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「現代の理論」

1970年代障碍者解放運動の私的総括(上)」筑波大学名誉 ...

1970年代障碍者解放運動の私的総括(下)」筑波大学名誉 ...


1.学園闘争から諸課題へ

2.京大難聴問題研究会の結成

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会(以上本号)

4.関西テレビ「橋のない川の世界」(以下次号)

5.「誇り」とは何か 

6.障碍者であることは誇り得るのか

本稿は、2021年2月13日、茨城県つくば市所在の「つくば自立生活センター ほにゃら」が主催した職員研修「自立支援を自分ごとにするための連続レキシ講座」の第2回として実施されたものに、大幅に加筆修正したものである。「ほにゃら」は千本が筑波大学で学生諸君とともに30年近く継続した「筑波大学部落差別問題研究自主ゼミナール」の初期の参加者が、知人たちとともに設立し、現在、NPO法人として手広く、堅実に障碍者の自立生活の後ろ盾として活動している。若いスタッフが多く、彼らは障碍者とかかわることを賃金労働と捉えているが、ある学生スタッフが、1970年代に「健全者手足論」が唱えられたことに関心を持った。

「ほにゃら」設立スタッフは50歳代にさしかかり、かつての障碍者解放運動と現在の賃労働としての介助の双方を知っているが、若者たちにとって、障碍者解放運動は想像力の外にある。そのため、「ほにゃら」開設メンバーが、わたしに1970年代の経験を語れと企画を持ち込んだのである。そのため、1970年代の京都の運動の総括どころか、スケッチにさえなっていないが、障碍者の自立生活をめぐる状況は大きく変化しており、当時の一活動家が何を考えていたのかが、若者たちの参考になればと引き受けた次第である。なお当日は6日、13日の2回とも、zoomで数十名が参加した。(筆者)

自分と障碍者との関係を自分ごととして考えるということが、今回設定されたテーマです。そこで、タイトルを「わたしと障碍者と差別」としました。「わたし」、「障碍者」、「差別」という三つの言葉について、ひとことずつふれておきます。

「自分ごと」ということは、理屈だけではなくて 自分自身のことをさらけ出 すということになりますから、そこのところは、 ご容赦いただきたいと思います。

「障碍者」の「碍」、この字を書いているのは、 平仮名で書くよりも意味が通るのかなと思ったり、ただ、「障碍」が「健全者」に近づくことを妨害しているということになって、この「碍」を書くと発達保障理論になってしまうのかなと思ったり、迷ってはおります。

差別ということばは、さまざまな意味で使われます。どの使い方が正しいということはないのですが、多様であることによって、開き直りや茶化すことに使われたりもします。 差別とは何かということの捉え方が、人によっておおきく違うということでもあります。たとえば、老人差別。実際に、老人差別はあるのですが、議論をする場合や差別の原因を探究する場合には、前提としてことばの意味を限定しなくてはなりません。差別を「本人の責に帰さない属性を理由に特定の人物や集団が生涯にわたって不利益を受け続けること」とすれば、不幸なことがなければ、誰でも老人になるからここで限定する差別には当てはまらない。

いじめはその責任が全面的にいじめる側にあるという面は差別と共通していますが、転居や、いじめる側の恣意によって、突然いじめの対象でなくなる場合があるので、差別とは異なっています。いじめの「きっかけ」をいじめの原因と混同して、「いじめの原因はいじめられる側にもある」という人もいますが、どのようなきっかけであったとしても、それを理由にいじめることは許されません。「いじめのきっかけ」と「差別の原因」の違いについては、深い考察が必要でしょう。

抑圧や収奪も差別とは関連しますが、別の概念です。資本家による労働者の搾取も差別とはいいません。あえていえば、弱肉強食は差別ではありません。個人や集団が持っている資質を、別の不当な理由で評価されないことが差別です。もちろん、弱肉強食が良いといっているわけではありません。だから反差別と反抑圧のふたつの闘いが必要なのです。

そのように差別の意味を限定すると、差別に含まれるものは、民族差別、部落差別(わたしは「部落間差別」と言っています)、女性やセクシュアルマイノリティに対する性差別、そして障碍者差別が主なものです。 人種差別ということばがありますが、学問的には、今、人種という概念が存在しませんから、とりあえず民族差別にふくめておきます。

他にもたとえば、HIVウイルスキャリアに対する差別のように新しく生まれる差別もありますが、科学の発展によって解消する場合もあります。

もうひとつ、区別と差別の問題です。江戸時代には、区別と差別のことばの意味の違いは、ほとんどありませんでした。区別と差別ということばが別の意味を持ってきたのは明治維新以降です。江戸時代の身分制と明治維新以降の差別は同じなのか、違うものなのかという議論も続いてきました。江戸時代は、平人(武士や公家でも、「賤民」でもない人びと)と被差別民は異なった身分として差別的に共存してきましたが、明治維新の、いわゆる「解放令」、賤民廃止令によって「身分、職業とも同一」だとされたことによって、一般の人々が「自分たちをあいつらと一緒にするな」と差別するようになったのが 明治以降の差別です。

現在でも区別することが差別を生むんだという 趣旨の発言をする若い人たちがたくさんいるんですけれども、区別というのは絶対に必要なことです。まず、赤ん坊が自分と母親とは別個の存在だという認識をする、これは最初の区別ですよね。区別というものがないと、一人ひとりの主体性というのは確立できない。そういう意味で区別と差別は全く違う。

1.学園闘争から諸課題へ

わたしは障碍者運動と部落解放運動の両方から、たくさん考える材料をいただきました。 わたしは、高校生の頃から、ベトナム反戦運動には関わっていたわけですが、京都大学に入学した1969年には、そこにはもうすでにバリケードがありました。 学園闘争に没入し、そし当時の、3つの大きな課題と言われていた、狭山、三里塚、沖縄闘争にも参加しました。三里塚(成田空港建設反対闘争)にも何度も行きましたが、わたしが一番考えさせられたのは、狭山闘争と沖縄闘争でした。全国的には、学園闘争と70年安保闘争の敗北後、学生たちは、地域闘争、反差別闘争へと運動を移していきます。

京大はガラパゴスといわれたぐらい、70年代、80年代になっても学園闘争が続きますし、わたしも学内課題にこだわりますが、仲間たちは外にも出ていきました。たとえば工学部闘争委員会の人たちが、伊方原発へ行って支援を始めたというのが、 外部の人間が反原発運動の地域闘争に参加していくスタイルの最初でした。 それが全国に広がっていくわけです。農学部闘争委員会の人たちが中心になって『地域闘争』という雑誌を出して、 現在でも、タイトルを変えて続いています。

もうひとつの分野が反差別闘争です。ウーマンリブといわれるフェミニズムの前の段階の運動が起こったり、狭山闘争も1969年から非常に大衆的になっていきました。わたしは69年から入管闘争に参加していましたが、1970年の7月7日、盧溝橋事件が起こった日の東京の集会で、華僑青年闘争委員会(華青闘)が、新左翼も入管闘争やってるというけれども、本当に差別の問題をわかっているのかという告発をしました。これが非常に大きな影響を新左翼に与えたわけです。そのなかから、被差別者以外は全部差別者なんだという発想が広がってきます。これは、後で出てくる「健全者」は障碍者にとって敵である いうこととも、共通してくる問題でもあります。

同じ1970年、日本脳性マヒ者協会青い芝の会が、 5項目の行動綱領を発表しました。

1.われらは、自らが脳性まひ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を確認し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。

1.われらは強烈な自己主張を行う。
われらが脳性まひ者であることを自覚した時、そこに起るのは自らを守ろうとする意志である。 われらは強烈な自己主張こそ、それを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

1.われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の共生であると信じ、且つ行動する。

1.われらは健全者文明を否定する。
われらは健全者の作り出してきた現代文明が、われらの脳性まひ者を弾きだすことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明への告発に通じることを信じ、且つ行動する。

1.われらは問題解決の路を選ばない。
われらは安易に問題解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。 われらは次々と問題提起を行うことのみが、われらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。

われらは以上五項目の行動綱領に基き、脳性まひ者の自立と解放を掲げつつ、すべての差別と闘う。

ちょっと時間的なずれはあるんですけれども、合わせるとこの5項目です。愛と正義を否定するとか、問題解決の道を選ばないというような、いわゆる良識者から見ると、 なんだこれはと思われるような内容です。

1960年代に日本母親大会と、日教組教研全国集会障害児教育分科会を母体として、 全国障害者問題研究会が設立されていました。障碍児を養護学校などに分離して、専門家である教師や医者が障碍を取り除くことによって障碍者を健全者に近づけるという、発達保障理論を唱えました。専門家による障碍者のための運動に対し、自分たち障碍者こそが解放運動の主体なんだという宣言をしたということです。

わたしがこれを知ったのは1975年に 障碍者運動に参加するようになってからです。 健全者文明を否定するとか、自己主張を行なうというのは分かりやすいんですが、愛と正義を否定するとか問題解決の道を選ばないということは 自分ではわかったとしても、それを他の人に説明しきれるのかと言われると、自信がないというような状態でした。

それとほぼ同じ時期になるのですが、部落解放同盟の3つの命題、というのがあります。1960年代から1970年頃に確立しました。第1命題が部落差別の本質について、第2命題が部落差別の社会的存在意義、第3命題が社会意識としての部落民に対する差別観念です。第1命題と第2命題は、表現としても理論的にも不十分であると指摘されているのですが、 わたしは第3命題が非常に重要だと思っています。

社会意識ということばはちょっと難しいのですけれども、この中のことばを使って説明してしまうことになるんですが、本人が意識するとしないにかかわらず、空気を吸うように社会から持たされてしまっているものです。差別観念というのも難しい。よく差別意識ということばが使われますが、差別意識というのは、自分で意識しているものです。あいつらは 自分より劣った存在だという風に、意識してしまっているのが差別意識です。しかし、 自分は差別してない、自分は差別を許さない人間だと思っている人も、実は差別観念を持たされてしまっている。

これを若い人たちに気づいてもらうのは割と簡単なんです。 結婚差別のドラマを見たりすると、自分は部落民でなくてよかった と思ってしまう。その瞬間に、わたしも差別しているんだと気づいてくれる。差別意識を含め、自分が意識していないことも含めて差別観念というわけです。

第3命題の最初です。「部落民に対する社会意識としての差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活の中で伝統の力と教育によって、自己が意識するとしないにかかわらず、客観的には空気をすうように一般大衆の意識の中に入り込んでいる。 」空気を吸うように、意識するとしないに関わらずというところ、それから、伝統の力と教育によってというようなところが大事なわけです。

差別の問題について話をするときに、一人ひとりの意識の持ち方、気持ちの持ち方が大事なんだという発言をする人がよくいます。「一人ひとり全員」という意味なら分かるのですがひとりで自分の意識を変えようと思っても、そう簡単に変わりません。社会からそういう意識を強制されてしまっているので、そういう差別構造を持つ社会を変えないと、自分ひとりでは差別観念を克服することはできないのです。

部落解放運動が、狭山闘争を軸にして広がってきますと、部落解放同盟の活動家の皆さんがいろんなところで講演をする ということがありました。その中で必ずというほど使われることばが、 自分たちは五体満足なのになんで差別されるんだという発言でした。これが、当然障碍者運動の側から批判を受けるわけです。 1975年ごろ、京大へ解放同盟の方が来て講演をされた時に、全くそれと同じ発言がありました。 その時はわたしから問題提起をさせてもらいましたけれども、障碍者運動からの批判によって、見事にぴたりと部落解放運動の中でのそのセリフ、 五体満足なのになぜ差別されないといけないのかという発言は止まりました。

部落解放運動のなかで、そういえば被差別部落には障碍者が多いぞ。劣悪な生活環境だから障碍者がふえるのかということに気がついて部落解放運動が障碍者運動に合流してくるのが1970年代後半の動きでした。その中で部落解放同盟は、被差別統一戦線、差別されたものが 自らの解放を勝ち取ろうとする運動の統一戦線というようなことを提唱するんですけれども、それはもう非常に短期間で終わります。 そして反差別共同闘争という展開のしかたに変わりました。この違いは非常に重要だとわたしは思います。被差別統一戦線というと、差別される人たちだけの統一戦線です。反差別共同闘争というのは、差別と戦う 人たちみんなの共同闘争で、差別する側に置かれている人たちも参加できるわけです。ここのところが今回の 健全者手足論の問題とも関わってくることでもあります。

2.京大難聴問題研究会の結成

そういうなか、1975年ごろ、難聴問題研究会というのを作ることになりました。わたしが大学院生として所属していた文学部の現代史学研究室に、難聴の学生が3回生として進学してきたのです。そこで彼の授業参加の保障を勝ち取ろうということになりました。こういう、日常生活における 要求闘争は、わたしたちはあんまりしたことがなく、教育研究の内容についての問いかけや、政治的な課題ばかりやってたものですから、 お金で解決することならというのが文学部当局の本音だったのかもしれません。ひとつの教室の天井に、アンテナを張りめぐらせて、マイクや アンプなどいろんな機器を購入し、彼が参加する授業は、できるだけその部屋に固定するとか、いろんな配慮を勝ち取りました。

そのうちに、哲学の大学院生にも難聴者がいるという 情報が入ってき ました。現代史の学生は、伝音性難聴で音を大きくすれば理解できる。ところが、哲学の院生は、感音性難聴で、音を大きくしても聞き取れない。だから彼女は口話法、口と顔の表情、その人物全体の雰囲気で、相手の話を理解するという方法でやっていました。ところが、それはものすごく集中力が必要で、飲み会へ行くともうダメなんです。集中力が途切れてしまってコミュニケーションできない。じゃあ 手話をやってみようよということで、手話サークルもやりました。飲み会でも話せるようになったのです。

そういうなかでわたしが感じたのは、障碍者を知ることによって世界が2倍に広がったなということです。障碍者という存在を自分は今まで知らなかった、障碍者を数名知っただけで、世界が2倍に拡大したと感じました。

もうひとつは、 他者の発言が終わるまで発言しないということです。 難聴者の場合、集団で議論している時に、複数の人間が発言すると、まったく理解できません。ですから、ひとりの発言が終わるまでは、発言しないということを徹底しました。 わたしは、これは、民主主義の1番の基本だと思います。テレビで有名な討論番組では、 大きな声で他人の発言を封じると、その人のペースで議論が進んでいきます。いわば、最も非民主的な番組だと思いますが、ただこれが、わたしたち仲間の間でも、徹底してない。長話もいけないのですが。

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会

1976年に結成された全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の第3回全国大会が京都で開かれることになりました。京大を会場にしたのでわたしがその現地実行委員会の 委員長と言いますか、責任者の役回りを承わることになったので、多くの障碍者との付き合いが広がりました。京都視覚障害者の教育と労働を考える会との交流が始まって、点字を覚えて、 かなり長い文章を点訳したりもしました。

全国精神病者集団も全障連大会には参加しました。障碍者同士の差別も課題になります。身体障碍者同士でも軽度の障碍者と重度の障碍者の間で差別があったり、それ以上に深刻だったのは、精神障碍者と身体障碍者の間での相互差別です。当時非常に重要なテーマでした。

わたしにも親しい精神病者集団の友人がいて、よく一緒に遊んだりもしてたんですが、大学の中でわたしが自転車で走っている時に、彼が2人乗りさせろといってきて、何言ってんだ、お前、体は元気じゃねえかっていうような発言をした後でわたしはドキッとしましたね。あ、こういう風に、まったく意識せずに差別的なことを言ってしまうんだと、自分の中の差別性、差別観念の問題として 意識しました。

わたしはこの全障連大会ではまったく裏方だったので、青い芝が全障連から脱退するということも、後で聞いて知ることになります。青い芝のメンバーを介助していた健全者組織の「ゴリラ」を青い芝が解散させたということもあとで聞きました。京都にもゴリラのメンバーはいました。

それと同時に、京都青い芝の、在宅、あるいは施設にいる会員たちが、 自宅や施設から出て自立生活を始めたいということが相次ぎました。 ゴリラの人びとがほとんど動けない状態のなかで、京大の難聴問題研究会や、それに繋がる人々に介護要請が来ます。そこでわたしも、複数の青い芝の会員の自立生活を実現するための活動に参加しました。

青い芝の全障連脱退やゴリラ解散は、障碍者自身の主体性を回復するためだったと理解しています。介助のために参加している「健全者」が運動の運営に参加すれば運動は効率的に進みますが、それでは障碍者の運動ではない。障碍者のペースで運動を展開して、それで毎年の全国大会が2年に1回しか開けなくても、それでいいではないかということです。そのためには、介助の「健全者」は、障碍者の手足となって、障碍者に言われたことだけをやっていればよいということです。これが「健全者」手足論です。障碍者の主体性を回復するために、健全者の主体性は一切認めません。

わたしは「健全者」手足論には与しませんでしたが、現在の障碍者介助の原則である、介助は障碍者の意思に基づいて行なうという基本姿勢は、ここに出発したといえます。

わたしは介助でかかわる青い芝をはじめとした障碍者に、「喧嘩しようよ」といいました。お互いに理解し合わないと、障碍者と「健全者」の相互理解は進まない、わたしは差別的なことをいってしまうかもしれない、やってしまうかもしれない。それを指摘してほしい。 わたしのなかの差別性というものが表に出ないと指摘してもらえないわけですから、わたしは思ったことをいいます、 という話をしました。 千本は障碍者といつも喧嘩していたのかと受け取られたら困るのですが、実際に喧嘩した記憶はありません。要するに心構えの問題です。

わたしが、喧嘩しようよといえたのは、わたしが付き合っていた青い芝の人たちとの信頼関係と、もうひとつは、彼らが優しく、非常に強い人たちだったからでしょう。どの障碍者にも喧嘩しようといったわけではありません。わたしには、障碍者のために運動に参加しているのではなく、障碍者に対する差別構造に貫かれた社会から、差別観念にとらわれたみずからを解放して差別のない社会をめざすという意識が強かったのです(このあと、日常的な介助の様子や、自立生活実現のための親や福祉事務所との交渉について、紙数の関係で省略する)。 (以下次号)

 以下、元解放の視点からの「なぜ?」

3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?

彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。

 それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
 この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
 1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
 
 都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
 そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
 当時の新左イメージ 2翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。

そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。


 大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。(法政大学 1970年)



4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。

(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは171年6月明治公園での全国反戦主催沖縄闘争集会における中核派解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
 そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
 このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。 

 

<ここに至る若干の経緯>

1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
 議題は、10・8の総指揮者について10・8の闘争戦術について。
 以上二点である。

 だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
 全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A(秋山)、Y(吉葉)を迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。

 この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
  ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。

2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
 「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。

 解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。

3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。        それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
 法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
 こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
 そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
 そして、中核派政治局(S.=清水,H=本多,K=●●)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。

 この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。

 10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
 かくして、三派全学連の分裂は確定した。




 
 
【ブログ注】あおざかなの買物日記(goo版備忘録 から引用 
 直接は元中核派系の障害者解放闘争の話です。
『障害者』固有の闘い方や、ペースをキーワードに語られています。けれど同時に、70年代初期の諸問題を語っていて、示唆に富む。


……… ……… ………

趣味的に読む本じゃないかもだけど

2006年06月04日 00時13分53秒 | memo
 楠敏雄「『障害者』解放とは何か」を読んで、今の自分の立場でまず反応してしまうのは当時の中核に対する指摘である。
 もちろん「趣味的」によまれるべき本では決してないと思っているが、、。

楠敏雄『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きる ...



「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」
「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」
「組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました」
「ところが、71年12月に起きた革マル派による中核派の2名のメンバーへの非道な虐殺と、72年5月の沖縄闘争における『敗北』は、中核派の危機感とあせりを強めることとなり、大衆運動に対する方針を急激に転換することとなりました。すなわち、72年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争については一応中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、『障害者』への日常的働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。また、『障害者解放戦線も革マルセン滅をかかげるべきだ』とか『白ヘルメットをかぶって中核派の集会に結集すべきだ』といった主張にみられるように、教条的セクト的対応をも強めてきました。さらに、情報の手段や、学習の機会を奪われている『障害者』に対して、基本的な学習を保障せず(他の党派の内容との違い、およびさまざまな組織の内容も含めて)ひたすら彼らの機関紙『前進』の読み合わせをさせるのみだったのです」(26ページから28ページ)
「『障害者』の圧倒的多数は、新左翼運動はおろか、政治からも、教育からもあらゆる情報からさえ遮断されて、家の片隅や施設に隔離されていることはすでに何度も確認されてきたはずです。にもかかわらず、このことの持つ重さについて、中核派をはじめとするほとんどの新左翼党派も、そして私たちすらも正しく把握しきれてはいませんでした。そして、それがゆえに『「障害者」のペース』という言葉の意味を理解しきれず、『障害者』解放運動の独自の発展を無視したり、妨げたりしてきたのです。」
「私たちは、いついかなる闘いにおいても、まず何よりも『障害者』大衆と共に闘い、互いの発展をかちとり得るような闘いをするべきだと考えています。したがってそこでは、当然『障害者』固有の闘い方や、ペースが要求されるでしょうし、言葉一つにしても常に点検されねばならないのは当然といえるでしょう。」
 「彼らがこうした『障害者』との日常的な関係作りを軽視して、政治課題を最優先させるといった方針は断じて認めるわけにはいかなかったし、現在もなお認めるわけにはいかないのです。彼らは私たちに対し『政治闘争と大衆闘争を対立させる』と批判していますが、むしろその批判は彼らにこそピッタリと当てはまるといえるでしょう」
 「レーニンは、その著『共産主義における左翼小児病』や『何をなすべきか』において党が大衆運動を抱え込んだり、教条主義を持ち込んだりすることを厳しくいましめています。自らレーニン主義者たることを自称する中核派は、自分たちに都合のよいところしか目に入らないようです。72年5月以後の中核派の私たちに対する対応は、まさにセクト主義そのものに他なりません。先にも述べたように、関西『障害者』解放委員会の大衆組織としての確認を無視してひたすら中核派に従属することを迫り、それが通らぬと知るや自分たちの地位を利用して何人かを抱え込んで、さっさとわが組織から逃亡して、私たちと同じ名前を名乗る。これがかりにも『前衛党』と自称する者のなすべき対応でしょうか。さらに、自ら情報を得ることを奪われてきた『障害者』に対し基礎的学習すら保障せずに自分たちの路線のみを一方的に教え込んだり、『施設で園生をいじめる職員は革マルのようなものだ、だから革マルセン滅だ」などと提起するに至っては利用主義そのものであり、差別的対応といわざるをえません」(52ページから53ページ)

長く引用したが、いまだに生き続けている批判ではないか?
そのわずか1年半前(70年10月26日)には中核派は「入管闘争の中間的総括」を発表している。せっかく「内乱と武装の論理」に掲載されているからせめて繰り返し読まれるべきだと思う。
というか、「現役」のときにこの「中間的総括」をもっと読んでいなければならなかった。

楠敏雄 - Wikipedia


【ブログ注】『前進』編集局にいたこともあって、初期の「障解委」メンバーとの付き合いも少なくは無かった。70年か71年か?社会福祉事業大学の障害者解放運動に関わる多くの学生たちが、革共同集会に参加したという。そのほとんどはマル学同にも加盟していない人々だったが、参加者の発言として?「中核派は障がい者解放に不十分だ」という趣旨の発言をしたのだそうだ。
 批判に応えて北小路敏さんが登壇して、「その通りだ。出来る事なら中核派の一員として内部から変えて欲しい」というような演説をしたのだそうな。
 その演説に応えて社事大生などが大量に中核派に加盟した。障解委の東日本の母体と言えそうだ。
  
 ただ、私が本社編集局に移った78年、その初期の障解委メンバーたちは多くが、「戦線=部署」を移行していた。ある人は、『障がい者』の自立支援、
「自立のための個人経営」の支援に力を注いでいたが、「任務」の都合にかまけている間に破綻してしまっていた。その後のメンバーの心の崩壊は目も当てられなかった。あえて自分を痛める場所で、いたぶられ続けることで長く生きた。ようやく人として立ち直ったのは、私の知らない場所だった。

  あえて言えば、この「固有のペース」や「固有の闘い方」は、いつでもどこでも、あまりにもあたり前のこと。普遍的なことでしょう。
 「不揃いのリンゴたち」というタイトルが新鮮だったのは、私達が大人になる過程、あるいは「組織者になる過程」で後ろに押しやり、忘れていたたもろもろを再び三度突き付けられておたおたしたというに過ぎない気もします。もちろん、対革マル戦争の軋みが破滅的なほど大きかったということも欠かせませんが。

 

野次馬雑記

20180511

No492 10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点-

 1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。昨年の10月8日には10・9山﨑博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。

私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。
 この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
 佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。
 この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。
今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。

 

【10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点―】

この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。


<1967年10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死>


 山﨑博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。

だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。
 複雑な気持ちとはなんであろうか。

 60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山﨑博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。

 このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を貶めるものではないと確信している。


 ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。
 この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。
 今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。

 

<10・8前日に起きたこと>

10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも『社青同解放派』)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。
 この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。
 凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。
 ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。
 1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。
 しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。

 

<原因は何だったのか>

1)ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。
 第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。
10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が 重大な焦点となった。
本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。
  【ブログ注】A.K=秋山勝一 A.T=青木忠
 理由は次のようなものであった。
 「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長A(秋山)もそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。
これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。
 大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。
 今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。

 要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。
 この主張が無理筋であることをA、Y(吉葉忠)は認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている)
   
 ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Yと中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかし、A、Yは、最終的には全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。

2)思い起こせば、1966年12月に結成された『(三派)全学連』(全国35大学、71自治会、1800人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。

 ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。
 大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。
だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。
 この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。
【ブログ注】そういえば思い出すのは、分裂が確定した後、中核派中央のビラには「全学連主流派」の発行者名義が着くようになった。「秋山全学連とか全学連(秋山委員長)で充分なのにね??」という感想を語り合ったものだった。私達埼大中核派は、「少数派」であることを誇りにも思う気風もあった。

 これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。この「前衛党建設論」こそが安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった(注。第2次分裂のこと?)。

 だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
 
 ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。
1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった)
 「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う)

 中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。
 後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。

 他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。

【ブログ注】けっこう長いので分割して掲載のつもりでしたが、つごうで変更。
 続きはもともとの『日本の古本屋』でお読みください。

 https://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365869.html


【ブログ注】『情況』最新号で語られています。詳細は以下


情況 2024年春号 [第6期6号] | 模索舎 A5 240頁


142914



【読後感】
岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 菅孝行

勝者なき「内ゲバ」の決算に一筋の光を見る
-岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 長島由紀夫


終わりなき葬送、過ぎ去らない惨苦
『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』 | 幸村燕

川元祥一著『部落差別の原因-国家による天候支配の思想=仏教の「殺生禁断」』
| 小林孝吉


 
……… ……… ………

【注】以下は目次です。「特集 食」 略しました

【連載】

川元祥一と文学者たち 第五章 | 河村義人
戦前は続いているのか?非断絶の戦時(16) | 髙井ホアン
情況喫茶 傍流からの展望 弐 | 中牟田聖司×髙田輝
解説 ウクライナ戦争論争 | 横山茂彦
【特集外】
ハマスと熱心党 安彦良和『イエス』と相澤文蔵の古代ユダヤ民族史研究 | 矢田部健史
マイケル・サンデルとトーマス・ヒル・グリーン | 野沢文哉

市田良彦の『フーコーの〈哲学〉』を徹底読解 後編
戦術談義 運動の技術/現場の工夫
| かわすみかずみ/ヨナカシンヤ/ひょっこり/小峰ひずみ

〈誌上インタビュー〉重信房子『パレスチナ解放闘争史』刊行記念
イスラエル批判を反ユダヤ主義と見なす論理を打破するために | 高橋順一

「#FreeKazehitoSeki」
ガザ虐殺抗議グラフィティを描いて勾留されたアーティストについて | 本誌編集部

コンビニから男性向け雑誌が追放される!? | 中山美里

『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』刊行記念対談I
| 笠井潔×長崎浩

部落差別とは何か | 川元祥一
漫画が伝える戦前の「原風景」 『鬼畜米英漫画全集』の刊行に寄せて | 髙井ホアン

〈独占インタビュー〉浴田由紀子
爆弾闘争50年 東アジア反日武装戦線元兵士が次世代に残す証言



【映画評】代島治彦監督『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』
腑に落ちぬ幾つかの事柄 | 菅孝行
川口君追悼とは真逆の虐殺者免罪映画 | 水谷保孝

【追悼】
追悼 桐島聡さん | 友常勉

依頼に応じて拡散します。

  7.30.(土)14時~16時 浦和駅東口前広場へ   

多くの疑惑にフタをし偶像に祭り上げる安倍「国葬」に断固反対!

 2022年7月22日、故安倍晋三氏の「国葬」を、9月27日〈火〉に行うとの閣議決定がされました。国会前ではさっそく翌朝から抗議行動が行われ、その後も続々と各界各地で反対声明が表明されています。戦後の首相経験者の中で、彼ほど毀誉褒貶の激しい人物はいないのではないでしょうか。通算8年余の在任中、「日本を取り戻す」の勇ましい掛け声の下、「治安立法」「戦争法」といわれる多くの悪法の制定・強行、復古的憲法への執着、経済活性化と言いつつ格差と貧困を生んだアベノミクス、人事権による官僚支配と行政・司法の私物化、国会での嘘八百答弁、強国にはへつらう一方で戦後最悪な近隣諸国との関係、果てはプーチン氏の盟友らしく核を持てと! 挙げればきりがありません。
    一方、明治憲法復活を望み、人権抑圧の戦前回帰を是とする人々には、大いに頼もしい存在だったのでしょう。   

さて国民に強制的に喪に服せよとの「国葬」とは何なのでしょうか? 
多くの未解明の疑惑を放置したまま英雄偶像を作り、政治犯罪を無かったことにする「国葬」? 
過半数の国民が反対しているのに、巨額の税金を使う「国葬」? 
カルト集団旧統一教会と、安倍氏を始めとした多くの自民党議員との癒着関係をうやむやにする「国葬」? 
改憲へのステップとしての「国葬」? 
(そもそも今回の銃撃事件の真相は解明されたのでしょうか?)  
   さて安倍さん、自分の葬式は自分のお金でおやりなさい、国民の税金でやるものではありません、と言いたい。それが嫌なら「桜を見た」メンバー会費制でいかがですか。死しても国民の中に不毛な確執を持ち込みたいのですか。
私達は人の死は悼みます。しかし嘘をつき通し、赤木さんを始め多くの人々を不幸にした人物、自分の行いを反省するどころか、頬かむりを決め込む人物を私達は許せません。そんな人物の「国葬」など認めません。全国で、アベ「国葬」反対の抗議行動を起こしましょう! 
嘘がまかり通る世を厭うならば・・。恣意的・脱法的政治権力乱用を憂うるならば、反対の声を上げましょう!             
疑惑を隠蔽するための安倍「国葬」反対!   
「国葬」を強行する自民党に抗議しましょう、各駅頭・各職場で訴えましょう。

私達は以下の行動を行います。 7月30日から毎週土曜14時から16時、 
JR浦和駅東口前広場でのスタンディングアピール行動。 プラカードを持ち思うところを思いっきり発言ください。
    2022年7月27日  安倍「国葬」を認めない埼玉県民の会 一同                                           連絡先  辻 忠男  

友人のメールを転載します。
【以下転載】

日本在住のウクライナ人でソプラノ歌手のオクサーナ・ステパニクさんの「アヴェ・マリア」を聞いて(YouTube)、戦場と化した祖国への祈りの歌と思えて涙があふれそうです。この曲を拡声器を使ってウクライナの戦場に流し続けたら、あるいはロシア兵も武器を置くのでは・・・それほどに音楽の力を感じるのです。
 
* 歌われている「アヴェ・マリア」はカッチーニの作品となっていますが、実はロシアのウラジミール・ヴァヴィロフ(1925~73)が作曲し、有名なカッチーニの名前を使ったと言われています。


戦場に音楽を・・・今日、ウクライナ西部リビウ市の街中で「音楽には団結させる力がある」とピアノを弾き出した若者がいました。ブラボー!
ヘーゲルは人間の歴史の目的は自由の実現であると書いたようですが、いまウクライナで起きていることの本質的な問題はまさに「自由」の問題だと考えます。香港の自由を奪った中国と同様の構図が見えてきます。
         実存(仮名 70代)
Ave Maria Caccini - Bing video
オクサーナ・ステパニク - Bing video
 
 
この「アヴェ・マアリア」は初めて聴きました。静かに耳を傾けると本当にすばらしい。
大音響で戦場に流す。マルレーネ・ディートリヒの「リリ・マルレーン」を連想しましたが、もっと気高い。元東欧在住(80代)


ウクライナ・ロシア民謡や歌
ウクライナ民謡 有名な歌曲 (worldfolksong.com)
ロシア民謡 - 検索 (bing.com)


この際、香港・周庭さんやデモシストの苦闘を思い浮かべて。
不協和音 - Keyakizaka46 - YouTube
 不協和音 歌詞 - 検索 (bing.com)

歌声運動関連 
  私は民青の歌はほとんど歌えます。学生時代は寮生で、民青の圧倒的な拠点。関東甲信越寮連の中心的寮でした。1年生の頃は昼は中核派の学内活動、夜は民青主催の寮生大会や色んなイベントに参加していました。で、歌声運動の色んな側面を体感してきました。
 歌声運動は、下らない「プロレタリア文学論」を体現するものから、少しはましなものまでさまざま。組織化・囲い込みでは結構成果を挙げていた。
 それはそれとして、今や少しでも「大衆的広がり」を目指すなら、共産党や全労連への関りは欠かせない。地域や職場で、彼らの歌を一緒に歌えることも「お付き合い」としてあった方が良い。ま、今の時代、元や若手の人々も時代の歌曲に染まっていることも…

そうそう。
ベ平連や新宿駅地下のフォーク広場。
ジグザグデモや角材でのゲバルト、一面では多くの人びとの参加を阻むもの、という側面は否めない。
その上、「飯炊き」やから救対や二軍に多くの女性を追い込む面があった。
私の知る幾多の女性たちが開放的な「フランスデモ」に参加し、名曲喫茶やディスコに入れ込んでいた。あるいは「政治課題」を飛び越えた色んな世界に飛び込んだ。闘いの精華は、「心」「文化」「世間」への「飢え」「飢餓感」を底から呼び起こしていた。
「全学連大会での女性たちの糾弾」は今から見ればあまりにも遅かった。
それと合わせて、いろんな「再評価」が問われそうだ。

戦争体験者の想い?
 そうそう、同じ軍歌でも「軍艦マーチ」などと違い「情けのある軍歌」や歴史になぞらえた歌も多数歌えます。小学時代のみんなに慕われたⅠ先生に、授業中にくり返し歌わせられたもの。気が付くのが「遅かった」。
 戦争体験者たちに沈黙のままこの世を去らせることを強いたのも、私たち当時の若者たちの責任でもあったと、今にして思います。体験者たちが自身で整理できないままに、「おぞましい戦場の実体験」をありのままに呟く、ということに怖気をかきたてらる。そんなことに止まっていた。「日本の反戦・厭戦の限界」とも思います。

スマップのトライアングル
が密かに流行っているとか?
https://sp.uta-net.com/movie/35862/

日々、一喜一憂です。
 ロシア軍が侵攻すれば気持ちが滅入り、ウクライナの抵抗が頑強だと聴けば光明を見いだし…
   ひとまずは全土占領·降伏が少しでも遅れて時間稼ぎが欲しい。その間に脱出する人々もいる。
負け戦のために都市爆撃や多くの死者を出さないで欲しいとも願う。
時には義勇兵についても想いを巡らす。
  日々の生活にあくせくしながら、人々のさまざまな受け止めや対応に想いを馳せ、頭痛に悩むこの頃です。東日本大震災と原発事故から3年、国際女性デー、そしてコロナ下の日常…。

 とりあえず『ピスカトール』の菅孝之さんの評を丸々転載します。
 軍事侵攻翌日の2月25日に書いたものとのことで、記事としては古いものになりますが、全体を俯瞰しながら要所要所を押さえた議論には感服します。ちなみにウクライナは時差7時間です。
 「隔靴そうよう」、その通りですね。
    『ピスカトール』がアップされたので、ひとまず最新号からダウンロードしました。
    技術的理由で欠けていた部分も回復しました。

https://piscator.hatenadiary.org/

【以下引用】… … …
2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。インチキなふたつの親ソ共和国を承認し、その「国」の住民保護を口実に武力制圧に乗り出したのだ。ロシア軍はチェルノブイリ原発を制圧した。原発施設の中で核兵器開発が行われていたというフレームアップを行い、侵略の正当性を主張しようとするのでは、という論者もいる。開戦二日にしてキエフ陥落近し、とのことだ。プーチンは既に勝ち誇った態度で、抵抗をやめれば交渉に応じるとも言っている。いくら「偏った」「ブル新」やTV局の報道とはいえ、ロシアに正義がないことを疑う余地はない。いずれヤルとは思っていたが、こんなに直ぐ、凄まじい速度でとは思わなかった。情勢の先行きは全く読めない。ウクライナ侵攻の底流には、ソ連崩壊で国際的地位低落の屈辱を味わったプーチンの領土的野心がある。この屈辱感はロシア国民の多くと共有されている。だから、これまでも、対外強硬策をとることで<威信の奪回>感を国民に味合わせ、支持率を維持してきた。今回の事態に触れて、30年前、冷戦終結の時にNATOを解体しておけば侵略の動機を与えないで済んだというネット上の意見を読んだ。それは違うと思う。解体していたら、もっと早くウクライナは制圧されていただろう。
    確かにプーチンの焦慮のひとつは、冷戦終結後のNATO拡大である。発足時12カ国だったNATOは、東欧を中心に膨張し、30カ国に達している。隣国ウクライナが加盟すれば、いよいよロシアの低迷を世界に晒すことになると考えても不思議ではない。その国に親EU政権が成立し、東部で軍事的威嚇を重ねても、大半の地域で反ロ政権支持が続き、選挙のたびに親EU政権が成立するのは苛立ちの種だったに違いない。以前からウクライナ侵攻が計画されていたのは恐らく事実だろう。没落大国ロシアの独裁政権に平和主義・理想主義の名分は通じない。ロシアでも反戦デモが起きているが、侵略賛成が多数だという自信から、警察は猛烈な弾圧を加えている。30年前を振り返るのなら、ソ連崩壊後の混迷期に独裁復活の芽を摘む「援助」ができなかったことを悔やむべきだ。
    ロシアは不思議な国で、生産力はイタリア・韓国並みなのに、軍事力は世界一二を争う。核兵器保持は世界一である。この<軍事だけの大国>の独裁者にとってのもう一つの焦慮の種は、国際社会が米中基軸にシフトしロシアが置き去りにされたことだ。
   だから得意の軍事的プレゼンスを見せつけることで「威信」回復を狙っている。占領継続はしないと言っているが、レジスタンスが激化すれば分かったものではない。恐らく占領下で国民を威嚇しながら選挙をさせ、傀儡政権を生み出すまで駐留する。侵攻計画が一挙に現実味を増したのは、昨年、無残なアフガン撤退でアメリカの軍事力の凋落ぶりが露呈した時だろう。弱体化したアメリカは中国との対峙が精一杯で、ヨーロッパに直接軍事介入する余裕がない。アメリカは早々に軍は送らないと明言した。また、軍事介入すれば中国の台湾侵攻正当化に口実を与えることになるのを恐れている。一挙に台湾進攻までゆかないにしても、中国がロシア支援の立場に立つことは明らかだ。

    またアメリカだけでなく他のNATO加盟国にも軍事介入の力はない。NATOは冷戦終結後一度だけ、コソボに報復空爆をしたことはあるが、今回はロシアとの経済的結びつきの違いから足並みが揃わないだろう。EU幹部の会議で決定されるのは経済制裁だけである。プーチンは欧米の弱味を織り込んで侵攻した。それにしても、この事態に対して、日本・日本人に何ができるのか。隔靴掻痒感は半端ない。国も民間も、負傷者に対する医療支援はするのだろう。レジスタンスが続けば、後方支援が可能なのだろうか。遠隔の戦地から難民が日本にたどり着いたら亡命受け入れにだけは政府は責任を持たなくてはならない。何をするにしても、忸怩たる思いに駆られるのは、前提が弱体化した「帝国主義列強」の、なけなしの力を振り絞ったウクライナ支援によるロシアの介入抑止に期待するコミットにだけ、現実味があるということである。ことほど左様に旧社会主義大国の独裁政権は邪悪であり、それに「理解」を示す自称「社会主義」国家は邪悪なのである。依拠すべき「よりまし」の勢力は世界のどこにも存在しない。
    最後に、Facebookに流れてきたケニアの国連大使の発言の一部を紹介しておく。「帝国支配の後に形成され、破綻あるいは後退したあらゆる国には隣国の同胞との統合を渇望する人々が存在することを知っている。当然のことだし、理解できる。(中略)しかし、ケニアは、そのような願望を力で追求することを拒否する。(中略)われわれは、人種、部族、宗教、あるいは文化を含むいかなるものが基礎となっているにせよ、領土回復主義と拡張主義を拒否した。われわれは、今日、それを再び拒否する。」
            2月25日記菅 孝行

 
















ろロシのろろろ

--- piscatornews@yahoo.co.jp wrote:

TO:皆さま

 「今、憲法を考える会」の通信「ピスカートル」第58号ができました。以下のサイトからダウンロードできます。https://piscator.hatenadiary.org/紙ベースの通信が送られていない方は、住所をご連絡いただければ、送付いたします。ご意見・ご感想などあれば、お寄せ下さい。この通信は転送歓迎です。お友達・お知り合いに、どんどん広めて下さい。よろしくお願い致します

映画『きみが死んだあとで』オフィシャルサイト (kimiga-sinda-atode.com)


クリックすると映像です。

  • www.kimiga-sinda-atode.com

    山﨑博昭が死んだあとで、友だちは、先輩は、同志は、彼の死を生の一部としていかに存在したのか。14人の登場人物も、この一節が決めさせました。もっとも深く山﨑博昭の死を内包して人生を送ってき …

  • https://eiga.com/movie/94500

    2021/02/02 · きみが死んだあとでの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。1967年の第一次羽田闘争で亡くなった18歳の青年を取り巻く人びと ...


  • ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』応援団募集中
    チラシ配布、ポスター掲示、チケット販売、是非ご協力下さい
    2021年4月より東京・ユーロスペースほかで全国劇場公開される『きみが死んだあとで』。第一次羽田闘争で死んだ一人の若者と残された人々。青春だけが武器だった、あの“異常に発熱した時代”は何だったのか 。記憶と歴史のはざまで生まれた、伝説の学生運動を3時間20分に圧縮した長編ドキュメンタリーです。本作をより多くの方に観て頂くため、本作を応援して下さる方を募集しております。チラシ配布、ポスター掲示等で是非ご協力頂けると幸いです。
    また、全国の主要劇場で使用できるお得な「全国共通前売券」をご案内しております。本作品を一人でも多くの方にご覧頂くために是非お力をお貸しください。何卒よろしくお願い致します。
    ご協力頂く内容
    チラシ配布、ポスター掲示、チケット買取・販売でご協力頂ける方は、下記メールアドレスまたは住所までご一報下さい。詳細なご案内をお送りしまして、内容ご確認でき次第、すぐに郵送致します。ご不明点ありましたら、下記までお問合せ下さい。
    ◎チラシ(B5サイズ)
    ◎ポスター(B2サイズ)
    ◎前売券(2,000円)
    ※窓口一般2,500円のところ、前売券は2,000円で販売しております。ご精算方法等の詳細はお申し込み後に別途お知らせ致します。

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