- 【ブログ注】以下は『試練』の記事の紹介。下から古い順です。クリックすると開けます。
4月13日現在。今後も諸発言がアップされるようです。
……… ……… ………
DVD「思い出の本多延嘉--勝利に向かっての試練」
(2025-04-13 20:22:02 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
1975年3月14日、日本革命運動の先頭に立ってたたかっている本多延嘉革共同書... - 戦争前夜情勢が切迫する沖縄で/宮城正明
(2025-03-29 12:38:37 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3月15日の「本多延嘉追悼50年の集い」に寄せられたメッセージから宮城正明... - 本多さんは人生観も革命家像も教えてくれた/土田正昭
(2025-03-29 10:43:33 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3・15本多延嘉追悼50年の集いでの発言のうち土田正昭氏のものを転載します... - 石川一雄さんのご逝去にさいして 慟哭のことば/楠木吉秀
(2025-03-25 18:47:40 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3・15「本多延嘉追悼50年の集い」の記事のつづき。呼びかけ人の発言のうち... - 日大闘争に「革命の現実性」をみた本多さん/今 章
(2025-03-25 18:44:53 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3月15日の「本多延嘉追悼50年の集い」の記事のつづきです。呼びかけ人の発... - 最後の探究派として――開会のあいさつ/向井拓治
(2025-03-25 18:41:17 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3月15日に開かれた「本多延嘉追悼... - カクマルによる本多書記長虐殺の真実/槇(水谷)けい子
(2025-03-19 20:55:37 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
カクマルによる本多書記長虐殺の真実槇... - 「本多延嘉年譜(一九三四~一九七五)」
(2025-03-19 10:41:12 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
革命的共産主義者同盟全国委員会 書記長「本多延嘉年譜... - ラディカル左翼の新たな創成の課題/水谷保孝
(2025-03-17 23:42:29 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3・15「本多延嘉追悼50年の集い」... - 「3・15 本多延嘉追悼50年の集い」参加にあたって /高原浩之
(2025-03-17 20:11:04 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)事前に寄せられた高原浩之氏のメッセージ。当日の発言の元の文章を転載します。... - 〈党と世界観〉―本多さんは何をめざしていたのか/岩本慎三郎
(2025-03-17 08:18:24 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3・15「本多延嘉追悼50年の集い」... - 革共同における性暴力問題/槇(水谷)けい子
(2025-03-17 06:03:19 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
(註)3月15日に開かれた「本多延嘉追悼50年の集い」の記事のつづき。呼びかけ人... - 「本多延嘉追悼50年の集い」が開催(2025年3月15日)
(2025-03-16 07:18:36 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって)
「本多延嘉追悼50年の集い」が開催1975年3月14日未明、反革
カテゴリ: ☆☆続『狂おしく悩ましく』
本多延嘉追悼50年 ①報告から
3・15「本多延嘉追悼50年」、126名で熱気あふれる集い
集会実⾏委員会事務局
1975年3⽉14⽇未明、反⾰命カクマルによって虐殺された本多延嘉⾰共同書記⻑(享年41。破防法被告)の死から今年は50年⽬。3⽉15⽇(⼟)、東京・御茶ノ⽔にある連合会館にて「本多延嘉追悼50年の集い」が開催されました。
集会を企画したのは、⾰共同を離党、除名された者、分裂独⽴した⼈々。呼びかけ⼈を全国から募り、23⼈の呼びかけ⼈による集会です。
参加者の数は、当初の予想を⼤きく上回り、定員72名の会場に126名が参集、極めて熱気のある集会としてかちとられました。また集会の後は近くの中華料理店で懇親会を持ち、あちこちが何⼗年ぶりかの再会を喜び、旧交を温める場となりました。
午後1
時から受付開始。参加者⼀⼈ひとりが本多さんの遺影に献花、DVD『怒りをうたえ
ダイジェスト版』(50
分)上映の後、午後2
時から「追悼の集い」が開始されました。冒頭、事務局の東條守さん(⽇⼤全共闘)の説明でDVD『思い出の本多延嘉−−勝利に向かっての試練』(約3
分)が上映されました。
【注 以下の見出しは当ブログによる】 ……… ……… ………
前半の発言 石川一雄さんの遺影も
司会には結柴誠⼀さん(元東京都杉並区議会議員、横浜国⼤全共闘議⻑)。司会から、本⽇、本多さんのご遺族からのメッセージとご参加があることが紹介されました。全員で正⾯左に置かれた本多延嘉⾰共同書記⻑の遺影に黙祷。本多さんの遺影の隣には去る3 ⽉11⽇に急逝された狭⼭冤罪事件の⽯川⼀雄さんの遺影が置かれました。
開会の挨拶は、元⾰共同東京⻄部地区委員会委員⻑の向井拓治さん。続いて呼びかけ⼈の岩本愼三郎さんから、本⽇の追悼の集い開催にあたっての経過と報告「〈党と世界観〉―本多さんは何をめざしていたのか」が20分近くなされました。岩本さんはマル学同中核派書記⻑、「前進」編集⻑、破防法研究会などを担ってきました。それを受けて、呼びかけ⼈から制限時間3分の発⾔が続きました。まず⻑崎県壱岐の島から参加された斎藤政明さん。横浜市⼤出⾝で多数の同窓と共に参加。⽇⼤の今章さん(⽇⼤全共闘組織部⻑)。⽇⼤全共闘の皆さんも多数参加されていました。元全国部落⻘年戦闘同志会の楠⽊吉秀さん。⽯川⼀雄さん急逝に慟哭の弔辞を読まれました。⾰共同再建協議会、元広⼤全共闘議⻑の川嶋澄夫さん。反戦共同⾏動・福岡の北原⼤樹(ひろき)さん。「未来への協働」の茂⽊康さん。横浜国⼤出⾝、⼥性解放戦線を担ってきた槇(⽔⾕)けい⼦さん。元マル学同副委員⻑の⾚松英⼀さん。元⾰共同関⻄地⽅委員会幹部の⼭本清次さん。
元「破防法研究」編集・発⾏⼈の江村信晴さん。
後半でも諸発言 連れ合い・恵子さんのメッセージも
休憩時間を挟んで、午後4 時、再開。参加者からの発⾔が続きました。元ブンド⾚軍派の⾼原浩之さん。元全逓労働者の⽅。ジャーナリストの⼩林哲夫さん。
破防法弁護団だった辻恵さん。元東⼤闘争被告団の⼟⽥正昭さん。本多さんが虐殺された当⽇、本多さんの⾞のドライバーとして⾏動をともにしていました。⽇⼤全共闘副議⻑の酒井杏郎(きょうろう)さん。⾰共同再建協議会、元全学連副委員⻑の橋本利昭さん。川崎市⺠の会の喜多村憲⼀さん。元在⽇朝鮮⼈・中国⼈細胞のキャップであった李徹(リ・チョル)さん。他の在⽇同志の⽅たちも参加。
集会終盤に、本多さんのご遺族、闘病のため⽋席された連れ合いの恵⼦さんのメッセージが、⼩林智⼦さん(横浜国⼤出⾝、10・8 ⼭﨑博昭プロジェクト事務局)によって代読されました。とても毅然とした、聴く者の胸を打つ感動的なものでした。そして、埼⽟の地から杖をついてお越しになった本多さんの妹御の善⼦さん(88 歳)がご挨拶されました。なお、集会後、善⼦さんから「集いの熱気に圧倒されました。皆様の⻘春時代が映画のように映りました」とのご感想が寄せられました。最後に、事務局からの本多さん墓参りの提案と閉会のあいさつを元⾰共同政治局員の⽔⾕保孝さんが⾏いました。
なお参加者にはパンフレット「本多延嘉年譜」(8ページ)と都合が悪く⽋席した呼びかけ⼈などのメッセージが配布されました。以下の9通です。
本多さんが命をかけた沖縄闘争(⼀瀬敬⼀郎)、狭⼭とパレスチナと沖縄と(尾上光)、本多さんの思い出―追悼50年、最後のお別れにあたって(楠⽊吉秀)、当初の思いは今も消えることなく(新城せつこ)、テレビも⾒ず、新聞も読まずに(たかだたけし)、戦争前夜情勢が切迫する沖縄で(宮城正明)、本多書記⻑がもし⽣きていたら(掛川徹)、本多延嘉追悼50年の集いへのメッセージ (滝本洋⼀)、「3・15本多延嘉追悼50年の集い」参加にあたって(⾼原浩之/⾚軍派)、⽯川⼀雄さんのご逝去にさいして 慟哭のことば(楠⽊吉秀)。
懇親会が満席に
懇親会には76⼈が参加し、集いの熱気をさらに盛り上げました。
⾚松さん提供のワインがふるまわれ、司会をその⾚松さんが務め、マイクを回しながら、集会で発⾔しなかった呼びかけ⼈や当⽇参加の⼈たち10数⼈が発⾔しました。元⾰共同東京⻄部地区委員会の伊藤隆明さん、元全学連副委員⻑の廣瀬健⼀さん、元⾰共同富⼭県委員⻑の村⼭和弘さん、⾰共同再建協議会、「未来」編集⻑の松⽥耕典さん、元関⻄⼤学全共闘議⻑の板倉元朝さん、元「前進」編集局の湯本憲⼆さん、「未来への協働」の掛川徹さん、東北⼤出⾝の渡部義就さん、元破防法裁判闘争を⽀える会の川⼝顕さん、元ブンドの垣沼真⼀さん、元⾰共同神奈川県委員会の杉⽥勝⽣さん、元⾰共同東京⻄部地区委員会の⻑尾由美⼦さん、元⾰共同秋⽥県委員⻑の⽜越(李)国昭さん、ほか。
懇親会は午後9 時過ぎまで、数⼗年ぶりの再会、交流が続きました。
墓参り。振り返り、命ある限り
本多さんの墓参りが4⽉14⽇(⽉命⽇)におこなわれ、これをもって「本多延嘉追悼50年」の事業の締めくくりとしました。
本多延嘉追悼50年を全国から呼びかけ、3・15に集いを実現できたことは、発起⼈、呼びかけ⼈、参加された皆さんにとって、ひとつの振り返りと前進の節⽬となったことと思います。全国からやってよかった、来てよかった、会えてよかったとの⾔葉が寄せられています。また、ある⼈は「⻑⽣きをしてください。55年、60年、可能な限り続けましょう」と⾔っています。命のある限り闘い続ける強靭な意志表明です。ともに前に進みましょう。
3・15「本多延嘉追悼50年の集い」の実⾏事務局にご協⼒いただき、ありがとうございました。会場設定等の準備不⾜など多々問題がありましたが、有意義な集いを実現できました。ありがとうございました。
2025年4⽉26⽇
本多延嘉追悼50年の集い 呼びかけ文 25年3月15日㈯
▼2025年の3⽉14⽇は、⾰共同書記⻑の本多延嘉が⾰マル派に暗殺されてから50年⽬を迎えます。
集会のあとには懇親会も準備しています。
▼みなさまのご参集をお待ちしております。
楠⽊吉秀(⼤阪)、結柴誠⼀(東京)、今章(東京)、斎藤政明(⻑崎)、
松⽥耕典(兵庫)、⽔⾕保孝(東京)、宮城正明(沖縄)、向井拓治(東京)、茂⽊康(⼤阪)
①呼びかけ人は第1次のもの。
②諸派・グループ系。当ブログの無責任な見立てでは、主な系譜・人脈・傾向として
㋑06年の3・14(関西地方委員会での決起)以来の。
関西派(橋本派)系、九州派(宇谷派)系。
さらにまた、上記から分離したグループや個人。
㋺それ以前に(60年代~90年代に)離脱した諸個人。
「9条改憲阻止の会」や経産省前テントなどに集う人々等々。
その他日大全共闘ほか。
元他党派の人々?
㋩もしかしたら「中央派(清水派)の一部もコッソリ顔を出す」???????(笑)
③私自身は私的事情から、本集会には不参加になりそうです。
*【お知らせ】新しいカテゴリーを始めました。
中核派の「正史」~2009年
☆革命的共産主義運動の略年表
http://www.zenshin.org/blog/contens/w-profile.html#ko-z2410c |
【前史】
1955年7月 日本共産党6全協
1956年3月 ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」/10月 ハンガリー革命
1957年1月 革命的共産主義者同盟創立
1958年~59年 東大、早大など日共大学細胞で、スターリン主義との闘いに次々勝利
1958年夏 第1次分裂。トロツキー教条主義との闘い/12月 共産主義者同盟(ブント)結成
【革共同全国委員会の歴史】
1959年8月 第2次分裂。トロツキー教条主義と闘い、革共同全国委員会結成/9月 全国委員会機関紙『前進』創刊
1960年4月 マルクス主義学生同盟結成。ブントとともに安保闘争の先頭に立つ
1961年1月 マルクス主義青年労働者同盟結成/3月 ブントの革命的部分が革共同に結集/夏 革共同第1回大会
1962年9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。戦闘的労働運動の防衛と創造、地区党建設、革命的統一戦線について決定。動労千葉労働運動の原点/年末から翌春 3全総にたじろぎ、黒田と松崎らカクマル派が逃亡
1964年 原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争
1965年 日韓闘争(日韓条約批准阻止闘争)/8月 反戦青年委員会結成
1966年8月 革共同第3回大会
1967年2~7月 砂川基地拡張反対闘争/10月 10・8羽田闘争。羽田、佐世保、三里塚、王子の「激動の7カ月」
1968年10月 米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)
1969年1月 東大安田砦攻防戦。68年以降、日大・東大など全国大学闘争が高揚/4月 沖縄闘争(破壊活動防止法扇動罪適用。本多書記長ら逮捕)/10、11月「第1の11月決戦」。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて学生と労働者が武装闘争に決起
1970年6月 安保闘争。革命的左翼が社・共を上回る大衆的な決起/7月 闘う中国人青年からの糾弾を受け「連帯戦略」を形成(7・7自己批判)
1971年2~9月 三里塚軍事空港粉砕の土地強制収用阻止闘争/11月 沖縄返還協定批准阻止の「第2の11月決戦」(再度の破防法適用)。11・14渋谷暴動闘争で、後に星野文昭同志にデッチあげ殺人罪で無期懲役攻撃(現在獄中35年)/12月 関西でのカクマルの武装襲撃で中核派の2学生虐殺(12・4反革命)。二重対峙・対カクマル戦に突入
1973年9月 革命的報復戦の開始
1975年3月 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺(3・14反革命)。3・14報復戦に突入。「先制的内戦戦略」を確立
1977年8月 動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争に突入
1979年3月 動労千葉が動労本部から分離独立
1981年 第5回大会。先制的内戦戦略フェーズⅡ(第2段階)に転換。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入
1985年10月 三里塚2期着工阻止決戦/11月 国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。中核派が11・29浅草橋戦闘
1986年5月 迎賓館ロケット弾戦闘。権力は革共同壊滅の「5・7宣言」体制発動/10月 「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い
1989年7月 長谷川英憲氏が都議に当選
1990年 天皇・三里塚決戦
1991年5月 5月テーゼ路線への転換
1994年6月 マルクス主義基本文献学習シリーズの刊行開始
1995年秋 19全総
1997年12月 20全総。清水丈夫議長―天田三紀夫書記長の最高指導体制を公表
1999年11月 闘う労働運動の新しい潮流の形成へ3労組呼びかけの11月労働者集会始まる
2001年 第6回大会。黒田=カクマル完全打倒の勝利宣言
2003年 新指導路線/11月 日韓米の国際連帯闘争始まる/12月 新生マルクス主義青年労働者同盟結成
2006年3月 関西の労働者同志を先頭に「党の革命」に突入
2007年1月 階級的労働運動路線打ち出す/7月 7月テーゼを発表/秋 塩川一派が7月テーゼと階級的労働運動路線に敵対し革共同から逃亡/12月 新生関西党員総会を開催、労働者指導部を軸に新体制確立
2009年7月 サンフランシスコ国際労働者会議/9月 25全総開く
マル学同1000人、マル青労同1000人建設へ、世界革命勝利へ驀進中!
岩本本⑦ 『情況』で「読後感」
【ブログ注】『情況』最新号で語られています。詳細は以下。
情況 2024年春号 [第6期6号] | 模索舎 A5 240頁

【読後感】
岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 菅孝行
勝者なき「内ゲバ」の決算に一筋の光を見る
-岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 長島由紀夫
終わりなき葬送、過ぎ去らない惨苦
『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』 | 幸村燕
川元祥一著『部落差別の原因-国家による天候支配の思想=仏教の「殺生禁断」』
| 小林孝吉
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【注】以下は目次です。「特集 食」 は略しました
【連載】
川元祥一と文学者たち 第五章 | 河村義人
戦前は続いているのか?非断絶の戦時(16) | 髙井ホアン
情況喫茶 傍流からの展望 弐 | 中牟田聖司×髙田輝
解説 ウクライナ戦争論争 | 横山茂彦【特集外】
ハマスと熱心党 安彦良和『イエス』と相澤文蔵の古代ユダヤ民族史研究 | 矢田部健史
マイケル・サンデルとトーマス・ヒル・グリーン | 野沢文哉
市田良彦の『フーコーの〈哲学〉』を徹底読解 後編
戦術談義 運動の技術/現場の工夫
| かわすみかずみ/ヨナカシンヤ/ひょっこり/小峰ひずみ
〈誌上インタビュー〉重信房子『パレスチナ解放闘争史』刊行記念
イスラエル批判を反ユダヤ主義と見なす論理を打破するために | 高橋順一
「#FreeKazehitoSeki」
ガザ虐殺抗議グラフィティを描いて勾留されたアーティストについて | 本誌編集部
コンビニから男性向け雑誌が追放される!? | 中山美里
『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』刊行記念対談I
| 笠井潔×長崎浩
部落差別とは何か | 川元祥一
漫画が伝える戦前の「原風景」 『鬼畜米英漫画全集』の刊行に寄せて | 髙井ホアン
〈独占インタビュー〉浴田由紀子
爆弾闘争50年 東アジア反日武装戦線元兵士が次世代に残す証言
【映画評】代島治彦監督『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』
腑に落ちぬ幾つかの事柄 | 菅孝行
川口君追悼とは真逆の虐殺者免罪映画 | 水谷保孝
【追悼】
追悼 桐島聡さん | 友常勉
岩本本⑥ 資料=本多著作選と「堅実全面発展」論文・全文
岩本本=『党はどこへ行ったのか』関連で紹介しておきます。関西派の『未来』から。
【ブログ補足】ついでに堅実全面発展論文の見出しだけを別に紹介します。これも『未来』から。
一 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために…
タイトルからして、いかにも清水丈夫氏が大嫌いな表現にも思えます。
一 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために 本論文は、一九七三年八月『前進』に発表された。革命的情勢への過渡期の成熟に備え、革命党の三つの義務をうちだし、二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙段階戦取の展望をあきらかにした画期的な論文である。 第一章 あらゆる面にわたる革命闘争と革命党のたたかいの堅実な前進 ((A)早稲田解放闘争の全人民的な発展 (B)沖縄におけるたたかいの前進と定着化 (C)労働戦線における逆拠点化のたたかい (D)政治闘争と経済闘争での戦略的な前進 (E)あらゆる面での党建設の堅実な発展)
第二章 戦後世界体制の解体的危機と革命的情勢への過渡期の成熟 第一節 戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりと世界革命の現実性((A)戦後世界体制の特質 (B)戦後世界体制の崩壊的危機のいっそうのふかまり (C)反帝・反スタ世界革命の現実性)/第二節 日帝の統治形態の反動的転換の攻撃と大衆の政治的活性化((A)日帝のアジア侵略と侵略体制の攻撃の全面的激化 (B)小選挙区制とあらゆる面での反動攻勢 (C)七〇年代階級闘争の革命的、内乱的発展)/第三節 革命的情勢への過渡期の成熟とそれに応じた党の三つの義務 ((A)レーニンの革命的情勢の規定の問題 (B)革命的情勢に応じた革命党の三つの義務の問題 (C)七〇年代中期の高揚と爆発の展望とわれわれの任務)
第三章 革命の本格的な準備、二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的な推進 第一節 基本戦略――総路線の物質化のたたかい((A)反帝国 主義・反スターリン主義の基本戦略のために (B)七〇年代革命の総路線の現実的な勝利 (C)基本戦略――戦略的総路線についての指導上の問題)/第二節 二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的な推進((A)二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙段階の戦取 (b)基本戦略――戦略的総路線の物質化めざす戦略的前進 (c)革命的情勢に応じた党の独自の建設 (D)当面する秋のたたかいの圧倒的勝利めざして前進しよう)
ついでにその全体像も
本多延嘉著作選全七巻総目次(2009/10/01) 第一巻目次 (『前進』600号、601号、1972年9月11日、18日、大幅加筆『共産主義者』24号、1973年1月) Ⅱ 革共同全国委員会に結集せよ Ⅲ 三全総の旗のもとに Ⅳ 中国文化大革命批判 Ⅴ 10・8羽田闘争から七〇年代激動へ 第二巻目次 Ⅰ 戦争と革命の基本問題 Ⅱ カクマル反革命打倒 反ファッショ解放戦争勝利へ Ⅲ 中間主義党派批判 Ⅳ 天皇制・天皇制イデオロギー粉砕 第三巻目次 Ⅰ 戦略的総反攻を宣言する 1 1・24精神を爆発させ、あらたな報復戦に決起せよ(『革共同通信』7号1974年3月4日) 2 3・22狭山闘争の大爆発かちとり、春期大攻勢に総決起せよ(『革共同通信』9号1974年3月18日) 3 赤色テロルの嵐で春期大攻勢の本格的激化かちとれ(『革共同通信』13号1974年4月15日) 4 反革命虐殺者に血の復讐を(『革共同通信』18号1974年5月20日) 5 報復戦のあらたな高揚へ(『革共同通信』22号1974年6月17日) 6 カクマル印刷所ホヲトクついに崩壊(『革共同通信』28号1974年7月29日) 7 機関紙戦争の完全勝利を突破口に反革命中枢機関を解体せよ(『革共同通信』41号1974年10月28日) 1 『武装』の発刊にあたって(『武装』創刊号1974年2月5日) 2 前進社第二ビルの革命的開設に際しての革共同政治局の訴え(『革共同通信』33号1974年9月2日) 1 吉川文書にみるカクマルの惨状(細川耕一の筆名にて(1)『革共同通信』8号1974年3月2日(2)同10号 3月25日 (3)同12号 4月8日 (4)同15号 4月29日 (5)同18号 5月20日 (6)同21号 6月10日) 2 「松井文書」にあばかれた反革命カクマルの腐敗(『革共同通信』42号1974年11月4日) Ⅱ 狭山闘争の歴史的な勝利のために Ⅲ 中ソ論争と現代革命の展望 Ⅳ 紀元節複活と日本帝国主義の危機 Ⅴ 書評 第四巻目次 Ⅰ 戦略的総反攻―その勝利の展望 Ⅱ 安保闘争論 Ⅲ 東欧におけるスターリン主義の没落 第五巻目次 I 勝利の武装進撃を Ⅱ 革命的共産主義運動の理論と歴史(第一篇) 2 革命的共産主義運動の当面する問題点((1)『前進』100号1962年8月25日 (2)同101号 9月5日 (3)同102号 9月15日 (4)同103号 9月25日 (5)同104号10月8日) Ⅲ 革命的共産主義運動の理論と歴史(第二篇) Ⅳ 日本共産党批判 Ⅴ 国際論評 第六巻目次 Ⅰ 戦争理論の深化のために Ⅱ 反帝・反スターリン主義世界革命戦略 Ⅲ 第三回大会への同盟の歩み Ⅳ 六七・十・八羽田闘争へ――党建設と諸闘争 Ⅴ 大学闘争論 第七巻目次 Ⅰ 七〇年代・革命の時代 Ⅱ レーニン主義党組織論 Ⅲ 現代革命と史的唯物論の再建 Ⅳ 安保体制にかんする覚え書 Ⅴ 十・八羽田から六八年新宿騒乱へ Ⅵ 破防法裁判闘争
本多延嘉著作選全七巻総目次(2009/10/01)
岩本本⑤三つの「血債論」【白土メモ】イデオロギーと運動と
①在日韓国・朝鮮人と在日中国人の法的・社会的地位を同一に表現しているが、不正確だ。
「戦勝国民」と「敗戦国民」と「第3国人」という国際法的な概念は欠かせない。これは故石原慎太郎が悪意に満ちてまき散らした言葉でもあり、「必須の知識」でもある。
ひとまず 台湾人日本兵 - Wikipedia
林歳徳 - 検索 (bing.com) ★⇦【ブログ補足】
②イデオロギーや思想の次元での自己批判の論理
このレベルでは、『党はどこへ行ったのか』と直近の『前進』論文は、ほぼ同様な視点に立っている。関西派の入管論の総括論文も、長大であるがほぼ似たような感じがする。
③「求められていたのは地域的・持久的・陣地戦的な闘いの方針…」こそもう一つの核心だ。当ブログで繰り返しこだわってきた「第2の7・7自己批判」と「地域入管闘」の問題だ。『党はどこへ行ったのか』という活字化された著書の中で表現されたことはことさら大きいと思う。中央派・清水氏はけして語ろうとしない領域だ。私はこれこそが「血債の思想」に関わる分岐点・分水嶺だと思ってきた。
④突破口に、諸戦線が構築(略)いわば中核派の世界観の転換=「コペ転」の起点と言える。
⑤さて、そうであればあるほど『党はどこへ行ったのか』への絶望的批判は深い。
清水氏が「…階級的倫理性の問題ですらある。…」とまで言いながら、90年代も相も変わらず地域入管闘という実践的・「陣地戦」的課題の解消・凍結を変えることなく過ごしたこと、このことへの片言隻句の批判すらない。これではせっかくの③も意味をなさない。
とは言え、本『党はどこへ行ったのか』の中やその他で、本多延嘉氏の、幻の『党の堅実で全面的発展』論文の再評価・高い評価を論じている場面もあるので、それに任せて「端折った」と言われるのかとも思えない訳ではない。これもまた、「分量」の問題???とは言え…
⑥この辺について、いくつかの声を紹介してきたい。
元入管闘「元台湾人日本兵の支援を続けて来たけど、大事なことは生活、仕事の斡旋だったんだよな。法政の守衛を繋いでみて初めて分かった」
韓国人女性と結婚した元同志「白土よ、お前の書いた”地域入管闘”の”世話役”の話はホントだよ」「神奈川の入管担当の六月もよく勉強しているけど、今回はぜんぜん使い物にならなかった」「結局は俺自身で調べて、俺自身で出向いて、やっとのことでたどり着いた」「途中で挫折しかかった」
元神奈川 「90年代に関東地方委員会(KC)で、激しい”労働運動論争”があった。こちらは「現場を踏まえて、現場からの声を引き出して」にこだわった。対するは地方委員長の木崎ほかだった。「いわばこちらが『労働運動派』、木崎らが『血債主義派』みたいに言われた」。「だいぶ後で中野路線」が力を持つと、木崎も一変して労働運動派=動労千葉特化路線に豹変した。立場がなんか入れ違ってしまった。けども、全体を通して変わらなかったのは、「上からの」「天下り」の路線か「現場重視」かだったんだよね。
⑦韓国スミダに対する支援への制動…
90年代、日本でも電機労働者の女性たちを先頭に、多くの労働者・労組が支援・連帯に立ち上がった。
この時、入管闘を仕切っていた「高山」の通達が衝撃を生んだ。
事実上政治局からの指導として「メンバーが運動に関与する時はそのつど詳しい報告書を提出しろ。
上からの許可なしに韓国人労働者との接触をするな」という「指導」だったという。
指導的メンバーから話を聞いた時は耳を疑った。理由や口実はいろいろある。当時の韓国の政治情勢、中核派の公安との「死闘」…。いずれにせよ、中核派のメンバーは、韓国労働者とも在日とも連帯・接触するな、と。⇓ 民主労総との連帯運動を詠う昨今、変われば変わったものだ。昔日の感。
韓国の労働者と日本の連帯者の人生を変えた闘争 : 文 …
【まとめ】幾多の「血債論」の存在とその変貌ひとまずのまとめとして、今日「血債の思想」を語る人たちにもいくつかの決定的違い・対立を含んだスタンスがあると言うことがわかると思います。
【ブログ補足】……… ……… ………
①関連部分です 当ブログから。技術上の都合で一貫した表現になっていませんが。……… ……… ………
新年号論文①「血債論」のリサイクル 【改定】 ...
2010年04月14日 : 『狂おしく悩ましく』
「第2の7.7」と地域入管闘 横浜南部では、私は「地区入管闘」の一員でもあった。70年7・7の華青闘 (華僑青年闘争委員会) による糾弾に、革共同は「7 … 「地域入管闘」という小見出しを探してください。
第5章 革命軍戦略の下で
血債主義 VS 労働運動主義 90年代半ばの ...
政治集会基調③ 妥協と抗争と折衷の40年史? - 争論 中核派 ...
知る・考える 用語解説 血債主義/「オールジャパン」 - 『前進』
『展望』(関西派・再建協議会)の総括提案と「血債の思想 ...
【まとめ】 いくつかの変貌する血債論の存在
私自身は「あえて言えば」「白井朗派≒白井系」の1人として、「第2の7・7自己批判」に重きを置く。
つまりは「地域・日常生活次元での関り」論、と言えば分かりやすいでしょう。
本来ここでは「イデオロギー的次元でのコペルニクス転換」も含まれていると思いますが、詳述は避けましょう。
今回は詳述するのは止めておきますが、中野洋さんのように「労働者は差別しない」論も「血債論の一つ」とも言えるでしょう。上記の『前進』用語集では、「革命党以外は血債の思想に敵対する」論を分かりやすく断じています。つまりは現に差別排外と現場で対峙している人たちも皆、差別主義者であると断じること…。昨今の中核派・清水氏の血債論の特徴は、中野氏や「労働者階級への階級移行」論をも継承し、新たな相貌・腐臭をも漂わせているとも感じます。中野氏の問題は、「06年の3・14」で打倒された狭義の血債主義者たちが、「血債」を掲げて、労働運動への取り組みを阻んできたこと,に端を発したものと言えそうですがここでは略しましょう。
中野氏はもともと、現場の闘いに身を捧げてきたゴリゴリの共産主義者。ゴリゴリの革命党員だったこと、そのことをはっきりと前提に据えて、岩本さんの指摘があることも確認したい。
もう一つは「反戦反戦論で決戦を」と言えばあらゆる運動や生活課題やを中断して(召還して)中央での「1日カンパニア決戦」に駆けつけ、「原発決戦」と言えば同じく「政治決戦」に走り、「関生決戦」のはずが当日近くになって突然「○○決戦」に旗を書き換える。「
決戦・決戦」でスケジュールをこなす。
今回の「決戦」に駆けつけない人には「体制内」「○○擁護派」とあてつけて毎度なじる。
それぞれのもしかしたら、より「国民的決起の種火」や決戦の戦場になるかもしれない諸課題を踏みにじる「路線」「決戦論」も、よく言ってドン・キホーテ、悪く言えば「中核派の革マル化」でしょう。党中央を心から批判しながら終生を党にささげた共産党員の恩師や先達に思いをはせる日々です。(血債の項は終わります)
岩本本④ 赤松英一さんの書評と岩本さんの(本来の)血債論
岩本本⑤三つの「血債論」【白土メモ】イデオロギーと運動と
岩本氏の『党はどこへ行ったのか』についての書評の紹介をもう一つ。
新刊紹介 : 岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか 私と革共同』
赤松英一 ウクライナ、パレスティナ、ミャンマーなどの激しい戦乱と抵抗・解放の闘い、アメリカ、ロシア、中国などの奥深い混迷と危機、自民党政権の底知れぬ腐敗と悪政などを見るにつけ、(欧米における新たな社会運動の広がりと対比しても)日本における社会運動の長い低迷に心が重くなります。
もちろん、そんな中でも沖縄(辺野古や南西諸島前線化)や原発さらにパレスティナなどの政治課題や身近な社会的課題に少数でも声を上げ、行動を続ける人々が存在していることは確かであり、心から敬意を表します。
と同時に、60年代後半から70年代初頭までの時期、日本でも青年・学生を中心に、その世代における意識的部分の主流が革命を目指す運動を激しく展開しながら、それが敗北・挫折し、発展させられなかったことの総括が必要であることを強く感じます。【以下略】
以上、レイバーネットからの転載です。
新刊紹介 : 岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか 私と革共同』
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『党はどこへ行ったのか』に見る「血債論」
全部で2頁程度なのですが、ひとまずはおおむね4割分くらいを引用する。
段落は当ブログでつけました。漢数字と混在してしまいましたがご愛嬌。
【以下引用】……… ……… ………
第Ⅰ部 光と影の幾歳月
第2章70年安保・沖縄闘争という挑戦
7・7自己批判と血債の思想 (40ページ)
安保・沖縄問題を中心に70年闘争を見てきたが、7・7自己批判問題については追加する必要がある。
七〇年七月七日の盧溝橋事件(日帝の中国侵略戦争への全面突入)から33年目の日に、在日中国人青年らの組織である華青闘(華僑青年闘争委員会)が、革共同をはじめとする70年闘争に参加している新左翼党派に対する糾弾闘争に立ち上がった。
直接のきっかけは革共同の1メンバーの発言だったが、中身は要するに、お前たちは日帝のアジア侵略の歴史を本当に分かっているのか、在日中国人、在日韓国・朝鮮人の置かれている困難な現状、その法的地位、入管問題の大きさを分かっているのかという深刻なものだった。
このとき本多は破防法で獄中にいたが、残された革共同指導部は清水を先頭に全力で、誠実に自己批判した。革マル派の「被抑圧民族迎合主義」などという悪罵をはねのけて、革共同は70年闘争を視力をつくして戦い抜いたからこそ、このような在日の糾弾を受けたのであり、これに対して徹底的な自己批判を貫徹しえたのである。
在日、特に在日韓国・朝鮮人は、戦前は「帝国臣民」だったが、戦後は一切の権利を奪われ、47年5月2日、つまり新憲法施行の前日に出された最後のポツダム勅令・外国人登録令によって「外国人」にされた。戦後憲法・戦後民主主義は、沖縄に続いて在日を排除し、以降在日中国人を含め、これを過酷な入管体制のもとにおくのである。
革共同はこの批判に応えて「入管決戦」方針なども出すが、求められていたのそうした政治カンパニア方針ではなく、地域的・持久的・陣地戦的な闘いの方針だった。
そしてこの入管問題の焦点化を突破口に、部落、沖縄、障がい者、女性などの諸戦線が革共同内に構築されていった。
差別と排外主義との闘いがその後たえす課題となり緊張を生んだ。ここには行き過ぎが生まれ、混乱も、過ちも生じた。組織内外における「糾弾主義的」な言動である。
しかしそれは徹底した討議で正していけばよかった。この自己批判=「血債の思想」の重要性について革共同は、その後も長く再確認し、反芻し続けてきた。例えば清水は、98年10月に書いた論文(清水著作選第2巻序文)の中で次のように書いている。
「…階級的倫理性の問題ですらある。…」【以下略】【以上引用】
【ブログ注】
【白土メモ】は紹介記事などを含めるとあまりに長いので、以下は別途記事に移すことにしました。
岩本本③白土メモ(続) 「党?」「自立した共産主義者の結集体」
③の続き
言いたいことは、80年代の中核派は、「革命軍戦略」という「単一路線?」であり、三里塚基軸論=排他的・単一基軸(路線)論で押し通してきたことだ。ここでは「準基軸」ともいえる課題として、杉並区議選・動労千葉・部落解放運動=同志会・解同荒本支部があったのも事実だ。
しかし動労千葉に関しても、その評価の軸は、反対同盟との「労農同盟」を担う、ジェット燃料輸送阻止を闘う動労千葉、と言う面をほぼ一歩も出ないものだった。「反合闘争」「高石闘争」などへの共感や国鉄労働運動や民間労組への共感など、動労千葉がいくら語っても帰ってこない。そんな「政治主義・路線主義」の延長上にしかなかった。少なくとも「党員大衆」の世界では!労働者党員にとっては、情けない屈辱の日々?もちろん、それに従わない少なからずの人もいたことも忘れられない。
そんなことを前提にして書いてくれたらね!ま、これも分量が溢れるけど。
④最後に一番言いたいこと
「いつまで『党が党が』と言ってるんだよ!」
「正しい党」なんてどの面下げて言うのかね?
本多さんはとっくにいない。あれからもう50年近くになる。レーニン?百年前の話だ。
「革命党」とは究極は「武装蜂起の党」であり、「内戦・国際戦争」に勝ち抜き、権力を奪取するために何が何でも生き残る「党」のこと。
残念ながらそんな党を私はもはや構想できない。
せいぜい、10数年、大衆に溶け込み、世俗的にも複雑な判断と対策を立てられる運動が出来たらと、想いを巡らすだけだ。
⑤そして結論
なぜ中核派は真っ向から党内論争・党内闘争ができなかったのか?
どのように、でもいい。
なぜ中核派はまっとうな「分裂」がなかったのか?
下記の部分に、ひとまず10次に渡る中核派の「分裂史」を紹介します。
加えて06年3/14からの関西派と九州はの分裂と「血債主義者」の排除、最後に東北地方委員会のEL5派を入れると十数次の分裂・粛清を重ねてきたことになりそうです。
言いたいことは、どちらが正しいかとか、という前に、主張ややり方や体質が折り合えず、共存できなくなったら分裂するしかない、ということ。その気になったら、後でまた合流すれば済むことでもある。
もう一つ。党派闘争も党内闘争も「カンパニア」「囲い込み」は不可欠だということ。
それぞれの「私」がどちらを選ぶ、ということが「原則中の原則」のはずだ。
しかし現実には、「排他的囲い込み」が先に立つ。この「囲い込み」は多くの知恵と努力の結実でもある。そして「暴力的」だ。
実際の分裂を見ると、一方を選んだ人が、時を経て他方に鞍替えするということは極めて少ない。難儀なのだ。
政治指導部ですらそうで、ましてや「末端や現場」の人にとっては、「結婚相手の選択」も「離婚の自由」もない、というのが実情か?
じゃあどうする?「自立した共産主義者の結集体」。絵空事か???
「生きる知恵」…かも?
……… ……… ………
以下の項目に関連事項が入っています。当ブログの記事です。
2017年01月13日
小川登さん(竹中意見書と9条改憲阻止の会)
2017年01月21日
竹中意見書に言及したものから
意見書 「神奈川型」をめぐって
竹中意見書 清水=天田関係の底流
(この項終わり)岩本本② 関西派・橋本利明氏の書評と白土メモ
ここでは気になる所だけを抽出します。
末尾にメモをつけたのが長くなりました。分けて読んでくれた方がいいかも?
【以下転載】……… ……… ………
未来
8面
書評
『党はどこへいったのか~私と革共同~』岩本慎三郎 社会評論社2023年12月刊
革共同の総括と路線的深化のために
橋本利昭
岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか ~私と革共同~』は、いい意味で物議を醸す本である。この本とぶつかり、学び、吸収しつくし、われわれの再出発としたい。
3・14決起断固支持
岩本さんは本書で、2006年3月14日の党改革を求めた関西の決起を支持している。「官僚主義と権威主義と印籠政治の弊害を…実力で打ち破る闘い」と。また3・14で打倒された「Y*は生まれた時から腐敗していたのではなく、革共同が生み出し、つくりだした」ものであると、主体的・内在的に総括している。(【ブログ注】Y* 当時政治局員兼部落戦闘同志会の代表でもあった)
それに対して革共同中央は、「Yの腐敗を生みだした責任は関西にある、部落解放運動にある血債とか7・7というものの考え方にある」とすり替えた。3・14決起を簒奪し、改竄するためである。岩本さんはそれに抗議し、2008年冒頭の基本会議で反対を貫き、処分を受けて党を離脱したことを今回明らかにした。(略)
3全総と対カクマル認識
岩本さんは、いわゆる「内ゲバ」と称する左翼内部での暴力行使には抑制的であるべきと反省している。同感である。しかしカクマルについては、「バリケードの向こう側に移行した政治カルト」と規定し、対カクマル戦を支持する。カクマルを、運動組織路線における「サナダムシ路線」と批判する。自ら階級闘争全体に責任を取らず、他の運動に寄生してそれを食い散らして自らの糧とする在り方である。ここから党派闘争の自己目的化、自己中毒化を生む、「永遠の今」「のりこえの論理」「革命的暴力論」に至るカクマルの立場を本多延嘉さんは、「召還主義と解党主義」と規定したことを紹介している。
岩本さんは、カクマルとの決定的分岐をなした革共同3全総を重視している。そして3全総の3つの軸として、反戦闘争・選挙闘争・労働運動を挙げ、労働運動の要点として、戦闘的労働運動の防衛と地区党建設を挙げている。私の理解としては、3全総のもう1点重要な点は統一戦線であると思う。統一戦線戦術は階級(闘争)全体に責任を持つあり方であって、単なる学生戦線の方針であったり、政治術策ではない。
直面する革共同の課題
岩本さんは、「階級的労働運動路線」「新指導路線」「動労千葉特化論」などによる反戦政治闘争の放棄を一番問題にしている。そして、最近、革共同全国委員会機関紙『前進』が、「今や革命の時代だ、反戦闘争としての反戦闘争が重要だ」と言い始めたことに、「遅すぎる」「総括がない」、「総括をする主体性・感受性を失った集団になり果てた」(p.367)と言う。
革共同を自称する今日の革共同全国委員会は、遅すぎる、総括がないだけではない。世界認識・現状認識が根本的に間違っている。プーチン・ロシアによるウクライナ侵略を侵略でないと言い、「戦争を内乱へ」をウクライナにおけるゼレンシキー打倒に帰結させている。
またパレスチナ問題についてもアメリカ帝国主義の戦争というのみで、シオニスト国家イスラエルによる侵略、パレスチナ人民への迫害を弾劾しない。台湾問題について、軍事的強制併合で恐喝する習近平・中国指導部のスターリン主義そのもののあり方を批判しない。それ以上に一切をアメリカ帝国主義の戦争とし、台湾問題を利用して対中国包囲、戦争挑発を図る日本帝国主義・岸田を正面から問題にしない。
同書は、事ここに至った責任が一番ある清水丈夫(現革共同議長)をあまり批判していない。革共同にとって「議長」とはお飾りではないはずだ。清水が非合法場面にいたことは言い訳にならない。革共同の変質、今日まったく闘えない「前衛」詐称集団に変質させた元凶は清水丈夫にある。党内で意見が相違する者を「スパイ」規定してきたのも、真剣に党改革を試みる者を「分派」として追放してきたのも、清水である。
日本革命・世界革命にかけたわれわれ共通の思いを実現するため、岩本さんには『党はどこへ行ったのか』の続編を、『党はここにあり』として清水批判をぜひ執筆してもらいたい。
戦略的総路線の深化のために
革命的左翼が、60年安保闘争も70年安保・沖縄闘争も日帝を正面の敵として見すえて闘ったという認識に賛成である。今日の革共同全国委員会が、「万年米帝一極支配」論のもと、日本共産党以下の日帝免罪路線をとっていることを徹底弾劾して進まなければならない。
国鉄闘争について、1047名の「和解」について、中野洋の国鉄闘争への絶望の結果という認識に改めて蒙を啓かれる思いである。この点を明らかにした岩本さんの功績は大きい。ただ85年11・29浅草橋戦闘については、清水丈夫と中野洋の具体的責任をぜひ明らかにしてほしい。この戦闘を「信じがたい愚行」と言うだけでは、現場で担いぬいた国鉄労働者や青年労働者・学生は報われない。
30年間に及ぶ武装闘争と非合法・非公然活動の期間については、「党による軍事の一人歩きはダメ」ということに真剣に同意し、反省します。それと同時に、「官僚主義」や「印籠政治」が非合法・非公然活動の中で始まったという理解では済まないと思う。
軍事や非合法活動に手を染めなかったらよかったのか、防衛的性格の軍事活動に限定すべきだったのか、である。回答は、労働者大衆自身の武装や非合法活動をどう形成するのか、そこにおける党と党の軍の役割ということになる。蜂起の軍隊はロシア革命における赤衛隊に見られるごとく、大衆自身の武装を基礎に発展させたものである。代行主義など問題にもならない。
若干の経験と見分に基づいて提起すると、次のような点である。
(1)労働者人民自身が武装と武装闘争の主体であることを貫き、兵たんを人民自身が担いぬく人民の海の組織化における発想の転換が必要である。
(2)戦闘における軍令の絶対性と準備や計画における白熱的討論を保障し、組織すること。
(3)戦士共同体におけるコミューン原則、1人も排除しないあり方、である。
【以上転載】……… ……… ………
【白土メモ と評】長くなりましたが。
①岩本氏についての『前進』紙上での言及は以下。
故・岸及び水谷両氏の『敗北本』に岩本氏が参画していたという嫌疑によるもので『スパイ』と断罪している。
革命運動史上最大のスパイ分子に転落した岸・水谷・岩本を 打倒せよ 革命的共産主義者同盟政治局
5月、2006~08年の「党の革命」で打倒・追放された岸宏一と水谷保孝、岩本慎三郎は階級闘争史上、最も極悪で腐敗にまみれた反革命スパイ本を出版した。...
福島に敵対し反原発運動分断する 最大のスパイ岸・水谷・岩本打倒を 革共同東北地方委員会
岩本氏によれば “事実無根。俺は敗北本にはノータッチ。まったくの無実・無関係“ だそうな。
ただ敗北本では、「松本意見書」やその処分の経緯の一部については、岩本氏の観点から書かれていることも事実。離れたもの同士、その程度の交流はあったらしい。その上で、「岸・水谷に近い」とか「やはり参画者」として「断罪するのはあまりにも乱暴」というに尽きる。
本書では「松本意見書」を契機に08年1月に離党した経緯も書かれている。別な見方からすれば、処分・除名への経緯でもある。
②ある意味で、唯一?の「革共同の歴史・正史」でもある。
革共同の創設から革マルとの分裂、そして「70年闘争」、血債の思想の誕生、…。それぞれ現場感覚とともに描かれていて、それはそれで生き生きとしている。古い人、若い人、中核派系の人、他党派の人、改めて新鮮な想いで振り返ることもできる。後日への遺産?
この辺は、できることならぽつぽつと引用しながら論じたい。
ただ難点は、橋本氏の書評にあるように、例えば「浅草橋」についての論評が「片言隻句」で終わるなど、食い足りない。それは多くの論点で共通している。ま、それをやると軽く5割増しの分量にはなるだろうけれど。そして集中砲火を浴びるかも?
③「改憲阻止百万人運動」と国鉄闘争への重心の置き方
「うっ?!」という反応は私だけではないと思う。
この時期すでに本社を出て、中核派を辞めていた私にとっては、「あの中核派が、そんなテーマに関わることがあるのか?」という感慨が当時の感覚だった。
90年の「転換」を経て、90年代中頃は、現場組織やメンバーたちは、「先制的内戦戦略」の「継続か解消・召喚か」で互いに階級的と向かい合うような混乱とにらみ合いのような中で葛藤していたと聞く。
岩本さんはそんな中で重責を担って上記の「大運動」に参画していたのだそうな。
私自身とすれば、「それは正しいだろうが、そんなの中核派じゃねえよ」「俺の知ってる革共同じゃねえよ」とうめくしかない。
「上が決めたのだから、残っていたら率先して関わるかもしれないけどね」
「でもまた変わって召喚しろと言われたら、またそれに従って、『ナンセンス』と言うのかな」
【ブログ注】
あまりに長いので、以下は(続く)にしました。26日公開の「党??」にそのまま転載します。