49 対革マル戦の結末
対革マル戦とは何だったのか。本多さんにとっての意味、その半分は解けた。残りの半分は、まず結果から考えよう。
90年以降、中核vs革マルの鉄パイプによるテロは途絶えた。80年以降は断続的なテロだ。その後の死者もいるけれど、大局的には80年で終わったと言ってもいい。中核派も革マル派も「党派」としては生き残り、消滅していく新左翼系の中では、相対的に存在感を維持し続けた。双方共に活力を失い、「棲み分け」も出来たようだ。
大事な事は、互いに軍事によっては相手を解体する事が出来なかったという歴史的事実だ。傷み分け、だ。
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内戦の構図
私の問題意識は「どの程度まで、そしてどこで止めれば良かったのか」にある。とりあえず、3つの問題を確認しておこう。
1つ目は、初期の優位性の下、革マルが、中核派の組織・運動の絶滅を期してきた事だ。「党対党」の主導権と死活を巡る抗争の問題。
もう1つは、革マルの反革命的武力支配への「解放戦争」としての意義だ。川口大三郎君虐殺を契機とした早稲田解放闘争。あの闘いを単なる「内ゲバ」とする事は許されない。
最後に、「中核の革マル化」と言われる領域だ。法政大学での他党派の排除、三里塚での第4インターへの2波にわたるテロはその領域だ。「3・8分裂」そのものも俎上に上る。
最近の主張を見ると、中核派(中央派)と革マル派本体の主張が極めて似通ってきたこともある。
両派の戦争体制を比較してみよう。双方とも、党員数はほぼ互角。動員力は中核派の浮沈の大きさに比べて、革マルはほぼ一定だ。
まず戦闘主力。革マルはJac(全学連行動隊)、インフ(索敵情報活動=レポ)には、多数の女性が体を張った。「労働者本隊」は、これとは一線を画しながら、「水本運動」を総力挙げて展開している。
対する中核派は、学生・OB・反戦だ。そして「諸戦線」の力が大きい。大学戦争では、反戦が主力を占める。新橋や東神奈川での大会戦は、反戦だった。
次に攻撃目標と戦争目的。革マルは初期から、中核派の組織丸ごとの壊滅を目指していた。「あと1撃」論だ。「あと1撃で中核派は消える、ガンバレ」。
75年「3・14」本多さんの虐殺は、革マル根本によれば「半年間をかけて議論してきた」結果だった。それは「知識人の停戦の呼びかけ」とセットされた余りに虫のいいプランだ。
解放戦争としての総括軸
対革マル戦を「解放戦争」として総括しようとする時、多くの壁が立ちはだかる。第4インターへのテロを頂点とした、力による他党派・無党派への圧迫、これは釈明できない。
次に「生と死」の問題。「完全せん滅」(殺人)の重さ、その目的意識的追及――その事実から目を背けることは出来ない。71年の海老原事件は、意図せざるものだったが、革マルの好戦世論を引き寄せた。中核派の中に、「内ゲバ主義」への嫌悪と動揺が広がる。もちろん、辻・正田同志の虐殺[1]や、本多さんの虐殺への怒りをもって、この事件を相殺する事は根本的な詰まりだ、今、私はそう思う。
「生と死」、人のあらゆる可能性の全抹殺という事の前に私たちはたじろぐ。私はこの意味を「戦争をもって戦争を養う」という視点から解明してみたい。革マルの死の問題は措こう。問題は中核派側の対応にある。
中核派は、「殺す意図は海老原事件では無かった」とのみ声明した。沖縄の比嘉事件では、最後まで誤爆の死であることを認めなかった。
私は思う。除名を含む処分、軍法に則り、処分は厳正でなければならない。弾圧・長期投獄によって代替する事も許されない。軍の規律・モラルなしに解放戦争はあり得ない。もちろん、「一部の未熟分子」への責任転嫁も許されない。その責任を、党自らのものとして、共に荷うべきなのだ。指導の重心・組織・財政その全てで、苦しみを共有するべきだ。「謝罪と賠償」は不可欠だった。障壁になったのは「革マルに謝罪するのか?」、「軍がもたない」だったろうか。
救対は、その重みを荷うに足るものだったろうか?指導は共有したろうか?この問題を避けた結果、恐るべき「モラルの崩壊」が起こってしまった。精神が萎縮する。「負け戦の中でそんなの空論」だろうか?では問おう。いつなら出来たのか?いつやったのか?
誤爆事件への唯一つの自己批判があった。74年、在日女性への襲撃、この時は『前進』紙上でも明快に自己批判し謝罪した。
中核派はこの戦争に、「戦略的無準備」の中で突入した。無準備性の中には、この生と死の問題がある。とすれば、その無準備さをはっきり見据え、それを埋める過程として「戦争をもって戦争を養う」べきではなかったろうか。「生と死」の問題の重さに向い合うために、戦術もまた本当の意味で、組み立てられるべきではなかったか。目的意識的な、政治を欠落した「殺し」をもって党の体質を変える事が出来る、という軍事万能論的発想こそ、自壊を生み、不利を招いたのではないか。この点での「上からの先制的な党内闘争」こそ、今改めて断罪されるべきではないか?
浮上した同志、長期下獄した同志――その多くが党に見切りをつけ、あるいは「反党分子」として除名された。この事実、そして「反党分子」には、治療費も「軍人恩給」も出さぬ態度、これが「戦争党派」なのか?それとも、こういう立て方がそもそもおかしいのか?
動労革マルとの闘い
解放戦争としてはどうだろう。国鉄分割民営化攻撃と、国労・動労千葉の闘い。ここでの「赤色テロ」は益だったのか、害だったのか。国鉄労働者の中で革マルを批判する『前進』が回し読みされたと聞いた。動労革マル(=JR総連革マル)への怨嗟の念はもちろんだ。
けれども今、私の答は「害」だ。労働者たちは「テロル」の前に戦慄して立ちすくむ。「赤い用心棒」こそ、「テロと結託した国労」という「世論」の総反発を引き起こし、国鉄労働運動を孤立の中に追いやったのではないか。浅草橋と同じだ。
「党対党」としての総括と、解放戦争としての視座と、どう考えたら良いのか?
内戦初期、労働運動や各種の救援運動で、まだ諸党派の統一行動は維持されていた。69年と71年の「2つの11月」での逮捕者・解雇処分に対する新しい共同行動が各地で生まれていた。当時「戦争状態」にあった解放派はもちろん、動労革マルもこの隊列の中にいた。この矛盾と葛藤をいともたやすく切り捨てて「大衆運動主義」者を排除していった結果、生まれたばかりの県党の創設者たちを多く失うことにもなったらしい。地元で育ち地元で戦う指導部の形成ということの意味、それはどこまで位置づいていたろうか?、
ファシスト規定について
革マルが「神学的サークル主義」から、反革命として姿を変えていったのはいつからだろう。「死闘の7か月」、大学闘争、そして差別排外主義との闘い――革マル自身、この激しいうねりにもみくちゃにされながら、それに憎悪と侮蔑で対抗して満身武装していった、と言えるだろう。やはり、70年が生み出した独特な反革命、だ。
革マルが「武装反革命」として登場したのはいつか。私は今、69年秋の早稲田の暴力支配、解放派と反戦連合の放逐こそ、その原型ではないかと思う。北大での「5派連合」対革マルの連日の集団戦。5派が、ついに革マルに屈したのは70年10月だという。
この時点で中核派が、事の重大さを認識していたら、後の展開は全く変わっていただろう。いや、重大性を踏まえつつ中核派は、2つの11月という大決戦に全力を集中しようとしていた。他の事は眼中にない。「2つの11月」で解放・ブントを一気に解体・吸収できる。全国全共闘を手中にした中核派は、革マル派を一気に叩けるだろう。‥けれどその目論見は、ついに実現しなかった。
対革マル戦を「戦略的無準備性」の中で迎えた中核派、総括軸の1つは、こういう構造からなる「決戦主義」と「ボリシェヴィキ化」ではなかったか。本多さんが常に、情勢全体を切り開くことで局面を打開しようとしたことは確かな事実ではあるとしても‥。
中核派の「革マル=ファシスト」規定は、どうだろう。「ファシスト」規定は、混乱の元凶でしかなかった。「ファッショ的」はいい。けれどファシストとは何だ。「ファシスト、ファシスト」と決めつけながら、そのエセ共産主義性を暴露しようとする『前進』重要論文を前に、多くの成員は立ち往生してしまった。反スタの正統争いに執着する政治局に、一体何が言いたいのか、と困惑する。要はやっぱり内ゲバなのか?結局、凶暴で得体の知れぬ連中、ということでしかない。これでは、革マルと面と向かい合うことは出来ない。
革マルとは、黒田哲学と反スタの反動的固定化、激動期に激動を憎悪する神学的集団――これで良いのではないか。略して、革マル反革命だ。
ファシスト規定の誤りをいくつか並べよう。
1つ. 黒田哲学の反動的固定化、変質。うんころじーはその崩壊的混乱の論である。けれども、80年代後半の中核派は、「正統争い」を放棄してしまった。
2つ. 学生革マルの位置。その拠点は東大、早稲田、上智……。ナチスやファシストよりも、オウムに近いくらいだ。
4つ. ワイマール体制下の内乱の奥深さと比べた場合の「70年」の激動の限定性。特殊性。「革命と反革命」は、まだ共に未成熟で「萌芽」に過ぎない。
5つ. 。新左翼(反スタ、革命的左翼)内の「主導権争い」と言う視点は、やはり欠かせない。互いに、共産党との全面対決を避けての「戦争」なのだ。
結局私たちは、「革マルとは何か」「その生態=動態はどんなものか」を捉える事に、破綻し続けたのではないだろうか。黒田を乗り越える事を放棄してしまったのではないか。そもそも何でこの「内戦」が生まれ、発展し、消滅したのか?結局は、分からずじまいと言う事か。
革マルの革マルとしての新たな変質が、また一歩進んでいるようだ。