1 本社の空気
豊島区要町に前進社は移っていた。1階は印刷工場。シャッターは鉄板で覆われ、外側には土のうが敷いてある。階段の下には鉄のドア、入口は2階に1ヵ所だけあった。鉄のドアの内外に社防(前進社防衛隊)が就いていた。専従も動員の労働者も、寝不足の目をぎらつかせている。疲れ・興奮・汚れ、と言えただろうか。
2階には1DKの部屋が2つある。1つは小さな食堂、奥の居間は救対だ。奥の部屋が、私の属する編集局部屋だった。屋上のプレハブには、小さく区切られた会議室があり、奥に社防司令の小部屋があった。館内放送用のマイク、そして外には、巨大なサイレンとサーチライトが据え付けられていた。この本社に、『前進』編集局員として寝泊まりする事になった。
以降、私は「刈谷」になる。
内戦の真っただ中だ。本社業務の第1は、本社の防衛だ。全ての業務も戦争を中心に組み立てられている。
3階のいくつもの小会議室で、地区委員や学生の会議が、同時に開かれていた。幹部の怒声が飛び続ける。「どうなんだ、日和るのか。死ぬ気あるんか」。「大衆運動主義じゃないか」。隣の小部屋と競うように、机を叩き罵り続けている。指導部による暴力が、日常茶飯事のようだった。神奈川とは、あまりに差が大きい。
いつだったか、タバコの不始末のボヤが続いた後、「ライターを持つのは、各部局のキャップ以上」という決定が出た。ボヤを出したのは指導部だったけれど、彼は持つ権利がある。「何言ってんだ」と内心思ったけれど、黙り込む。タバコ1本吸うのに、指導部を捜し回り、時には会議中に頭を下げて火をつけてもらう。「社会人経験」をした私には、堪え切れぬ思いだ。
埼玉のMさんも、職場で働く社防の常連だった。対革マル戦の最盛期にも、狭山、三里塚に、彼は一家総出で参加していた。父・母・兄妹、みんな一緒だ。「戦時下」に、日常生活について真剣に話し込む人だった。異色な人だ。
ある時彼が、しんみりと言う。「刈谷さん、あなたも変わった人だね。中核派にはいないタイプだよ」。おやおや、そうなのかな?「刈谷さんみたいのがいるから、俺もやってられる」。返事が出来ない。
2 軍報で逮捕
編集局に移って数ヵ月も経たない時、私は軍報を所持して逮捕された。
普通、「裏」から届いた軍報を編集局でリライトして、本物を破棄する。まずコピーを取り、元原を「ガサ対」として一旦外に避難する。私は、その役を任せられた。前日来の任務で睡眠不足、時間つぶしを兼ねて新宿のドヤ街を訪れた所で、不審尋問にあった。「中を見せろ」と言われて、見せれば済むかもしれない、けれど……。頑強に断っているうちにパトカーが集まり、近くの交番に連行されてしまった。
中身を見て驚き小躍りした警察は、公安が飛び込んで来て逮捕。以下、23日間の留め置きとなった。新聞報道にもデカデカと出た。手書きの原稿、筆跡が明らかな原稿を奪われた事は大敗北だった。一歩間違えば、筆者に指名手配が出たかもしれない。私自身も長期投獄にも直結しかねない。
釈放後、キャップと話し合った。事情はあまり問われず、「刈谷に指示したのが間違いだった」との総括が示された。刈谷=私本人の責は、全く問われなかった。会議でもその旨が示された。
「日日の諸問題にかまけて軍事を直視しない指導の責任」として総括されたらしい。まだ編集局としては新人、都内を知らない私を指名したのが謝りだ、と。問題は、日日の雑務の多忙さを直視することなのだが……。
私は、こういう時の対応力に自信があった。普段なら簡単にすり抜けられた。ただこの時は別の事情があった。数ヵ月前の職質事件。「完黙の原則」が私を支配して、思考の自由を奪ってしまった。
記者会見
釈放後、記者会見をもった。しかし救対が一方的に無実を述べ、質問にも答えない。立ち会わされた私への質問も答えさせない……。つまらない会見だった。「記者を引き込む」事など考慮の外の会見に、何の意味があったろうか。マスコミに対応する基本姿勢が、入り口から間違っていると思う。
立花隆の『中核vs革マル』の面白さは何だったろう?もちろん、立花氏の手法の面白さがある。もう1つ、本多さん自身が登場して、嫌な質問に答えた事だ。生の会話が、中核派への共感、その政治的優位性を印象付けたのではないか。実はその為に、逆に中核派の限界が見えてしまった事もある。けれどもそれは、一応別の話だ。
マスコミという事で、もう1つ。私たちのベトナム反戦闘争は、本多勝一氏と大森実氏らの戦場からのルポと切っても切れない。解放戦線は、彼らに自由な取材を許す事によって、自らでは決して語り得ないだろう、農民の生活と闘いを活写させた。情報操作を拒否する筆者たちの姿勢が、行間ににじみ出る。だからこそ、私たちの心が動いたのではないか。勝利して後の共産党の「変質」、これもまた、別の問題だ。
編集局の日常
編集局の2間の部屋は、共に6畳だったろうか。片方は編集室で、小机が9つくらい。片方は寝室兼居間で、3段ベッドが3つくらいだったろうか。当時の編集局はようやく10人を超えた程度、これで週刊『前進』と、月刊『武装』を発行する。季刊『共産主義者』は出版局だ。
『前進』三部局として、経営局・印刷局は三位一体だ。機関紙の発行は党の生命線。革マルの襲撃も相次いでいた。「非合法下の機関紙の維持」という熱意に燃えて、工場を立ち上げた古参同志も多い。
『前進』作成の最大の課題は、何よりも定時に出稿し、定時に完成する事だ。印刷・折り込みをやり終えた新聞をホロトラに積み込み、全国の地方委員会から来るホロトラに引き渡さなければいけない。この「脈管」の場面こそ、権力と革マルとの戦争の最大の攻防点だからだ。映画「クライマーズ・ハイ」のような、編集局と経営局・印刷局の熱いバトルが、日常的に起こっていた。
入稿問題
編集局から出稿する。印刷局は入稿する。私たちはこれを「入稿」と呼んだ。入稿時間の厳守、それは軍事問題として第1級の課題だった。
しかし、しばしば入稿時間を遅らせてしまう。理由は色々だ。まず編集作業それ自体で、手間取る事がある。せっかく組み上げた大組みに、政治判断で後から1筆付け加える事もある。「裏」から突然、指示や原稿が来る事もある。
印刷工場の工場長が、怒鳴り込む。「いい加減にしろ、軍事をどう思っているんだ。政治より軍事優先だ。工場に尻拭いさせるな。編集のプロになれ!」。そのたびに謝り、仕事後の打ち合わせには自己批判文を出す。「プロになれ、印刷工場に見習え」。
工場の作業は、植字・大組み・写真・製版・印刷、そしてビラなどのオフセット輪転機がある。後には自動製版になる。初期の人たちは、民間の印刷会社に勤めて、技術を持ち返って来た。「職人になる」、そのために日夜訓練を重ねている。そして、「この編集局・編集局員」のために生涯をかけている。
水谷さんが下獄中、リリーフとして藤掛守さんが編集局のキャップになった頃、工場の怒りはすでに沸点に達していた。「俺たちが党員だからナアナアで済んでいるけれど、これ以上我慢できない」と言う声が溢れていた。
誤字・誤植、それが「死活問題」に発展してもいた。同志会論文の時には、それが「差別」と糾弾されていた。藤掛さんの時代、会議の大半が、毎号の入稿問題の点検と総括に費やされていた。
私は、誤植見落としの最たる存在だった。入稿問題の総括でも、いつも小さくなっていた。工場メンバーとの会話でも「入稿問題」に話が及ぶと、「すみません」と下を向くしかなかった。
後日、私は「近眼」ではなく強度の乱視である事を知った。考えてみれば、これも1つの原因だったのだろうか。
離脱と死
私が入って後、編集局からは3人の離脱者と1人の死者が出た。指名手配も1人だ。まず、初代・障解委(障害者解放委員会)キャップが本社を出て、戻るのを拒否していた。障解委さんは、元・社会福祉大学。新左翼系の全障連の主導権を、一時中核派が握ったのも、彼の功績がありそうだ。彼の障解委からの解任と移籍の理由は、詳しくは知らない。しかしこの頃、地区や「諸戦線」の首のすげ替えは珍しくなかった。
彼の下にいた障害者のために、本屋さんが設けられていた。その経営が悪化して、その立て直しに彼は奔走していたのだ。破綻の原因に、障害者のサポーターの不在がある事を彼は苦しんでいた。障害者の自立と、党の任務の板挟みに苦しんだ。私が、「連れ帰る役」を任された。彼と会ってあきらめた。どうしていいか、私にも分からない。
2人目は元全学連書記長。サブキャップとして着任したけれど、古参編集局員にいたぶられて逃げ出した。
3人目は学生時代から、勇猛さで名を馳せた女性だ。本社第2ビルが出来た後だと思う。「本社に行こうとすると、体が変調する」と苦しんでいた。何度もそれを繰り返して、来られなくなってしまった。
Fさんは、「問題の所在を考えて欲しい」と提起していた。けれど捉える事は出来なかった。この頃、「女性の突然のダウン」と言う事が、上層部でもようやく捉えられ出していた。「献身的な女性ほど、無理を押して突然倒れる」。女性問題とは何か、<男並み>を強要する組織とは何か。中々深まらないうちに、身体が悲鳴をあげていた。
出労連(出版労連)から送り込まれた、編集のエースの大福さんが亡くなった。週刊誌の名アンカー。記者たちの取材や資料を基に、記事を書く仕事を経て来た人だ。彼の死は、余りに早過ぎた。
私は、睡眠時間を8時間とらないと動けない。5時間、6時間で動ける人をまねようとしたけれど、出来ない。任務の間のわずかな時間を有効に使う人々に、どうしても追い付けない。