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49      対革マル戦の結末

 対革マル戦とは何だったのか。本多さんにとっての意味、その半分は解けた。残りの半分は、まず結果から考えよう。
90年以降、中核vs革マルの鉄パイプによるテロは途絶えた。80年以降は断続的なテロだ。その後の死者もいるけれど、大局的には80年で終わったと言ってもいい。中核派も革マル派も「党派」としては生き残り、消滅していく新左翼系の中では、相対的に存在感を維持し続けた。双方共に活力を失い、「棲み分け」も出来たようだ。
大事な事は、互いに軍事によっては相手を解体する事が出来なかったという歴史的事実だ。傷み分け、だ。

 もう1つ。中核派の革命的武装闘争は、敗北した。けれどもまた、権力は中核派を消滅させる事も、組織破防法を適用して非合法化する事も出来なかった、しなかった。見方によればここまでやれる、ここまでやってしまった、という事を土台として、私は考え続けたい。 (注 破防法の団体適用が回避されたことと並んで、自衛隊の治安出動も回避された。かわりに機動隊の警察軍化が進んだ。55年体制の内側からの解体の実像を改めて点検する必要がありそうだ)

 

内戦の構図

 私の問題意識は「どの程度まで、そしてどこで止めれば良かったのか」にある。とりあえず、3つの問題を確認しておこう。
 1つ目は、初期の優位性の下、革マルが、中核派の組織・運動の絶滅を期してきた事だ。「党対党」の主導権と死活を巡る抗争の問題。
もう1つは、革マルの反革命的武力支配への「解放戦争」としての意義だ。川口大三郎君虐殺を契機とした早稲田解放闘争。あの闘いを単なる「内ゲバ」とする事は許されない。
 最後に、「中核の革マル化」と言われる領域だ。法政大学での他党派の排除、三里塚での第4インターへの2波にわたるテロはその領域だ。「3・8分裂」そのものも俎上に上る。
最近の主張を見ると、中核派(中央派)と革マル派本体の主張が極めて似通ってきたこともある。
 
 両派の戦争体制を比較してみよう。双方とも、党員数はほぼ互角。動員力は中核派の浮沈の大きさに比べて、革マルはほぼ一定だ。
まず戦闘主力。革マルはJac(全学連行動隊)、インフ(索敵情報活動=レポ)には、多数の女性が体を張った。「労働者本隊」は、これとは一線を画しながら、「水本運動」を総力挙げて展開している。
対する中核派は、学生・OB・反戦だ。そして「諸戦線」の力が大きい。大学戦争では、反戦が主力を占める。新橋や東神奈川での大会戦は、反戦だった。
次に攻撃目標と戦争目的。革マルは初期から、中核派の組織丸ごとの壊滅を目指していた。「あと1撃」論だ。「あと1撃で中核派は消える、ガンバレ」。
75年「3・14」本多さんの虐殺は、革マル根本によれば「半年間をかけて議論してきた」結果だった。それは「知識人の停戦の呼びかけ」とセットされた余りに虫のいいプランだ。
 

解放戦争としての総括軸

 対革マル戦を「解放戦争」として総括しようとする時、多くの壁が立ちはだかる。第4インターへのテロを頂点とした、力による他党派・無党派への圧迫、これは釈明できない。
次に「生と死」の問題。「完全せん滅」(殺人)の重さ、その目的意識的追及――その事実から目を背けることは出来ない。71年の海老原事件は、意図せざるものだったが、革マルの好戦世論を引き寄せた。中核派の中に、「内ゲバ主義」への嫌悪と動揺が広がる。もちろん、辻・正田同志の虐殺[1]や、本多さんの虐殺への怒りをもって、この事件を相殺する事は根本的な詰まりだ、今、私はそう思う。
 
 「生と死」、人のあらゆる可能性の全抹殺という事の前に私たちはたじろぐ。私はこの意味を「戦争をもって戦争を養う」という視点から解明してみたい。革マルの死の問題は措こう。問題は中核派側の対応にある。
中核派は、「殺す意図は海老原事件では無かった」とのみ声明した。沖縄の比嘉事件では、最後まで誤爆の死であることを認めなかった。
 
 私は思う。除名を含む処分、軍法に則り、処分は厳正でなければならない。弾圧・長期投獄によって代替する事も許されない。軍の規律・モラルなしに解放戦争はあり得ない。もちろん、「一部の未熟分子」への責任転嫁も許されない。その責任を、党自らのものとして、共に荷うべきなのだ。指導の重心・組織・財政その全てで、苦しみを共有するべきだ。「謝罪と賠償」は不可欠だった。障壁になったのは「革マルに謝罪するのか?」、「軍がもたない」だったろうか。
救対は、その重みを荷うに足るものだったろうか?指導は共有したろうか?この問題を避けた結果、恐るべき「モラルの崩壊」が起こってしまった。精神が萎縮する。「負け戦の中でそんなの空論」だろうか?では問おう。いつなら出来たのか?いつやったのか?
誤爆事件への唯一つの自己批判があった。74年、在日女性への襲撃、この時は『前進』紙上でも明快に自己批判し謝罪した。
 
中核派はこの戦争に、「戦略的無準備」の中で突入した。無準備性の中には、この生と死の問題がある。とすれば、その無準備さをはっきり見据え、それを埋める過程として「戦争をもって戦争を養う」べきではなかったろうか。「生と死」の問題の重さに向い合うために、戦術もまた本当の意味で、組み立てられるべきではなかったか。目的意識的な、政治を欠落した「殺し」をもって党の体質を変える事が出来る、という軍事万能論的発想こそ、自壊を生み、不利を招いたのではないか。この点での「上からの先制的な党内闘争」こそ、今改めて断罪されるべきではないか?
 
 浮上した同志、長期下獄した同志――その多くが党に見切りをつけ、あるいは「反党分子」として除名された。この事実、そして「反党分子」には、治療費も「軍人恩給」も出さぬ態度、これが「戦争党派」なのか?それとも、こういう立て方がそもそもおかしいのか?
 

動労革マルとの闘い

解放戦争としてはどうだろう。国鉄分割民営化攻撃と、国労・動労千葉の闘い。ここでの「赤色テロ」は益だったのか、害だったのか。国鉄労働者の中で革マルを批判する『前進』が回し読みされたと聞いた。動労革マル(=JR総連革マル)への怨嗟の念はもちろんだ。
けれども今、私の答は「害」だ。労働者たちは「テロル」の前に戦慄して立ちすくむ。「赤い用心棒」こそ、「テロと結託した国労」という「世論」の総反発を引き起こし、国鉄労働運動を孤立の中に追いやったのではないか。浅草橋と同じだ。
「党対党」としての総括と、解放戦争としての視座と、どう考えたら良いのか?
 
内戦初期、労働運動や各種の救援運動で、まだ諸党派の統一行動は維持されていた。69年と71年の「2つの11月」での逮捕者・解雇処分に対する新しい共同行動が各地で生まれていた。当時「戦争状態」にあった解放派はもちろん、動労革マルもこの隊列の中にいた。この矛盾と葛藤をいともたやすく切り捨てて「大衆運動主義」者を排除していった結果、生まれたばかりの県党の創設者たちを多く失うことにもなったらしい。地元で育ち地元で戦う指導部の形成ということの意味、それはどこまで位置づいていたろうか?、
 

ファシスト規定について

 革マルが「神学的サークル主義」から、反革命として姿を変えていったのはいつからだろう。「死闘の7か月」、大学闘争、そして差別排外主義との闘い――革マル自身、この激しいうねりにもみくちゃにされながら、それに憎悪と侮蔑で対抗して満身武装していった、と言えるだろう。やはり、70年が生み出した独特な反革命、だ。
革マルが「武装反革命」として登場したのはいつか。私は今、69年秋の早稲田の暴力支配、解放派と反戦連合の放逐こそ、その原型ではないかと思う。北大での「5派連合」対革マルの連日の集団戦。5派が、ついに革マルに屈したのは70年10月だという。
 この時点で中核派が、事の重大さを認識していたら、後の展開は全く変わっていただろう。いや、重大性を踏まえつつ中核派は、2つの11月という大決戦に全力を集中しようとしていた。他の事は眼中にない。「2つの11月」で解放・ブントを一気に解体・吸収できる。全国全共闘を手中にした中核派は、革マル派を一気に叩けるだろう。‥けれどその目論見は、ついに実現しなかった。
 対革マル戦を「戦略的無準備性」の中で迎えた中核派、総括軸の1つは、こういう構造からなる「決戦主義」と「ボリシェヴィキ化」ではなかったか。本多さんが常に、情勢全体を切り開くことで局面を打開しようとしたことは確かな事実ではあるとしても‥。
 
中核派の「革マル=ファシスト」規定は、どうだろう。「ファシスト」規定は、混乱の元凶でしかなかった。「ファッショ的」はいい。けれどファシストとは何だ。「ファシスト、ファシスト」と決めつけながら、そのエセ共産主義性を暴露しようとする『前進』重要論文を前に、多くの成員は立ち往生してしまった。反スタの正統争いに執着する政治局に、一体何が言いたいのか、と困惑する。要はやっぱり内ゲバなのか?結局、凶暴で得体の知れぬ連中、ということでしかない。これでは、革マルと面と向かい合うことは出来ない。
 
革マルとは、黒田哲学と反スタの反動的固定化、激動期に激動を憎悪する神学的集団――これで良いのではないか。略して、革マル反革命だ。
ファシスト規定の誤りをいくつか並べよう。
1つ.              黒田哲学の反動的固定化、変質。うんころじーはその崩壊的混乱の論である。けれども、80年代後半の中核派は、「正統争い」を放棄してしまった。
2つ.              学生革マルの位置。その拠点は東大、早稲田、上智……。ナチスやファシストよりも、オウムに近いくらいだ。
3つ.              その「労働者本隊」論と「プロレタリア的人間」という人間完成論。特殊に、基幹産業にのめり込む姿。「反辺境、反・反差別」の極端化。[2]
4つ.              ワイマール体制下の内乱の奥深さと比べた場合の「70年」の激動の限定性。特殊性。「革命と反革命」は、まだ共に未成熟で「萌芽」に過ぎない。
5つ.              新左翼(反スタ、革命的左翼)内の「主導権争い」と言う視点は、やはり欠かせない。互いに、共産党との全面対決を避けての「戦争」なのだ。
 
結局私たちは、「革マルとは何か」「その生態=動態はどんなものか」を捉える事に、破綻し続けたのではないだろうか。黒田を乗り越える事を放棄してしまったのではないか。そもそも何でこの「内戦」が生まれ、発展し、消滅したのか?結局は、分からずじまいと言う事か。
革マルの革マルとしての新たな変質が、また一歩進んでいるようだ。
 


[1] 虐殺。71年12・4、関西大への革マルの襲撃事件。中核派にとって対革マルで最初の死者。「バリケードへの襲撃」として革マルの反革命性の証拠とされる。三重でも1人死亡。
[2] 動労革マルもまた同じ。機関士だけの職能組合として分裂・発足した動労の前歴。そのエリート意識は、革マルによる支配と後退局面で、露骨にさらけ出されたと言える。

50      政治なき戦争

沖縄の失陥

中核派にとってもう1つ大きい痛手は、「沖縄の失陥」にある。内戦初期、93年の「対峙段階」への突入に当って、沖縄県党もまた、鉄パイプの戦いに突入した。結果は惨憺(さんたん)たる敗北だ。海に囲まれた狭い沖縄で、「殺人罪」に問われた戦士たちは、逃げる場も無くなってしまった。
北海道・東海などでも同じような構図が生まれたようだ。
地域の政治地図を無視した全国1律のテロ合戦への決起という中央の方針が正しかったのか否か、改めて問われると思う。特に、沖縄をどう守るか、真剣な突き詰めた議論があったのか自体を疑う。
当初、テロ合戦は長くて1~2年という読みがあったはずだ。本土で有利な局面を得るまで、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」もまた選択の1つでは無かったろうか?
沖縄革マルは、復帰前までの「マル同」。「沖縄の自決」は内戦論上でも避けて通れない。「沖縄の県内政治」を無視することはできないはずだ。
ここでも「党内闘争」として全国1律の戦争方針を持ち込んだ清水さんそして本多さんの政治は政治的「同化主義」との疑惑を覚える。点検しなおしたい問題だ。
 

勝利の為の「戦略」

 私のアパートへの襲撃と、相次ぐ「ナーバス」は、厭戦(えんせん)主義者だった私を、「好戦主義」の側に引き寄せた。「労働者会議への襲撃」への怒りは、神奈川での産別戦争を拡大させる力になった。果たして革マルは、そういう結果を予期しただろうか?
 和平派の陶山さんを、生涯政治活動への復帰が出来ないほどの重態に追いやった事は、革マルの戦争プランにかなうものだったろうか?
 いや、革マルに「戦争」の認識が無かった事が、革マルの初期の圧倒的優位性を支えていた。
同じ事は、中核派にもある。互いにやり合いの過程に入った「戦略的対峙」段階は、半年か1年くらいだと信じ込もうとしていた。産別戦争を拡大すれば、革マルは必ず音をあげて自壊する、そう信じ込もうとした。
多少の優位に立つと、すぐおごり高ぶって、力に頼る無知と無政治――中核派の「内戦」が頓挫した最大の原因は、これではなかったか。「解放戦争」の契機、不断に政治を追求する軍事――問題は、「政治の質」・「政治の豊かな内実」であって、俗物の政治屋では無理だ。中核派もまた、戦争観が無かったのだ。あるいはまた、あまりに軍国主義的戦争観しかなったのではないか。
「結節間を切り落とす」[1]という言葉がさもさもしく語られた。「革マルの中枢分裂」もくり返し語られた。けれど、それに見合った方針は有ったろうか?「人民の海」で革マルを包囲し、的確な情報をもとに敵の痛いところを攻撃し、力を分散させる。内部分裂を促進して足並みの乱れを撃つ。そんな「戦争の要諦」は、いったいあったろうか?、
 
「内ゲバ主義」、「内ゲバの延長線上」という「社会」の思い
を塗り替える事から始めなければならなかったはずだ。中核派は、その最大のチャンスを自ら踏みにじって、内ゲバ主義に一層純化してしまった。今、改めてそう思う。
 

熟成と「軍人魂」

 殺しだけを目的に「軍」に志願した奴がいる。「A」としておこう。こいつは同時に、「同志的連帯感」もない。現場で私が捕らわれそうになった時、間違いなく1人で逃げだすだろう。
 こんな奴とチームを組まされた時には、行き場を失う。人によっては脱走するかもしれない。しかし「脱走」だけは嫌だ。どうするか。
       ターゲットをやり過ごし、素知らぬ顔をして戻る。
       Aに合図せずに、他のメンバーと共にオペを発動する。その為には、あえて危険な条件をも覚悟する。
       Aを組織的に排除するために闘う。けれどもそれは、あまりにも不可能な選択だった。
 実際、逮捕されて自白してしまった人間の背後に、「転向」を促す様々な事情が控えている。「転向」以外に、人としての生き方を回復し得なくなるような「党の現実」を、どう考えたら良いのだろうか。
 
「赤色テロ」が正当化される条件とは何だろう。あるいは与える打撃の「重度」を規定するのは何だろう。この内戦をどういう視点から取り組むべきだったろう?
彼我の激突が極限化し、殺し合いという「絶対戦争」化して行った日々を振り返りながら考えたい。
 
私は「熟成」という事をを考える。私・相手・第三者の3つの熟成が求められる。
相手―革マル分子、というだけでは無理だ。Jac(全学連特別行動隊)が戦闘し、労働者は高みの見物だ。確かに「情報提供」は彼らの罪状ではある。やはり、1人の人格としての諸々の明確な罪状が、せん滅戦の正当性・有効性を左右する。その反革命労働運動の罪状は、この「内戦」の直接的な課題ではない。現に中核派は、産別戦争への労働界の批判に対して、「これは内戦の問題」として撥ねつけて来た。テロ合戦では「手数」も戦況を左右するけれど、やはり「差」をつけなければならない。また、職場に敵・味方が多数混在しているような場合、政治的配慮も一層問われよう。
 
味方――「志願」が原則でなければいけない。そしていつでも、「戦場離脱の自由」が保障されている事だ。あるいは「有期」。
趣旨に賛同しても、出来ない事情はいくらでもある。「そんな事を許したら、志願する奴などいなくなる」。その時には、やめればいいではないか。抗命や離脱を許さぬ結果が、大量の脱走を生み、そしてまた、逮捕→自白・転向を生んだのではないか。どの道、同じ結果ではないか。「脱走→転向→権力への全面的自白」という、あまりにも古い連赤的思考、それが夜郎自大を極限化する。
この期に及んで逮捕を恐れて人前に出るのを恐れる清水さん、清水さん1人のためにまともな形式の大会も開けない現実‥。
 
 第三者――「天の時」「地の利」。大学戦争という相互の激突の戦場とテロ合戦は様相を異にする。権力の弾圧、家族の事情、そして職場、何よりも大衆的認知度。そして、情勢全般の成熟。「人民の海」を育て、家族を守り、職場で闘いを広げる、そういう多重の「政治」の熟成の程度が、「戦争」の烈度、成否を決めるはずだ。
 
中核派の建軍・建党論の背後の思想とは、何だったのだろう。ベトナム戦争でのソンミ事件、米軍法会議にかけられた虐殺者たち。ドイツでは抗命の権利、アメリカには良心的兵役の拒否‥。形だけとは言え、「現代の戦争」への反省はある。「戦争法規」は、流血の中から生み出された歴史の教訓だ。その理念には「意味」がある。
私たちの「戦争」は果して、「戦前的」な「軍国主義・軍人魂」の発想と対決する、という問題意識を有していただろうか。
 小林多喜二の「党生活者」。それを見据え、乗り越える問題意識があっただろうか。
完全せん滅をもってする「党内政治」は、この熟成と真っ向から対立するものだ。
「先制的内戦戦略」そのものが、こうした熟成の思想を拒否するものではある。しかしなお、「熟成」を踏まえることは不可能ではない。「解放戦争」としての視点、陣形の形成の有無が問われたはずだ。
 
 私たちは「党中央」の暴走に対して、あまりにも無力だった。「暴走」でないならば「独走」と言っても良い。中央自身、「歴史的に与えられた役割」を演じきる以外になかったのかもしれない。自ら作ってしまった「指導の型」に束縛され続ける。「上からの党内闘争」を貫徹する。
 私はここで、「中核派という宿命」論に陥る。程度の差こそあれ、革マル成員もそうであったのではないか。
 
コラム 革マルの3・14
相次ぐ政治局員へのテロと本多さんの虐殺。それは「やり合い」の過程に突入した時の革マルの断末魔のあがきだった。「権力が(中核派の)首根っこをつかみ(革マルは)下の急所を蹴り上げる」と公言したおぞましいのもくろみは崩れ去っていた。尊大・ごう慢な「教育的措置」論や「お尻ペンペン」論は、革マル幹部たちは恐怖の反映だった。
「3・14」=「勝利・一方的停戦宣言」と「停戦」を求める文化人声明、そして「謀略」論は3身1体だった。
もしこの抗争を停めることができるとすれば、それは本多さん以外にありえない。そんなことは、革マル(黒田・松崎・土門=根本)自身が十分すぎるほど知っていたはずだ。それが分からないほど、革マルは、幻影・幻覚の中に現実逃避していたということか。解放派への襲撃と中原氏の虐殺は、新たな戦場を生んだ。
「人を呪わば穴2つ」。以降の革マル指導部は、黒田をはじめ、現場責任から逃亡し、怯えと夢想の穴倉に閉じこもってしまった。
 革マルもまた、いくつもの節目を経て、変質と内部抗争をくり返している。革マルもまた「かつての革マル」とはほど遠いところに行ってしまった。元中核派と元革マル派、ともに集まって、「戦史研究」を始めるべき時ではないか。
 


[1] 戦略。革マルの、見境のない襲撃は、たしかに「まともな対応」の余地を奪った。破防法弁護団への襲撃、政治局員を狙い撃ちした陰湿さ。家族への脅迫と策謀。争議団そのものへの襲撃。動労を押し立てた反原発運動への襲撃的介入もあった。けれどまた、多くの無党派集団が立ち上がっていた。内戦への協力を惜しまなかった。この統一戦線を「人民の海」に転化するためにどれだけ苦しみ、煩悶しただろうか?

厭戦と抗命

 対革マル戦の初期、革マルとの調停に田川さん、陶山さんの2人が動いたと、ちまたで言われる。田川さんは除名され、陶山さんは白色テロの後遺症を癒せぬままに世を去った。陶山さんが、対権力のゲリラに反対していた事は私も聞いた。対革マル戦の調停も多分……と想う。
 しかしこの時点、すでに「政治局」は、事実上存在しない。本多さん・清水さん・野島さんらの「○○小委員会」が、実権を掌握していた。ここには、「大衆運動主義との闘い」がリンクされている。「党」の戦略は、戦争激化論だ。調停などあり得ない。本多さんの「上からの分派闘争」、それはまず、権力掌握から始まっている。
 
戦争の激化を阻んだ力、窮極的に停戦へと導いた力、それは各級・各レベルの条件闘争、あるいは面従腹背の力、そして「時代の流れ」だ。さらに、続々と出る指名手配によって、戦闘主力が奪われていく。内ゲバに嫌気がさし、軍令主義に反発し、多くの人が辞めていった。
「辞める」という形での反対意見、今私は、それを貴重な態度表明として改めて見直したい。各県委員会の運動を創立し、広範な統一行動を体現して来た人々が解任され、あるいは辞めていったのはいつ頃だったろう。
 軍への志願者などもういない。私の転属と同時に地下に移行した爆取さん、彼もブースカブースカ言いながら渋々従った。私も彼も、もし職場があったなら、転属など受け入れはしなかったろう。
 
実は私自身、「革命軍」だ。初期の革命軍は、正規とパートタイムの兵士で構成されていた。盗聴器の設置は特殊任務だ。私も軍令で軍の兵士になった。
約束の期間を過ぎて、私は復帰を申し出た。自分の為すべき事の数倍はやった。それでいいじゃないか、と私は思う。永久の地下生活なんてご免だ。「会議で言ってみろ、全員で判断する」という回答に、私は浮き足立つ。私1人が戻る事、戻りたいという事、それが問われる。
私は「家庭生活を守りたい」という事を理由にしていた。そこに批判の矢が突き刺さる。「軍と家庭、革命と家族、家を変革する事と何が矛盾するか。革命的立場こそ鍵だ」と批判された。この時点、それは私たちの思想性の核でもある。けれども、私は切り返した。「ブルジョア的家族関係は、解体すべきものではない。家族のちゅう帯を内から見直す事だ」。女性たちも多い、みんなこの問題で葛藤している。本当はこんな形で議論したくはない。
「それほど言うのなら自由意思に任せよう」。ようやく納得が得られた。私はホッとした。けれど残る人たちが、私のように主張できずに残されているのなら……断腸の思いではある。軍から復帰したという罪を、私は負い続けなければならない。
 α隊(行動隊)の役割が、私にくり返しも回って来る。「穴があいた」と「要請」される。私は何度も断る。けれどもくり返しの「要請」に折れる。そんな事のくり返しだ。
反戦のα隊要員が、たびたびの動員に音をあげているのだ。社防、集会のα隊、そして大学戦争、さらに三里塚のゲリラ戦。「もう有給も無い、首になっちゃうよ」。「首になるまでやれと言うのか、冗談じゃない」。金も無い、時間も無い。生活も職場の課題も、もう待てない。自分たちは労働者として闘いたい。
反戦はこの「内戦」を「やっぱり内ゲバの延長」と腹の中で思っている。「付き合いきれない」が本音の所だ。「抗命」という形で、労働者は主張している。クシの歯が抜けるような動員が続く。けれども作戦は変わらない。「無能な」中堅指導部は、股裂きに苦しむ。そして「有能な」手配師が、昇格の階段を昇って行く。虚偽と力と面従腹背で、自らの組織の温存を謀り、力を発揮する事も横行する。
 
戦争指導としては、大学戦争をもっと絞るしかなかったのだ。そして.倍の兵力を集中して、守りきる。ここでは学生運動中心論が尾を引いた。「戦争としての戦争」は、「対峙段階」で終わらせる。「あと一撃」論を粉砕した後は、中枢防衛こそが要だった。3・14さえなかったら。本多さんその人が「非合法軍事」と、度し難い公然主義生活の自己分裂を凝視し得たなら……
 

「非公然の党」という虚構

破防法の団体適用を覚悟した対権力の武装闘争、それを支える「非公然・非合法の党」について。
破防法とは「3人以上の集結」を犯罪とするものだ。80年代、中核派はどこまで本気に党の非公然かを進めたろうか?「本気」だったのすら疑わしい。
 
角田さんが中核派に通報・提供した2つのスパイ問題の答えは、角田さんへの「テロ」だった。
清水さんのアジトまで提供した宮崎学事件、関西の党の全貌をつかまれた事件。この2つについての組織的総括。責任追及はなされない。「全党・全人民」への責任も、だ。
 
大衆集会での「指揮系統」。集会での最大の課題の1つは「撤収・解散」だった。屋外集会でも、司令部→地区責任者→班→メンバーへの軍令の伝達が行われた。この系列は、「党の系列」そのものだった。新しいメンバーも、彼・彼女がどの系列に属するかが一目りょうぜんだった。公安警察が囲み注視する中での「軍事優先」は、「非公然性」を踏みにじって平然と行われ続けた。
権力に割れていないメンバーがどれほどいたか?
公安の「能力の低さ」を置いて、確信を持って「割れていない人」の数と質こそが、破防法の団体適用への備えだったはずだ。それがゼロだ。「中央集会への参加者の数」こそ「決戦の総括の軸」であったこと、「参加の頻度」こそが「党員性の証し」だったという事実。
 
「非合法の党」は「職業革命家の党」だという言説が80年代にまことしやかに語られた。今では公然生活を営む労働者党員を切り捨てて、職革だけ生き延びれば良いということだったろうか?けれども「職革」は前進社などの公然事務所に陣取っている。いざと言う時には彼らが真っ先に捕まるだろう。団体適用を前に、でっち上げ逮捕が大々的に展開されることは自明ではないか?
結局、「非合法・非公然の党」へのまじめな取り組みは一切無かったというべきではないか?権力への甘え、という以外に無い。これではオウムの武装闘争と変わらない。
 
「内戦」に協賛した「党員」は、無条件に「戦士」になるべきだろうか?
 
私は思う。どこにいても、や「内ゲバ」から、私たちは自由ではありえない。どんな運動・集団も、つまらぬ内紛でせっかくの蓄積を無にすることは、避けられない。それをどこまで抑えることが出来るかが、問われ続ける。そのためにこそ、口を閉ざしてはならない、と。[1]
 
「戦争を知らない世代」がほとんどになった。「殺し合い」がどんなものか、「臨戦態勢」がどんなに破壊的作用をもたらすか、私たちの体験を総括することで、生きた「反戦論」を作り出したい。ほとんどの戦争の死者や犠牲者は、「戦場」ではなく「銃後」で生まれるものだ。「臨戦態勢の中での視野狭窄(きょうさく)」。味方の吊るし上げと、自損事故、そして後ろから飛んでくる石ころで怪我をする。


[1] 内ゲバ。民主主義とは、果てしない抗争から生まれた。むき出しの主張と利害の抗争、策略と取引の場だ。であればこそ、少数派の拒否権・離脱権を含む。「離合集散、割れても末に会わんとぞ思う」。そのために幾重ものルールがある。

51      分岐点=三里塚の分裂とテロル

三里塚テロルへの自己批判

私が83年三里塚「3・8分裂」の意味について改めて思い知ったのは、前進社を出てからだ。
まず、第4インターへのテロルの自己批判を私として、はっきりしたい。
 
「348氏の声明」を以下、再確認しよう。
84年3月7日 前田俊彦、福富節男、近藤悠子、吉川勇一氏の四氏が記者会見を行い、348氏の連名による4項目からなる声明を発表した。この声明は、三里塚飄鰻亭の前田俊彦氏の呼びかけに端を発している。
声 明
一、一月九、十日におこされた三里塚闘争にかかわる活動家への暴力による襲撃事件にわれわれは衝撃を受け、このような事件の再発を深く憂慮する。
一、万人の自由と平等をめざし、平和を希求するわれわれは、物的利益主眼の権力政治に反対するとともに、運動内部での排他的なイデオロギーによる支配にも反対する。
一、運動上の意見や方針の相違を、物理的暴力、とくに肉体的な抹殺や、それを背景とした脅迫によって解決しようとするような行為は、運動の基本原則とまったく無縁であり、人民の運動の荒廃のみか、広く民衆一般の政治不信を広げるものと憂慮するわれわれは、このような行為が2度と起こされぬよう、強く要望する。
一、今回の不幸な事件を契機に、対立する2つの反対同盟の農民が、話し合いをもち、万人の共感を得られるはずの三里塚闘争の大義において一致されるよう、心から希求する。
 
 × × ×  
中核派は、最も鋭く対立していた第四インターに暴力的テロルを加えた。第四インターを「反革命」と規定して83年1月そして7月に第四インター系の8人の活動家を襲い、頭蓋骨骨折、両手足骨折、片足切断などの重傷を負わせた。その後も活動家や一坪共有地運動に対して「次はおまえの番だぞ」と脅迫を続けた。
 × × ×  
ここで語られている事は間違いの無い事実であり、当時私が知っていた事だ。私自身は積極的にこのテロを協賛したことは無いけれど、中核派の1員として、編集局の1員として、「批判」もせずに従っていたことだ。
 
これに加えて、「熱田派」農民に対して同様な「弾劾・脅迫」があったこと、さらに味方の「北原派」支援すらも天神峰から排除したことも語られている。多分、これも事実だろう。
中核派は、民衆にとっての希望の星でもある三里塚を、「内ゲバ」の泥沼に落としこめることで、破壊してしまった。三里塚と中核派を、「革マルと同じ」にしてしまった。
 

「攻勢的な分裂」方針

「中核派は分裂を積極的に進めた」と言われている。それが事実だと思える。
三里塚闘争は、確かに中核派を中心に闘われてきた。けれどまた、諸党派の競合で多彩な闘いを生み出してきた。岩山鉄塔も青年行動隊と「連帯する会」の発案だ。何よりも、78年「開港阻止」の管制塔占拠という偉大な闘いは「連帯する会」の闘いだ。その後の「組織破防法」適用を巡る大弾圧で苦しみ、混乱したとしても、それは第1義的には「温かい目で」見つめるべきものだったはずだ。
仮に又、第4インターが「中央丸ごと反革命に転落した」としても、第1義的には、当該の党内闘争に託すべきものだ。
「3・8分裂」は、それに逆行するおぞましい思いに満ちたものだったと言える。あれこれの「裏切り・動揺」をあげつらい、主導権を奪い返そうとする無様な思想だったと言うべきだ。
 
「三里塚2期決戦勝利=革命的武装闘争」が「先制的内戦戦略」に純化・格上げされる中で、中核派は、もろもろの対応能力を自ら放棄してしまったように思える。「テロとゲリラ」万能観が、まともな政治・思想を排除して満展開して行くその結節環として、「3・8分裂」とテロルがあったように思える。
 
反対同盟自体の葛藤と分裂について中核派は、「熱田派」の「裏切り」をあげつらった。けれど、その10年後、「熱田派」は総体として、依然として「反対同盟」であり続けた。
仮に反対同盟の分裂自体が避けられない物だったとしても、その対応は余りにお粗末だ。「三里塚大地のまつり」に反対したこともその1つだ。熱田さん自身、中核派と北原さんの硬直した「独裁」に嫌気が差して離れたと聞く。
分裂後の「熱田派」農家への「弾劾行動」は、「支援」の枠を超えたものだった。
仮に、「脱落」した農民であっても、長年の闘いで傷つき疲れ切った農家・農民を労わり、守るのが「支援の道」であるはずだ。
その農家に長年係わり、その農家にこだわり続けてきた現闘や諸支援団体にとって「弾劾」などあるはずも無い。この板挟みで崩壊した現闘メンバーもあると聞く。
 
「3・8」は中核派と三里塚闘争の終焉への分岐点だったと今、改めて思う。三里塚「3・8分裂」と第4インターへのテロによって、中核派は「革マルと同じ」と忌み嫌われる党派になってしまった。三里塚に賭けた「希望」は消え去った。
 

革命的独裁という「利権屋」

中核派から離れた後、89年に法政大学で、黒ヘル・ノンセクト200人による、松尾追放運動が爆発していた事実を初めて知った。
2文連予算から1千万円を中核派に渡せという松尾の要求に、隷従を続けて来た黒ヘルがぶち切れた。「利権屋=松尾を追放せよ」。それは松尾(中核派)の言う「革命的独裁」の犯罪性を顕著にし、革命軍戦略の公然面での、全面的崩壊を顕わにした。
 
松尾の「革命的独裁」
 ここでは趣旨に反して1度だけ、見聞していない事実を確認したい。2チャンネルからの引用だけれど(http://www.josephandleon.co.jp/joe/eki-matsuo-seiji.htm)、中川文人氏の語っている内容と一致するので……。[以下、無断引用]
×   ×   ×
松尾氏の目に、1978年当時の法大学生運動はどう映ったのだろうか。彼の書いたビラの文章をみてみよう。 ……われわれは率直に反省、自己批判する。こういうインチキを黙認しているわれわれ自身の腐敗が法大学生運動を腐らせてきたのである。階級闘争は数の問題ではない。なによりも革命的戦闘精神、魂の問題である。……
 松尾氏は同盟と全共闘=黒が「馴れ合っている」姿が、 どうしても許せなかったようだ。そして、彼は宣言をする。
 「わが法大学生運動は……いま、最も鋭い革命的飛躍を求められているのである。このとき、一切の右翼日和見主義者は害毒を流すのみであり、容赦なく粉砕されなければならない。」

 そして、松尾氏は法大学生運動=同盟を「立て直おそう」と 黒その他諸派への潰しオルグ=「イデオロギー闘争」に着手する。 徹底的に討論して自らの誤りを認めさせ、「前進」を有料購読させたうえで同盟の運動方針に従わせるというものである。
 彼にとっては階級闘争の一環でもあるので非常にシビアである。

……階級闘争は情け容赦ない。選択は2つにひとつなのである。」
 階級闘争が情け容赦ないのか、それとも松尾氏が情け容赦ないのか。この間、学館黒ヘルの実名批判ビラが何枚もだされた。ビラにかかれた人物はつぎつぎと白ヘルの拠点である自治会室の1室に呼び出され,松尾氏と討論することになる。

 それだけでなく討論の内容がビラになって公開される。ついに耐えきれず自己批判書を書かされて自らの手で配付させられるものや、サークル団体の執行部を辞任させられるものが出てきた。
 
[続いて、ネット「われら少数派」の『法大学生運動史』]
中川 松尾さんがね、『ボルシェビキ』って個人機関紙を作って、Tさんを徹底的に攻撃する。で、Tさん1派と目される人間を1人1人呼びつけて、かたっぱしから自己批判を取っていく。
 で、2週間くらい経ってからかな、ついにTさんも自己批判。で、Tさんを含めて3人が放逐されて、Tさんの反乱はあえなく鎮圧されます。
外山 あー。
中川 もう1つ、これは絶対に引けないなと思ったのは松尾さんのやり方。あまりにもバカっぽいんだ。
 だってさ、「イデ闘(イデオロギー闘争)を申し込む」って云ってイデ闘をガンガンやるんだけど、結局、最後は「おまえはカクマルだー。カクマルじゃないなら自己批判しろー」だからね。あれには呆れたよ。カクマル規定された1人なんて、「中川、教えてくれ。革マルって何の略なんだ?」って奴よ。そんなのが革マルのわけないじゃん()。あんなのイデ闘でもなんでもない。ただの言葉遊びだ。
×   ×   ×
松尾の名誉のために、中川氏の評価も引用しよう。彼は松尾追放運動の張本人だ。
中川 ああ、でも、松尾さんとの出会いはやっぱり大きいね。松尾さんを見て、「日本人でも共産主義者になれる」「日本人でもKGBの大佐になれる」って確信が持てた。
外山 松尾さんの影響ってでかいんだね。
中川 でかいよ。ジョー・マジャールもそうなんだけど、我々の世代って、なんだかんだみんな松尾さんが大好きなんだよね。あんなひどい目に遭ったのに。
外山 なんでだろう?
中川 ジョーは「ストックホルム症候群」だと云っているけどね()。誘拐された人が誘拐犯に好意を持っちゃうってやつ。でも、それだけじゃないと思うよ。88年の事件[1]が起きる前からあの人、人気者だったから。善人か悪人かっていわれれば、そりゃもちろん悪人だけど、悪人って魅力的じゃん。
外山 善人はつまらない、と。
 
松尾の「名言集」もある
中川 「中川よ。おれが全学連委員長をやっている時は、全国から問題意識のある奴が結集してきた。が、最近は問題のある奴しか寄ってこない」ってやつね。
 
[学館人質論]
中川 ‥(人質論について)上のほうは分かっていたと思うよ、少なくとも黒ヘルがそう考えてるってことは。だけど現場の人間はそこまで考えてなかったと思う。
彼らの意識といえば、私は中核派だ、法大は中核派の拠点だ、だから中核派に逆らう奴は排除しなければならない、って程度だから。ああ、でも「戦わない学館なんていらないんだ」「うちは別に自主管理の学館じゃなくてもいいんだ」「対カクマル戦を考えれば、当局管理のほうがむしろいいんだ」なんてことはよく云ってたよ。
中川 学館が人質にとられているから、結局、最後は我々が譲る。で、中核はやりたい放題。「云うことをきかないと、おまえらの命よりも大切な学館を潰すぞ、それでもいいのか」と、彼らは無理難題をふっかけてくる。我々が白ヘルを憎む最大の理由はこれだね。彼らへの憎悪の根は深いよ。白対黒の対立は政治的対立のレベルを超えてたね。
……解説はいらない。
 


[1] 年の事件。前記の要求事件。松尾追放運動の端緒。このHPは『ポスト学生運動史』(彩流社)で出版された

52        敗北主義について

革命的敗北主義」の「革命的」をめぐる議論は、そもそも1917年の2月革命によって成立した臨時革命政府の対独戦の継続に対する態度だ。
第1次大戦の開始以来、ボリシェヴィキも国内では事実上、崩壊・壊滅している。亡命者の中だけで存在したに過ぎない。ケレンスキー政府は、露仏関係の要請に応え、「協商国」に立って、対独の負け戦を続けている。息を吹き返し、急成長したスターリンたちのボリシェヴィキは、「革命」に舞い上がって「勝利主義者」となってしまった。
戦争目的の是非が「国民的」に議論された、という側面はあまり大きくない。当時のロシア農民は、日本に比べてもはるかに地方的・中世的で、「ロシア」への一体感・忠誠心を欠いていた。ツァーリの戦争であれ、「革命ロシア」の戦争であれ、嫌々ながら動員されるだけだ。
負け戦と厭戦こそ、2月革命の原動力だった。2月革命の結果、前線からの脱走も続く。臨時革命政府は、彼らを銃殺して戦線を維持しようとしていた。スターリンとボリシェヴィキは、この戦争を「支持」していたのだ。
 
 レーニンが「パンと土地と平和」を掲げて、党内闘争に一気に勝利した事実は大きい。しかしなお、この「勝利主義者」たちとの妥協と、指導部としての温存を余儀なくされた。それが「革命的敗北主義」だ。民衆の、戦争への憎しみを無視したスターリン、「権力奪取」の新しいエサに飛び付いたスターリン。「レーニン最後の闘争」の背景は、すでにここから始まっていたのだ、と私は思う。
 

「大祖国防衛戦争」について

私たちは、第2次大戦の歴史を学んでいる。連合国側の共産党が、自国政府の戦争を擁護したこと、それをどう考えたら良いのか?「社会主義の祖国・ソビエトの大祖国防衛戦争」の為の「国際主義」という「大義」に走った彼らを、単に「スターリン主義のため」とだけ言って済ませる事が出来るだろうか?
「祖国性」から逃亡した空論のもてあそびこそ、彼らの「転向」の跳躍台だったのではないか?この問題は「社会民主主義者」たちの戦争協力とは、厳密に区別して考えなければいけない。
仮に、まだレーニンが生きていて、ソ連が「社会主義」であったとしても、英仏と意を通じる可能性は否定できない。ブレスト=リトフスク条約による、ウクライナ革命の切り捨てという事実がある。
その時でも、連合国側(欧米)の共産主義者たちは、自国の戦争に反対するべきであった事は自明ではないだろうか?「自明」と言い切れるまで、私たちは「国際主義」について考え抜くべきではないだろうか?
レーニンが事あるごとに、「我が愛するルーシー」とロシア性にこだわった事、それは何だろう?
 
 もう1つ。アルジェリアで、ベトナムで、民族解放戦争が闘われていた時、宗主国・フランスの共産主義者たちは、「プロレタリア国際主義」の名の下に、植民地支配を擁護し続けた。その論拠は何か?!ベトナムの闘いが、レーニンの想定をはるかに超えたものである事も、歴史を学ぶなら、当然、自明だ。現代における「民族」そして「エスニック」とは何か。私たちは、こうした歴史の上での議論の仕方を覚えなければいけない。
 
 祖国をめぐる2つの議論は、肝心な「朝鮮戦争危機」論との関連付けの上で、何も言っていない。ましてや、アジアの日系企業での、日・アジア人の連帯と交歓について語っているわけでもない。さらに、日本国内でのアジア人「労働者」との交流・交歓を呼びかけるという視線も無い。
 必要なのは2つ。現実的問題意識からの接近。そしてもう1つは、「帝国主義段階論」に踏まえ、あれから百年も経った今日のトータルな認識と、現在の「民族・植民地問題」だ。アジアでアフリカ・ラテンアメリカで、「プロレタリアート」すら生み出さない帝国主義とは何なのか?ここでの「プロレタリア国際主義」とは何なのか?
 
最後に1つ、「正義の戦争、革命戦争」と平和主義について。あえて言おう。「総論賛成、各論反対」は大事だ。戦争そのものを嫌うのは、当たり前の人間の現実だ。この現実に踏まえて、戦争への態度も、そして「革命戦争」も組み立てられるべきだという事だ。今日の戦争は「総力戦」であり、大量虐殺兵器による戦争だ。小火器による、牧歌的戦争の時代とは違うのだ。

53      中核派の10・8

「暴力の復権」、死闘の7か月の中、3派はそれぞれにこのスローガンを掲げていた。私たちの多くは、「3派全学連」として闘っていた。だから、68年6・15の日比谷での中核、解放(社青同・解放派)の竹竿をくり出しての集団ゲバは、私たちに大混乱を呼び起こしていた。混乱しつつも立ち上って行く。そういう時代が確かにあった。中核派の、中核派にとっての10・8とは何だったのだろう。
 1つは、戦後世界体制の崩壊的動揺――革命情勢の切迫という情勢認識だ。いまだ「党」ではないけれど、「党としての闘い」を闘う。
 2つめは、日本共産党との対決だ。反スターリン主義の荒々しい登場の闘いでもある。
3つめは「ボリシェヴィキ化」の闘いだ。「党のための闘い」。けれども、「革命綱領のための闘い」は事実上、ここで終わっている。
4つめは、3派を解消し、解放派やブント(共産主義者同盟)諸派を解体し、新左翼=中核派とする闘いだ。山崎君の死を最大限に利用したのも、それ故か?「10・8羽田弁天橋」、中核派は、3派の共同闘争としての全体像をことさら抹殺し、「弁天橋、弁天橋」と叫び続ける。確かに私の違和感も、やがては消えていく。
 
 後日、「解放派の10・8」を聞いた。その大衆組織の反帝学評では、「角材を持とう」という提起の下、大衆的討論が行われていた。彼らは1人1人、自身の明示の意志で角材を持ったという。対する中核派は、果たしてどうだったろう?
 10・8の朝、法政大で中核派のリーダーが宣言する。「解放派が角材で攻めて来る、武器をとれ!」。
 
 10・8前夜の、解放派の使者への陰惨なリンチの実態を知ったのは、つい最近だ。友人の話、そして『遠くまで行くんだ』に載る事件のあらましは、怖気をふるう。本多さん、清水さんが現場責任者でもあった。現場で抗議した法大生たちが、離脱していく。
60年代、各党派のリーダーや、新左翼系の自立した知識人たちの、交流・研究会が続いていたと聞く。本多さんは中でも、必ず出席して、意見発表する人だったという。各派のリーダーも20代だ。本多さんの理論と年輪に、多くの人が一目置いていた。何故に、3派の暴力的解体を進めようとしたのか?
 
 69年、東大・日大闘争を頂点として、全国全共闘が結成される。革マルを排除した8派共闘と無党派の戦闘的共同行動が、時代精神を築き上げた。中核派は、この時代精神に学ぼうとしたか?その全国全共闘も、71年には消滅する。「行動の中核」 とリンクした他党派解体」論、そのための一時的方便としての統一戦線論。「戦闘性」を売りにした、囲い込み。10・8そのものが、中核派の暗を内包していたのだ、という事を改めて思い知らされる。
「10・8」をもって、本多さんと中核派の死滅への道が始まったのだ。「真の労働者党をつくる闘いを」と、60年ブントを批判して、前進してきた反スタ党。本多さんは何故、その道を閉ざしてしまったのだろう。
 

労働者党のための闘い

本多さんは、2つの戦争を同時併行して進め、それをリンクさせる事で勝利できると考えた。対革マル戦、その防衛的反撃を水路・跳躍台とすれば全党総戦争化への道が開ける。「ルビコンを渡れ」。壮大な内戦の展望によってのみ、当面する困難を乗り越え、勝利への血路が拓かれる。指標は「主要打撃論」。死者が出ればもう後戻りはできない。党員にも秘密の特殊班を結成して極限的な既成事実で不断に党を塗り替える。
指導者にとって「現実感覚や恐れや怯みこそ最大の敵」となった。我とわが身を鞭打って「大胆に、大胆に」のダントン原則に身も心も移し変えなければいけない。
 私は改めて思う。あの「堅実・全面的」論文は、2つの内戦下で、果たして十分に堪え得る中身だったろうか。むしろ本多さんの労働者党建設論との別れの書だったのではないか。あるいはまた、本多さん自身の自己分裂の表白ではなかったか。
 
革マルという未曽有の反革命、そして三里塚2期攻撃の激しさ。確かにそれらは私たちの力量や内実を超えていた。
その壁に直面しての「党のための闘い」と「党としての闘い」、その有機的結合。その立て方自体が誤っていた、あるいは限界点を超えていたのだと思う。政治的に見る限り、中核派はその歴史的使命を果たすべく葛藤・格闘して散ったのかもしれない。あとは「抜け殻」か。その是非をうんぬんすること自体が無意味なのかもしれない。
敗北・困難に直面する中では、人の弱さ醜さが覆いようも無く浮き彫りになる。それは敗北の結果でもあり、同時に原因でもある。どう考えるべきだろう。[1]
 
同時代のさまざまな事件や人々の中で、自身を相対化し、同時代性の群像の中でわれとわが身を振り返る。そんな作業が必要なのかもしれない。レーニンも本多さんも同じことだ。
 
この日本で、ただ1つの「前衛党」を目指すには、少なくとも「百人、2百人の一流のインテリ革命家」と「千人の熟達した大人の労働者・市民」、そして優れたジャーナリストの一群が要る。その周りにはより分厚い協働者や諸集団。「10年の準備」と「10年の実績」そして解散‥。
私は、今や「多元主義」的発想になっているのだろうか。
 
コラム 証言 組織論の結末
 キャップが、「排他的で全一的」な指導をするのが理想とされた。その結果、転属や離脱でキャップがいなくなると、継承性が断たれてしまった。
 どんなに無能な人間でも、30有余年も1つの部署で頑張れば、それなりの力がつく。時が経つほど、抜てきや天下りの新キャップには「全一的指導」ができなくなった。
 結果として、出る杭、いや「出てもいない杭」を徹底して叩きつぶすことがカギになる。有能な奴は、上におもねり、下を隷属化してぶんまわすことでのしていく。指導部間では、権益をめぐる暗闘が日常化した。
 清水さんの人事は極端なキャリア主義だ。30年以上も前の記憶で人を判断する。そのキャリアたちも全滅した。
 
 


[1] 『検証 内ゲバ』(小西誠氏ほか著)は一読に値する

時代精神ということ

 「70年」とは、無数の党派と共に、無党派・ラジカルが花開いた時代だ。この中から、今日に至る様々な主張や、課題をめぐる諸運動が生み出された。「全共闘世代」とは、活動家にとどまらない、世代全体を覆う何かを指し示す。それは小なりとは言え、戦後の社会意識を塗り替える「精神革命」でもあった。私は今、この「時代精神」というべきものの共有から始めたいと思う。
 この「時代精神」は「暴力の奪還」でもある。東大闘争での、全国全共闘と反戦派労働者の万を超える結集、対する共産党のこれまた万に達する結集、――その暴力的抗争と対峙はその1つだ。中核・解放対革マルの凄惨なテロ合戦ももちろん、他党派の内ゲバも無視できない。「荒々しい生き方」も「暴力」の内にあろう。この事を全体として見据えておきたい。
もう1つは、「ラジカル」・「急進性」・「根底性」だ。社会と、社会意識の変動に応えようとする様々な思いだ。生活そのものから見直そう、戦後的な価値観そのものを見直そう、運動、党、正義、そのものを問い直そう、という数百万のうねり、とでも言っておこう。
日大闘争の「破壊の思想」は、「自己肯定」を真っ向から主張した。
 
それは「思想性[1]」を問うというものでもあった。人の知らない諸事実で、己の優位性を確保するのでなく、誰もが知る現実からその事実を掘り下げる。「自己解体」、自分の立つ常識そのものを問う、そういう苦しい作業なしに、思想としてのラジカリズムは生まれない。政治的「急進主義」と、思想性の欠落、生活保守主義――それを克服し、共産党を根底から乗り越える可能性が、この時代、確かにあった。立花隆の方法論も、時代が生み出したものではないだろうか。
 
 「70年」を、中核派を中心に振り返ろう。部落解放運動、女性解放運動、被爆者・被爆2世の被爆者解放運動、障害者解放運動……。
全体を流れる思想は、「差別者」と「被差別者」の、存在としての区別・対立を明らかにして、差別主義と闘い、存在そのものを解放する道筋を求めようとした事だ。「差別反対」を乗り越える「被差別者」の自己解放運動が登場した事だ。そしてまた、差別からの解放を、選挙や制度や革命に解消する事を拒否して、資本主義社会と対決し、現に今、解放の「萌芽形態」を実現しようとしていった。
『君は明日生きるか』で、私たちと同世代の被爆者2世たちは、「被爆者」として結婚し、「被爆者として」子どもを産もうと呼びかけていた。障害者たちは、この時代すでに、「働き、自立し、社会の中で生きる」ために格闘した。親・保護者たちだけの運動を越える闘いを始めていた。
 
「人間解放」とは何か、を私たちは彼ら彼女らの闘いに学び、発見し直して、希望を見い出した。その地平は、中核派にはもう無い。けれども社会の中では、形において、そして一部では内容も込めて「常識」になった。
歴史学・政治学、芸術論、あらゆる領域でスターリン主義の呪縛と葛藤し、その無間地獄から解放された個別・総合研究が花開いていった。私たちはこの地平を共有することから始め直したい。
次なる時代の高揚は、この私たちの「時代精神」の、総括・乗り越えと一体にしか進まないだろう。次の時代精神とはどんなものだろう。私は注意深く見つめていきたい。
 

1973・1

 私は今、2つの異質な問いを抱えている。1つは、「3・14で革共同は死んだ」と言う事だ。今改めて、この事をハッキリさせるべきではないか。
中核派は良くも悪しくも、本多さんの組織だ。本多さんを失って復讐戦に突入するに当たって、中核派は「革命党たらんとする同盟」を解散するべきではなかったのか。復讐そのものにかける、有志の戦士団を結成すれば良かったのではないか。反革命革マルを抱きかかえ、共に火炎の中に飛び込めば良かったのだ。鶴見俊輔氏の「仮説の思想」を思い出す。
それがいつから「死んだ党」が、「生きて現にある党」になってしまったのか。「対権力の高次段階」の前提となる、革マル認識の絶望的誤り、そこで中核派は、改めて「死んだ」のではないだろうか。
 
もう1つは、本多さんの地平とは何か、特にその限界は何か、と言う事だ。3・14は何故、引き起こされてしまったのか、何故?私たちは歴史として、事実を直視すべき時だ。
本多さんは、自ら選んだはずの非公然活動に堪えられなかったのだ。本多さんは、「党とは詰る所、その個々の党員」である事に固執したと聞く。人を見る、人を知る事を重視したという。それ故、危険も冒したという。けれど「3・14」は「家族問題」として起きた。本多さんの温もりと限界‥。
革マルへの抑えられない怒り、憎しみ――しかし同時に、事実は見据えなければいけない。
他方、75年9月4日横須賀での爆発死事件。準備したのは本多さんか?あの時点、すでに爆弾闘争を開始しようとしたリアリズムの恐るべき欠如。横須賀の敗北で、「高次段階」は10年遅れただけだ。[2]
そしてまた、85年の闘いは、人民革命軍・武装遊撃隊の、公然・自衛軍結成の戦略の「今日的実現」をかけた戦闘だった事になる。松尾こそ、清水さんに「革命軍戦略の現実性」を吹き込んだ元凶、という見方もある。だとすれば清水さんは、本多さんの遺言路線を清水さんなりにやったに過ぎない。
 
今私には、清水さんだけでなく、本多さんその人が妄想に踊ったとしか思えない。だとすれば、あの暴力論の「内と外」も本多さん自身、限りなくその差異を縮めていこうとする思い、暴力国家論への傾斜だったのかもしれない。
享年41歳。今の私からすれば、あまりに若すぎる。もっともっと政治・理論・組織、そして人格、あらゆる領域で磨き上げ、「同盟」を真の「党」にするために学び、習熟し、熟達すべき時だ。‥善悪交えた本多さんの相対化の時だ。、
 
70年」が意味する社会の変化、そして闘いの「空気」。70年の中核派は、「党」と言うには余りにも未熟だ。GEOさん、白井さん、陶山さん、田川さん、彼らを遠ざけた「軍事小委員会」体制で、本多さんは一体、何を構想していたというのか。ただ時代の空気に流されてしまったのではないか。
私は言おう。「共産主義者の結集としての党」。本多さん、あなたは厳格にその言に従うべきだった。「党を目指す」には余りに無準備だった。革共同はまだまだ「同盟」であるべきだった。
戦闘的に闘うならば、綱領も理論も知らぬまま「党に囲い込める」。他党派解体の為の、組織戦術とリンクさせた闘い。これが「共産主義者の結集体」なのか。これが「綱領の党」か?いや、「綱領」に値するものはあったのか?私は改めて、「党とは何か」、その第1歩目に戻る事にしよう。
 
コラム 本多さんの3・14
69年4・27、破防法で逮捕された本多さんは、長期の未決拘留を強いられた。保釈出獄してすぐ、結婚して子どもをもうけたという。それは獄中での心身の痛みの癒しと将来へのステップでもあったろう。休養が必要だったはずだ。けれども「情勢」と「任務」が休養を許さない。
逮捕時の取調べで雑談を交わし「完黙」を貫かなかったと、政治局で自己批判を迫られたとも言う。「政治犯として堂々と立ち向かう」ことが「規律違反」だとしても、「転向・屈服」にはあたるまい、と私は今思う。「完黙・非転向の思想」自体が古すぎる。本多さんの失望も想像できる。
非公然下での軍事小委員会というトロイカで棚上げされ、本多さんは実権を失っていたとも聞く。
護身のためにピストルを渡そうとした人に本多さんは「いざという時、引き金が引けるか?」と断ったと聞く。ここに本多さんの体温・人となりを私は感じる。
 
69年、「破防法を引き出して、勝った」と叫んだという本多さん。戦前・戦後の共産党の屈服の歴史の壁を乗り越えたことで、その歴史的使命を果たしたと言うべきか?
 
コラム 証言 組織論の結末
 キャップが、「排他的で全一的」な指導をするのが理想とされた。その結果、転属や離脱でキャップがいなくなると、継承性が断たれてしまった。
 どんなに無能な人間でも、30有余年も1つの部署で頑張れば、それなりの力がつく。時が経つほど、抜てきや天下りの新キャップには「全一的指導」ができなくなった。
 結果として、出る杭、いや「出てもいない杭」を徹底して叩きつぶすことがカギになる。有能な奴は、上におもねり、下を隷属化してぶんまわすことでのしていく。指導部間では、権益をめぐる暗闘が日常化した。
W 清水さんの人事は極端なキャリア主義だ。30年以上も前の記憶で人を判断する。そのキャリアたちも全滅した。

 

[1] 思想性。定型化された「思想」の背後にあるもの。思想を生み出しすもの。科学性・法則性などと同じ意味合いで。
[2] 横須賀の爆弾。企画・推進したのは清水さんのようだ。露呈するや、「分派の独走」と、権力・党内に隠蔽した。現場責任をとらない「逃げの清水」という証言もある。

私の精神形成

 私が大学2年生の時だろうか?『前進』に「真理の大学を回復するために」という論文が出た。私は、この論調が好きになった。この問題意識は物理学科のクラス討論でも使えた。科学技術とは、共産党のいうような「労働者・人民に奉仕するか否か」だけの問題ですませてはならない。その発展の方向性や性格も、担い手自体のあり方と分かちがたく結びついている。私たちはどんな担い手になるのか、なるべきか?この議論は、その後の企業内告発運動・技術者運動へと連動した。
しかしその後、この論文は中心的な学生活動家の中で、不評を買ったと聞かされた。実際、「大学を安保粉砕・日帝打倒の砦に」という、私にとっては味気ないものに行きつく。
 
共産党の「国民のための教育実践」論への批判も同じような問題が有りそうだ。「10・8羽田」に行き着く学生運動を準備した諸大学での「学部名称変更阻止闘争」を思い返そう。
「学芸学部」から「教育学部」への名称変更に反対した学生の闘いは、「教師となることを自己目的化し教育技術をまず云々する前に、まず人として、自ら学び葛藤することを学ぼう」という呼びかけでもあった。それは同時に、共産党の「人民に奉仕する教育実践」論批判でもあった。それはまた、共産党に入って「はい、上がり」というような安直・無内容な議論を拒否しよう、ということでもある。
この時代、学生の自主的な教育ゼミ運動が大規模・活発に展開されていた。埼大でも教育学部の拠点は「教育科学研究会」だった。
けれども70年代初頭に出た『反戦派教育労働者(?)』では、政治主張だけが延々語られていた。共産党とは位置づけや闘争方針こそ違え、政府の攻撃との対決だけが全てだ。教育実践論批判は、教育実践それ自体の否定に純化・無内容化されていた。これもまた、やはり「はい、上がり」ではなかったろうか?教育現場での生きた現実との葛藤からの逃亡ではなかったろうか?
これらをどう考えたら良いのだろうか?大学闘争の「到達点としての負の側面」なのか?それとも大学闘争の「自己解体」を拒否した党派の保身・反動・無内容化だろうか?
対革マル戦争が、教育実践を困難に落とし込めたのか、それとも‥。結論は待とう。
 
 改めて振り返って思うのは、私が「埼大中核派」の伝統と空気の中で育った事だ。だから私は、中核派と大きな違和感を持つ事なく、「3派の中の中核派」に所属出来たのだと思う。法大出身者との違和感は、主体性論争や黒田寛一に至る多くを、わずかながら学んだか否かにあるとも思える。[1]
 「原点」「乗り移り反対」の言葉すら知らぬ者への違和感は大きい。中核派の「左翼スターリニスト」への転落は、意外と早かったのかもしれない。
 
私は、私自身での高校時代の運動を持つ。
3派の中で1時期、「前高・前橋出身」の比重は大きかった。私たちはノンポリ左翼として、イデオロギーに侵されず、あらゆる事を考えあい、ぶつけあった。50人・百人の高校生がくり返し議論する。その生身のぶつかり合いは、貴重な体験だ。その自由な空間を保障してくれた教師たちは共産党員だった。理想の教師を体現するのは、生徒に謝罪できる、小学校の軍国主義をひきずり続けたI先生。近代史の生きた教えは近所の酔っ払いおやじ。彼らがいてこそ今の私もある。
 

「大人になる」ということ

 全ての結論は平凡だ。中核派は、「大人になる」ための闘い(葛藤)を、「党」として避け続けたと言う事だ。まだ言葉さえ語れない赤子の「精神活動」は、人の一生の精神活動のほとんどなのではないかとすら今、感じる。私たちは成長に従って、その記憶と中身を塗り替える。大人になるとは、「大人の視線」で、その体験を検証し直す事でもある。
理論も大事だ。けれども私たちは、青年・学生時代に描いた社会認識と、その批判を、「大人として」再構築しなければならない。「何を変えたいか」、「誰と」。個々に、そして「党」として、不断に生まれ変わる結果――それを恐れてはいけない。大人となるための闘いを出来なかったのが、中核派だったのだ。
 
「私は広東で同じく青年でありながら、2大陣営に分かれて投書したり密告したり、あるいは官憲が逮捕するのを助けたりする事実をこの目で見た」
「青年たち、ことに文学青年たちは、十の九までは感覚が鋭く、自尊心も旺盛で、いささかでも気を許すとすぐ誤解を招く」
「青年を殺戮するのは、むしろほとんどが青年であるらしい。しかも、またとない他人の生命と青春を、まるで大切にしません」(魯迅)
 

こだわりと「原点」

「党員は綱領を承認し‥」と当然のように語られる。けれどもまた「当然のように」それは踏みにじられる。党の全ての主張を知らされて加盟することなど、現実的にはありえない。この「擬制」をどう考えるべきか?
「均質の党や「党的全体性」という思想こそが擬制に過ぎない。個々人にとっては「原点・こだわり」を捨てた「共産主義的全体性の獲得」など有ろうはずも無い。この擬制こそスターリン主義の道であり、レーニンの主張ではなかったか?「不完全」で独自の経験に満ちた人の集合がどうあるべきか? とりあえず、1人1人は「自分・私のこだわり」を恐れないということだろうか?
 
「革命前夜」「革命情勢の急速な接近」etc‥時代認識の誤りと「狼少年化」についてはあまりに明白すぎて言い様もない。


[1] 左翼スターリン主義。中核派の政治用語。当時急進的だった中国共産党を定義するために生まれた。戦術的には左翼、世界観はスタ。転じてブンドにも適用された。スタとは「歌と踊りと議会埋没だけ」という俗論的認識は、甘い。

54      新訳『共産党宣言』

精神の崩壊と変質

96年、中核派による新訳『共産党宣言』と、その解説本が出版された。読んだのは最近だ。
解説本に目を通して、私はがく然とした。一見して、「新訳」の特徴は、1848年の「共産主義者同盟(ブンド)」の規約と組織原則を、他を排して資料に載せた事にある。「非合法・非公然の党」「陰謀の党」への執着の強さがよく分かる。けれどもこの規約では、中央指導部は持ちまわりだ。この肝心なことが、見過ごされている。
解説本の個々の点を見れば、あまりにも初歩的な無知・無理解に満ちている。20代半ばを過ぎて、少しでも社会や歴史を学んだ人間なら、こんな曲解や政治結論を出す事など考えられない。私はまるで、ポルポト派の綱領を読んでいるかのような錯覚にとらわれる。最低限、高校歴史教科書を読破する事を勧めたい。
けれどこれは、中核派が全力を挙げた作品であり、筆者はあの黒川さんだという。あの黒川さんが、こんな……。
これほどまでに節を曲げなければ、今の中核派に居続ける事は出来ないという事だろうか。「もたない」という事だろうか。この書は、「70年代の中核派」が勝ち取った解放的前進の地平を、ことごとく覆そうという意図に満ちている。ねじくれきった歪んだ空気が全編を覆う。
 

生きた社会像こそ

描き出される資本主義社会の像は、高度経済成長を経た日本ではない。日本は『党宣言』に描かれた世界から、何1つ変わっていないようだ。『宣言』の時代、大工業とは労働者50人位だったという事だけを言っておこう。当然、「経済の2重化――独占体と零細企業」も無い。解説本によれば、資本主義の社会は製造業だけだ。もちろんプロレタリアートも製造業だけ。窮乏にあえぎ、熟練労働者も追放され、すべて機械化されて疎外されきった労働現場だけだ。
筆者たちには、動労千葉も「4大産別」も存在しないかのようだ。国鉄、自治体、教師、郵政――これが製造業か?自分の主張との整合性のなさ、何たる崩壊状態か。
こうして描かれる労働者階級にとって、もちろん、「本工主義との闘い」などに意味は無い。70年代に問われた、「豊かな日本と何か」という問いかけこそ、抹殺すべきものなのだ。「窮乏化」論以外の何ものをも排除せよ、か。
仮に「窮乏化」の時代が来たとしても、日本社会は、「豊かさ」を経験した社会だという事をおさえておこう。「格差――下流」とは、「下層」とは一味違う。
2大階級に解消されていくはずの中間諸階層。「宣言」の時代から160年後の今日、まだ零細経営や農業が存在することへの関心は無い。その位置付けは不変らしい。プロレタリアートへの「階級移行」論、中間諸階層は早晩、分解する→「現在の利益」を捨て、「将来の立場」に立ってのみ「革命的」らしい。「新大陸・フロンティア」の歴史を思う。英農民は大陸に渡って労働者になる。金をためて農地を買うために!
 
私は初めて気がついた。中核派の「農地死守」論は、この『党宣言』の言葉に、直接依りかかった議論だったのだ。「帝国主義論」を媒介したレーニンの労農同盟論も、ここには無い。ムードだけの「労農同盟」論は、ここから来ていたのだ。「農業・農民問題」を語ること自体、反革命だと言っているわけだ。「3・8分裂」の1因はここに在ったのか。
 

アジアの中の日本

日本資本の洪水のような進出は、アジアにおいても「価値法則」を実現させているらしい。「豊かな日本と貧しいアジア」の違いなど、本質的問題では無いと言う。抑圧民族のプロレタリアートは、この軽薄な排外主義と対決しさえすれば良いらしい。たった7行だ。
他方、被抑圧民族プロレタリアートの任務は、25行も語られている。「抑圧民族のブルジョアジーとプロレタリアートを区別せよ」と説教する――悪いのはブルジョアで、労働者は悪くない!?「プロレタリアートは差別しない!?」。
「世界に冠たる反スタ」が、日本人=選民論に純化してしまったという事か?
 
1つ、核心的命題を出そう。「民族自決、民族独立はなぜ必要なのか?」。帝国主義本国での革命の現実性があり、そして革命(プロレタリアート)が民族抑圧を排除するものならば、何で流血の独立戦争(離婚)が必要なのか?
不必要だ、独立などは反動の企みだという事にはならないか?これが、スターリンの答えであり、革マル、そして今の中核派の答えになりそうだ。
社会主義社会とは、あるがままの、今の世の1人1人が自らその担い手となり、日々の生活の諸関係を変革・実現するものだ。理想社会が飛んで来るわけではない。少数の「偉大な革命家」の頭脳から生まれるものでもない。
短くない過渡期でも、差別・抑圧・偏見は単純に解消しないという認識が、反スタの、そして70年の到達点だ。
けれども、主眼はここにあるのではなさそうだ。「9・11」への態度との不整合性は大きい。「中核派の下にある労働者は、差別・抑圧から自由」と読めば、整合性が回復されるという事か。「党、すなわち労働者階級」論は、それを集約したものだと読めば、ストンと落ちる[1]
 
今の私にとって、「党即ちプロレタリアートは差別しない」論も、「あらかじめ排外主義を乗り越えよ」論も共に、「観念操作によって差別を越える事が出来る」論として、同根だ。革マルの「プロレタリア的人間の論理」への下手な先祖返りと言える。ただ、黒田哲学が生半可なだけだ。
在日朝鮮人・韓国人や中国人そして「ニューカマー」のアジア人労働者の生活と闘いへの視座、それが「単一の党」に結集しうるものか、それとも別個な運動・党として成長するものか、問題意識自体が無くなってしまったようだ。
 
「ブルジョア的」な諸制度や、文化を「廃止」して、「単1の世界文学」を標榜する。私は、スターリンやポルポトの主張を読んでいるかの感がある。やはり<マルクス原理主義>への退化か。
清水さん、中野さん。どうなっているんだと思い悩む。精神の恐るべき退化、と言っておこう。70年を経験した世代なら、そして「いい大人」になった者なら、誰も信ずることの出来ない程の珍解釈を、どうして受けとめたらいいか。
 
けれど、私自身のここまでの記述を見直して、私も答えが出た。私が、無理を重ねて、解釈し直そうとしてきたものの真髄がこれなのだ。「70年」的なものの重しを、はねのけはねのける「党内闘争」として、あの20年があったのだ。
清水さんも中野さんも、20世紀後半以降の世界について、論を創出する事にひるみ続けてきた。漂流と混迷の果てに、もはや理論を理論として語れない所にまで退化してしまった、という事なのだろう。「70年的なものの一掃の書」、2つの戦争の内実の結晶としてみればいい。こうした「上からの退化」を保障するのが、現実から逃避した「非転向の千年王国」への退避。「組織論」と「党物神化」なのだ。
中核派内外の人々に、ぜひ、一読・熟読を勧めたい。この本への態度でまた、私はその人を判別していけばいい。
 

生活・家族・女性解放への憎悪

最後に、「解説本」で端的に分かるのは、家族制度や女性解放運動への恐怖と憎悪だ。
まず、「1夫1妻制家族である、現代の家族の廃止です」。えっ?
一応、「ですからこれは、私有財産から、完全に解放された家族関係の形成を意味するのです」とはある。私たちは、「家族制度の解体」を論議したけれど、「家族の廃止」など考えたことはない。「プロレタリア無家族」論も、虚無的な「上から目線」でそぐわない。ひと言で言って、これは清水さんたちの「無家族」状態を、他人に押し付ける以外の何物でもない。
次に、「2重の抑圧」論の抹殺だ。「男社会の抑圧」を抹殺して、「賃金奴隷制」による抑圧に解消してしまった。そして「ブルジョア社会のもとでの女性解放は幻想」と切り捨てる。
日本の女性解放運動は、既成の「婦人運動」を乗り越えるものとして誕生した。狭義に言えば、男の運動の補完物としての地位から、女性として全体性を回復し、「女性と男がともに対等な主体」とする運動に、運動そのものを変革しようとするものだ。「女性の問題」を枝葉の地位から「主流・本流」に格上げすると言ってもいい。この場合「女性の問題」とは、「生活雑事全般」を含み、「男の解放」をも孕む。
多分、本多さんたちは、「政治判断」として女性解放の主張を受け入れた。けれども既に「思考の型、指導の型」は「完成」している。「レーニン党組織論」への純化と、「軍事委員会」指導への転換にとって、「女性解放」・「ジェンダー主流化」の流れは、「恐るべき脅威」として、鋭く受け止められていたとしてもおかしくない。
 
女性解放への憎悪は、もう1つの水路を持っているよう
に思える。
かつて「家族帝国主義」という言葉が、流行った時代があった。「家族の存在が転向の水路にある。家族の情愛を切れ」という意味だ。どうやら中核派は、非合法・非公然体制の貫徹と、「非転向」を貫くために、家族や女性解放を、徹底的に敵視するところにまで退化してしまったようだ。やはり、「引き籠り」ということか。
実際、「共同保育運動」は、指導・組織の在り方をたえず複雑で迂回したものにした。女性差別事件をめぐる第4インターの崩壊こそ、「他山の石」ではないか?
実際に後日、中核派は、「セクハラ事件」をめぐって、清水・野島体制の、その野島さんを失ってしまった。それほどまでに、「女性解放」とは、重くて豊かだ。
私たちの体験、そして「建党・建軍」論を振り返る時、清水さんたちが「女性解放」や家族問題を最大の標的として、「上からの党内闘争」を展開していたと総括しても、あながち「見当違い」ではないだろうと思う。
「浮きし世に、女・子どものなかりせば、春の心はのどかならまし」。私はこんな「のどかさ」を欲しない。


[1] 9・11.直後の『前進』は、一定の距離を置いてこの事件を論じた。けれども以降、9・11を全面賛美する論調に転化した。その趣きは、革マル本体と瓜2つ。けれどもまた、中核派がアルカイダと実践的に「連携・連帯」する立場でないことも事実だ。口先だけの『革命性』『独自性』‥。 9・11の実行主体はいまだ不明だ。米政府も公式には「アルカイダとの証拠は無い」。私は、この大量殺害を「支持・共感」することと「広島・長崎」は両立しない、と思う。

終わりに

中核派の風通しの悪さ、私のポジション、私自身の触覚の鈍さ――自分でやった事の意味や結果も、知らない事ばかりだ。今でも友人には、「刈谷は昔から、競馬ウマだったからな」と笑われる。「前しか見えない、前しか走れない」。
 おかげで仕事中、いろんなミスやトラブルを生んでしまった。頭のモードが切り替わらないと「地図・コース」が浮かばない。迷惑をおかけしたお客さんには、ごめんなさいと言うしかない。
 私を中核派から、「前へ」引き離してくれた友人・知人には感謝したい。特に白井さん、Wさん、そして「女性の視線」をくり返してくれた女性たち。また元中核派の多くの人々。
 
「党」の1員として私自身が関わって来た犯罪、――私はまだ答えられない。私が立ち上がる時、私は「答」を出さなければならない。果してどんな答えがあるだろう。
 しかしまた、私は私の歩んできた道を悔いてはいない。たとえ誤った道であったとしても、そこには他に得難い、熱い日々があった。やはり巨大な歴史ではあったのだ。私は「フランスの内乱」のマルクスに習いたい。パリ・コミューンがたとえ無謀な闘いであったにせよ、その限りない教訓を学ぶ。そうありたい。
 
 私はここ十余年、葛飾区四つ木に住んでいる。知る人ぞ知る四つ木。知らない人には墨田区の社会教育会館で、丸1日つぶす事をお勧めする。仮に私が無為のままここで終えたとしても、この地に生きたという事、それ自体として意味はあるのかもしれない。これも会縁(えにし)だ。今しばらくは、己の足下を掘り続けよう。いつの日か「私の言葉で世界を凍らせてみせる」。
私がしてみたいテーマは「警察社会主義」だ。警察とそのOBたちの政治的・社会的役割を捉えてみたい。中曽根臨調を支えた後藤田、そして動労革マル・松崎を「弟分」と呼んだ秦野がいる。近年では建設族のドンであり、「死刑廃止」の亀井がいる。私の住む葛飾は、平沢勝栄が牛耳っている。
平沢は「パチンコ議連」「日朝議連」「日韓議連」のボスだと聞く。朝鮮総連の本部事件での元公安の役割と、平沢の立ち位置はどう結びつくか?在日や被差別、底辺労働者と全般的に向い合うのは、警察や暴力団だけか、という思いが消えない。
「中核派」は、今でも私の心の故郷だ。「故郷は遠きにありて思うもの」、いい詩だ。    2009・6・1

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