治問題にもなった。99年に韓国への出獄を条件に仮出所。事件時、共産党は3億円事件とともに「犯罪者に共感を示すマスコミ」を繰り返し非難した。

 

1      三里塚とともに

俗物になれ (石田郁夫さん②)

編集局に移ってから、前進社内で顔も合わせるようになった。私は遠慮して近付かなかったけれど、石田さんに呼ばれて話し合う事も増えた。
居酒屋で石田さんを囲んで、沖青委(在本土沖縄青年委員会)や、狭山の担当者たちが話していた。私はそこに呼び込まれた。「刈谷、本社から出ろ。地区に行け。お前は本社にいたら駄目になる、働け」。
石田さんは、あれほど惚れた中核派の変貌に絶望していた。狭山の後景化だけではない。酒量も一層増えたようだ。今にして思えば、それが遺言となった。
 
 石田さんは、ルポ作家、記録文学者であり、「辺境派、革命的無頼人」とも呼ばれた。新日本文学会の代表をしていた事もある。「革共同は、もっと俗物にならなけりゃダメだ。刈谷、お前も俗物になれ」とよく言われた。
最後に会ったのは、91年の冬だろうか。私が社防をしていた時、石田さんが本社に入って来た。「実は、荒本に行ってました」。石田さんに遮られた。「お前の事は何でも知ってるよ。酔いどれて、村の中でへたばっていた事もな」。そして一喝された。「恥知らずの俗物が」。(7章 荒本)
三里塚「3・分裂」で、青年行動隊の数々の提起を切り捨てた中核派を、石田さんはどんな思いで見つめていたのか。新島には今もなお、ミサイル射爆場の近くに反対闘争の碑が残っているという。海産物の他に、名物アシタバ料理や島焼酎・芋ワイン・くさやなどがおいしそうだ。
 

花柳幻舟さん

 舞踊家の花柳幻舟さんと急接近し、そして別離したのも、三里塚Ⅱ期決戦だ。深夜のラジオ放送で、幻舟さんは「三里塚、三里塚」と繰り返し語っていた。元々は「旅芸人」の人で、家元制度との闘いを生き様としていた。80年2月、宗家花柳をカミソリで斬り付け、下獄した。あえて実刑を選んだように見える。
82年2月頃か。編集局会議で水谷さんが、幻舟さんの「革共同への決別」を厳しく弾劾した。幻舟さんが出獄後、出版した本の中にこの一節があるという。
決別の理由は3点だったと思う。その1つは、「私が自分の生い立ちを語った時、北小路さんが、そうです私も同じ貧乏人です、と共感を示した」という事だった。何人かのメンバーが、幻舟さんを批判したと思う。
耐え切れずに私は言った。「3点とも幻舟さんの言う通りじゃないか」。「だってさ、北さんが貧乏人だとか労働者だとか、嘘じゃないか」。水谷さんが血相を変えて怒鳴る。「お前、誰の立場でものを言ってる!」。
「北さんはさ、貴族じゃないの?声も話も振舞いも。せいぜい落ちぶれ貴族じゃないか」。「第一、好き好んで貧乏人になってる奴と、貧乏を強いられる事は違うだろ」。罵り合いの末、終わってしまった。
 次の会議の時、水谷さんが改めて報告した。「幻舟さんの言う3点は全て正しい。革共同は謝罪する」。しかし私への謝罪はなかった。清水さんと北小路さんの関係。清水さんの鶴の一声なのか、誰の声によるのかも、私は知らない。
 

三鷹の代執行

 三鷹の駅前を歩いている時、異様な光景を見た。小さなタバコ屋のあちこちに、「強制代執行反対」という手書きのポスターが貼ってある。ふと気になって声をかけた。
 私よりずっと年輩の女性だ。着物姿に丸髷の、見るからに頑固そうなオバさん。「私が女だから、再開発から締め出された」。「女だから」を繰り返し強調する。再開発そのものには反対ではない、しかし自分だけ除け者扱いだ、という事らしい。
しばらく迷って決めた。婦民全国協、杉並(西部)、そして埼玉の天明さん一家に手紙を書いた。本社への報告は怠った。
 反響は驚くほど大きかった。天明さん一家は、瞬く間に屋上に鉄のカゴを作ってしまった。代執行の日、ママさん(中渡巴さん)がこの中に籠り、長時間闘いぬいた。婦民全国協も大挙して駆け付けて、「ガンバレ」と叫んだ。
 向いの居酒屋「巴」も中渡さんが経営していた。広い2階では従業員と常連たちが、酒を酌み交わしながら闘いを見守る。「中渡巴の生涯は、日本の女の生涯だ」。店長は朗々と語り続ける。たまらず代執行の作業員が、作業を止めて帰ってしまった。「落城」した時のママの顔は晴々していた。
 
 任務の合間に、三鷹に通い続けた。時に半日、ママさんから少し置いて座り続ける。「支援」の役割は、三鷹・杉並だ。杉並に注文した看板は、一向に届かない。私が作ればすぐ出来るけれど、担当者でない私には許されない。
 天明さんが作った屋台でタバコを売り続けるママさんに、女性たちが交代交代訪れては、話しかけていた。職場や生活での女性差別の怒りが渦巻き、ママさんを守り続けていた。三里塚現地で、ママさんは天明さん一家に続いてマイクを握って、堂々と語った。
 
 ママさんは確か、旧制高女の出だったと思う。大庄屋の娘でもあり、一時は教師もしていた。働く事・稼ぐ事・「女として自立する事」。戦後の「女の生涯」を生きた人だ。
 
タバコ屋の商売
 中渡さんを見守り続けて「活動費」が底を突いてしまった。「どうしよう、やめようか?」。そんな折、帰り際にタバコを何箱か渡された。人を使う事をよく知る人だ。目配りがきいている。
 最初は断ったけれど、2度3度のうち「じゃ、原価で売って」と頼んだ。前進社は出入りが不自由だ。1割安でも利益が出せる。「中渡さんのタバコ」とポスターを貼って、入り口脇に無人の店を開けた。みんな喜んで買いに来た。
 何度か続けると、次第に赤字になってくる。「あとで」と、金を払わずに持って行く人が増えていた。そのまま忘れてしまうらしい。私も値を上げた。通いの回数を減らすしかない。
 
 本社生活は「貧しさ」と一体だった。長過ぎる「内戦」のツケは、こんな所にも出ていた。「党本部の中での私的営業」……少々くすねても胸は痛まない。けれど今、思う。「正当な対価を払う」という当然の規律が、そもそも身に付いていないのだ。タバコを吸いたかったら稼げ。多忙な任務を蹴ってでも「タバコ」に懸けろ。
 
撤収命令
 いつだったろうか。突然、会議に招集された。水谷、三多摩のキャップ、それに私。初の本格的な対策会議。「何だろう」。
 中渡さんと天明さん一家から、支援を引き揚げる事が提起された。「あ、もう出来ている」。「やっぱり来たか」。双方に顔を出す私に、引導を渡すための「会議」だった。お2人の中で生まれたイザコザが理由とされた。けれど本当の理由は先刻承知だ。
 三里塚の岸は最初から、両氏の闘いを排除したがっていた。お2人とも「独立・自尊」で世俗で生きるパワーを持つ人だ。
 すでに現闘は83年3・8分裂を経て、反対同盟農民の一元的「管理」を成し遂げていた。ここでは、お2人や、佐世保の漁民の松本さんたちと反対同盟農民の交流が、予定調和を乱す。
 いつの日かこうなる。私は本社の中で親しい人々に、「俺の支援は金儲けが目的」とニヒルに答えてひんしゅくを買っていた。「条件闘争」としての徹底抗戦、何と説明していいか、私自身も分からない。
 せめてもの「お別れのあいさつ」も禁じられた。あとは「杉並が支える」という。そうか杉並選挙ではまだ使える、か。それでもいい。「山も越えた」。金も底を突いていたから「いい頃合」だ。
PS.
 数年後、仕事の都合で三鷹に行った時、中渡さんを訪ねた。ママさんは、相変わらず歩道橋の下の荷車でタバコを売っていた。非礼を詫びながら、歓談した。
 

婦民全国協

84年、婦人民主クラブが分裂し、佐多稲子さんらの「本部派」に対抗して、全国協議会が結成された。三里塚と男女雇用均等法への対応が、分裂の理由だと聞かされた。北富士集会に、旗を林立させて登場した全国協の隊列に、私は感動した。
私は女性運動の現状については、ほとんど分かっていなかった。80年以来の「戦女(戦争への道を許さない女達の集会)」の話は、ずっと後に聞いたくらいだ。優生保護法改悪反対闘争などの実践も、当時はほとんど知っていなかった。
けれども「分裂してまで」という思いも強かった。「単なる中核派の女性運動になってしまうのでは」という危惧があった。原水禁運動の分裂の歴史を繰り返すのではないか。多数派の共産党が、数年後にはスッテンテンになった事を知っていた。大阪の代表となった女性の「石けん運動」のアピールを聞いて、少しはホッとしたけれど……。
社防室にいた時、全国協の代表的女性に話を聞いた。開口一番、「佐多婦民(本部派)は、反共に転落したんだ」と言う。「彼女たちは、『社会主義になっても女性の抑圧は変わらない』と言い出した」。「えっ」と私は聞き返す。「中核派の女性解放論は『社会主義』でも差別は残る。だからこそ……じゃないの?」。
しばらく議論した後、彼女は私の日和見主義に愛想を尽かして行ってしまった。三里塚での対立なら、「独自行動」をとれば済む事ではないのか?聞けなかった。
「路線主義」下で10年、婦民戦線もまた、原点を失ってしまったように思えた。『レーニン最後の闘い』という反スタの原典的書物を、あなた達はどう読んだのか。当時の諸戦線担当の政治局員は梶さんだったと思う。

 

1      自民党本部の炎上

 84年9月、テレビの緊急ニュースに、自民党本部が燃え上がる映像が流れた。超特大の「火炎放射車」から噴出する火炎が建物を襲う。
 胸が高鳴った。相次ぐ「権力機関へのゲリラ戦闘」にうんざりしていた私だが、この時ばかりは違った。幸い、大した負傷者もいないらしい。「やった、やれる」。この時期、民衆の自民党に対する怒りは沸点に達していた。
 私は街に出て様子を窺った。夕時、会社員が退社する頃合いを見て、大きな大衆居酒屋に入った。店では既に満員に近い。その多くが、テレビに釘付けになっている。ザワザワとしてはいるが、いつもよりずっと静かだ。ニュースのひと言ひと言を聞き逃すまいとする気持ちが伝わる。「よーし、良くやった」。誰かが怒鳴るのを潮目に、「そうだ、そうだ」「もっと燃やせ」。「自民党なんかやっちまえ」という声があちこちで飛んだ。
友人・知人宅にあちこち電話をかけまくる。「すげーな」「今度いつ来られる?」。熱い思いが伝わって来る。
新左翼を擁護し支援してくれる文化人が、「ゲリラはねぇ」と言う。私は「時としてゲリラは、街に火をつけ、人の心に火をつける事もあります」と返すと、「うーん、人の心にもっと火をつけてね、かな」。
「そうだよ。これなんだよ」。改めて思いを噛み締める。こういうゲリラのためならば、進んで体を張ってもいい。だけど、「何でもゲリラ」はごめんだ。
84年3月には、中核派として初の発射装置による火炎瓶が飛ぶ。85年には、警視庁科捜研ゲリラや、成田・羽田空港への同時迫撃砲(ロケット弾)攻撃へと一層エスカレートする。
 

2      85年蜂起

 85年の闘い

8485年、世界が反核のうねりの中にあった。日本でもうねりが広がっていた。8410・21。総評社会党系は横須賀に2万人。中立労連と新産別も合流した。北海道でも1万1千人と言われる。共産党系もほぼ互角の参加者だ。警察庁発表でも全国で23万人が参加したとされる。焦点は核ホークを積んだカールビンソンの寄港だ。
 集会に白ヘルメットが登場し、激しいジグザグデモで衆目を集めた。しかし集会参加者との共感、中核派の主張の浸透という点で、深い交流が生まれたとはとても言い難い。接点が取れない。議論が宙を浮いている。とは言えこの時期は、法政大学をはじめ学生戦線の動員力がピークに達した時だった。
 
学生・反戦の闘いは、10・2三里塚十字路、11・2浅草橋の闘いに集約された。2つの戦闘は革命軍戦略の下、公然部分が自ら武器を手にして、その戦闘力の健在をまざまざと示した偉大な地平だ。大量逮捕の中で、完黙・非転向が力強く勝ち取られていた。その激しさに比して自白・転向は一部にとどまった。中核派としても、次代を担う新たな世代が、ここに「分厚い層」として、自信を持って生まれた。
 しかしまた、その傷も大きい。法大支部をはじめその後、長く、学生戦線の動員力は回復できない。衰退の坂道を転落する。公然部分の大規模なゲリラ・武装闘争は、90年天皇決戦の日々も再現できなかった。
私はこの時、獄中にいた。85年の激動の生き生きとした議論を知らない。しかしあえて疑問を出そう。
 2つの戦闘をつなぐ全体構想は何だったのか?その総括は何なのか?さらにそれぞれの戦闘の意義は何か?
 
三里塚十字路の戦闘は、確かにⅡ期攻撃下の戒厳令のような現地支配に風穴をあけた。農民の子が小学校に通うのに、機動隊の壁に阻まれて「不審尋問」と称した嫌がらせを受ける。農家の軒先をかすめるように、ダンプやタンクローリーが砂塵を上げて走り回る。そうした日常的支配への怒りと苦しみに応える、それが三里塚交叉点の闘いだった。戦闘経験のない若者たちを、強力な軍団に変えるには、「正規軍」的な戦闘が適切だったかもしれない。
 けれども、私にはまだ見えない。政治的熟成、政治的シンボルが、ここにはない。この大闘争が生み出す流動を受け入れる器がない。追い詰められた決戦に、決戦としての意義があるか?あれは単なる気休めだったのか、それとも反対同盟のガス抜きだったのか。
 
 この闘いに、解放派も加わっていた事を知ったのは、出獄してからずっと後だ。獄中で『前進』だけ読んでいるととんでもない事実認識に陥る事を、身をもって思い知った。我田引水の「囲い込み」のための記事では、認識も総括も歪み切る。いざ大衆討論や党派闘争の場面では、「無知なイエスマン」という批判に堪えられない。
 

浅草橋戦闘

11・29浅草橋戦闘。国鉄分割・民営化に反対する動労千葉のスト方針は、どん詰まりの危機に追いやられていた。動労本部・革マルは、スト破り要員を積極的に提供して、スト圧殺を企てていた。総武線が止められない!その時、浅草橋が炎上し、総武線をはじめ全線が止まった。全国で一斉ゲリラが戦われた。
 しかし中野委員長は第一声で戦いへの共感を語った後、一転して口を閉ざし続けた。浅草橋被告の要請にも答えない。私は思う。組合員は、この浅草橋を動揺と怒りで迎えたのではないか?「浅草橋」は動労千葉のストそのものを、決定的に後景化させてしまった。ゲリラでいいなら、首をかけて闘うストに何の意味がある?!「ひいきの引き倒し」。
 私は思い出した。かつてジェット燃料闘争で動労千葉が輸送のハンドルを再び握った時、解放派による「輸送阻止」の鉄道ゲリラがあった。この時、中核派と反対同盟は「動労千葉への敵対」とこのゲリラを非難した。これと同じではないのか?これ以上ではないか?駄目押し的な「放火・炎上」にどんな意味があったろうか?
 JR総連革マルによる(とされる)列車妨害事件も頻発した。動労千葉の闘いの中心軸を占める運転保安闘争。もしかしたら、浅草橋戦闘はこれを踏みにじる「独善的な暴挙」だったのではないか。
国労は非難声明を出した。「乗客の怒り」を一身に浴びるのは乗務員だ。上尾暴動の悪夢がよみがえる。
 組合員1人1人の生の声を知りたい。そして清水=中野両氏の間で、何が話し合われたのか。今からでも知りたい。

ピンクの東京タワー
 改めて知りたい。分割・民営化をめぐる全体構図の中で、「浅草橋」が果たした役割とは何だったのか。「歴史の検証」をそろそろするべき時ではないだろうか。「ゲリラが共闘する分割・民営化反対の主張」――巨大なレベルでの「世論」争奪戦の中で、それはどういう役割を果たしたのだろうか。

  × × ×  
浅草橋戦闘の指名手配には、同窓のK同志もいた。社防の中で互いに知り合った。動員・動員で時間が無く、教育実践[1]に踏み込めないと苦しんでいた。指名手配の後、1度だけ家に寄った。同志である妻は、私の先輩だ。
家に入って近況を語り合う。旧友たちもあれこれ援助してくれるという。「部屋に入ったのは、刈谷君、あなたが初めてよ」。地区の人たちは立ち話して、そそくさと帰るのが「正しい」らしい。彼女を守り支えるとは、どういう事なのだろう。
「お互いに頑張ろうね」と別れた。


[1] 「教育実践」。彼は子どもたちに童話の読み聞かせなど、さまざまな工夫を試みていた。けれどもそんな教材の点検や同僚・保護者との大事な時間すら無くなっていると苦しんでいた。指名手配を受けて突然姿を消してから、残された子どもたちの「先生大好き。帰ってきて」という声が聞こえる。10章53「私の精神形成」ほか参照

 
中核派の農地守論
69年に、埼玉大学に入学したその日から、私は活動を始めた。10・8羽田を含め「死闘の7か月」を私は行動隊として闘った。この時点で私は、起訴1、逮捕歴20回を超えている。けれど、「息切れ」も自覚していた。佐世保、王子で、何万を超える市民との合流に身を震わせながら、それが「街頭での合流」にとどまっている事に物足りなさを感じ出した。
 三里塚闘争は、農民との合流だった。私は、父母の故郷の匂いのする「三里塚の大地性」が好きになった。ここには生活がある。だから、「軍事空港粉砕」よりも「農地死守」に、より共感を持っていた。「このコンクリートをひっぺがし、緑の大地と村を取り戻そう」と訴える、故・戸村一作委員長のアピールに胸が熱くなった。空港という「公共性」――「公共性とは何か」、「住民エゴではいけないか」、それ自体が大事な争点だ。
岩山鉄塔決戦の前だから、74年だろうか。『前進』に、「農地死守について」という大論文が載った。私は飛びついた。そして、「えーっ」と驚いた。論文は言っている。これまで中核派は三里塚軍事空港粉砕論だったが、ここに改めて農地死守論を位置づける。今まではそうでなかった?
実践と理論のかい離という事を知る。うーん、理論の成長とはそういうものか。中核派とは、そういう厳格さを持つものなのか。
けれど新しく打ち出した農地死守論には合点がいかない。農民が私権として土地を扱うならば、それは反動的だ、けれどもそれを人民の共有財産として闘うならば、それは階級的・革命的だ……という内容だったと思う。
この論文は、用地内農民の「土地は売らない」という闘いを言っているけれど、用地外=騒音地区農民の闘いは位置づけが無い。石田さんの言う、「食える運動」にも触れていない。
農民の、農民としての生活と明日について語っていない。三里塚闘争は「全人民の砦」ではあるけれど、やはり農民の1個別闘争だ。条件闘争の余地のない農地強奪ではあるけれど、「革命なしに勝利はない」でもあるまい。
三里塚には各地の農民が駆け付けている。日本の農業をどうするかが、当然話題になる。けれどもそういう視線が無い。「労農同盟」の「農」の位置づけも無い。「言葉の綾」だけの「労農同盟」論……。
 
成田空港開港の中での「農を守る戦い」。中核派には、その問題意識が見えない。敷地内、親同盟への管理を強めるだけで、三里塚の「明日」が見えない。「売らなければ勝てる」のか?三里塚集会で、北原事務局長が読み上げる大会宣言は、現闘の原稿だ。北原さんの声が聞こえない。
轟音下の岩山で、お年寄りや子どもがおびえる。体を壊して移転して行く。反対同盟農民も、労わりの声で送り出す。答が出せない。
 

三里塚現闘の重み

 全学連現闘は、中核派の中核派たるゆえん、でもある。初期の現闘キャップのMさんは、今でも農民たちの語り草だ。激動の7か月の中で、埼大中核派はMさんともう1人を現闘に送り込んだ。援農、日刊三里塚、団結街道の行進――戸村さんのドキュメンタリーにも出ている。農民と共に住み、共に闘う。三里塚の熱い日々の数々、私たちの火炎瓶も角材も、それは農民の実力闘争の手となり足となる闘いだった。
 もし、共産党が農民と共に座り込んでいたら、もし彼らが座り込み現場から逃げ出さなければ、共産党の主権力が奪われる事はなかったかもしれない。そしてもし社会党が、会議の「上座」に固執しなければ、邪険に扱われたりはしなかったかもしれない。
 現闘こそ、三里塚闘争そのものだ。全国への檄を発する現闘、それに応える全国の支援。誰もが知る事実だ。
 
 けれど、Ⅱ期決戦の中で、私は別の疑問を膨らませた。「党中央がいない」。中央独自の判断が示されない。「現闘からの垂れ流し」だけだ。
 現地と全国の支援、その共感と矛盾、その矛盾を克服する努力、それを中央は果たそうとしているのか?三里塚実行委員会の発展のために何をしようとしているのか?
 89年の2つの斎藤論文の中で清水さんは、杉並選の敗北の責任を、北小路さんを筆頭とする「表」指導部の無為・無策として、口を極めて非難した。確か、「動物的勘にまで高めた科学」だっけ。三里塚基軸路線という、基軸中の基軸でも同じだったのではないか。
 

「3・8分裂」の経緯

1983年3月8日、三里塚・芝山空港反対同盟は分裂した。中核派などは「北原派」を、第四インター派らは「熱田派」を支持した。主として北原派は用地内、熱田派は騒音区域を制した。中核派は熱田派を「脱落派」と呼んだ。
分裂の原因は主に「成田用水」や「1坪再共有化運動」の是非をめぐる対立だと言われている。中核派は「1坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した[1]
 
編集局の会議で、反対同盟の分裂の経緯が報告された。水谷さんが基調を、三里塚担当が補足をしたと思う。
分裂を決定づけたのは、青年行動隊らが主催する「大地の祭り」だという。主導権奪取のための「祭り」という分裂集会、その集会を許さぬという事で、分裂が決定した。[1]
主導権をめぐって、いくつもの争いがあった。故・戸村委員長の後継委員長の選出問題、そして成田市議選問題など。共に反対同盟を代表する北原事務局長の地位や権限を、「互いに分有し合う」という口実で削ぎ落とす攻撃だ。そして、北原さんに象徴される反対同盟と中核派の絶対的と言える信頼・信義の関係に、クサビを打ち込もうというものだ、と。
 
 Ⅰ期の開港という既成事実の重み、軒先まで工事するという凶暴な攻撃、そして成田用水への公団による補助というからめ手からの懐柔――そうした中で、青行らの動揺、裏切りの道が始まっているのだ、と。
 

 私には、現地の実情は分からない。けれども、こうした形での分裂については疑念が解けない。「脱落派」の委員長になった熱田さんは、断固とした人だという。しかし、この硬直した対応を批判して、敵の側に回ってしまったのだという。仮に分裂不可避だったとしても、必要な妥協を重ねる事で、より有利な分裂になったのではないか。

 中核派と新左翼諸党派は共に、ある意味で三里塚闘争に存亡をかけて来た。その意味で、第4インターへのテロ以上に、この「3・8分裂」そのものの功罪が、中核派の功罪を決するものになるだろう。
萩原進さんも、青行の言う「農民としての闘い」について、1面、大いに共鳴していたと聞いた。三里塚闘争の開始以来20年弱、1世代分の時間が経った。世代間抗争としての側面もあるという。成田用水に対抗して、援農としての暗きょ排水工事も遅ればせながら始まった。こうした問題に、しぶしぶ政治的に対応する後手・後手に、不安が増す。
いずれにせよ、反対同盟の豊かな「農民性」が消えてしまった痛手は大きい。
 

土木作業員の死

 83年6月7日、空港関連へのゲリラ戦で、土木作業員2人が焼死した。焼き打ちした現場事務所に、たまたま2人が泊まり込んでいた。「革命軍軍報」の速報では、悪辣な会社幹部への当然の……とする表現があった。「速報」は、直後の『前進』に載せるため、「表」で書かれる。
 
直後の編集局の会議で、私は抗議した。「たまたま居合わせて死んだに過ぎない。これを正当化するのはおかしい」。
水谷さんが形相を変えて反論する。「誰の立場で言ってるんだ、寄せ場の悪質な暴力手配師でもある[2]。せん滅されて当然だ」。
私は言い返した。私の友人は、寄席場の近くの土建会社の社員だ。この伝でいけば、彼もまた、せん滅されてしまう。「寿に行って聞いてみろ。建設会社の社員であるだけで、せん滅当然と言うかどうか。殺すのが目的のゲリラではなかったはずだ」。水谷さんがなおも言い返す。他のメンバーは黙ったままだ。彼らに寄せ場のことなど分かるはずがない。
 
数日後、緊急の会議が招集された。水谷さんが提起する。「今回のゲリラの目的は焼き討ちにあり、せん滅を意図したものではなかった。この件に関して、〝せん滅”の用語は使わない。ただ公団への脅しとして、〝第2、第3の6・7”はある、という言い回しをする事もある」。
事実上の撤回だった。しかし、自己批判も、私への非難の撤回もなかった。そして、会議は事もなく終わった。
数日後、K教授に電話を入れて「会いたい」と言うと、ただちにOKがもらえた。北浦和のいつもの飲み屋で、しかし今回は特別に1室を用意して待ってくれた。傍らに弟子のWさんがいた。K教授は「大丈夫か?三里塚はこれで終わりじゃないか?」と心配した。私は、公式の立場を伝えた。そして「大丈夫です。意図してやったのではないという事をハッキリ示せば、私たちの世代は受け止めてくれると思います」と付け加えた。Wさんが、これを保証した。そしてK教授も安心の表情を浮かべた。私もホッとした。
 

「ドン百姓」呼ばわりへの怒り
 革マルの『解放』が、三里塚の「ドン百姓」と罵倒する。「へき地の地域エゴに、何の意味がある」と侮蔑する。三里塚担当の城戸は、「三里塚は日本の政治的中心だ」と反駁記事を書いた。ゲラの校正をしていた私は、「これは違う」と意見する。デスクでもある城戸が、無視する。私が繰り返し言うと、「黙れ、抗弁するのか」と一喝する。体中の血が逆流するのを堪える。
水谷さんが部屋に入って来たので、同じ事を言う。「革マルは、農民差別や地方への偏見で、大事な事が見えない。この点を衝くべきだ」。水谷さんが「刈谷の言う通りだ」と受けた。
原稿は訂正された。しかし城戸は「抗弁」もしない。
 


[1] 再共有化。反対した。その後98年、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく転換した。
[2]寄せ場。日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。大阪=釜ヶ崎、東京=山谷、横浜=寿などが有名。70年代、暴力手配師追放の運動が発展し、暴力団や警察との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が何度も闘われた。高齢化が進んでいる。関連記事、8章「寿越冬ルポ」

 

20       裁判と写真

三里塚の統一公判

 77年鉄塔決戦の裁判は、中核派と木の根団結小屋(労学共闘)の共闘だ。833・8分裂の後も、上告棄却の日まで、その陣形は維持された。公判が始まる頃には、私はすでに編集局に移っていた。双方とも、被告の出席率は高く維持された。多忙と活動費不足をおして、みんなよく付き合ったものだ。
 裁判はよく、「荒れる法廷」になった。裁判長のでたらめな訴訟指揮に抗議して、木の根が激しく抗議する。「退廷」、果ては「収監」が乱発された。木の根に義理立てして、私も何度もやられた。
 中核派側の被告は全員男、各地の「学生」が主力だった。最年長は私と、元高校教師だ。他方、木の根側は学生出身のキャップも含めて労働者が主力だ。女性も何人かいた。中核派の私は、被告団長を任命されていたが、被告の1人が救対になっていた。当初、救対君は「党の決定」を自認して被告団を牛耳っていた。実際、本社の「その他担当」の藤原さんから、彼は指導を受けていた。
 裁判を闘いとして位置付けて、研究や準備を重ねる木の根と、「事後処理」以上の位置付けのない中核派、その差がもろに出る。
木の根との関係、裁判戦術をめぐって、救対君との対立が激化した時、私は藤原さんと直談判して被告団の主導権を奪った。大々地主の係累と思われる救対君は、その傲慢不遜さで被告団の中でも浮いていた。
 主として木の根の工作で、多くの反対同盟農民が証人・証言台に立ってくれた。私はここで改めて、農民たちの生の声を聞いた。木の根の提案で、キーセン観光について、キリスト教矯風会の高橋喜久枝さんも加わった。
 本人尋問が延々と続いていた。私は、「戦後農民運動史」を延々と語った。典拠は『常東農民運動史』。筆者の山口武秀氏が、反対同盟本部(親同盟)に対立を深めていた、青年行動隊の「軍師」である事は、百も承知だ。この時、救対君は、三里塚現闘の事務局長に収まっていた。けれど「口は出させない」。
 
 結審が近付いた82年の夏、私たちは三里塚で2泊3日の合宿会議を持った。最終弁論は、新書にして数冊分のものになる。主に、私と木の根の共同執筆だ。私と木の根で延々と論議した。木の根の提起する、「農民の富農化」論はデータを踏まえたものだった。しかし私は反論し、弁護団も加勢した。
 原案の中で私は、当時の焦点だった騒音区域の拡大について取り上げた。私はそれを、周辺農民への追い出し攻撃と断じた。この件も、現闘による「周辺農民の買収」論を否定する事を自覚していた。敷地内からの視点、そして局面からすれば、現闘の論点が正しいのかもしれない。しかし、Ⅱ期攻撃の全体性、そして実行委の視点からすれば、私が正しい。
 中核派の被告団もよく付き合ってくれた。木の根との親交をみんな喜んで演じてくれた。
 
3・8分裂の中で、私も木の根とのやり合いの先頭に立ち、数々の嫌がらせもした。闘いに祭りは付き物だ。中核派が主張する「祭反対」論は、私には理解できない。とはいえ、私は「中核派」だ。論点をすり替えるしかない。
木の根との論争の1つは、「実力闘争をどう継続するか」でもあった。私は革命軍の闘いを説く。「もっと待とう。大衆的実力闘争の時期が来るまで」。「じゃ、いつまで待てばいいんだ!」。
木の根の士気は高い。けれども大量逮捕の打撃は、労働者である分、数倍だ。中核派も、実力闘争を闘える人材や力量は底を突いている。苦しい。
しかし、2次に亘る第4インターへのテロの日々も、被告団は共闘=統一公判を維持し続けた。三里塚への思いは同じだ。
 
 鉄塔決戦の「岩山大鉄塔」は、元々は「連帯する会」や青行の企画だ。中核派は当初、これを口を極めて罵っていた。分裂の中で中核派は、「敷地内が動かなければ勝てる」論と、革命軍の闘いに絞り上げている。果たしてこれでいいのか。
1審判決は、3・8の前だったろうか。実刑は私1人、懲役2年半だったと思う。
 
控訴審では、中核派は私1人。そして木の根の全員だ。特に区職の女性は、解雇との闘いでもある。打ち合わせの日、分裂は確定していた。私は木の根に目を向ける事もしなかった。木の根のキャップが言う。「控訴審は、刈谷君の思うようにしてもいいよ」。しんみりと心に響いた。木の根との共闘の維持のために私たちを差し出し、2階に上げてハシゴを外す。誰も責任を取ろうとしない。マ、これも政治か。まあ、いいか。
 

反対同盟の証言集

 私は独断で、「三里塚反対同盟農民証言集」を作った。被告団にも販売を頼んで、三里塚で売り出した。
裁判闘争の弁護士費用の捻出が、行き詰まっていた。中核派メンバーには滞納者が多かった。ほぼ全員が専従の中核系は、財布もきつい。上納で追われ、裁判費用は後回しだ。御指名によるゲリラ戦なのに、裁判費用も自腹だ。現状では「中央」そのものが、費用負担すべきと思うが、聞く耳もない。私は私で費用を稼ごうと思った。
木の根の活躍で、被告側は諸方面の人々に証言してもらっていた。敗戦直後の御料牧場の解放闘争、そして開拓の苦闘。汗と涙のしみ込んだこの大地……。この証言を使わないのは惜しいとも思っていた。反対同盟の証言集を作ろう。生の声を伝えよう。これで稼ごう。
根回しも面倒だし、独断専行がベストだ。全証人を取り上げるのは諦めて、反対同盟に絞ってテープ起しすることにした。
 
 幸い、元・編集局の障解委さんがいる。離脱して以降、障解委系の本屋の立て直しを企てながら、生活も窮している。企画とバイト料を提示して快諾をもらった。手書きの完成原稿に顔写真を入れて、企画は万全。始めてみて彼の悪筆に気付いたが、もう遅い。ママよ!編集局任務の合間のたびに、2人並んで励んだ。印刷は工場長のOKを得て、印刷局のハネトロさんに手伝ってもらった。
製本は印刷局の工場で、小道具を借りた。「編集局の任務」以外に熱中する私を見て、工場の仲間たちがのぞき込み、「面白そうだ」と手伝ってくれ始めた。作業は長日に亘ったが、協力のお陰で挫折せずに済んだ。表紙も付けたし、背表紙も付けた。
 値段をいくらにするかで迷った。何かをすれば文句や注文をつける奴らばかりだ。学生は「金がない」と言うに決まっているし……。結局300円にした。学生割引も付けよう。部数が多ければ「おまけ」もつけよう。
 
 POSB(政治組織小委員会)の会議に乗り込んで、商品の案内をさせてもらった。「上」からのOKが無ければ、現場は動くまい。編集局の1員であればこの程度の「直訴」は出来る。
タイトルは、『朝は朝星 夜は夜星』とした。未明から日暮れすぎまで、1日とて休める日も無く働き詰めの生活から、やっと曙光が見えて来た時、空港がやって来た。農民の「原点」が今あきらかに……。
被告団の協力的メンバーと共に、数回の集会で、個別に回りバラ売りした。木の根には数十部渡して、事後了解をとった。共同企画ではないことにブータレていたか。けれども中核派内で押し通すことが、私にとっては第1義的だ。
買った人からの反響がわずかながらあった。「ブランド力」の欠如を痛感した。少し話題になったところで、北小路さんの部屋に行き、お墨付きをもらった。『前進』紙上に数回「目玉 (コマーシャル)」を入れられるようになった。ようやくまとまった注文も取れるようになった。
 その時、3・8分裂が起こり、政治宣伝としては無効になっってしまった。「党派性」と「基礎的な報道」のジレンマだ。
結局、増刷を繰り返して約千部。売り上げは30万円になったけれど、協力者へのお礼が重なり、手にしたのは数万だった。残部は捨てた。
 

市東さんへの暴行

84年9月27日、成田用水阻止闘争。座り込む市東さんを乱闘服の機動隊が取り囲む。周囲にいるのはマスコミだけ。支援は排除されている。私は、外周を守る機動隊を「報道だ」と叫びながら突き飛ばして中に入る。

業を煮やした機動隊が市東さんを殴る。シャッターを切ったが、うまく撮れたか不安だ。小突き続ける機動隊。指揮官を指しながら叫んだ。「殴れ!殴れ!もっと殴れ!」。叫びながら、カメラを構える。指揮官は呆然としている。いくら私服とはいえ(公安!)、そんな指示があるものか…。

数分間シャッターを切り続けるうちに、ホンモノの私服が飛んで来て、したたかに打ちのめされた。「フィルムを抜け!」と叫んで襲いかかる私服をかわしてようやく脱出。「報道だ!報道だ!」という叫び声が功を奏したのか。現場を離脱して、帰途につく。闘いはこれからが本番だが、私の任務は終えた。
後日、市東さんに焼き付けて渡した。「よく撮れてるな、貼っておこう」と喜んでくれた。紙面には、殴打の瞬間は載らなかった。血を流しながら胸を反らす姿の方が良い。
 

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