カテゴリ:☆☆社会と政治 > 政治的社会的な思いと発信

★★メモ・イラン侵略戦争での造語に違和感
【註】少しだけ補充しました。


「体制転換」という新たな造語が横行している。「体制転覆」!!
「イランの体制からの切迫した脅威を取り除き、米国民を守る」

「東亜の平和・5族協和」と同じ。「転進」「玉砕」 「終戦」に通じる。
 「これは排外主義ではありません」という前置きや「男女別」にも通じるが…。
「言葉の綾」と放置できない。先ずは切り口としても。

「交渉中」に交渉のための会合を。「リメンバー・パールハーバー」どころじゃない!

★トランプ体制の危機。トランプ関税や移民排斥も。頂点で失速。
 「新孤立主義」との「整合性は」?「戦争の計画性が無い」とはドイツの弁。
★中東への「目線」
 欧米=キリスト教国家のムスリム観、関心は石油だけ?
 イスラエルロビーと「最終戦争」観。……… ……… ………

今回は歴史上のイラン革命に絞ります。
ベトナム革命(米帝のベトナム失陥)以降の世界史的激動を象徴する、同年のソ連によるアフガン侵攻と並ぶ「事件」です。

 以下は、AIとの応答による結果。
……… ……… ………
AIによる回答 ()1979年イラン革命と二つの武装組織

 1979年イラン革命は、パフラヴィー朝の崩壊とイスラム共和国の成立をもたらした20世紀後半最大級の政治的転換点です。社会不満、宗教指導者の動員、経済停滞、独裁化、そして反米感情が複雑に絡み合い、1年余りの大規模な抗議運動へと発展しました。

革命の背景:なぜ1979年に爆発したのか

  • シャー(モハンマド・レザー・パフラヴィー)の権威主義化 秘密警察SAVAKによる弾圧、政治的自由の欠如が広範な不満を蓄積。

  • 急速な近代化と社会の分断 「白色革命」による土地改革・女性参政権などは都市中間層や宗教勢力との摩擦を生み、伝統的価値観の動揺を招いた。

  • 経済停滞とインフレ 1970年代後半の石油景気の失速が都市労働者・学生の不満を増幅。

  • 宗教指導者ホメイニ師の存在 1960年代からシャーを批判し、1978年以降は国外からカセットテープなどで思想を拡散。

  • 反米感情の高まり シャー政権が「米国の傀儡」と見なされ、ナショナリズムと宗教的反発が結びついた。

革命の主要な流れ(1978–1979)

1. 1978年:抗議の連鎖

  • 1月、新聞記事をめぐる宗教保守派の抗議が発火点に。

  • 夏から秋にかけて、全国的なデモ・ゼネストが拡大し、政権は統治能力を喪失。

2. 1979年1月:シャー国外逃亡

  • 1月16日、シャーは「休暇」を名目に国外へ。実質的な政権崩壊の始まり。

3. 1979年2月:ホメイニ帰国と政権転覆

  • 2月1日、ホメイニ師が15年ぶりに帰国。数百万人が出迎えた。

  • 2月11日、軍が中立を宣言し、パフラヴィー朝は崩壊。革命勢力が勝利。

革命の結果:何が変わったのか

  • イスラム共和国の成立 1979年3月の国民投票で王制廃止、4月にイスラム共和国を宣言。

  • ホメイニが最高指導者に就任 新憲法(1979年12月)により、宗教指導者が国家の最終権威を持つ体制が確立。

  • 米国との断絶と地域秩序の変化 1979年11月の米大使館占拠事件で関係は決定的に悪化。中東の勢力図が大きく変動。

  • 社会のイスラム化 法制度・教育・文化がイスラム法に基づく方向へ転換。

歴史的意義:なぜ世界史上重要なのか

  • 世俗独裁の崩壊と宗教革命の成功という稀有な事例。

  • 中東における反米・反西欧の潮流を強化。

  • イスラム主義運動の国際的台頭に影響。

  • イラン・イラク戦争(1980–88)など地域紛争の引き金にも。



    革命初期の武装闘争

    革命初期の武装闘争は、1978〜79年の大衆蜂起と並行して、既存の地下武装組織が「王制打倒の最終局面」と捉えて活動を再活性化させた時期として理解できます。とくに中心となったのは、マルクス主義ゲリラ(Fadā’iyān-e Khalq/OIPFG)と、イスラム左派ゲリラ(MEK/ムジャーヒディーン・エ・ハルグ)でした。

    武装闘争の位置づけ:革命の「前史」と「初期局面」の連続性

    1970年代前半から続く都市ゲリラ闘争は、1978年の全国的抗議の爆発によって大衆運動と結びつき、政治的影響力を急速に拡大しました。

    • Fadā’iyān-e Khalq(OIPFG)は1971年のシアカル蜂起以来、都市ゲリラとして王制打倒を掲げてきた組織で、革命期には約3,000名規模に達したとされます 。

    • MEK(ムジャーヒディーン)はイスラムとマルクス主義を融合した独自路線で、1970年代に米軍関係者殺害などを行い、革命期には反シャー闘争の一翼を担いました 。

    これらの組織は、革命初期において「武装闘争の担い手」から「新体制の方向性を争う政治勢力」へと変化していきます。【補】私自身は大いに鼓舞された

    主な武装組織と革命初期の活動

    1. Fadā’iyān-e Khalq(OIPFG)— (フェダイン・ハルク)
    マルクス主義ゲリラの最大勢力

    • 背景:学生運動・都市中間層の急進派から形成され、ラテンアメリカのフォコ理論の影響を受けた都市ゲリラ組織。

    • 革命初期の動き

      • 1978年の抗議拡大に合わせて武装行動を再活性化。

      • 1979年2月の革命勝利後、治安空白の中で武装拠点を維持しつつ、政治組織化を進めた。

    • 特徴

      • 王制打倒後は「武装闘争から大衆政党への転換」をめぐり内部対立が発生し、1980年に多数派・少数派へ分裂する(これは革命後の展開)。

    2. MEK(ムジャーヒディーン)— イスラム左派ゲリラ

    • Fadaiyan-e-Khalgh Guerilla Women | Download Scientific Diagram
    • Marighella e os Fadai iranianos - Parte 1 de 3 - Disparada
    • Anti-Revisionism in Iran – Index Page
    • Program 1978 Iranian New Year Celebration Lansing MI Nowruz Fedai OIPFG ...
    • 背景:イスラムと社会主義を統合しようとした独自思想を持ち、1970年代に反シャー武装闘争を展開。

    • 革命初期の動き

      • 1979年の革命勝利後、ホメイニ派と協力しつつも、急速に政治的主導権をめぐって対立が深まる。

      • 革命初期は武装組織としての力を保持し、地方での治安維持や革命委員会との協働も行った。

    • 特徴

      • 1980年以降、ホメイニ体制と全面衝突し、再び武装闘争へ回帰する(これも革命後の展開)。

    革命初期の武装闘争の実態:何が「武装」だったのか

    革命初期(1978後半〜1979前半)の武装闘争は、以下のような性格を持っていました。

    • 都市ゲリラの残存部隊による散発的行動 1970年代前半のような計画的攻撃ではなく、革命情勢に合わせた限定的な武装行動が中心。

    • デモ防衛・治安空白の補完 革命末期には警察・軍が機能不全に陥り、ゲリラ組織がデモ防衛や地域治安に関与する場面があった。

    • 武器庫の解放と民衆武装 1979年2月の軍崩壊時、兵営・警察署から大量の武器が流出し、ゲリラ組織と民衆が武装化した。

    • 政治的主導権をめぐる「武装勢力の競合」 革命後の国家再編において、左派ゲリラとイスラム勢力が影響力を競い合った。

    なぜ武装闘争は革命の主流にならなかったのか

    • 大衆運動の圧倒的規模 数百万人規模のデモとゼネストが革命の主力であり、ゲリラは補助的役割に留まった。

    • ホメイニ派の圧倒的求心力 宗教指導者の権威が大衆を動員し、武装闘争よりも「道徳的・宗教的正統性」が革命の中心となった。

    • 革命後の国家権力の再集中 新体制は革命防衛隊(IRGC)を創設し、左派ゲリラの武装力を吸収・排除していった。

    歴史的意義:武装闘争は何を残したのか

    • 革命の「急進的側面」を体現し、王制打倒の象徴的役割を果たした。

    • 革命後の政治対立の前史となり、1980年代の左派弾圧・内戦的状況の伏線となった。

    • イラン政治文化における「殉教」「自己犠牲」イメージを強化し、イスラム共和国のプロパガンダにも影響を与えた。

    革命初期の武装闘争について、特定の組織(例:Fadā’iyān、MEK)をより詳しく知りたいのか、あるいは都市ゲリラ戦術そのものの分析を深めたいのか、どちらに関心がありますか?

    • History of the Mujahideen-e Khalq (MEK)
    • Storie di Storia / 82. I Mojahedin-e Khalq iraniani - la Repubblica
    • Who are the Iranian dissident group MEK? - BBC News
    • The MEK: From Revolutionary Group to Imperialist Asset

  1. グローバル Web アイコン

    《前橋市長選》小川氏が自民の4割に食い込む 「子育て …

    2024年2月4日 · 群馬・前橋市長選での有権者の投票行動を探るため、上毛新聞は2~4日の3日間、出口調査を行い、計434人から回答を得た。 期日前投票所2カ …




共産党の論調ですが
  1. グローバル Web アイコン

共産党、棚橋氏の擁立について
 小川晶前市長の辞職に伴う前橋市長選(2026年1月5日告示、12日投開票)をめぐり、共産党系の市民団体「民主市政の会」は9日、新人の元市議で同党前橋地区委員長の店橋世津子氏(64)の擁立を発表した。無所属で立候補し、共産党が推薦する予定。市長選では新人で弁護士の丸山彬氏(39)が無所属での出馬を表明しており、選挙戦が確実となった。
市街地再開発事業を見直し
 店橋氏は記者会見で、市長選の最大の争点を「中心市街地の再開発事業」と強調、「220億円もの市税の投入を市民は望んでいるのか」と事業の見直しをマニュフェストに掲げた。
 前橋テルサ、群馬県民会館の存続、上下水道料金の値上げ中止、大学、専門学生向けの給付型奨学金制度創設も盛り込んだ。
 小川氏については学校給食の無償化を評価する一方、上下水道料金の値上げを批判。辞職につながった既婚の市男性職員とのラブホテルでの密会については、「市民の利益が損なわれた」と不快感を示した。

前回は小川氏を支持
 民主市政の会は前回、2024年2月の市長選で独自候補を取り下げ、小川氏を実質的に支持した。
 小川氏が既婚の男性市職員とラブホテルで10回以上にわたって会っていた問題が発覚すると、小川氏に対して公開質問状を送り、真意を質した。小川氏からの回答書には不満を示した。
 共産党は前橋市議団の中でいち早く小川氏に対する辞職勧告決議案を議長に届け出るなど、厳しく対応していた。
 店橋氏は前橋市立女子高―群馬県立保育大学校卒。 保育士を経て2001年の市議選で初当選し1期務めた。2020年の市長選に出馬した。共産党前橋地区委員長。
  共産党は前橋市議団の中でいち早く小川氏に対する辞職勧告決議案を議長に届け出るなど、厳しく対応していた。……… ……… ………

しがらみと田舎
 
前橋市議会を2分する中曽根系と福田系(ともに元首相で故人)…
「高志会」最大会派に 6人増、勢力逆転 前橋市議会 /群馬
毎日新聞 2025/3/5 地方版

 2月の前橋市議選後初の同市議会定例会が4日開会した。保守系二大会派のうち、改選前に第2会派だった「前橋高志会」が7人から13人に増えて最大会派に躍り出て、最大会派の「前橋令明」は10人から9人に減って第2会派になった。令明は山本龍前市長を支持する与党派として発足した経緯があり、山本氏が市長選で落選したのが一因との見方もある。

 両派は、保守分裂選挙となった2020年の市長選で、最大会派の旧新政まえばしが分かれて結成。故福田赳夫元首相系の山本氏支持議員が令明、故中曽根康弘元首相系で、次点となった元自民県議の岩上憲司氏の支持議員が高志会をつくった。24年の市長選では野党系の小川晶現市長に対し、両派とも山本氏を支援したが、岩上氏の支持者の一部が小川氏に流れたという。
 【ブログ注】ここでは小渕派(元首相)などは歯牙にもかけない

県議会議長は1年ごとにたらい回し
  戦後(1947年=28代~2025年=99代)78年に72人 50年代以降は毎年定期に交代。
  ま、田舎でなくとも杉並ほかの都会でも「みんな同じ」。

「村長の仕事は、票を集めて、国や県の補助金をもらって来ること」
 だいぶ前ですが、友人の父親の、村の有力者に伺ったこと。当時は現役の中核派だった私を知りながら、率直に、飾らず、温かく応接してくれました。
 「では、共産党のムラでの役割は?」とも質問してみました。
 「うん、青年団と同じかな?」
 「元気よく、年寄りに文句を言う。これは大事だね」
 「はー??」…。
 そういえば、私の父の兄は、農協の専務でした。戦後の、農村も荒廃しきった時期に、荒れ果てた「部落」の用水路を再開するために、若者たちで青年団を組織して、難工事をおして「功績」を果たしました。真田幸村の郷の真田町から数キロの○○村、今では上田市になりましたが。

 【注】つい少し前までは、この田舎では「集落」のことをフダンは「部落」と呼称していました。

 青年団は、公務員や教師を除いた「若者組」だったとか。当時では、中卒・高卒の、農家や零細の自営業が中心だったようです。今でも地元に残るのは、そんなオトコたち。今でも農家の最大の懸案の一つは「嫁不足」とか?
若い女性はより多く、都会に出ていくのが常らしい。
 
 「農村の近代化を阻むもの」は「社会的理由」だけでなく、色々ですね…。イナカの、今では高齢者になった同級生たち、そして私の世界では、「親しい同級生」や「いっしょに遊んだ近所の元悪ガキ」「にも入らなかった人々」が、前橋を変えた。……… 感無量。

  小川再選市長がふるさと・匝瑳市の市長選挙に応援!
 もちろん反・現職で。「ひたすら謝罪」の「ミソギ」を終えて、いざ、真正面から!!

わが前橋市民に快哉・小川晶さんの再選

改訂版 図表を改定し、増やしました。論評も一部改めました。




保守の地盤を突き破った前橋市民

小川晶さんの「再選」を果たした前橋市民に乾杯です。

元前橋市民としては、この1年の中でも気分がスカッとする話。


前橋市長(群馬県)    
      当 62893 小川  晶 無前
  52706 丸山  彬 無新
  8150  店橋世津子 無新(共産)
  2100  高橋 聡哉 無新
   495  海老根 篤 無新    〔共同〕 118344

【注】投票率は47.32%で、2024年の前回選を7.93ポイント上回った。

市によると、任期は13日から、1期目の残り282月まで。


【参考までに

202424日執行前橋市長選挙の得票結果

60,486  小川 晶

46,387    山本龍 …投票率 39.39% 107千票
前回事実上に支援し、今回は離脱した共産票は約8千。

つまりは新たに投票した人の内、1万票を上積みした。   



マスコミも県知事の山本一太も、「ラブホ」うんぬんとくり返しでした。

 ひとまずは「ラブホ」の大洪水に多くの前橋市民が、「そんなの関係ねえ」と決めた、という事でもありそうです。

 「不倫って、望ましくはないが、『社会的に責められるべきもの」、ではない」というのが大原則。

 

 「ラブホ市長」「エロイ女性市長」などの言葉も溢れたようですが、その点では上州空っ風の風土や「判官びいき」が「逆風」への反撃を呼び起こしたのか?

 「アッシには関係ござんせん」 「オトコはヤクザ、女は『カカア天下』」。たくましく『働き者』で手収入を持つ女性たち、と言い直しましょうか? 

 昔から「マユ作り➡生糸=商業化」、桑畑の広がる近代の歴史の風景。町中には製糸工場の三角屋根と煙突がニョキニョキ。それが消えた今も、どっこい、根付いている??

  最後まで「男女の関係」を否定し続けたことが大事だった気もします。

 ことがここに及んだ時、お相手の家族を考えた時、「ウソを貫く」のは、「最後の務め」。

 あえて言えば、「不倫」はお相手のこと。小川さん自身ではない。


 「性的関係を白状しろ」と攻め続けた保守派陣営への女性・市民の反発が勝ったのではないか?

 何よりも前回市長選挙で、保守王国の壁を突き破ったことは、記憶にも新しい。

「それ見ろ女が…」のおっさんたちの攻撃は、そのまま、彼女を押し立てた女性たちへのバッシング。
  「まがりなりにも県都・前橋」、保守の逆風には、名物・空っ風で応酬した。

 
 また、任期中の子育て支援策などの実績は大きかったらしい。
 学校給食の無償化などの福祉政策…。


 キーワードとしては

  ㋑「もう許そうよ」
  選挙戦の中盤に、小川候補をヤジリ倒そうとする敵対派の嵐に対抗して、この声が生まれ、やがて圧倒。

  選挙戦が始まってから、小川さんは中小の集会を開いて、たった一人で「謝罪行脚」。言い訳もせず、ここぞとばかりの反対陣営の罵倒の嵐に耐えました。

 そして…。投票日に向かって、「もう許そうよ」の声が急速に広がった。街角で、ネットで?

 
女性、とくに子育て中の女性の支持。「学校給食」の実績

 合併合併をくり返して、前橋市は「ドーナツ化」がいっそう進んでいる。


  ㋩保守派の動きは鈍かった

 群馬の保守をもう80年も2分する福田・中曽根。
ともに元の中選挙区では「群馬3区」。(~96年)

「平成の大合併」以来はともに高崎市だが、小選挙区では、高崎市を分区して、周辺地域を含めて分け合ってきた。

  ここでは「属領」の前橋市、双方が互いにけん制し合っているとのこと。「足の引っ張り合い。」小渕や競艇のドンの笹川はここではらち外。

 加えて、今回の保守は、候補者の「タマ」が悪かった、とか。

 小川批判では「給食の無償化なんてどこでもやっている」とかの賜ったらしい。でも、歴代の自民党市長は実際には振り向きもしなかった。

 あえていえば、財源豊富な東京都では、「余裕で」やれても、地方都市で同じことをやるには「革命」が必要だった、ということか?


㋥共産党の離脱も有ったが…。
 
 他方で、前橋市長選挙では、前回小川さんを担いだ共産党が離脱。

  「万年候補」の棚橋氏を推して、惨敗。ま、前回参院選比例での得票とほぼ同じ、らしいから、言い過ぎなのかもしれないが。

  ただ、ここ一番の「選挙」としては、市民の想いを読めず、取り込めず。「素人」に後れをとった?市政では「小川与党」の地位を自ら失った…。

  

㋬「小川陣営の戦略の勝利」という深読みも一部で語られています。(前述)

  
㋣もとはと言えば、前回の小川さんの勝利は、官製談合事件や「政治とカネ」などの相も変らぬ市政・県政への怒りだ。「現職の強み」・「自公連携」に対する積年の怒り。

 変らぬ政治を変えようという人々の心が形になった。

【参考までに

25720 参議院比例代表選挙
最新の国政選挙から。比例区の政党・個人を合わせた得票数です。
下のバーをスクロールすると全部見えます。

「小川系」はひとまずは、支持を受けた連合系の立憲・国民とれいわ・社民の合計。

「丸山系」は、自民、参政、公明、保守、維新、「みらい他」の合計。
  「みらい他」は社民未満のごく少数政党。


得票数

自民

   参政

   立憲      

  国民

  公明

  れいわ

    共産

   保守

   維新

   社民

  みらい他

 合計

  小川系

 丸山系

前 橋市

35,022

21,546

18,385

  16,457

11,516

9,397

8,431

6,167

5,376

2,996

4,492

   139,785

  58,751

  72,603

県計

218,422

  129,012

 104,437

 96,991

 75,038

  58,078

  41,243

 35,192

 29,730

1 7,158

   866,410

841,638

 

 


得票%

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前橋

25

15

13

12

8

7

6

4

4

2



41

51

以上の数字からすると、小川晶さんの「基礎票=組織票」は丸山より1万少ない。

……… ……… ………


【マスコミから】

日本経済新聞

https://www.nikkei.com › article

前橋市長選挙、小川晶氏が初当選 自公推薦の現職破る(前回選挙の記事から)

橋市長選は4日投開票の結果、無所属新人で野党系の元群馬県議、小川晶氏(41)が、4選を目指した無所属現職の山本龍氏(64 ...

bin › news

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  小川晶氏再選 擁護の女性増えた訳

 · 4 日 · on MSN

出直し前橋市長選挙、小川晶氏はなぜ勝利できたのか… 自民支持層の4割近くが小川氏支
JBpress · 10

ラブホ密会”小川氏の前橋市長再選で見えた自民党の弱点 ...

アエラ 小川晶 に関するニュース

bing.com › news


ラブホ問題”の小川晶前市長が再選 批判に大きく振れた女性たち ...

前橋市の小川晶前市長(43)が出直し市長選で再選した。カギを握ったのは女性有権者たちだった。
再選が決まり、笑顔をみせる小川晶氏 *** 「私は失敗をしてしまって迷惑をかけた。完璧なリーダーではなかったかもしれない。でも、誰よりも失敗することのつらさを知っている。助け合う社会の大切さを知っている。そんなリーダーになれると …


  · 9 日 · on MSN 【前橋市長選ルポ】小川晶前市長の「優勢」報道は本当か ...

上毛新聞社https://www.jomo-news.co.jp › articles

《前橋市長選》小川氏が自民の4割に食い込む 「子育て …

202424日 · 群馬・前橋市長選での有権者の投票行動を探るため、上毛新聞は24日の3日間、出口調査を行い、計434人から回答を得た。 期日前投票所2カ …




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「現代の理論」

1970年代障碍者解放運動の私的総括(上)」筑波大学名誉 ...

1970年代障碍者解放運動の私的総括(下)」筑波大学名誉 ...


1.学園闘争から諸課題へ

2.京大難聴問題研究会の結成

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会(以上本号)

4.関西テレビ「橋のない川の世界」(以下次号)

5.「誇り」とは何か 

6.障碍者であることは誇り得るのか

本稿は、2021年2月13日、茨城県つくば市所在の「つくば自立生活センター ほにゃら」が主催した職員研修「自立支援を自分ごとにするための連続レキシ講座」の第2回として実施されたものに、大幅に加筆修正したものである。「ほにゃら」は千本が筑波大学で学生諸君とともに30年近く継続した「筑波大学部落差別問題研究自主ゼミナール」の初期の参加者が、知人たちとともに設立し、現在、NPO法人として手広く、堅実に障碍者の自立生活の後ろ盾として活動している。若いスタッフが多く、彼らは障碍者とかかわることを賃金労働と捉えているが、ある学生スタッフが、1970年代に「健全者手足論」が唱えられたことに関心を持った。

「ほにゃら」設立スタッフは50歳代にさしかかり、かつての障碍者解放運動と現在の賃労働としての介助の双方を知っているが、若者たちにとって、障碍者解放運動は想像力の外にある。そのため、「ほにゃら」開設メンバーが、わたしに1970年代の経験を語れと企画を持ち込んだのである。そのため、1970年代の京都の運動の総括どころか、スケッチにさえなっていないが、障碍者の自立生活をめぐる状況は大きく変化しており、当時の一活動家が何を考えていたのかが、若者たちの参考になればと引き受けた次第である。なお当日は6日、13日の2回とも、zoomで数十名が参加した。(筆者)

自分と障碍者との関係を自分ごととして考えるということが、今回設定されたテーマです。そこで、タイトルを「わたしと障碍者と差別」としました。「わたし」、「障碍者」、「差別」という三つの言葉について、ひとことずつふれておきます。

「自分ごと」ということは、理屈だけではなくて 自分自身のことをさらけ出 すということになりますから、そこのところは、 ご容赦いただきたいと思います。

「障碍者」の「碍」、この字を書いているのは、 平仮名で書くよりも意味が通るのかなと思ったり、ただ、「障碍」が「健全者」に近づくことを妨害しているということになって、この「碍」を書くと発達保障理論になってしまうのかなと思ったり、迷ってはおります。

差別ということばは、さまざまな意味で使われます。どの使い方が正しいということはないのですが、多様であることによって、開き直りや茶化すことに使われたりもします。 差別とは何かということの捉え方が、人によっておおきく違うということでもあります。たとえば、老人差別。実際に、老人差別はあるのですが、議論をする場合や差別の原因を探究する場合には、前提としてことばの意味を限定しなくてはなりません。差別を「本人の責に帰さない属性を理由に特定の人物や集団が生涯にわたって不利益を受け続けること」とすれば、不幸なことがなければ、誰でも老人になるからここで限定する差別には当てはまらない。

いじめはその責任が全面的にいじめる側にあるという面は差別と共通していますが、転居や、いじめる側の恣意によって、突然いじめの対象でなくなる場合があるので、差別とは異なっています。いじめの「きっかけ」をいじめの原因と混同して、「いじめの原因はいじめられる側にもある」という人もいますが、どのようなきっかけであったとしても、それを理由にいじめることは許されません。「いじめのきっかけ」と「差別の原因」の違いについては、深い考察が必要でしょう。

抑圧や収奪も差別とは関連しますが、別の概念です。資本家による労働者の搾取も差別とはいいません。あえていえば、弱肉強食は差別ではありません。個人や集団が持っている資質を、別の不当な理由で評価されないことが差別です。もちろん、弱肉強食が良いといっているわけではありません。だから反差別と反抑圧のふたつの闘いが必要なのです。

そのように差別の意味を限定すると、差別に含まれるものは、民族差別、部落差別(わたしは「部落間差別」と言っています)、女性やセクシュアルマイノリティに対する性差別、そして障碍者差別が主なものです。 人種差別ということばがありますが、学問的には、今、人種という概念が存在しませんから、とりあえず民族差別にふくめておきます。

他にもたとえば、HIVウイルスキャリアに対する差別のように新しく生まれる差別もありますが、科学の発展によって解消する場合もあります。

もうひとつ、区別と差別の問題です。江戸時代には、区別と差別のことばの意味の違いは、ほとんどありませんでした。区別と差別ということばが別の意味を持ってきたのは明治維新以降です。江戸時代の身分制と明治維新以降の差別は同じなのか、違うものなのかという議論も続いてきました。江戸時代は、平人(武士や公家でも、「賤民」でもない人びと)と被差別民は異なった身分として差別的に共存してきましたが、明治維新の、いわゆる「解放令」、賤民廃止令によって「身分、職業とも同一」だとされたことによって、一般の人々が「自分たちをあいつらと一緒にするな」と差別するようになったのが 明治以降の差別です。

現在でも区別することが差別を生むんだという 趣旨の発言をする若い人たちがたくさんいるんですけれども、区別というのは絶対に必要なことです。まず、赤ん坊が自分と母親とは別個の存在だという認識をする、これは最初の区別ですよね。区別というものがないと、一人ひとりの主体性というのは確立できない。そういう意味で区別と差別は全く違う。

1.学園闘争から諸課題へ

わたしは障碍者運動と部落解放運動の両方から、たくさん考える材料をいただきました。 わたしは、高校生の頃から、ベトナム反戦運動には関わっていたわけですが、京都大学に入学した1969年には、そこにはもうすでにバリケードがありました。 学園闘争に没入し、そし当時の、3つの大きな課題と言われていた、狭山、三里塚、沖縄闘争にも参加しました。三里塚(成田空港建設反対闘争)にも何度も行きましたが、わたしが一番考えさせられたのは、狭山闘争と沖縄闘争でした。全国的には、学園闘争と70年安保闘争の敗北後、学生たちは、地域闘争、反差別闘争へと運動を移していきます。

京大はガラパゴスといわれたぐらい、70年代、80年代になっても学園闘争が続きますし、わたしも学内課題にこだわりますが、仲間たちは外にも出ていきました。たとえば工学部闘争委員会の人たちが、伊方原発へ行って支援を始めたというのが、 外部の人間が反原発運動の地域闘争に参加していくスタイルの最初でした。 それが全国に広がっていくわけです。農学部闘争委員会の人たちが中心になって『地域闘争』という雑誌を出して、 現在でも、タイトルを変えて続いています。

もうひとつの分野が反差別闘争です。ウーマンリブといわれるフェミニズムの前の段階の運動が起こったり、狭山闘争も1969年から非常に大衆的になっていきました。わたしは69年から入管闘争に参加していましたが、1970年の7月7日、盧溝橋事件が起こった日の東京の集会で、華僑青年闘争委員会(華青闘)が、新左翼も入管闘争やってるというけれども、本当に差別の問題をわかっているのかという告発をしました。これが非常に大きな影響を新左翼に与えたわけです。そのなかから、被差別者以外は全部差別者なんだという発想が広がってきます。これは、後で出てくる「健全者」は障碍者にとって敵である いうこととも、共通してくる問題でもあります。

同じ1970年、日本脳性マヒ者協会青い芝の会が、 5項目の行動綱領を発表しました。

1.われらは、自らが脳性まひ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を確認し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。

1.われらは強烈な自己主張を行う。
われらが脳性まひ者であることを自覚した時、そこに起るのは自らを守ろうとする意志である。 われらは強烈な自己主張こそ、それを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

1.われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の共生であると信じ、且つ行動する。

1.われらは健全者文明を否定する。
われらは健全者の作り出してきた現代文明が、われらの脳性まひ者を弾きだすことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明への告発に通じることを信じ、且つ行動する。

1.われらは問題解決の路を選ばない。
われらは安易に問題解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。 われらは次々と問題提起を行うことのみが、われらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。

われらは以上五項目の行動綱領に基き、脳性まひ者の自立と解放を掲げつつ、すべての差別と闘う。

ちょっと時間的なずれはあるんですけれども、合わせるとこの5項目です。愛と正義を否定するとか、問題解決の道を選ばないというような、いわゆる良識者から見ると、 なんだこれはと思われるような内容です。

1960年代に日本母親大会と、日教組教研全国集会障害児教育分科会を母体として、 全国障害者問題研究会が設立されていました。障碍児を養護学校などに分離して、専門家である教師や医者が障碍を取り除くことによって障碍者を健全者に近づけるという、発達保障理論を唱えました。専門家による障碍者のための運動に対し、自分たち障碍者こそが解放運動の主体なんだという宣言をしたということです。

わたしがこれを知ったのは1975年に 障碍者運動に参加するようになってからです。 健全者文明を否定するとか、自己主張を行なうというのは分かりやすいんですが、愛と正義を否定するとか問題解決の道を選ばないということは 自分ではわかったとしても、それを他の人に説明しきれるのかと言われると、自信がないというような状態でした。

それとほぼ同じ時期になるのですが、部落解放同盟の3つの命題、というのがあります。1960年代から1970年頃に確立しました。第1命題が部落差別の本質について、第2命題が部落差別の社会的存在意義、第3命題が社会意識としての部落民に対する差別観念です。第1命題と第2命題は、表現としても理論的にも不十分であると指摘されているのですが、 わたしは第3命題が非常に重要だと思っています。

社会意識ということばはちょっと難しいのですけれども、この中のことばを使って説明してしまうことになるんですが、本人が意識するとしないにかかわらず、空気を吸うように社会から持たされてしまっているものです。差別観念というのも難しい。よく差別意識ということばが使われますが、差別意識というのは、自分で意識しているものです。あいつらは 自分より劣った存在だという風に、意識してしまっているのが差別意識です。しかし、 自分は差別してない、自分は差別を許さない人間だと思っている人も、実は差別観念を持たされてしまっている。

これを若い人たちに気づいてもらうのは割と簡単なんです。 結婚差別のドラマを見たりすると、自分は部落民でなくてよかった と思ってしまう。その瞬間に、わたしも差別しているんだと気づいてくれる。差別意識を含め、自分が意識していないことも含めて差別観念というわけです。

第3命題の最初です。「部落民に対する社会意識としての差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活の中で伝統の力と教育によって、自己が意識するとしないにかかわらず、客観的には空気をすうように一般大衆の意識の中に入り込んでいる。 」空気を吸うように、意識するとしないに関わらずというところ、それから、伝統の力と教育によってというようなところが大事なわけです。

差別の問題について話をするときに、一人ひとりの意識の持ち方、気持ちの持ち方が大事なんだという発言をする人がよくいます。「一人ひとり全員」という意味なら分かるのですがひとりで自分の意識を変えようと思っても、そう簡単に変わりません。社会からそういう意識を強制されてしまっているので、そういう差別構造を持つ社会を変えないと、自分ひとりでは差別観念を克服することはできないのです。

部落解放運動が、狭山闘争を軸にして広がってきますと、部落解放同盟の活動家の皆さんがいろんなところで講演をする ということがありました。その中で必ずというほど使われることばが、 自分たちは五体満足なのになんで差別されるんだという発言でした。これが、当然障碍者運動の側から批判を受けるわけです。 1975年ごろ、京大へ解放同盟の方が来て講演をされた時に、全くそれと同じ発言がありました。 その時はわたしから問題提起をさせてもらいましたけれども、障碍者運動からの批判によって、見事にぴたりと部落解放運動の中でのそのセリフ、 五体満足なのになぜ差別されないといけないのかという発言は止まりました。

部落解放運動のなかで、そういえば被差別部落には障碍者が多いぞ。劣悪な生活環境だから障碍者がふえるのかということに気がついて部落解放運動が障碍者運動に合流してくるのが1970年代後半の動きでした。その中で部落解放同盟は、被差別統一戦線、差別されたものが 自らの解放を勝ち取ろうとする運動の統一戦線というようなことを提唱するんですけれども、それはもう非常に短期間で終わります。 そして反差別共同闘争という展開のしかたに変わりました。この違いは非常に重要だとわたしは思います。被差別統一戦線というと、差別される人たちだけの統一戦線です。反差別共同闘争というのは、差別と戦う 人たちみんなの共同闘争で、差別する側に置かれている人たちも参加できるわけです。ここのところが今回の 健全者手足論の問題とも関わってくることでもあります。

2.京大難聴問題研究会の結成

そういうなか、1975年ごろ、難聴問題研究会というのを作ることになりました。わたしが大学院生として所属していた文学部の現代史学研究室に、難聴の学生が3回生として進学してきたのです。そこで彼の授業参加の保障を勝ち取ろうということになりました。こういう、日常生活における 要求闘争は、わたしたちはあんまりしたことがなく、教育研究の内容についての問いかけや、政治的な課題ばかりやってたものですから、 お金で解決することならというのが文学部当局の本音だったのかもしれません。ひとつの教室の天井に、アンテナを張りめぐらせて、マイクや アンプなどいろんな機器を購入し、彼が参加する授業は、できるだけその部屋に固定するとか、いろんな配慮を勝ち取りました。

そのうちに、哲学の大学院生にも難聴者がいるという 情報が入ってき ました。現代史の学生は、伝音性難聴で音を大きくすれば理解できる。ところが、哲学の院生は、感音性難聴で、音を大きくしても聞き取れない。だから彼女は口話法、口と顔の表情、その人物全体の雰囲気で、相手の話を理解するという方法でやっていました。ところが、それはものすごく集中力が必要で、飲み会へ行くともうダメなんです。集中力が途切れてしまってコミュニケーションできない。じゃあ 手話をやってみようよということで、手話サークルもやりました。飲み会でも話せるようになったのです。

そういうなかでわたしが感じたのは、障碍者を知ることによって世界が2倍に広がったなということです。障碍者という存在を自分は今まで知らなかった、障碍者を数名知っただけで、世界が2倍に拡大したと感じました。

もうひとつは、 他者の発言が終わるまで発言しないということです。 難聴者の場合、集団で議論している時に、複数の人間が発言すると、まったく理解できません。ですから、ひとりの発言が終わるまでは、発言しないということを徹底しました。 わたしは、これは、民主主義の1番の基本だと思います。テレビで有名な討論番組では、 大きな声で他人の発言を封じると、その人のペースで議論が進んでいきます。いわば、最も非民主的な番組だと思いますが、ただこれが、わたしたち仲間の間でも、徹底してない。長話もいけないのですが。

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会

1976年に結成された全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の第3回全国大会が京都で開かれることになりました。京大を会場にしたのでわたしがその現地実行委員会の 委員長と言いますか、責任者の役回りを承わることになったので、多くの障碍者との付き合いが広がりました。京都視覚障害者の教育と労働を考える会との交流が始まって、点字を覚えて、 かなり長い文章を点訳したりもしました。

全国精神病者集団も全障連大会には参加しました。障碍者同士の差別も課題になります。身体障碍者同士でも軽度の障碍者と重度の障碍者の間で差別があったり、それ以上に深刻だったのは、精神障碍者と身体障碍者の間での相互差別です。当時非常に重要なテーマでした。

わたしにも親しい精神病者集団の友人がいて、よく一緒に遊んだりもしてたんですが、大学の中でわたしが自転車で走っている時に、彼が2人乗りさせろといってきて、何言ってんだ、お前、体は元気じゃねえかっていうような発言をした後でわたしはドキッとしましたね。あ、こういう風に、まったく意識せずに差別的なことを言ってしまうんだと、自分の中の差別性、差別観念の問題として 意識しました。

わたしはこの全障連大会ではまったく裏方だったので、青い芝が全障連から脱退するということも、後で聞いて知ることになります。青い芝のメンバーを介助していた健全者組織の「ゴリラ」を青い芝が解散させたということもあとで聞きました。京都にもゴリラのメンバーはいました。

それと同時に、京都青い芝の、在宅、あるいは施設にいる会員たちが、 自宅や施設から出て自立生活を始めたいということが相次ぎました。 ゴリラの人びとがほとんど動けない状態のなかで、京大の難聴問題研究会や、それに繋がる人々に介護要請が来ます。そこでわたしも、複数の青い芝の会員の自立生活を実現するための活動に参加しました。

青い芝の全障連脱退やゴリラ解散は、障碍者自身の主体性を回復するためだったと理解しています。介助のために参加している「健全者」が運動の運営に参加すれば運動は効率的に進みますが、それでは障碍者の運動ではない。障碍者のペースで運動を展開して、それで毎年の全国大会が2年に1回しか開けなくても、それでいいではないかということです。そのためには、介助の「健全者」は、障碍者の手足となって、障碍者に言われたことだけをやっていればよいということです。これが「健全者」手足論です。障碍者の主体性を回復するために、健全者の主体性は一切認めません。

わたしは「健全者」手足論には与しませんでしたが、現在の障碍者介助の原則である、介助は障碍者の意思に基づいて行なうという基本姿勢は、ここに出発したといえます。

わたしは介助でかかわる青い芝をはじめとした障碍者に、「喧嘩しようよ」といいました。お互いに理解し合わないと、障碍者と「健全者」の相互理解は進まない、わたしは差別的なことをいってしまうかもしれない、やってしまうかもしれない。それを指摘してほしい。 わたしのなかの差別性というものが表に出ないと指摘してもらえないわけですから、わたしは思ったことをいいます、 という話をしました。 千本は障碍者といつも喧嘩していたのかと受け取られたら困るのですが、実際に喧嘩した記憶はありません。要するに心構えの問題です。

わたしが、喧嘩しようよといえたのは、わたしが付き合っていた青い芝の人たちとの信頼関係と、もうひとつは、彼らが優しく、非常に強い人たちだったからでしょう。どの障碍者にも喧嘩しようといったわけではありません。わたしには、障碍者のために運動に参加しているのではなく、障碍者に対する差別構造に貫かれた社会から、差別観念にとらわれたみずからを解放して差別のない社会をめざすという意識が強かったのです(このあと、日常的な介助の様子や、自立生活実現のための親や福祉事務所との交渉について、紙数の関係で省略する)。 (以下次号)



 
 
【ブログ注】あおざかなの買物日記(goo版備忘録 から引用 
 直接は元中核派系の障害者解放闘争の話です。
『障害者』固有の闘い方や、ペースをキーワードに語られています。けれど同時に、70年代初期の諸問題を語っていて、示唆に富む。


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趣味的に読む本じゃないかもだけど

2006年06月04日 00時13分53秒 | memo
 楠敏雄「『障害者』解放とは何か」を読んで、今の自分の立場でまず反応してしまうのは当時の中核に対する指摘である。
 もちろん「趣味的」によまれるべき本では決してないと思っているが、、。

楠敏雄『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きる ...



「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」
「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」
「組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました」
「ところが、71年12月に起きた革マル派による中核派の2名のメンバーへの非道な虐殺と、72年5月の沖縄闘争における『敗北』は、中核派の危機感とあせりを強めることとなり、大衆運動に対する方針を急激に転換することとなりました。すなわち、72年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争については一応中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、『障害者』への日常的働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。また、『障害者解放戦線も革マルセン滅をかかげるべきだ』とか『白ヘルメットをかぶって中核派の集会に結集すべきだ』といった主張にみられるように、教条的セクト的対応をも強めてきました。さらに、情報の手段や、学習の機会を奪われている『障害者』に対して、基本的な学習を保障せず(他の党派の内容との違い、およびさまざまな組織の内容も含めて)ひたすら彼らの機関紙『前進』の読み合わせをさせるのみだったのです」(26ページから28ページ)
「『障害者』の圧倒的多数は、新左翼運動はおろか、政治からも、教育からもあらゆる情報からさえ遮断されて、家の片隅や施設に隔離されていることはすでに何度も確認されてきたはずです。にもかかわらず、このことの持つ重さについて、中核派をはじめとするほとんどの新左翼党派も、そして私たちすらも正しく把握しきれてはいませんでした。そして、それがゆえに『「障害者」のペース』という言葉の意味を理解しきれず、『障害者』解放運動の独自の発展を無視したり、妨げたりしてきたのです。」
「私たちは、いついかなる闘いにおいても、まず何よりも『障害者』大衆と共に闘い、互いの発展をかちとり得るような闘いをするべきだと考えています。したがってそこでは、当然『障害者』固有の闘い方や、ペースが要求されるでしょうし、言葉一つにしても常に点検されねばならないのは当然といえるでしょう。」
 「彼らがこうした『障害者』との日常的な関係作りを軽視して、政治課題を最優先させるといった方針は断じて認めるわけにはいかなかったし、現在もなお認めるわけにはいかないのです。彼らは私たちに対し『政治闘争と大衆闘争を対立させる』と批判していますが、むしろその批判は彼らにこそピッタリと当てはまるといえるでしょう」
 「レーニンは、その著『共産主義における左翼小児病』や『何をなすべきか』において党が大衆運動を抱え込んだり、教条主義を持ち込んだりすることを厳しくいましめています。自らレーニン主義者たることを自称する中核派は、自分たちに都合のよいところしか目に入らないようです。72年5月以後の中核派の私たちに対する対応は、まさにセクト主義そのものに他なりません。先にも述べたように、関西『障害者』解放委員会の大衆組織としての確認を無視してひたすら中核派に従属することを迫り、それが通らぬと知るや自分たちの地位を利用して何人かを抱え込んで、さっさとわが組織から逃亡して、私たちと同じ名前を名乗る。これがかりにも『前衛党』と自称する者のなすべき対応でしょうか。さらに、自ら情報を得ることを奪われてきた『障害者』に対し基礎的学習すら保障せずに自分たちの路線のみを一方的に教え込んだり、『施設で園生をいじめる職員は革マルのようなものだ、だから革マルセン滅だ」などと提起するに至っては利用主義そのものであり、差別的対応といわざるをえません」(52ページから53ページ)

長く引用したが、いまだに生き続けている批判ではないか?
そのわずか1年半前(70年10月26日)には中核派は「入管闘争の中間的総括」を発表している。せっかく「内乱と武装の論理」に掲載されているからせめて繰り返し読まれるべきだと思う。
というか、「現役」のときにこの「中間的総括」をもっと読んでいなければならなかった。

楠敏雄 - Wikipedia


【ブログ注】『前進』編集局にいたこともあって、初期の「障解委」メンバーとの付き合いも少なくは無かった。70年か71年か?社会福祉事業大学の障害者解放運動に関わる多くの学生たちが、革共同集会に参加したという。そのほとんどはマル学同にも加盟していない人々だったが、参加者の発言として?「中核派は障がい者解放に不十分だ」という趣旨の発言をしたのだそうだ。
 批判に応えて北小路敏さんが登壇して、「その通りだ。出来る事なら中核派の一員として内部から変えて欲しい」というような演説をしたのだそうな。
 その演説に応えて社事大生などが大量に中核派に加盟した。障解委の東日本の母体と言えそうだ。
  
 ただ、私が本社編集局に移った78年、その初期の障解委メンバーたちは多くが、「戦線=部署」を移行していた。ある人は、『障がい者』の自立支援、
「自立のための個人経営」の支援に力を注いでいたが、「任務」の都合にかまけている間に破綻してしまっていた。その後のメンバーの心の崩壊は目も当てられなかった。あえて自分を痛める場所で、いたぶられ続けることで長く生きた。ようやく人として立ち直ったのは、私の知らない場所だった。

  あえて言えば、この「固有のペース」や「固有の闘い方」は、いつでもどこでも、あまりにもあたり前のこと。普遍的なことでしょう。
 「不揃いのリンゴたち」というタイトルが新鮮だったのは、私達が大人になる過程、あるいは「組織者になる過程」で後ろに押しやり、忘れていたたもろもろを再び三度突き付けられておたおたしたというに過ぎない気もします。もちろん、対革マル戦争の軋みが破滅的なほど大きかったということも欠かせませんが。

【ブログ注】尾上さんのメールを転載します。

【狭山ヨタヨタ白杖記】

1)第59回三者協議(4月中旬)は狭山第三次再審請求審の流れを変えるチャンス

だ。家令和典裁判長に弁護団が一時間のプレゼンテーションを実施する。3月25日

の狭山全国活動者会議での報告にびっくりした。新しい裁判長に弁護団が狭山事件の

経過と課題を説明したらどうかと提案したのは大野勝則前裁判長だと報告された。第

58回三者協議(2月27日)での弁護団のプレゼン実施提起に検察官は持ち帰って意

見を言うと反対したが、裁判所は前任者の提案を前提に実施の方向で話はすすめたい

としたという。報告の内容もびっくりだが、何よりも三者協議での裁判官の息遣いが

聞こえる気がしたことにびっくりで、うれしかった。私は三者協議での裁判官の息遣

い、顔つき、ふるまいなどが知りたいのだから。これだけでも大阪に出てきたかいが

あった。この前例を大切にしてくださいと弁護団にお願いしたい。

 今回の狭山全国活動者会議は狭山再審無実の実現に向けて重要な時期と課題をテー

マにすべき会議だった。なぜなら次回・第59回三者協議で家令裁判長に弁護団が一

時間のプレゼンテーションを実施するのだ。第三次再審請求審の18年間で、10人

の裁判官が担当したが、プレゼンは初めてではないのか。18年間弁護団は191点

の証拠開示を勝ち取り、269点もの新証拠を提出し、事実取調請求を行い、石川一

雄さんの記者会見、52万筆の署名、マスコミでの取り上げなど狭山は動き始めた感

触がある。だが、裁判所の動きはっ全く分からなかった。裁判所は何の動きも見せな

かった。見せたのかもしれないが、私は知らなかった。今回の家令和典裁判長のプレ

ゼン決定は18年目にして、ようやく裁判所の動きが表に出たのだ、この機会を黙っ

て見過ごすことなど絶対にできない。いいプレゼンを準備したい。狭山闘争にかかわ

ってきた人々のすべての知恵と力と思いを結集して、家令和典裁判長のみならず、誰

もが納得するプレゼンを作成できないだろうか。

 プレゼンで家令和典裁判長の心が動くとしたら、それは家令裁判長がこのプレゼン

に社会・世論が注目していることを知るときだ。プレゼンが裁判所で実施されるのみ

ならず、それが公開され、石川一雄さんは無実だと誰もが納得したときだ。国家とマ

スコミと地域が部落差別をあおり、利用し、加担し、無実の石川一雄さんを殺人犯に

でっち上げた部落差別事件なのだと誰もが納得した時だ。世論がプレゼンの無実・部

落差別の真実を訴える迫力を感じた時ではないだろうか。そのためにはプレゼンの内

容をどうするのか、プレゼンをどうやって社会に知らしめるかが問題になる、このこ

とが今回の全国狭山活動者会議で議論される課題ではなかったろうか。

 

2)プレゼンの内容をどうするか。まず、第三次再審請求審はこれまでの二次の再

審請求審と決定的に違う。それは検察が隠し持っていた証拠の開示を勝ち取り、無実

の新証拠が明らかになったのだから。とりわけ万年筆インク資料鑑定は鑑定人の意見

を裁判所が聞くだけですまされるのではなく、科学的に白黒の決着がつくのだ。イン

クの色の違う万年筆を同一のものとした寺尾確定判決に重大な疑義が出てくる。再審

を開始しなければならないのは当然だ。この新証拠による石川さん無実の証明は弁護

団が全力を尽くして明らかにされるであろう。真実は必ず明らかになるのだ。

 さらに狭山事件の大きな特質のひとつに、警察の被差別部落への見込み捜査、新聞

報道での予断と偏見による部落差別の煽り立て、地域住民の加担がある。黒川みどり

著「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」から引用する。

 

◇『朝日新聞』埼玉版(一九六三年五月二四日)は、「「底知れず不気味な」石川 

善枝さん殺し」との見出しで一雄逮捕を書き立てており、『東京新聞』も、「犯罪の

温床四丁目部落-善枝さん殺しの背景」「善枝さんの死体が、四丁目に近い麦畑で見

つかったとき、狭山の人たちは異口同音に「犯人はあの区域だ」と断言した」と記す

。被差別部落は犯罪の温床であるとの偏見を根底に持った一連の新聞報道は、一雄を

即座に犯人と結びつけ、さらに人びとの被差別部落に対する差別意識、恐怖意識を煽

り立てていった。以下は、当時の『埼玉新聞』(一九六三年五月二六日)の記事であ

り、こうしたものは枚挙に暇がない。石川の住む「特殊地区/環境のゆがみが生んだ

犯罪-用意された悪の温床」石川の住む”特殊地区”には、毎年学校からも放任され

ている生徒が一〇人ぐらいいる〔中略〕こんどの事件の捜査の過程で、同じような犯

罪を犯す危険性を持つ多数の若者達の存在が浮き彫りにされた(『埼玉新聞』一九六

三年五月二六日、『狭山差別裁判』第三九五号、二〇〇六年二月)。ー黒川みどり著

「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」の35頁から36頁からの引用

 

◇さらに同紙の同日(『埼玉新聞』一九六三年五月七日)。のコラム「ヤブにらみ」

は、「八日までに犯人を捕えよ」という見出しでこのように記す。吉展ちゃん事件、

埼玉県の女高生誘かい殺人事件など、たび重なる捜査当局のミスに批判の目が向けら

れているので、篠田国家公安委員長は六日午前緊急国家公安委員会を招集した。委員

会ではさっそく二つの事件についての捜査の手ぬかりが追及されたが、篠田委員長は

「八日の参院本会議で事件の捜査経過を報告する予定になっているから、それまでに

犯人を捕えよ」と警察当局を督励していたが、委員会が終わって間もなく所沢の捜査

本部から「現場近くに住む”犯人らしい男”が自殺した」という情報がはいった。こ

れを聞いた篠田委員長「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンづかまえて

やらねば……」と歯ぎしりをしていた。ー同情83頁、84頁から引用

 

 そして5月11日に死体発見場所の近くの麦畑から発見されたスコップが何の証拠

もなしに死体埋設に使われ、石田養豚場から盗まれたものと断定され、被差別部落青

年への見込み捜査が強化され、石川っ一雄さんの別件逮捕につながっていく。

 別件逮捕から一か月近く頑強に否認していた石川一雄さんが、再逮捕後に「自白」

させられた。狭山事件を知った方々の大半が必ず、やってもいないのになぜ「自白」

したのだろうかと質問される。無実の石川さんは警察と検察に部落差別によって教育

をうばわれた結果の「無知」に付け込まれ、刑事のウソで弁護士への不信をかきたて

られ、お兄さんを犯人だと信じ込まされ、10年で出してやるからと狡猾なウソに載

せられてしまった。家の大黒柱をとられては一家は破綻する、自分が身代わりになり

、10年我慢すればと「自白」してしまったのだ。石川一雄さんは「短歌に託して④

」で

「泣くだけ泣いても癒えることでなし 怒りの渦は 日夜 坂巻く」

と詠っている。この短歌の読んだ思いを石川さんは

「だんだんいろんなことがわかってきて、私は警察官にだまされたことを確信した。

私をだました3人の警察官に復讐心がわいてきた。首を覚悟して死刑囚である私に、

文字を教えてくれる若い看守さんに、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という漢字を教

わった。大きく書いて、部屋の中に貼った。だまされたことが悔しくて悔しくて、い

つも臥薪嘗胆をみて自分の心を奮い立たせた。」(短歌に託してから引用)

 プレゼンにこの短歌と石川さん自身の生の声を取り込んでほしい。

 

3)プレゼンで弁護団にぜひとも重視していただきたいのは寺尾確定判決を楽差別

判決として批判することだ。鎌田慧さんはその著作「狭山事件 41年目の真実」で

寺尾確定判決を「寺尾正二裁判長による完全犯罪」と指摘されている。寺尾判決から

50年目の今日、それが現実になりかねない危機感を抱いている。寺尾正二裁判長の

、いや司法と国家がもくろむ「完全犯罪」を打ち破る道はただ一つだ。それは寺尾確

定判決を部落差別判決として批判し、狭山事件が国家による部落差別事件、権力犯罪

だということを誰もが納得するように明らかにすることではないか。そこで寺尾確定

判決を部落差別判決として批判する要点を書く。

 寺尾判決は

① 自白を離れて存在する7つの証拠と5つの秘密の暴露が石川さんと関係がある。

② 石川さんの自供は、それを聴取した警察官青木が法廷で、自分は供述のまま記述

しており、石川さんはすらすらと自供したと証言したことは信用でき、供述は任意に

なされたものである。

③ 自供と証拠の食い違いがあるが、これは石川さんが命惜しさにウソをついている

と言う。弁護団は、①は新証拠として批判し、②は再審請求の理由の追加として裁判

所に提した。寺尾判決の問題は③の石川さん嘘つき論にある。

 寺尾確定判決は、裁判で人を裁くことができる根拠を経験則からなんの確証もなく

断定した。人が人を裁くことができる根拠をわずか数行の経験則論でだ。現在の民主

主義でも人が人を裁くことができる経験則など「発見」していない。だからこそ、真

実は徹底して証拠に依存し、熟慮に熟慮を重ねて、絶対に誤判をしないが原則なのだ

。誤判の恐れが少しでもあればそれは無罪にということだ。

ところが、寺尾正二は徹底した証拠への依存でも。誤判を絶対に起こさないでもない

裁判官の「全人格的能力による合理的思考」をもってすれば真実を発見できるとする

。この思考方法は弁証法的思考をもってするから正しいという。寺尾正二は真実は徹

底して証拠に、現実に依存することから見いだされるのではなく、裁判官の頭の中で

生み出されるというのだ。この転倒した思考は狭山事件の再審請求から57年間、一

度も証拠調べをすることなく、再審請求を棄却した裁判所の姿勢そのものではないか

 

 寺尾確定判決の核心は石川さん嘘つき論にある。その論をでっちあげるために、人

はどんな状況にあっても必ずウソをつく、ましてや滞在を犯したものであれば、命欲

しさにウソをつくと論じる。寺尾は自供と証拠の矛盾を自供の不自然さの追及ではな

く、部落民だからウソをつくのだというとんでもない偏見と予断をもって正当化して

いる。寺尾確定判決は直接的に部落差別に触れてはいない。だが、寺尾確定判決の中

に部落差別を容認し、その予断と偏見に満ちた証言を採用し、石川さん有罪の証拠の

ひとつにした。それは内田幸吉証言だ・

寺尾確定判決は

「同証人が中田栄作方を訪ねて来た不審な男のことを、事件後直ちに警察へ届け出な

かった理由について、同証人が原審及び当審で供述しているところは、結局届け出る

ことによって事件とかかわりを持つことが恐ろしく、わずらわしいということに帰す

ると解され、そのような考えで届出をためらい、後になって漸く届出をするに至った

心情も理解できないことではない。所論は、隣人が被害にかかっているならば、直ち

に犯人と思われる訪問者の人相、風体、年齢その他を警察に届けるはずだと主張する

が、一般世人の人情を理解しない見解と評せざるを得ない。」

 この内田証言の寺尾判決の部分は悪質な部落差別だ。内田の「事件とかかわりを持

つことが恐ろしく」とは部落は怖いという部落差別感情そのものであり、それを寺尾

裁判長は「一般世人の人情」として理解できるというのだ。しかもそれを殺人事件の

重要目撃証言として採用している。寺尾正二の言う「裁判官の全人格的能力による合

理的思考」とは部落差別を「一般世人の人情」として認め。おのれ自身もその片棒を

担ぎ、部落差別を積極的に容認し、その証言を採用し、石川一雄さんに有罪判決を出

したのだ。

4)最後に。

① 第59回三者協議の終了後に、記者会見を行ってください。その記者会見でプレ

ゼンを公開してください。プレゼンの内容は必ず世論を動かす。狭山再審請求は世論

を動かすことにかかっていると誰もがいう。記者会見こそその重要な手段の一つでは

ないか。

② 523日比谷野音での狭山集会に参加しよう。地方からの上京の困難さは狭山闘

争が生み出した現地調査のための物資販売などの知恵と経験に学び、クリアーしよう

。せっかく地方から上京するのだから、デモ終了後に、東京高裁前にいき、東京高

裁前の歩道を「地べたの法廷」として、家令和典裁判長にアピールしましょう。(2

024年3月28日 尾上光)
……… ……… ………

【追】2月26日、NHK総合テレビ「おはよう日本」の番組の中で、朝7時過ぎに再審制

度問題に関係して、狭山事件が報道されました。

以下にその録画を貼り付けます。

是非ご覧になってください。

 

NHK(20+) 動画 | Facebook

【白土メモ】
①在日韓国・朝鮮人と在日中国人の法的・社会的地位を同一に表現しているが、不正確だ。
 「戦勝国民」と「敗戦国民」と「第3国人」という国際法的な概念は欠かせない。これは故石原慎太郎が悪意に満ちてまき散らした言葉でもあり、「必須の知識」でもある。
 ひとまず 台湾人日本兵 - Wikipedia
      林歳徳 - 検索 (bing.com) ★⇦【ブログ補足】
②イデオロギーや思想の次元での自己批判の論理
 このレベルでは、『党はどこへ行ったのか』と直近の『前進』論文は、ほぼ同様な視点に立っている。関西派の入管論の総括論文も、長大であるがほぼ似たような感じがする。

③「求められていたのは地域的・持久的・陣地戦的な闘いの方針…」こそもう一つの核心だ。当ブログで繰り返しこだわってきた「第2の7・7自己批判」と「地域入管闘」の問題だ。『党はどこへ行ったのか』という活字化された著書の中で表現されたことはことさら大きいと思う。中央派・清水氏はけして語ろうとしない領域だ。私はこれこそが「血債の思想」に関わる分岐点・分水嶺だと思ってきた。

④突破口に、諸戦線が構築(略)いわば中核派の世界観の転換=「コペ転」の起点と言える。

⑤さて、そうであればあるほど『党はどこへ行ったのか』への絶望的批判は深い。
 清水氏が「…階級的倫理性の問題ですらある。…」とまで言いながら、90年代も相も変わらず地域入管闘という実践的・「陣地戦」的課題の解消・凍結を変えることなく過ごしたこと、このことへの片言隻句の批判すらない。これではせっかくのも意味をなさない。

 とは言え、本『党はどこへ行ったのか』の中やその他で、本多延嘉氏の、幻の『党の堅実で全面的発展』論文の再評価・高い評価を論じている場面もあるので、それに任せて「端折った」と言われるのかとも思えない訳ではない。これもまた、「分量」の問題???とは言え…

⑥この辺について、いくつかの声を紹介してきたい。
 元入管闘「元台湾人日本兵の支援を続けて来たけど、大事なことは生活、仕事の斡旋だったんだよな。法政の守衛を繋いでみて初めて分かった」
 韓国人女性と結婚した元同志「白土よ、お前の書いた”地域入管闘”の”世話役”の話はホントだよ」「神奈川の入管担当の六月もよく勉強しているけど、今回はぜんぜん使い物にならなかった」「結局は俺自身で調べて、俺自身で出向いて、やっとのことでたどり着いた」「途中で挫折しかかった」
 元神奈川 「90年代に関東地方委員会(KC)で、激しい”労働運動論争”があった。こちらは「現場を踏まえて、現場からの声を引き出して」にこだわった。対するは地方委員長の木崎ほかだった。「いわばこちらが『労働運動派』、木崎らが『血債主義派』みたいに言われた」。「だいぶ後で中野路線」が力を持つと、木崎も一変して労働運動派=動労千葉特化路線に豹変した。立場がなんか入れ違ってしまった。けども、全体を通して変わらなかったのは、「上からの」「天下り」の路線か「現場重視」かだったんだよね。

韓国スミダに対する支援への制動
 90年代、日本でも電機労働者の女性たちを先頭に、多くの労働者・労組が支援・連帯に立ち上がった。
 この時、入管闘を仕切っていた「高山」の通達が衝撃を生んだ。
 事実上政治局からの指導として「メンバーが運動に関与する時はそのつど詳しい報告書を提出しろ。
 上からの許可なしに韓国人労働者との接触をするな」という「指導」だったという。
 指導的メンバーから話を聞いた時は耳を疑った。理由や口実はいろいろある。当時の韓国の政治情勢、中核派の公安との「死闘」…。いずれにせよ、中核派のメンバーは、韓国労働者とも在日とも連帯・接触するな、と。⇓ 民主労総との連帯運動を詠う昨今、変われば変わったものだ。昔日の感。

 韓国の労働者と日本の連帯者の人生を変えた闘争 : 文 …

ウェブ2022年8月6日 · //ハンギョレ新聞社. 1989年、日本のスミダ電機の子会社は韓国の工場に1枚のファックスを送り、450人の解雇を通知する。 これに怒ったチョン・ヒョンスク、パク・ソンヒ、チョン・スンレ、キム・スンミの4人の労組幹部は、8カ月にわたる日本のスミダ本社前での …

【まとめ】


【まとめ】幾多の「血債論」の存在とその変貌
 ひとまずのまとめとして、今日「血債の思想」を語る人たちにもいくつかの決定的違い・対立を含んだスタンスがあると言うことがわかると思います。


【ブログ補足】……… ……… ………

①関連部分です 当ブログから。技術上の都合で一貫した表現になっていませんが。……… ……… ………

 新年号論文①「血債論」のリサイクル 【改定】  ...

岩本本②の続き=転載分……… ……… ………
③の続き
 言いたいことは、80年代の中核派は、「革命軍戦略」という「単一路線?」であり、三里塚基軸論=排他的・単一基軸(路線)論で押し通してきたことだ。ここでは「準基軸」ともいえる課題として、杉並区議選・動労千葉・部落解放運動=同志会・解同荒本支部があったのも事実だ。
 しかし動労千葉に関しても、その評価の軸は、反対同盟との「労農同盟」を担う、ジェット燃料輸送阻止を闘う動労千葉、と言う面をほぼ一歩も出ないものだった。「反合闘争」「高石闘争」などへの共感や国鉄労働運動や民間労組への共感など、動労千葉がいくら語っても帰ってこない。そんな「政治主義・路線主義」の延長上にしかなかった。少なくとも「党員大衆」の世界では!労働者党員にとっては、情けない屈辱の日々?もちろん、それに従わない少なからずの人もいたことも忘れられない。
 そんなことを前提にして書いてくれたらね!ま、これも分量が溢れるけど。

④最後に一番言いたいこと
 「いつまで『党が党が』と言ってるんだよ!」
 「正しい党」なんてどの面下げて言うのかね?

 本多さんはとっくにいない。あれからもう50年近くになる。レーニン?百年前の話だ。

 「革命党」とは究極は「武装蜂起の党」であり、「内戦・国際戦争」に勝ち抜き、権力を奪取するために何が何でも生き残る「党」のこと。
 残念ながらそんな党を私はもはや構想できない。
 せいぜい、10数年、大衆に溶け込み、世俗的にも複雑な判断と対策を立てられる運動が出来たらと、想いを巡らすだけだ。

⑤そして結論
 なぜ中核派は真っ向から党内論争・党内闘争ができなかったのか?
 どのように、でもいい。
 なぜ中核派はまっとうな「分裂」がなかったのか?

 下記の部分に、ひとまず10次に渡る中核派の「分裂史」を紹介します。
 加えて06年3/14からの関西派と九州はの分裂と「血債主義者」の排除、最後に東北地方委員会のEL5派を入れると十数次の分裂・粛清を重ねてきたことになりそうです。

 言いたいことは、どちらが正しいかとか、という前に、主張ややり方や体質が折り合えず、共存できなくなったら分裂するしかない、ということ。その気になったら、後でまた合流すれば済むことでもある。
 もう一つ。党派闘争も党内闘争も「カンパニア」「囲い込み」は不可欠だということ。
 それぞれの「私」がどちらを選ぶ、ということが「原則中の原則」のはずだ。
 しかし現実には、「排他的囲い込み」が先に立つ。この「囲い込み」は多くの知恵と努力の結実でもある。そして「暴力的」だ。
 実際の分裂を見ると、一方を選んだ人が、時を経て他方に鞍替えするということは極めて少ない。難儀なのだ。
 政治指導部ですらそうで、ましてや「末端や現場」の人にとっては、「結婚相手の選択」も「離婚の自由」もない、というのが実情か?
 じゃあどうする?「自立した共産主義者の結集体」。絵空事か???
 
 「生きる知恵」…かも?
 ……… ……… ………
 以下の項目に関連事項が入っています。当ブログの記事です。
 2017年01月13日

  2017年01月21日

 

 

 (この項終わり)

関西派の橋本利明氏の書評を転載する。特に長いものではないので最初から全文を読んだ方が良さそうです。全文は下記の「未来」をタップしてください。
ここでは気になる所だけを抽出します。
末尾にメモをつけたのが長くなりました。分けて読んでくれた方がいいかも?

【以下転載】……… ……… ………

未来

8面

書評
『党はどこへいったのか~私と革共同~』岩本慎三郎 社会評論社2023年12月刊
     革共同の総括と路線的深化のために
     橋本利昭

岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか ~私と革共同~』は、いい意味で物議を醸す本である。この本とぶつかり、学び、吸収しつくし、われわれの再出発としたい。

3・14決起断固支持

岩本さんは本書で、2006年3月14日の党改革を求めた関西の決起を支持している。「官僚主義と権威主義と印籠政治の弊害を…実力で打ち破る闘い」と。また3・14で打倒された「Y*は生まれた時から腐敗していたのではなく、革共同が生み出し、つくりだした」ものであると、主体的・内在的に総括している。(【ブログ注】Y* 当時政治局員兼部落戦闘同志会の代表でもあった)

それに対して革共同中央は、「Yの腐敗を生みだした責任は関西にある、部落解放運動にある血債とか7・7というものの考え方にある」とすり替えた。3・14決起を簒奪し、改竄するためである。岩本さんはそれに抗議し、2008年冒頭の基本会議で反対を貫き、処分を受けて党を離脱したことを今回明らかにした。(略)

3全総と対カクマル認識

岩本さんは、いわゆる「内ゲバ」と称する左翼内部での暴力行使には抑制的であるべきと反省している。同感である。しかしカクマルについては、「バリケードの向こう側に移行した政治カルト」と規定し、対カクマル戦を支持する。カクマルを、運動組織路線における「サナダムシ路線」と批判する。自ら階級闘争全体に責任を取らず、他の運動に寄生してそれを食い散らして自らの糧とする在り方である。ここから党派闘争の自己目的化、自己中毒化を生む、「永遠の今」「のりこえの論理」「革命的暴力論」に至るカクマルの立場を本多延嘉さんは、「召還主義と解党主義」と規定したことを紹介している。

岩本さんは、カクマルとの決定的分岐をなした革共同3全総を重視している。そして3全総の3つの軸として、反戦闘争・選挙闘争・労働運動を挙げ、労働運動の要点として、戦闘的労働運動の防衛と地区党建設を挙げている。私の理解としては、3全総のもう1点重要な点は統一戦線であると思う。統一戦線戦術は階級(闘争)全体に責任を持つあり方であって、単なる学生戦線の方針であったり、政治術策ではない。

直面する革共同の課題

岩本さんは、「階級的労働運動路線」「新指導路線」「動労千葉特化論」などによる反戦政治闘争の放棄を一番問題にしている。そして、最近、革共同全国委員会機関紙『前進』が、「今や革命の時代だ、反戦闘争としての反戦闘争が重要だ」と言い始めたことに、「遅すぎる」「総括がない」、「総括をする主体性・感受性を失った集団になり果てた」(p.367)と言う。
革共同を自称する今日の革共同全国委員会は、遅すぎる、総括がないだけではない。世界認識・現状認識が根本的に間違っている。プーチン・ロシアによるウクライナ侵略を侵略でないと言い、「戦争を内乱へ」をウクライナにおけるゼレンシキー打倒に帰結させている。

またパレスチナ問題についてもアメリカ帝国主義の戦争というのみで、シオニスト国家イスラエルによる侵略、パレスチナ人民への迫害を弾劾しない。台湾問題について、軍事的強制併合で恐喝する習近平・中国指導部のスターリン主義そのもののあり方を批判しない。それ以上に一切をアメリカ帝国主義の戦争とし、台湾問題を利用して対中国包囲、戦争挑発を図る日本帝国主義・岸田を正面から問題にしない。
 同書は、事ここに至った責任が一番ある清水丈夫(現革共同議長)をあまり批判していない。革共同にとって「議長」とはお飾りではないはずだ。清水が非合法場面にいたことは言い訳にならない。革共同の変質、今日まったく闘えない「前衛」詐称集団に変質させた元凶は清水丈夫にある。党内で意見が相違する者を「スパイ」規定してきたのも、真剣に党改革を試みる者を「分派」として追放してきたのも、清水である。

日本革命・世界革命にかけたわれわれ共通の思いを実現するため、岩本さんには『党はどこへ行ったのか』の続編を、『党はここにあり』として清水批判をぜひ執筆してもらいたい

戦略的総路線の深化のために

革命的左翼が、60年安保闘争も70年安保・沖縄闘争も日帝を正面の敵として見すえて闘ったという認識に賛成である。今日の革共同全国委員会が、「万年米帝一極支配」論のもと、日本共産党以下の日帝免罪路線をとっていることを徹底弾劾して進まなければならない。

国鉄闘争について、1047名の「和解」について、中野洋の国鉄闘争への絶望の結果という認識に改めて蒙を啓かれる思いである。この点を明らかにした岩本さんの功績は大きい。ただ85年11・29浅草橋戦闘については、清水丈夫と中野洋の具体的責任をぜひ明らかにしてほしい。この戦闘を「信じがたい愚行」と言うだけでは、現場で担いぬいた国鉄労働者や青年労働者・学生は報われない。

30年間に及ぶ武装闘争と非合法・非公然活動の期間については、「党による軍事の一人歩きはダメ」ということに真剣に同意し、反省します。それと同時に、「官僚主義」や「印籠政治」が非合法・非公然活動の中で始まったという理解では済まないと思う。

軍事や非合法活動に手を染めなかったらよかったのか、防衛的性格の軍事活動に限定すべきだったのか、である。回答は、労働者大衆自身の武装や非合法活動をどう形成するのか、そこにおける党と党の軍の役割ということになる。蜂起の軍隊はロシア革命における赤衛隊に見られるごとく、大衆自身の武装を基礎に発展させたものである。代行主義など問題にもならない。


若干の経験と見分に基づいて提起すると、次のような点である。
(1)労働者人民自身が武装と武装闘争の主体であることを貫き、兵たんを人民自身が担いぬく人民の海の組織化における発想の転換が必要である。
(2)戦闘における軍令の絶対性と準備や計画における白熱的討論を保障し、組織すること。
(3)戦士共同体におけるコミューン原則、1人も排除しないあり方、である。

 

【以上転載】……… ……… ………
 
【白土メモ と評】長くなりましたが。
 ①岩本氏についての『前進』紙上での言及は以下。
 故・岸及び水谷両氏の『敗北本』に岩本氏が参画していたという嫌疑によるもので『スパイ』と断罪している。
 革命運動史上最大のスパイ分子に転落した岸・水谷・岩本を 打倒せよ 革命的共産主義者同盟政治局

5月、2006~08年の「党の革命」で打倒・追放された岸宏一と水谷保孝、岩本慎三郎は階級闘争史上、最も極悪で腐敗にまみれた反革命スパイ本を出版した。...
福島に敵対し反原発運動分断する 最大のスパイ岸・水谷・岩本打倒を 革共同東北地方委員会

 岩本氏によれば “事実無根。俺は敗北本にはノータッチ。まったくの無実・無関係“ だそうな。

 ただ敗北本では、「松本意見書」やその処分の経緯の一部については、岩本氏の観点から書かれていることも事実。離れたもの同士、その程度の交流はあったらしい。その上で、「岸・水谷に近い」とか「やはり参画者」として「断罪するのはあまりにも乱暴」というに尽きる。

 本書では「松本意見書」を契機に08年1月に離党した経緯も書かれている。別な見方からすれば、処分・除名への経緯でもある。

②ある意味で、唯一?の「革共同の歴史・正史」でもある。
 革共同の創設から革マルとの分裂、そして「70年闘争」、血債の思想の誕生、…。それぞれ現場感覚とともに描かれていて、それはそれで生き生きとしている。古い人、若い人、中核派系の人、他党派の人、改めて新鮮な想いで振り返ることもできる。後日への遺産?

 この辺は、できることならぽつぽつと引用しながら論じたい。
 ただ難点は、橋本氏の書評にあるように、例えば「浅草橋」についての論評が「片言隻句」で終わるなど、食い足りない。それは多くの論点で共通している。ま、それをやると軽く5割増しの分量にはなるだろうけれど。そして集中砲火を浴びるかも?

「改憲阻止百万人運動」と国鉄闘争への重心の置き方

 もう一つの特徴としては、これらの大闘争・大運動にその中心近くで関わった人として、90年代の課題やその意義を大いに語っていることだ。

 「うっ?!」という反応は私だけではないと思う。
 この時期すでに本社を出て、中核派を辞めていた私にとっては、「あの中核派が、そんなテーマに関わることがあるのか?」という感慨が当時の感覚だった。
 90年の「転換」を経て、90年代中頃は、現場組織やメンバーたちは、「先制的内戦戦略」の「継続か解消・召喚か」で互いに階級的と向かい合うような混乱とにらみ合いのような中で葛藤していたと聞く。
 岩本さんはそんな中で重責を担って上記の「大運動」に参画していたのだそうな。
 私自身とすれば、「それは正しいだろうが、そんなの中核派じゃねえよ」「俺の知ってる革共同じゃねえよ」とうめくしかない。

 「上が決めたのだから、残っていたら率先して関わるかもしれないけどね」
 「でもまた変わって召喚しろと言われたら、またそれに従って、『ナンセンス』と言うのかな」
【ブログ注】
 あまりに長いので、以下は(続く)にしました。26日公開の「党??」にそのまま転載します。

【ブログ注】尾上光さんからの要請を以下転載します。
……… ……… ………

ガザに心を寄せていただく皆さんへ

藤永香織著「ハヤティ・パレスチナ 夢をつなぐカフェ」復刻版が皆さんのご支援で
ようやく発行にたどり着きました。
ご支援に感謝します。

本書の[復刻にあたって]で、藤永香織さんは以下のように書き出しています。

「アンネ・フランクを偲ぶイスラエルへの旅で、パレスチナに出会った。ガザ地区に
魅せられ、パレスチナ人の自立を目指し共に歩みたいと思った。その第一歩として、
縁あって結婚したパレスチナ人の夫と、地元ガザ市でカフェを開業したが、店は戦車
やミサイルに破壊され、焼き討ちに遭うなど、苦難の連続だった。でも何度この店を
壊されても、この想いは変わらない。…そう信じていた。

[あれから20年。本書に登場した彼らのほとんどはもう、この世にいない。病死や自
死で亡くなった娘達。行方不明や生死不明の息子達。兄も姉も弟も妹も、従兄弟たち
も、親友も。「天井の無い監獄」が着々と完成していったこの20年は、私たちにとっ
て世界がぼろぼろと欠けていく日々だった。そしてとうとう、ガザで共に夢を繋いで
くれていた夫の心が壊れた。」

是非お読みになってください。
本書の売り上げは必要経費を除いてガザへ送金します。

香織著「ハヤティ・パレスチナ 夢をつなぐカフェ」復刻版の購入は
① 購入される冊数とお届け先を下記のいづれかにお知らせください。すぐに発送し
ます。

◇ ℡ 09066342973(おのえ、ヤスミン・ライブラリー)
◇ 〒814-0002福岡市早良区西新2ー5ー15ー101
  ヤスミン・ライブラリー(尾上光)
◇ yasmeen_library@yahoo.co.jp
  duster705@yahoo.co.jp (おのえひかる)

② 本が届いたら下記に代金を振り込んでください。
◇ 銀行名 西日本シティ銀行
◇ 支店名 西新町支店
◇ 店番号 204
◇ 口座番号 1559729
◇ 普通
◇ 口座名義 藤永香織(ふじながかおり)

よろしくお願いします。

ヤスミン・ライブラリー(尾上光)
……… ……… ……… ……… ……… ………
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