カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第7章 荒本にて

 91年春、私は荒本選挙に、先遣隊として派遣された。東大阪市荒本、部落解放同盟・荒本支部、その市議選挙だ。候補は、後の全国連委員長の瀬川博さん、私たちは、「共闘」「市民の会」として加わる。私が、改革すべき中身を発見し、そして崩れて行った半年間だ。少し長くなるけれど、まとめておきたい。
 

36      半年間の始まり

荒本への到着のその日、簡単な説明を受けた後、私たち先遣隊はひとまず宿舎に入った。夕方、瀬川支部長など「ムラ」の人と、部落青年戦闘同志会の人々が、歓迎の宴を持ってくれた。

 ムラの中だ。私は横浜・寿の街を思い出しながら、不思議と心が温かくなるのを感じた。快い空気を味わいながら、私はしたたかに酔った。散会直後、私は路上に座り込みそのまま寝入ってしまった。多分、ムラの人だろう誰かに起こされて、ようやく宿舎に帰った。「編集局員が酔っ払った」「共闘がムラで酔いつぶれた」。皆に笑われてさんざんな始まりだった。

 数日後、瀬川さんと話す機会があった。真っ先にこの件を笑われて頭をかいた。「革マルに襲われたらどないする?」と言われて「ムラの中やから、ワシは安全や。やられるとしたら別の人間や」と答えた。これが瀬川さんと最初の会話になった。
 

セクハラ

 歓迎会の雰囲気は、瀬川さんの河内音頭で彩られた。「ようやく荒本に触れられる」――そんな思いが選対のみんなに有ったと思う。本社では、私の世代の男ばかり、しかも学生出身者ばかりだったけれど、ここでは皆若かった。女性も半数に近い。自己紹介の後1人1人、カラオケのマイクを握った。皆、好んで大阪の唄を唄った。
私はこれが嫌だった。「お国自慢を唄え」。戦争中の、南ベトナム解放戦線の民族政策を思い出す。「京(キン)族」を主体とした解放戦線は、山岳に住む諸民族との交流をここから始めていた。中国、フィリピンも同じだし、日本でも同じだ。互いにルーツを語れ、だ。差別の克服は、自分を知り互いを知れ、ではないか。
私は、故郷の八木節を唄う事にした。実はカラオケも初めて、唄うのも10年ぶり。記憶を頼りにアドリブも入れた。セリフが出て来ない。ままよ。「上州は生糸の産地、女達は手に職を持つ。カカア天下が生まれるのは世の習い」までは良かった。
続けて、「けれども、ベッドの中では可愛い花嫁さん」とやってしまった。瀬川さん達は面白がってくれた。「おもろい奴が本社にもおる」。
 翌日、居合わせた女性たちに責められた。同年輩の女性は笑いつつも、「私も、怒っています」。ア、ア……。彼女たちの怒りの根底とは、杉並などで、指導部による深刻なセクハラが、いくつもあったということ。「みんな揉み消された」。そんな話、初めて聞いた。
 
 後日の解散の日、その2人の女性に喫茶店に呼び出された。「許さないからね」。「はい……」。話が転じて、旅行をして帰りたい、ついては金を貸せ、という。私が旧友からカンパを送ってもらっていた事を、みんな知っていた。若い世代にカンパ源は乏しい。みんなピーピーだ。「しゃあないな」と渡す。「返さないからね」。「お礼も言わないからね」。
 
 選挙戦の最中、居合わせた選対に、瀬川さんが一席設けてくれた。「支持者」のスナックのママさんは、暴力団から瀬川さんを守った女傑でもあった。歌も素敵だった。おにぎりを求めたら、「明日の息子の分しか残っていない」と言う。けれどもどうしても、ママのおにぎりを食べたかった。同志会の諌めも何のその、息子のおにぎりをもらった。「おいしい」。こんなおいしいものは初めてだ。
 

沈黙

 荒本では、数回の市議選の勝利の蓄積があった。支持する可能性のある人々の名簿を渡されて、戸別訪問に入る。私は、荒本に隣接する一般民地区を担当した。学区は同じ支部員さん達の旧友も多く住む。指導として、「荒本への差別の中心地区」だ、という認識を与えられた。
 最初の1週間、私はひたすら聞き役に回った。多くの人が、前回や前々回の担当者の近況を尋ねて来た。そして自分の人生や、地域の実情について話してくれた。1軒が終わるたびに、聞いた事をそのままの表現で、数倍の時間をかけてレポートを書いた。
宿舎でも全国から集まった人々の輪に入りながら、自分からは何も言わなかった。「えらく存在感の無い奴やな」と言われても、何も言い返さなかった。
 1週間後、私は覚えたての河内弁でしゃべり出した。「刈谷さん、その『……さ』は余分やで」。揶揄と指導を受けながら、恥も外聞もなく河内弁に徹してみた。東大阪の空気が、私の血管の中に沁み込んでいく、そんな気がした。十数年の大衆運動のブランク――大人たちの中での初めての運動、マイナスからの出発が始まった。
 

堅実論文の学習会

 学習会は運動の生命線だ。本多書記長の『革命党の堅実で全面的な発展を』論文が、基礎に据えられた。本多書記長の遺稿とも言えるこの論文は、74年8月の「総反攻」宣言の前に発表され、様々な波紋を生んでいた。私自身は、「一層のゲバ戦にのめり込むためのアピール」と読んだ。血みどろの戦いの先に、どんな地平が拓けるか。その地平を胸に、「いざ戦争」だ。
 「ルビコン」を越え、再び越えてローマの地に戻る。学習会では、そういう思いで挑んだ。オッチャンは、班単独で学習会をやり、それを選対本部へフィードバックしようと目論んでいた。戸別訪問のメンバーと、本部員の1人2役で、風通しを良くしようと頑張っている。
 

「運動型」と御用聞き

選対本部は、「運動型選挙」と「御用聞き型」を併せて提起していた。住民生活を掘り起こし、様々な要求や課題に手を貸そう。荒本支部に学べ、という事だったと思う。
 メンバーは選挙の中で、生き生きと個性を発揮していた。感応力と行動力は、実に素晴らしいものがあった。私はこの人たちの中に、新しい中核派の可能性をも見た。
そんなある日、「杉並のおばちゃん」が「ああ、気持ち良かった」と帰って来た。担当地区のママさんバレーに加わって来たと涼しげに言う。「えっ」。仰天した。私に出来る芸当ではない。おばちゃんは、量販店「トイザらス」の開店反対運動をも掘り起こしていた。戸別訪問で署名集めを手伝った。「これが票になる」。彼女は元教師、経験値の差は無限大だ。
 元商船大生は、「ヤクザの事務所に行って来た」と報告する。借金取り立てに苦しむ人々がいた。「瀬川博の名刺を持って談判したら、相手がビビッた」そうだ。肝が据わっている。
 

班会議の議論

 選挙運動は2本立てで進んだ。1つは、荒本のムラの中での運動。これは青年部が中心に進めた。ムラの中でも、全員が支部員さんではない。しかしこのムラの票こそが、集票の中心になる。私たち「共闘」は、「平和を守る市民の会」として、「反戦平和の瀬川」を掲げ、市内全域を担当する。
最初の班会議。キャップの「オッチャン」が提起する。「さて、ワシらが行くと市民が聞く。市民の会は、過激派やないか。どう答える?」。何人かが発言する。「確かに1部、過激派の人もいるけれど、市民の会は平和を守る人すべてが集まっています」。杉並でのマニュアル通りだ。
 このヌエ性に違和感がもたげた。「ちゃう思う」。私は発言した。「これは荒本選挙や、ムラの人の選挙なんよ。荒本と瀬川さんの実績を問う選挙や。荒本の統制に従うなら、誰でもええ、や」。オッチャンがまとめた。「せやせや、正しくそらす、いう事やな」。ストンと落ちる結論になった。
 
 班会議では、しばしばオッチャンと議論になった。2人とも譲らなくなった時、私は班のメンバー全員の発言を求める事にした。そして、再びオッチャンと延々とやり合った。最後にまた、1人1人の意見を聞く。
 「刈谷のおっさんのような見方は、知らなかった。おもろいな、思う。せやけど、ワシはオッチャンに賛成や」。結論はいつも、孤立するばかりだった。「刈谷さん、せっかくやけど悪いな」という慰めが救いではあった。
 
その日の班会議は、私の担当地区の点検だった。国保減免申請を独りでやった人の事がテーマになった。私はその人に、窓口でのやり合いの仕方を教えた。結果として、減免は半額にとどまった。「何でや、一緒に行けば全額免除やないか。何で瀬川の名刺を使わん」とオッチャンが批判する。私は釈明した。「いや、本人があくまで1人で行くゆうた」。論議は平行線に終わった。
私はこう主張し続けた。「たとえ半額に減らされても、自分で勝ち取る事で自信になる。その人が、人から人へ、私の知らない所で広めてくれる事で充分だ」。改良闘争の原則を私は言ったつもりだ。ただそれが、選挙とどうつながるか、自信はない。
 

PKOへの賛否

 市議会での、瀬川さんの発言録を借りた。4年間の発言録を全部読んで、驚いた。瀬川さんの発言の過半は、ムラの改善についてだった。次に保育所増設。平和については、1割程度だったろうか。テーマごとの発言の行数を数えて、表にしてみた。これを基に、「保育所の運動は共産党」だと切り捨てる「指導」に噛みついた。政治力学上、共産党に引きずられての保育所問題への関与だったとしても、事実は事実だ。会議の中でも報告して、「これが『平和の瀬川』の中味や。ちゃんと踏まえてオルグせにゃあかん」。
市民の会は、市内全域を対象に、全戸にビラをくり返し入れた。PKO自衛隊派兵反対が全てだった。これに合わせて、各メンバーが担当する地域版のニュースを作る事になった。私は、自分のオルグ記録を読み返してみた。名簿の6割はPKOを支持していた。反対は4割以下に過ぎない。しかし賛成派の中にも、大事な事を言っていることに気がついた。「日本はかつて、アジアの人々に迷惑をかけた。自分の事ばかり言っていないで、お返しをするべきだ」。
PKO、百人に聞きました」というタイトルで、賛否双方の主な言葉を並べた。町名、男女を付けた。もちろんど真ん中に、「瀬川ひろしはPKOに反対です」という垂れ幕を付けた。
戸別訪問で、「これがあんたの言葉や、どや?」と話すと、話題が盛り上がった。選対では「賛成論まで載せるんか?」と反発や批判もあった。しかし相手が編集局員である事もあり、黙ってしまった。私のやり方への理解も少しは得られた。面白がる人も増えた。私も『前進』では、望んでもやれないこの手法に、充実感があった。“当たり前の新聞”そんな『前進』を作れないものか?
 
 1ヵ月後、2号目の作成に挑んだ時、体の急変が起こった。疲れと暑さの中で、2号以降を断念した。
 

反戦論の複合性

 「PKO反対」の論陣をどう張るか。総会がもたれ、班会議でも議論された。「侵略派兵」と「軍事大国化」・「戦争国家化」の枠組みをどう訴えるか。それらを、数千人の「1票」に、どうつなげるか。
 私は学生時代の横須賀闘争について語った。ベトナム戦争の下、横須賀の歓楽街「しょんべん横丁」は、米兵の落とす金で活況を呈していた。しかしやがて、戦争帰りの米兵達の血なまぐさい乱闘が日常化していく。犯罪、強姦が多発する。ドルの下落もあわせて、米兵もしみったれになって行く。「戦争景気」の「うま味」が減る。
 そうした中で、横須賀闘争は闘われた。「平和運動」の枠を超えた住民の大量の決起が生まれた。この構図は、沖縄全軍労の闘い、復帰運動の県民的広がりと通底する。米軍がくり出す夜の歓楽街の「Aサイン業者」(米兵御用達)の存在は県民運動でも県政の領域でも無視できない。
 そこまでは良かった。「住民の反基地運動は、『住民の生活の窓』からやな、起こりもするし、消えもする」。
オッチャンが激しく批判した。「『窓』もクソもあるか、反戦は反戦や」。他のメンバーも同じだ。「刈谷のおっさんは、話をややこしうするだけや」。「だから何なんや」。「何か日和見主義みたい」。
 私は、運動の高揚と沈滞の波を、どう捉えるか、そういう視点の下での住民の組織化、その戦術論の重要さを言った。ここ東大阪でも、戦争絡みの景気回復への期待が、確かにあるのだと。「分厚い層」として、広範な市民を獲得しようとするなら、私たちはもっと、市民生活の鳥瞰図を描く力と、問題意識を持つべきだ。ふところの深い理論とセンスを持つべきだ。同志会論文の言う、改良闘争と政治の結合をめぐる「橋渡し」論も、内容的に言ったつもりだ。 けれども、私の議論は空振りに終わってしまった。
 

忘れ物戦術

 「選対は休憩時は担当地区の外に出ろ」――本部の指示だった。杉並でも同じだ。かつての社会党も、外からの動員は同じだったと思う。ましてや中核派、3人寄れば異様な空気が漂う。硬直した対応、無神経な言動が、知らないうちに票を減らす事は、何度も言われている。
 しかし私は、あえて指示を無視した。少しでも多く、生活空間を共有したい。スーパーで買い物をしていると「あら、瀬川さんとこの人」と呼びとめられた。立ち話が始まった。「ここのお店は……」。ほんの少し、「生活感」が身についた。時には、雑談の合間にわざと、「瀬川さん」と大声で入れる人もあった。私たちは、瀬川さんを支援する「同志」だった。
 
 私は支持者のお宅に、忘れ物をする事が多かった。「しまった、まずい面を見せてしまった」。相手は気づいて待っていてくれた。ついでに話がはずむ。「実はさっき言い忘れていたんやが」。肝腎な話は、客が去ってから思い出すものらしい。大事な話は、大事であるほど、ジワリジワリとしか、浮かんで来ないものらしい。私は、いよいよ忘れ物が多くなった。

37      ムラの中で

朝の散歩

 瀬川さんが朝の散歩を日課にしている、という話を耳にした。私は時間帯を見て、待ち伏せする事にした。「オゥ!こないだの酔っぱらいか」。軽口を叩きながら、同行を許してくれた。毎朝同じ事をしていると、瀬川さんも私を待ってくれるようになった。
 私は秘密にしていたが、選対の耳にはすぐ入る。「刈谷さん、やめぇ」と言う声がいくつもあった。でも私は無視した。「取材や」という口実もつけた。
 歩きながら、パラパラといろんな話をしてもらえた。解同本部との闘い、興国闘争の事。在日朝鮮人差別を糾弾する部落民の闘いは、心を動かした。同時にそれが、ムラの中の在日の仲間を守る闘いだと知って、ストンと落ちた。瀬川さんは、自分の言葉で語る事の出来る人だ、と言う事も確信出来た。
 散歩の日課は、ムラの喫茶店のモーニングで終わる。トーストや卵をほおばりながら、ムラの人やママさんとの会話を聞いていた。ある時、瀬川さんが「刈谷、お前ふんふん頷いとるが、話が分かるんか?」と聞いた。「うーん半々や」。
 別の日には、瀬川さんがママさんに責められていた。「支部長さん、昨日のあれは差別やで」。「ほうかな、差別か?」。「そや、差別や」。形勢が悪くなって、私に振って来た。「刈谷、お前、差別や思うか?」。「わしゃ知らん」。バツ悪そうに頭をかく笑顔が、本当に可愛い。
「刈谷、お前はほんまにエエとこの子やな」。瀬川さんに言われた。私も瀬川さんを「下町育ちのボンボン」と秘かに命名した。
 別れの日、私は最後に訊ねた。「わしら共闘は『荒本は部落や、部落や』ゆうてきた。これでええんかいな?」。「ええんやないか」。これが答えだった。
 支援が去りムラも日常に戻って行く。誰もが「支部長さん」「ヒロっさん」と呼ぶ中で、私は1人「瀬川さん」で押し通した。
 

宿舎にて

 「共闘」のメンバーは、ムラの宿舎に分宿する事になった。「ムラの人には、しっかり挨拶せよ。但し、深く交わろうとはするな」という指示があった。支部長さんや同志会のメンバーのみ例外という事だ。そんなものかとあきらめる。
 私の部屋は、関西、名古屋などから来ていた。しばらく「様子見」の後、「刈谷さん、本社には『改革派』があるって言うけど……」と問う。面倒だと思う。「うん、でも天皇決戦で解体したと思ってる」。「うーん、やっぱりな」。吉羽改革は、東日本で止まっていた。
 私は逆に、各地の実情を聞いた。財政・動員・引き回し――想像以上に悪い。破綻を見せる編集局財政も、疲弊しきった地方のあがりを喰い尽くしての話だ。「戦争の重圧」はとめどない。
大阪のオッサンは、専従費の不足をパチンコで稼いでいた。そんな事も出来るのか。
 
 ムラに住んで、「改めて部落問題とは何か、という事が分からなくなった。分かっていなかった、という事が分かった」という話があった。「刈谷さん、分かる事で良いから言ってくれ」。
 私も荒本に来てから、時々図書館に通っていた。大学の先輩が荒本に住み込んでいたから、直にその理論も聞いていた。共産党系の全解連は既に、「解散して普通の自治会へ」を方針にしていた。けれども一向に解散が進んでいないらしい。東大阪でも、蛇草(はぐさ)地区が、全解連の拠点としてある。「差別は無くなった」という主張は、全解連の現場でも、事実上拒否され続けている。
 荒本は「都市型部落」だ。その課題は、場面場面で紹介されている。「もう1つ、田舎の部落問題という原型を知るべきだと思う」。私は、父母の故郷の長野の部落問題を話した。前橋でも、差別と糾弾の歴史が続いていた。「田舎では、集落の事を部落と言う。だから田舎の事を話す時、ワシは一般民の集落を部落と言う。被差別部落の事は、とりあえず『川向う』という差別の隠語で話したい」。
 かつて荒本派のオルグのために、私たちは長野の被差別部落に戸別ビラ入れをした。たまたま、私が動員されたのは上田市だった。集落から見上げる段丘の上に、父の故郷があった。従兄の名を言うと、「学校の先生」と答えが返る。
しばらくの後、「刈谷のおっさん、あんたの話は聞けば聞くほど分からなくなる。要は何なんや?」。
「みんな家に帰って、親父や友人と酒を飲んだらええ。自分の足下に宝の山がある言うやろ」。忙し過ぎる任務を拒否して、頭を空っぽにして街をふらつこう。「それがワシらの『党改革』やないか?」。
 

都市型部落

「部落差別て、ほんまにあるんか?」。信頼が深まる中で、私は瀬川さんに、初歩的な疑問をぶつけてみた。張り倒されるか?瀬川さんは、「荒本がある事がその証明やろ」と受けた。
荒本自体は、古くからの小さな被差別地域だが、今のムラの人たちの多くは、西日本各地からの人が多い。瀬川さん自身、父親は他所の人だ。都会に働きに出た人々が差別に苦しみ、居場所を求めて荒本に移り住み、荒本は膨れ上がった。瀬川さんの言葉は、その事を指している。
「荒本から出て行く人がいる。どないや?」という問いには、「それは逃げや」と応えた。荒本に住むこと自体、「部落民宣言」をしているようなもの。その苦しみから逃れようと出て行っても、結局は変わらない。「ムラに生きる」のが、解放闘争の原点だ。
 荒本には、在日朝鮮人・韓国人の他、多くの「下層」の人々が住んでいる。部落解放同盟の「底辺人民共闘」も、「組織内問題」と考えると、胸に落ちる。
 

周辺地区

 「周辺地区は差別の元凶」と私は教えられた。古くから、荒本を虐げてきた側の部落が隣接する。少し離れた文化住宅地域は、同じ学区で同窓生も多い。自営や町工場、下請け企業の労働者など、貧しい東大阪でも、最も貧しい地域だ。荒本の子ども達は、歯に衣着せぬ同級生や、その家庭から、最初に差別の洗礼を受けて来たという。
 「周辺地区住民の差別」との闘いは、解放運動のもっとも生々しい領域だった。解放運動の闘いで、ムラのアパートに人々が移り住む中で、共産党を筆頭に「逆差別だ」というキャンペーンが、広く染み渡っていた。「逆差別」論の扇動との闘いは死活的だ。荒本も「ワシらは闘って、取って来た。お前ら闘いもせんで、ウダウダ言うな」と切り返していた。
周辺地区の町内会は古くから、地付きの大百姓の系譜に占められていた。この頃ようやく世代交代が始まり、他方でよそ者の中・大企業の管理職の台頭が始まったばかりだ。
 
旧知の人が「終わったら田舎に帰る」と言い出した。「おれはもしかしたら部落民かもしれない」。後日に「実は舟衆だった」と聞いた。海の民にもまた身分差別があったのだ。けれども解放同盟は水平社以来「エタ・非人」の「エタ」の団結体だ。彼はまた新しい領域を自ら切り開かなければならない。もちろん解同の「底辺人民共闘」の一環となるだろう。江戸時代の身分差別も、身分・地域により、あるいは解消し、あるいは形を変えて続いているという。実生活に即して考えなければならない。
 

38      国保選挙への転換

本部長の解任

 市民の中で、国民健康保険の重圧感が広がっていた。市の職員や教師などは「平和の瀬川」で良かったけれど、貧しい人々は国保の減免を求めていた。担当者は市民と共に窓口へ行き、減免を実現しようと闘っていた。
こんな中、国保の増税が迫って来た。しかし選対本部は、運動としての国保闘争を頑なに拒絶し続けていた。混乱が広がる中で、本部が「国保の瀬川」への転換を決めたのは、確か三月も後だった。
 転換のための総会は大荒れに荒れた。基調報告が終わると、若手の女性が「納得できない」と発言した。私は転換を歓迎し、それを補足して発言した。別の女性が再び、「納得できない」と叫ぶ。「転換の理由を説明して欲しい。結論だけでは動けない」。会場の半数近くを占める女性たちが共感の拍手。
関西の古参専従が叫ぶ。「お前らいつもそうなんや、ええ加減にせえ」。関西では、活動費の欠配や遅配が何度となくくり返されていた。そして引き回しにつぐ引き回し。何度となくくり返された幹部への吊るし上げが再現した。もう収まらない。結局、本部長の引責でその場は収められた。私は呆然として、事態を見守るだけだった。
全体集会での、方針転換の後の班会議。「杉並のおばちゃん」が、引き続いて異を唱えた。「『反戦の瀬川』と言って来たのが、『国保の瀬川』。整合性が得られない」。確かに大事な議論だった。
 私は、「要は『軍事大国化阻止』論の中身や。侵略戦争そのものと直接対決する事と、そのための国作り、という事は1つで2つの問題や思う。これは『国作り』の側の事や」。「分かった」。とりあえずスッキリとまとまった。
 
しかし他方……。私は班の中で、そして宿舎でも、様々なテーマについて、くり返し議論した。しかし私の論立ては、みんなの前で宙に浮いていた。私は、「左翼」としての常識的論議を、ナマの河内弁で喋ったつもりだ。しかし、同世代の活動家達は、誰1人として「常識」を知っていなかった。「中核派とは何なのか」~対革マルの内戦の始まる既にその前から、社共を乗り越える議論の継承は断たれていた。それが、「10・8世代」の内実だった。
 

転換の意味

 「瀬川陣営」が国保闘争に踏み切った事は、選挙戦術にとどまらない。荒本支部の「思想」面での、大きな転換があった。
すでに荒本は、「同和行政」として、国保料の免除を勝ち取っている。国保値上げ反対運動は、「ムラの要求」ではない。けれども、「差別者との連帯、差別者の救援」に、荒本支部は重い腰を上げた。軋轢は大きかったに違いない。そのために時間もかかったのだ。
しかし東大阪で、国保値上げ阻止を率いる力を持つ集団は、共産党が牛耳る市職と荒本以外にはない。民商や「生命と暮らしを守る会」も共産党系だ。荒本が動かず、「お前ら自分で闘え」という事は、見殺し以外を意味しない。
私は推測した。ムラの人々がこの選挙で、同級生と語り合い、市職の現業につく「荒本のエリート」達が、人々との触れ合いの中で転換を促したのだ、と。既に、「差別者=農民との連帯」は三里塚で培われていた。その上で敢えて思う。周辺地区に住む、多くの部落の人々、彼らの存在が、ようやく射程に入ったということだ。
しかし選対では「方針転換」は天下りだった。転換のプロセスを生々しく公開すること無しには、組織はもう動けない所まで来ている。それが、本部長解任事件だ。実に虚しさが残る。
 
「国保とは何か?」の、報告の役割は私だったけれど、進まなかった。この頃もう、私の身心は限界だった。オッチャンに頼んだ。代わりに「何をテキストにしようか」と相談され、私は『臨調国鉄』本を推薦した。国保には、直接は無縁だけれど、中核派の中で、唯一、まともに中曽根戦略に言及していた。中曽根臨調路線との対決は、実践上はゼロと言って良かったから、なおの事、この本は特異な光を放っている。「ちんぷんかんぷんの本」が、大方の感想だったかもしれない。
結局は、共産党の本に頼るしかない。みんなこっちの方が、よっぽど分かりやすかった。
 

財源論

 国保選挙への転換の中で、本部方針はひと言だけ財源論に触れていた。国保税は、所得割と世帯割で成り立っている。所得割には上限がある。この上限を上げよという主張だ。確か、年収250万位を400万に上げよ、というような主張だった。この帯に入る層に増税せよという。
 あまりの非常識に、私は唖然とした。自民党だって、表立って言えない事ではないか。けれど総会での批判は止めた。多分これは、同志会の主張だ。もしかしたら、ムラの人たちの思いもあるかもしれない。慎重に丁寧に批判する必要がある。
 私は同志会メンバーに、ゆったりと苦言を試みた。荒本に隣接する私の担当区域で、国保に苦しんでいる人々は、この層に入る。本部方針は、逆にこの人々を一層苦しめるものだ。荒本がこの人々を味方としようとする転換の中で、もう1度考え直して欲しい。
 
国保闘争には3つの壁がある。1つは、東大阪全体の貧しさだ。戦後、朝鮮特需やベトナム特需で栄えたこの街に、在りし日の姿はない。
大小の工業団地からなる中小・下請けの町工場街・東大阪に、大企業やその労働者は少ない。大阪市に働く彼らの住居は、東大阪を通り過ぎて奈良にある。財源は、県や国からぶんどって来る以外に、たかが知れている。それをどう切り拓くのかを課題としよう。
2つ目は、国保と健保の2本立ての問題だ。比較的高収入の公務員、大企業労働者は、健保に加入し独自財政だ。国保は、低収入の町工場と零細業者を、自営の中・高収入者の、そのまた一部だけが支えるという構造だ。現行で健全財政を目指せば、彼らのみへの重税となる。そこには無理があり過ぎる。
3つ目は、共産党の勢力の大きさだ。市職を基盤として、各種の住民運動を組織している。共産党は一般的に、「軍事費を切り詰めて、福祉の充実を」と主張する。しかし、解放運動の実績のある自治体では、「無駄な同和行政の削減を」が中心軸になる。「解放同盟と、正面から闘えるのは共産党だけ」という主張が、保守層との壁を越えて、集票に結び付く。それは、共産党の選挙の中心軸に、「これに学べ」と明示して位置付けられている。本部方針もその対抗上、財源論に引きずり込まれたに違いない。
 
改めて考え直そう。マルクス主義は、税金そのものの社会的意味は肯定する。問題は、現にある税、財政、つまり国家が、私たちのものになっていない事だ。日常的な要求として言い換えれば、「ガラス張りの財政を」だ。あえて財源論に踏み込むならば、表に出てくる数字による「適切な」税負担よりも、2回り低い負担を求めるべきだ。中所得層もまた同じだ。
 ここで問われているのは、改良闘争の「常識」だ。「改良主義ナンセンス」と叫び、「革命的闘い」をして来た人々が、いざ改良闘争に踏み込んだ時の体たらく――普通これは、「悪しき改良主義」と呼び、改良闘争と区別される。
これを私は、どう考えたら良いのだろう。中核派の10・8世代とはこんなものか、と思い至るのみだ。
 
同志会も一定納得してくれたようだ。ビラに、財源論はなかったと思う。けれど、解散式の総会議案には、同じ趣旨が復活していた。
 東大阪の国保を、真に解決しようとするならば、党としての大胆な戦略転換が求められる。制度そのものを射程に入れた、政策と陣形の再配置、そして何よりも改良闘争の「常識」の復権――社会常識が無い、左翼の常識が無い、政策が無い、「無い物ねだりの子守歌」か。

39      思い出の人々

袋ごと戦略

 「30票保証する」と言う人がいた。豪邸の2階に、20人が泊まり込んでいる。通いを合わせれば「30は行く」。どうやら、人夫請けが稼業らしい。横浜・寿に出入りしていた私は、暴力的な棒心(ぼうしん・人夫頭)の姿を思い浮かべた。豪快なタイプだ。「30」は大きい。見返りに何を求められるか知れないが、賭けてみるしかない。「袋ごとの獲得」と心の中で念じる。1本釣りだけでは駄目だ。実力者を獲得して、集団丸ごとを囲い込む。それも1つの在り方だ。
荒本の事、瀬川さんの事、棒心さんは自らよく語った。初めて聞く事ばかりだった。信頼が高まった。
 ある日、夫が留守の時、妻が険しい形相でまくし立てた。「わしゃ、アイツの出自を知っとる」。仰天する私に「アイツは絶対許せん、殺しても飽き足りん」。
激しい家庭内暴力があった。外面の良さと内面の落差があまりにも大きかった。私は、こう応えるしかなかった。「奥さん、あんたの亭主は男として最低なやっちゃ、許せん……せやけど荒本にとっては、必要な人や」。恨めしげな妻を残して辞した。「袋ごと、袋ごと」と念じながら、緊急レポートを書いて、ムラの人の中から妻の担当者を送って欲しいと要請した。
 
 「私は△△から移って来た」という女性がいた。当時から、瀬川さんを支援していたという。地名だけは知っていた。社会党か共産党の活動家だったらしい。夫は左官、その夫が仕事中に重傷を負い、貧窮と介護で疲れ切っていた。国保減免の話もあった。
 選挙の翌日、お礼と別れの挨拶に行った。勝利を喜びながら、彼女がふっと口にした。「刈谷さん、『解放』って何やろな」。絶句した。ああ、この人もまた、部落の人だったのだ。「釈迦に説法」。この人は、何度も自ら部落民であることを「△△から」と言っていた。それを私が知らずに、気付かずにいたのだ。
 
「イバラキから来た」と言う人に、私は「群馬出身です」と応じてしまった。私は関西について、何も知らなかったのだ。
 

恋人が来たヨ

 郵政官舎には、支持者(候補)がたくさんいた。大体は主婦としか会えなかったけれど、時には夫もいた。主婦の1人とは特によく話した。パートで働いていて、身分の不安定さや賃金の低さを嘆いていた。この人も、保育所増設運動に深く関わっていた。
 夏の暑い盛り、薄手の白いTシャツで応対されるとまぶしい。下着のまま話している感じがする。私は選対に帰って、若い女性数人に聞きまくった。「下着のシャツと、Tシャツとどう違うん?」。いろんな話があったけれど、結論は分からない。参った。
 選挙の終盤に銀輪隊が結成された。「瀬川博」の幟をたなびかせ、宿舎の内外を回ってもらった。「4・28不当処分撤回!」「パートの権利の向上を」。シュプレヒコールが、官舎にこだました。
 
 アパートの1室。玄関の上がり框に腰かけて、私たちは何回も長時間おしゃべりした。軽い身体障害者の女性で、30代半ばだったろうか。10代は暗い記憶しかないと言う。20を越えて、珍しい事や面白い事で一杯になったと言う。「生きてるって楽しい」。障害者の事、保育所の事、そして戦争の事、話題は尽きなかった。彼女のユニークな視点に、しばしば感動した。
 ある日、おしゃべりに夢中になっていると、夫が帰って来た。一瞬ギクリとして、腰が浮きそうになる。でも、軽く挨拶して彼女とのおしゃべりは続いた。
 東京に帰る前日、挨拶に行くと、応対に出て来たのは夫だった。ニコリと微笑んで夫は中に声をかけた。「おーい、恋人が来てるよ」。
別れを惜しんで、長いおしゃべりになった。「今度、仕事のついでに荒本に寄ってみるわ」。私はムラの喫茶店を紹介した。「コーヒーを飲んで、世間話をしてみたら?」。怖いもの知らずの女性になっていた。
 

結婚は別?

 最初の注文は、「分別問題をしっかりやって」だった。狭い路地と木造長屋、「文化住宅」の台所はいくつものゴミ袋が占領していた。「ひと昔前なら、ゴミは川に流して良かったけれど、ここは都会や。川や空気を守らにゃいかん思う」。
 唐突な話に私は面食らった。「行政への要求」を描いていた私は、いきなり市民としてのモラルを突き付けられて、「これは使えねえ」と思った。
 彼女は、戦後初期の労働争議の経験を話してくれた。面白い。「しゃーけどなぁ、学生のオルグが運動に入ったらおかしゅうなった」と言う。「どんどん戦術を拡大する。みんなが付いて行けんようになって終わりや。その学生はな、大争議を率いたちゅうて、出世していくんや。『争議屋』ゆう言葉を知っとるか?」。ズシンと来た。共産党の事だけではないように感じた。
 夫と2人で自営業をしている彼女は、地域の実情にも詳しかった。私は疑問を抱くたびに、彼女にぶつけて話を聞いた。彼女の批判的分析にすがって、地域の絵図を描いていった。
 
ある時、彼女がしみじみと言った。「しゃーけどな、私は自分の子を部落の人らと結婚させとうない」。突然の言葉にうろたえた。「うーん、そうかもしれんな、そうやな。せやけど、そん言葉を荒本の人らが聞いたら悲しむやろな」。そう応えるのが精一杯だった。「ハッ」とした顔で、私の顔を見た。しばらくは2人でうな垂れた。
 永年のタブーを口に出してから、彼女の顔は次第に穏やかになっていった。「本音」よりも、もっと深い本音が動き出していた。別れの日、彼女は言った。「今度、水道局や清掃の人が来たら、いろいろ話してみるわ」。
 

岡さん

 最初会った時、岡さんは「椅子の皮張り職人」だと自己紹介した。市民の会でも発言したと言う。仕事をしている様子も無い。70代後半の人だ。資料にはA・B・Cのランク付け以外に、何も無い。「一体どんな人だ」。一から聞き直すしかない。
旧制中学にいたらしい。軍事教練が嫌になって郷里(東京)から逃げ出して、転々としたという。
 戦後初の選挙の時は、東京で共産党を応援した。1946年4月の衆院選だ。中国に逃れ反戦活動を闘った野坂、「獄中非転向」の「徳球」には、保守政党の後援会が総ぐるみで応援したという。
 岡さんは策士だった。いろんな選挙に首を突っ込んで、奇策が当たったという。人を見る、人々を観る心と視線のある人だったのだ。
 流れ流れて、荒本周辺の低所得者地域に生きていた。皮張りとは部落産業でもあった。「何でも面白がって生きる」人――そう命名した。
 岡さんには、東京に帰ってもよく会いに行った。親戚の人に引き取られていた。ここでは私は、本名を名乗った。話題の豊富な人で、「刈谷さんは、どんな話を振っても応じてくれる」と喜んでくれた。しばらく行かないと、文句を言われた。
 中核派の事を話して、機密文書の保管を頼んだら即、受け入れてくれもした。非公然の会議の場所にもなった。私は父を早くに亡くしたから、父親のような気もした。
 福祉の「いのちの電話」から、週1回電話をくれて、おしゃべりを楽しんでいた。毎回メモをとって、次は続きを話すのだという。「でもね、『返り』が悪くってね」。
 最後に伺った時は、四十九日も終わっていた。お神酒を頂きながら、命名し直した。
「世俗を楽しんだ、世捨て人」。  合掌。
 

熊野の夜

投票日の夕方、選対の解散集会がもたれた。基調報告には、くだんの本部長が復活していた。そして財源論までも。
開票結果を待ちに皆が出て行った後、私は1人、広間の畳に寝転がって動かなかった。同じ班の女性が「はぐれ鳥」と言って笑った。「オモロナイ選挙やった」とふて腐れて応えた。
荒本での半年、私たち選対は、ついに最後まで、ムラの人々との交流を許されなかった。毎晩のように写真家さんの指導で、空手クラブをやった。そこで解放会館に立ち入り、青年部の人たちと挨拶する関係になったのが全て、と言える。
「党の動員」が、ムラの人々との接触で何を生み出すか。確かに私にも、あまりに分かり過ぎる。
後日のこと。解同全国連が結成され茨城県連はまるごと全国連に結集した。この時私たちは茨城に緊急動員されていた。ムラの中で、「部落民」と「一般民」という言葉を、平気で口にする本社メンバー、それを訂正できない指導部。うんざりして私が言うまで続く。「ここでは、ムラの人か、同盟員さんと言う。俺たちは『共闘』だ。さっきから俺はそう言ってるだろう?」。
狭山闘争の後景化から久しい。しかしそれ以上に、「日常生活」の欠如、大衆運動それ自体からの召還が、いびつな「理論」と体質を生んでいる。党の動員を徹底管理して、ムラの人々と触れさせない事、それしかないという現実を認めるしかない。いつまでこんな状態が続くのか?
 
選対が散る中で数日間、私は1人残ってレポートを書き続けた。オルグ名簿の1人1人に、簡潔なコメントを付けた。事務局のメンバーも、パソコン入力作業を引き受けてくれた。
「国保の瀬川」への移行に伴って、「市民の会」は凍結されるという。事務局要員)足りない、二者択一だという。東大阪地区党は、全く別個に動いていて、「市民の会」をカバーできない。国保ではない、多くの支持者への対応は、今後どうなるのか。
 
解放同盟とともに歩む「共闘会議」の非力さが気に掛かる。荒本の突出を支える「地区労」の不在が、どんな影響を及ぼすか?「党の健全で全面的な発展」なくして村の人と「日常をともにする」ことはできない。ここにも「内戦」の大きな歪がある。これをどう考えたら良いのか?
けれども、選挙という「祭り」も終わった。人々は日常の生活に帰って行く。私もこれが潮時だ。

ともかく相次ぐ会議では、スッテンテンに「浮いてもうた」。私は心中に決めた。もっともっと、日和見主義になろう。故郷の大反動・中曽根のように、「風見鶏」に徹しよう。「風見鶏はいらない、私が風見鶏だ[1]」。

 
心身ともに疲れ切っている。熊野古道を歩いてみたい。それが叶わないなら、せめて1泊、山中で過ごそう。


[1] 風見鶏。アメリカ「ウェザーマン派」 (Weatherman)。、70年代に活動した急進的学生運動の1つ。ボブ・ディランの曲から付けられた。国会議事堂、刑務所、マスコミ、大企業などといった体制側に爆弾を仕掛け数多くの爆破事件を引き起こした。ベトナム戦争の終結時に解散。

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