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同僚たちと、震災から8か月、3・11の時の動きについて話になった。

私は地震の瞬間には、下町を走っていた。
突然、前の車が停まってしまった。
私自身は、一瞬「あっ、きた!」と思う。
日ごろ不安に思っていた脳溢血か何かが襲ったのかと思った。
ハンドルをしっかり握り、あわてて車を留めた。

あっと思うまもなく、ビルから飛び出した人々が、空き地で輪になってスクラムを組んだ。
それを見て、ようやく地震だと分かった。

ゆり戻しが終わって、近くのガススタンドに入って息を整えた。「きょうはまずい。早く帰ったほうが身のためだ」
休憩室でテレビを見ていると、予想以上の大地震だと分かる。
「これは大変。商売だ、商売だ」。

あわてて車に戻って走り出すと、いつもはいない所で手が挙がった。
お客を乗せて近くの駅に急ぐ。
駅前はタクシーがいなく、乗客の長い列ができていた。
親子を乗せて都心方向に向かい、お客が降りたらあちこちに手が挙がる。

お年寄り♀が飛び込んできた。
「マンションの上のほうに住んできるのだけれど、恐ろしくて、平屋の妹のところに逃げたい」

秋葉原界隈で4時半を過ぎていた。
日勤のときはお客を乗せられるのは4時半まで。(あれから制度が変わったけれど)
「回送」にして会社に向かう。
もう大渋滞だけれど、こんな時は、幹線を離れて裏道に行けばすいすいだ。
裏道をしばらく走ったとき、お年寄り♀が疲れたように歩いている。

「こんな時だ。一つや二つ規律を犯さなくっては面白くない」
事情を話して「帰りがけだから、メーターを立てられないけれど無料でお送りしましょう」
震災絡みの世間話をしながらお送りする。
降りるときに「いくら払ったらいいかしら?」
「う~ん。じょ、千円ももらえますかね」
「それでいい? じゃ、お礼にこれも」。少し高そうなお菓子をつけてくれた。
そこに別の人が飛び込んできた。私が断ると、前のお客が事情を説明してくれた。

裏道の、そんまた裏道を走ると面白いように走れる。

会社に近づくと、もう無数に手が挙がる。
窓を開けていく先を聞くと会社の先なので、「会社に行けば空車があるかも」とのせる。

会社の駐車場につくと、職員が総出。その中に、空車表示でお客を乗せて入っていく。
「○○さん、どうしたの? 空車で載せちゃダメじゃないの!」と「次長」
「何言ってるんだ、こんな時に」。私が叫び返す。
「いい、いい。話はあとで聞くから。早く車を交代して」

だいぶ遅れたけれど、私が最初に帰ったらしい。
あとで聞けば、みんな幹線道路を歩く速さ以下の速度で帰ったらしい。

後日になってもお咎めはなかった。

夜、思いついて幹線道路にのぞきに行った。
大渋滞は続き、歩道はひとでいっぱいだ。
けれども、辻辻にも道案内はなく、「ヒッチハイク」の雰囲気もなく、みんなばらばらに歩いている。
知り合い同志で歩く人もいる。なにやら、思いなしか、軽い晴れやかな興奮も感じられた。




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明和の八重山大津波で陸に揚げられた津波石。何百トンもの重さ。1771424日(旧暦310日)津波の遡上高(陸を駆け上った高さ)は、石垣島南東部から東部海岸で30m以上という。
オヤケアカハチ
琉球王朝の支配に抗した八重山の英雄。歴史は重層的で豊かだ
ともに石垣島
 

被ばく検査が緒に就いたかと思ったら、4月からの作業員の多くが、所在不明か名簿にすら見つからないという。
 
下請け・孫請け・ひ孫請けの構造が浮きあがってくる。
やくざ絡みや町金絡みの話もちらちらと語られている。
 
ここでは、私自身の経験と、友人の経験を紹介するにとどめたい。
 
①私の原発体験
  多分1972年のこと。これも確か、東海(第一)原発のことだと思う。
 
 私は横浜の非破壊検査の会社で働いていた。
 
突然、部長に、「原発に出張に行け」と指示された。
4人1組で一か月ほど、第2次冷却水?の細管の超音波検査だという。
入社してまだ1年ほど、それに直前に出張を断ったこともあり、私は受けた。
 
部長が言う。「お前は入社5年、民間の資格の1級、ということにしておくから」
「えっ。だって‥」
「そういうことにしておけ。経歴書もそう書いておくから」
「はあ? 分かりました」
 
下請けというのはこんなものだ。お国というものはこんなものだ。と納得した。
 
もともと原発の作業は、地元への見返りとして位置付けられたものだったはずだけれど、宇宙服のような作業服(防護服)と胸に着ける線量計が着実に値を示すのを繰り返すのは気味のいいものではない。
結局地元でいやがって、遠く横浜まで発注が来たのだという。
 
出張手当、危険手当、宿泊手当てなど余禄も大きかった。
 
②私の前歴
 当時私は二つの裁判を抱えていた。逮捕暦は20余回。公安も会社に通っている。
 原発の敷地内外の幾重にも張り巡らせた鉄条網やフェンス。
出入りに際しては厳重な人物確認もある。
原発は、「テロ」に対する警備も厳戒だ。
当時の反対運動のひとつの論拠には、「地域全体の警察支配」という項目もあった。
 
こんな私を平気で受け入れる原発・東電とは‥
 
戦争と複雑に絡み合う原発。
こんなことで、軍拡や戦争協力をして大丈夫なのか、と素朴に思ったものだ。
 
 
続きはコメントで。
 
関連記事は{1章 横浜時代}の「非破壊検査技師」「原発労働者」など。
 

ここ数日、国会や象徴関連の客が急増している。
補正予算に絡んで、省庁や議員への陳情が増えている。
 
そんな客の、かつ50-60年代の親父に限って、菅直人の悪口を言い続ける。
今日の客は、「運転手さん、菅首相ってほんとに許せないよね」と言い出した。
 
「世界からもらった義捐金の額も使い道も公表していないよね」
「だれがなんに使ったのかも分からないよね」
 
腹の中でせせら笑いながら、話を合わせてみる。
もっと正面から菅打倒を論じられないのか、と。
 
しかも、話をする前に、710円の料金を「千円出すからお釣りは百円でいいよ」と断ってからの演説だ。
 
何を言い出すのか聞くのも一驚だと相槌を続けた。
ま、190円のチップで相槌を強いられたというべきか。
 
この時期、「自民党政権の復帰が必要」などと言い出したら、他の乗務員なら怒り出して、「お客さん、悪いけど、馬鹿を言わないほうが良いよ」と言うかも知れないなと思いつつ。
 
ハイエナのような人生を続ける「えらい人たち」に災いアレ、か。

イメージ 1「電灯」とは家庭用と街灯などの合計

〔23日 水曜 大型トラックの出番は終わり〕
3連休が明けて新しい週の昨日の営業は、少し平常に近くなった。
 
午後になって紀尾井町で50台らしい男のお客さん。
のっけから、「被災地へ何度も行ってきた」という。「明日で終わりだ」
 
支援物資の運搬の手配、物資の手配を現地の要請を受けてやってきたという。
「明日、吉川と三郷から1台づつ出してすべて終わる」
「現地は物資の山でいっぱいだ。溢れかえっている」「もう何もいらない」
「あとは現地のトラック業界で十分だ。軽トラなどの軽車両が動き出せる」
 
私「運転手が現地に行くのを嫌がってる、と聞きますが?」
「問題じゃない。この程度の放射能は安全なんだから」
 
「ボランティアなどという連中が三々五々来てはあれこれする。邪魔だ。救援のプロだとかいうけれど、だいたいプロといったって金を取ってるのか」
  なるほど<金を取れてこそ、レベルの証>か。
 
「今の日本は、震災の翌日にはどこだって、おにぎりの1個くらい届くんだ」
えっ。
 
無知と傲慢さに怒りがわく。
「国」をバックにして国家の御用達として専用道路を走り回った興奮と気負いがやたらと気にかかる。
 
とはいえ、現実に活躍してきた人だ。背後には一人で悪路を走り続けるトラック運転手がいる。
タクシーと同じに日陰の?生活をしてきた人々が、がんばり、脚光を浴びてふんぞり返るのは大目に見よう。
また、同僚たちの前職の1番多くは、トラックだ。
 
こころから「ご苦労様でした」
 

[自衛隊の戦車]
ようやく放水が進み、電源もつなげそうな状況だとニュースに。
戦車も近くまで来て出動しそうだ。
 
 問題はそれほどまでに「予断を許さない」事態が進んでいるという事実だ。
 菅首相が「東日本がつぶれるかも」と言った危機の実態はいまだ何ら解決していないということだ。危機の大本は沈静していない。
 
、ここまで書いているときに3号機から黒煙が発生し、作業員は退避した。
 
 20キロ~30キロ圏内の人々を家に閉じ込めたまま放置し、その結果の死者や病気を生んでいる。多くの人は、「自力で」脱出している。当事者たちの「政治不信」は恐るべきものだ。
 
  政府や東電への不信が、流言蜚語を蔓延させる。データを逐一公開し、予想されるシナリオ・シュミレーションを公開してパニックを沈静化する必要がある。
 
 より大規模な避難のシナリオを出すことで、より大きなパニックに備えるべきだ。
 おとといの?記者会見では、唯一週刊現代?だけが、しつようにシナリオの公開を迫った。見方によっては場違いなようだったけれど、やはり場違いではない。
 
 「流言」は、「福島から逃げてきた」というだけで旅館が宿泊を拒否したり、福島や茨城の野菜の拒否などという事態を生んでいる。恐るべきは同時に、「出荷の制限」だ。これでは政府自らが「ただちに危険」を公認したようなものだ。最悪な判断だ。
 菅一家や民主・自民の幹部が家族でほうれん草を食べるパフォーマンスのほうがよほどましだ。
 東電の社長や石原慎太郎が福島で生活するのも良い。「人質」を差し出すことこそ大事だ。
 
 社民・共産も現地本部を出す頃だ。最低、水戸あたりまで、司令部を出すべきだ。

足立でも被災者の受け入れを始めています。詳細は区役所HPに。
「在住外国人」への情報欄もあります。
 
※ ※※
足立区と災害協定を結んでいる相馬市も大きな被害を受けており、相馬市社会福祉協議会より食料を中心に支援物資の要望がありました。
つきましては、支援物資を下記のとおり受付いたしますので、広く区民の皆様のあたたかいご協力をお願い申し上げます。
また、この地震で被災地より区内に避難している方々にも支援物資を配布する予定です。

                   記

1 受付期間  平成23年3月19日(土)から 27日(日)まで

2 受付時間  午前10時から午後4時まで

3 受付場所  持ち込みまたは宅配便(発送者負担)
         旧入谷南小学校 体育館(KITクラブ21)
         〒121-0836 足立区入谷八丁目11-1

[初日 11日 金}
地震の時は、葛飾の堀切を走っていた。
車がグラグラッと揺れ、パンクかエンジンの爆発かと思った。
あれっ、俺の平行神経が崩れている。ついに来たかな。
前の車が止まって、うろうろしているのを見て、ようやく自身だと気が付いた。
「もう、早くあがろう」と決めてスタンドで給油(ガス)の合間にテレビを見ていてニュースを知った。
 
あわてて仕事に戻る。
すぐそばから亀有駅へ。
亀有から高等の住吉へ。住吉から東神田にお客を乗せて4時半になった。
当社では日勤は4時半までしか乗せられない。
 
「回送」にして、裏道を迂回して、浅草橋から9○分かけて帰った。ふだんの金曜なら1時間くらいかな。
こんな時は裏道はすいているので、会社でもずいぶん早く帰った方です。
途中、手を上げる人を振り切った。気が変わって、おばさんを乗せた。「金町へ」というのに、「会社までなら乗せられる」と断って。
 
会社では職員たちがみんな出ている前でお客を下ろす。
職員「回送で載せちゃまずい」
私「時間外だから回送だ」
職員「料金をどうする」
私「料金を取れないから回送だ」「こんなときに何をいってるんだ」
 
ひとつ位、ボランティアをしたいと思った。
かりに「処分」されても勝てると踏んだ。
私なりに計算の上だ。
 
原発情報に見いっています。重苦しい。
夜になって、水戸街道に出て人々が歩いて帰るのを見ていた。?
若い人々に何か「高揚感」を感ずる。
 
けれども、「ヒッチハイク」の発想は、車にも人にも感じられない。さびしい気がする。
 
日々の感想は、「コメント」に追加します。
「東京のタクシー事情」「タクシー事情」なども参照を。
 

 ガソリン不足で輸送が滞っているという話。
 ガスで走るタクシーの活用はどうでしょうか?
 ガスは今のところ、都内では不足していません。パニックから距離を置いています。
 満タン時のタクシーの走行距離は4~5百キロ。
 これだけで最低、いわき市程度までは往復できます。そこから積み替えることができれば効率的だと思います。

 また、仮に水戸あたりでもガススタンドが余裕があれば、さらに往復2百キロ伸ばせます。現地で配達もできるかも。水戸のタクシーが走れているかどうかを聞ければ、簡単にわかると思います。

 タクシーの積載可能量は、おおむね大人の客4人プラスα。2百キロくらい。急な坂道では2人分として百キロくらいでしょうか?前に中央高速を走ったことがありますが、ぜいぜい言いながらなんとか走りました。
 トラックに比べれば輸送能力は低いけれど、ガスの強みはあると思います。
なお、一般の料金で言えば、キロ400円(時間料金込み)。200キロで8万円です。ここしばらくは売り上げが大幅減ですから、交渉しだいでは5唐万で、会社は受けると思います。
(ただし、運輸局の許可がいるかもしれません。成田への特別料金もありますからそれを運用するのも手かもしれません)
 
 もちろん、私個人でも受けることができます。
 
「 この時期に、金儲けなんか考えやがって!」というお怒りは後日ゆっくりお聞きしましょう。
 今は何でも、お互いに使えるものを使い会おう。ゆうずうしあおう、と、思います。

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