②X(ツイッター)が読めない人向け、慣れない人向けに、処理しています。共に11月時点での投稿です。(無断再投稿)
【7月提起ー8・28文書ー9・4事件のそれぞれの意味】
…であれば7月提起を読んで「しかしマユミは『元気』だね〜、うちはレスで…」などとからかう態度を取り続けていた〇同志が自己批判しなければ「7月提起と8月28日文書は同じ」ということと整合性がつかないし、「8月28日文書くらい簡単になるまで痴話喧嘩だと思ってました」と言ってるも同然では?
7月の文書に書いたことを、8月28日文書で「事件」のようにまで大幅要約してようやく党は私が何かを訴えていることを認識して、一気に叩き潰しに走った。 私が吐きながら書いた7月文書を読んだ女性同志Mの感想は「ほっこりする」、Rは「赤裸々だね」…私が問題にしている「水準」はただこれです。
沖縄米兵による少女暴行事件と闘い、デモ飛び入り参加者による強姦未遂事件と闘い、運動指導部による性暴力事件と闘い、党は女性差別「事件」と闘うことはできた。しかし女性に育児と家事を押し付けて男性活動家が活動に専念している現実や、女性の性的客体化などの日常的課題を切開できていなかった。
「人間として生きようとすれば革命の中にしか自己の生きる道を見いだしえないことを自覚し決起した女性が、革命運動と革命組織そのものの内部で、革命の名によって女性が差別され蔑視され、自らもまた、その中で敗北的意識に甘んじてきたことへの自己批判を踏まえた糾弾の開始によって、(略)
未来・第426号 五井洋子さんの投稿
5面 投稿 五井洋子
http://miraikakukyodo.jp/mirai25426.htm全学連矢嶋委員長声明を読みました。非常に感銘をうけています。そして同時にかつて共に革共同に所属して党を作ってきた者として、私たちもまた責任を負っていることを踏まえなければなりません。
性的関係の人間的再生と奪還は、女性解放の基底をなすものであり、またマルクスが言うようにその社会が人間的であるか否かを測る基準でもあります。
矢嶋委員長は、差別が被差別者においても内面化することから、そのかかった靄を視界から取り除くことが必要であると自覚されています。そして連れ合いの石田さんへの差別糾弾と獲得に起ち、同時にこの闘いを党組織の差別的現実の変革をもめざす立場で貫こうとされました。全く正しい立場だと思います。
差別への糾弾は、あくまでも糾弾者の主体的格闘を原点に進んでいくものです。
そしてその共有を政治局と諸同志に求めたことは全く正しい事でした。それは、多忙な活動の中で強いられる「無家庭状態」をいかに克服していくのかという問いでもありました。
革共同が長年念仏のように唱えてきた「家族問題の革命的解決」の空疎さが今さらながらあぶり出されたともいえるでしょう。性的関係、家族関係形成への格闘を放棄するのかという、連れ合いの石田さんに向けられた矢嶋さんの人間的な怒りと問いが原点でした。
そしてそれにとどまらず、差別的現実の上に安穏と開き直る男性指導部、政治局への突きつけでもありました。
ところがあろうことか政治局は糾弾主体当該である矢嶋委員長を無視し、彼女の頭越しに「石田反革命」規定をおこない、石田さんの除名・追放で事足れりとしました。自らが問われていることに頬かむりして開き直り、「正義の鉄槌を振りおろした者」として登場しようとしたのです。最もあくどいのは、矢嶋同志とその糾弾そのものをつぶそうとしたことです。
こうして革共同は、政治局を筆頭とする組織内の女性差別を、時に政治主義的に利用もしながら温存してきました。野島、中野・・・性暴力・性差別加害者の名は枚挙にいとまがありません。党組織とその成員も、帝国主義の女性差別と無縁ではなく、絶えず自らを問い返さなければ腐敗の沼に転落していくほかはありません。
政治局は、学生たちに差別襲撃を繰り返すに至っています。そして、この官僚組織は、常に政治局への無批判な追従者を作り出します。関西地方委員会の我が元同志たちもまた、「石田反革命」という無内容な旗印の下、学生たちに襲いかかり、相も変らぬ醜態をさらしています。どこまでも政治局と一緒に泥舟に乗って沈んでいくのでしょう。
全学連の今回の決起は、ある日突然起こったのではなく4・28差別事件への当該を中心とする格闘、真摯な総括の過程をさらに一歩進めようとする主体的闘いの中で生じました。
そこで形成されてきた女性解放・人間解放を目指す思いと確信はかけがえのないものです。それが政治局の欺瞞を見抜き批判し乗り越えるまでに至っています。私たちはこの階級的財産である矢嶋委員長と全学連の闘いを守りたいという思いでいっぱいです。
革共同は、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を元に「女性解放理論」を創ってきました。
しかし、女性差別の現実の中で、多くの女性が苦しみ起ち上がっていることには冷淡でした。
大衆運動を「帝国主義打倒がない」「革命がない」となで切りし、そこから学ぼうとはしませんでした。
例えば、あれほどの高揚をみたリブ運動は「便所からの解放」を掲げ、「母でも便所でもない私を生きる」という人間宣言ともいうべき内容で女性解放の新たな地平を切り開きました。
優生保護法改悪阻止闘争の中で障がい者たちから批判された「『産む産まないは女が決める』というスローガンは障がい者差別だ」という問いにも、今から思えば不十分なところもありますが、必死に受け止め答えようとする立場を持っていました。しかし、革共同は女性たちの苦闘に無関心で悪罵を投げつけるだけでした。
そもそも革共同は大衆運動に対しては、「党の同心円的拡大」論という利用主義でしか接近せず、革命の主体が大衆自身であるという根本を否定する傲慢な党至上主義、一種のエリート主義また代行主義に陥っていました。ここから統一戦線も自己利害だけに基づく極めて貧弱なものでした。
「無謬の党」などはありえません。永い歴史をもつ差別を構造的に組みいれた差別社会である帝国主義国家の下で生きている以上、私たちは例外なく差別の影響を色濃く持っています。
そして「革命を起こし帝国主義国家権力を打倒したら自動的に差別はなくなる」というのは嘘です。
権力奪取は被差別者の解放の前提条件を作るものでしかなく、被差別者当該を先頭とした人類の長い闘いの全過程を経て初めて実現できるものでしょう。
この時、被害者、被差別者の加害者への糾弾を軸としながら、加害者の獲得の闘いもまた重要です。
全てを除名・追放的あり方で解決できないことであるからこそ、民間の心ある専門家たちが、加害者のケアをしその再生への道を支えているのです。
性暴力事件の再発を防ぐ有効な方法として性教育とともに世界各国で実践されています。それでないと極端にいえば、人類の半分である男性のほとんどを抹殺しないといけなくなるでしょう。
組織による権利停止等の一定の処分は必要な時があるかもしれません。しかし、核心は少なくとも反省の立場に立つ加害者の再生に、組織は自らも生み出した責任があるものとして同質の自己批判をして、関わり続けることではないでしょうか。
私たちもまた自らの組織で起こった性加害の加害者と党の自己批判の渦中にいます。被害者にいまだ謝罪できていない段階で公表はできません。しかし必ずや解決する覚悟です。
今、高市政権の下で日本帝国主義はすさまじいスピードで侵略戦争に突き進んでいます。先日タイ人の少女が性奴隷として人身売買されたことが、本人の必死の助けを求める言動によって明るみに出ました。
これが日本帝国主義とその下で蠢く日本人男性の性暴力の実態です。植民地人民を虫けらのように扱い、性奴隷としてほしいままに強姦する日本人男性のおぞましさは、戦前の皇軍と何ら変わりません。戦争と女性差別の嵐に抗し、階級性を守らなければなりません。
矢嶋委員長と全学連の方々の闘いに心からの拍手を送ります。(11月8日、記)
