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3.編集長の誤り
 しかし、旭編集長のコメントは以下の点で誤りであると思う。
 
1)論争があるから議論しないのではなく不一致の原因を明らかにし、正しい結論を得るのが科学である。しかも、しきい値の有無に関しては、少なくとも100mSv以下でも被害が生じることは明確である。私が引用したように市川定夫氏やグールドたちのような先人達が苦労の末、低線量被曝の被害を解明して報告しているのである。市川定夫氏やA.H.Sparrowらは2.5mSvの低線量まで放射線量とムラサキツユクサの突然変異率の関係を実験的に確認している。その上、放射線と化学物質との複合汚染も明らかにしている。最近ではチェルノブイリ被曝者にみられる特異的な膀胱炎から膀胱癌への微視的な機構が報告されている。
 
さらに物理を超えたことの判断を物理学者が出来ないと考えるのは誤りである。統計の信頼度の問題である。稲村氏の引用する被害が観測されないという文献のデータは統計的に有意でないということだから、対象が少なすぎて研究が信頼できないのであり、被害がないことを証明したものではない。J.グールドの著書にはこの点が詳しく議論されている[]
 
2)編集長は不可知論に立っている。しかし、少なくとも稲村氏の式がしきい値を否定しているのは物理学者なら誰にも明確に理解できる。また、引用が不正確であることも明らかである。なぜ、編集長は著者にこれらの誤りについてコメントし、注意を喚起しなかったのか。なぜ、稲村氏の題名をなかば否定するようなコメントを入れ、議論を打ち切ったのであろうか。
 
3)稲村氏がしきい値の意味を「区別できない」値のように記述しているのは被害が観測されないというのと被害がないということをこっそり取り替えるものである。観測されないという意味は測定が不十分である可能性を持ち、直接被害がないことを証明しないのである。しきい値があり、ある被曝線量以下では被害がないという証明を考えてみよう。被害がないことを証明するのは統計的に必要な多数に対して、長期にわたって観測しなければならない。しかし、被害が存在するという証明は発見されれば決定的である。J.グールドたちは、原発の日常の運転が乳がんによる死を増加させることを示したのみならず、稲村氏が無視した低線量の長期の内部被曝は線形関係よりもいっそう危険であることを統計的に明らかにした。
 
3.物理学者の社会的責任と物理学会誌の責任
「物理を超えた問題」領域は議論を打ち切るというのは正しいのか。まさにこれこそ私が物理学者の皆さんに尋ねていることである。原発は地震に耐えられるかは地震学者だけでも、原子力工学者のみでも、生物学者のみでも専門領域を限って議論すれば誰も正しい判断ができない。現実に人類の生死にかかわる問題を専門外として放置してきた科学者の無責任な態度こそ私が6月号で問題にしたことである。さらにシンポジウムで被曝を軽視する報告に異議を唱えた理由でもある[]
 
福島や各地で被曝が今も進行中であるが、稲村氏の言うように100ミリシーベルト以下の被曝は被害が出ないといえるのか。もし、被害が出たとき稲村氏、編集長、物理学会はどのように責任を取るのか。被曝の被害は幾世代にも引き継がれることがこの4月に開かれたチェルノブイリの国際会議で報告されたと聞く。
 
分野を超えて総合的な判断ができてこそ科学者集団ではないのか。そのような総合的な判断の一翼を担うことにこそ、物理学の存在意義があるのではないだろうか。時には意見が別れることもあろうが、自由な討論によって真理を探ることが必要である。編集長の見解は学問の総合化に逆行し、物理学の発展を妨げる細分化された専門化への道である。総合的な学問の中に正しく位置づけられてこそ物理学が活性化され発展するのである。物理学会誌は学問の総合化とこのような物理学者の社会的使命に関して積極的に議論すべきである。そして、物理学研究の社会的意義を明らかにし、社会的使命を積極的にはたすべきではないだろうか。以前の物理学会は物理学者の社会的責任を公式の分科としてシンポジウムを開くのが伝統であった。物理学者は専門家である前にまず人間として社会人であるべきであるとわたしは思う。
 
参考文献
1)山田耕作;日本物理学会誌 vol.66,No.6
2)山田耕作;日本物理学会誌 vol.66,No.10
3)市川定夫;新・環境学III 藤原書店(2008年)
4)ジェイ・マーティン・グールド;低線量内部被曝の脅威(The enemy within)、肥田他訳、緑風出版(2011
                            

旧版にないものがあります。参照下さい
 
 
全国全共闘(1章 私の「10・8羽田」)
安保・沖縄と大学闘争を2大スローガンに,全国約200の大学全共闘(全学共闘会議)の全国組織として結成された.山本議長(東大)と秋田副議長(日大)の下,民青・革マルを除く新左翼8派によって書記局が構成された.
全共闘は60年代中盤以降の大学闘争のなかで,諸党派の分立と無党派ラジカルの台頭を受けて,各大学で結成された。
直接民主主義にもとづく組織運営と行動による共闘を基本とし、全員加盟制の学生自治会とは趣を異にする。全共闘によるバリケード封鎖→学生大会での無期限スト、が多く見られた。〈自己否定〉,〈大学解体〉などを掲げる思想運動でもあった.70年代に入って崩壊した.
今日、東大闘争だけが象徴にされるけれど、本来は日大・東大の2つにして1つ。日本刀を振り回す体育会を支配の手段とする大学当局と対決した日大闘争の「破壊の思想」は、「積極的な自己肯定・自己実現」の思想でもあった。
 
7・7自己批判(1章 「第2の7・7」と地域入管闘)
70年安保・沖縄闘争の中で、諸党派とともに華青闘が隊列に参加していた。その統一戦線の会議の場で華青闘が「抑圧民族の傲慢な姿勢」を徹底的に批判し、共に闘う仲間と認めることは出来ないと退場した。中核派は批判を受け入れ、「抑圧民族と被抑圧民族」の区別を明確にする立場を確立した。7・7は1937年7月7日の盧溝橋事件、中国侵略の本格的開始の日。
「たとえ闘う人間であれ、共産主義者であれ、その存在として、私たちは抑圧民族の一員として刻印されている」。この認識は、沖縄県民に対する「ヤマトンチュ」、被差別部落民に対する「一般民」等々として普遍化された。「差別者の一員として、差別主義と対決しのりこえる」という。
「知らないことの罪」「無関心と言う罪」、「踏まれたものの痛みは踏まれなければ分からない」等々。
「非抑圧民族の生活と闘いから学ぶ」、そこから自らを発見しなおすこと。糾弾を受けつつ成長する。非抑圧の解放主体としての存在を承認する。
けれども私たちの世代は、青年期に郷里を離れ、日々の巨大な変化の中で、親子間・世代間の継承を欠いた断絶の世代でもあった。乗り越えるべき歴史や自らのアイデンティティの不確かさを、どう見つけ出すことができるだろうか
 
狭山差別裁判(2章 狭山と組織論) 
63年5月1日の女子高校生誘拐・殺人事件。警察の威信をかけた捜査の中で.石川一雄さんを別件で逮捕.再逮捕した。一審死刑,2審・最高裁で無期懲役。
部落解放同盟は、見込み捜査が作り出した差別事件とし,「無実・差別」を訴える糾弾闘争を展開した.76年には、19都府県の小・中・高1500校で10万人が同盟休校.日比谷で1万5千が集会。79年にも、東京・明治公園で5万人.大阪でも1万5千が再審要求。社会党・総評・新左翼諸派や市民運動・宗教者を結集する大運動になった。
94年12月21日,石川さんは31年ぶりに仮釈放となった.現在も再審請求中。
70年代半ば、中核派や新左翼の最大の運動も、「沖縄・狭山・三里塚」だった。革マルは「狭山無差別裁判」などとやゆして敵対し、露骨な差別観・エリート主義をマン展開した。共産党も「無実・差別」を否定した「公正裁判」要求運動で、弁護団を残して大衆運動から脱落した。共産党による八鹿高校差別事件も糾弾闘争の焦点になった。関連して7章
 
留置所(2章 留置所の歌声大会)
警察の留置場。正式には「代用監獄」。容疑者は、本来は拘置所に送られる。けれども自白偏重の捜査では、留置場が自白強制の手段として活用されている。
用便を足すにも上半身を看守にさらし、屈辱感・転落感覚を強制する。家庭生活や社会生活から突然遮断される犠牲や損害は計り知れない。
深夜に及ぶ長時間の取調べも、弁護士接見の妨害も、警察の留置場あってのこと。「逮捕=犯罪者」という裁判所と社会の常識もある。
争っても何になる。無実であれ何であれ、自白して早く生活に復帰しなければ、という思いは十分に理解できる。多くの国選弁護士もそう対応する。
代議士などの場合は直ちに、法務省が管轄する拘置所送り。少しはましだ。
運動時間。容疑者には、「捜査に支障がない限り、十分な人権が保障されなければならない」。1日1回の運動時間の保障も同じ。留置所では「タバコの時間」で代用される
 
チョウとキリ、ミリ、テツ(3章 「常在戦場」の臨戦態勢
(兆)チョウ。アパートや職場などの周辺とその経路で、革マルの襲撃の予兆を発見すること。ただちにアパートを移る。職場を休む。時には待ち伏せて迎撃する。
(切り)キリ。尾行を切る。幹部の場合、数時間、時には数日かけることが原則。
(ミリ)。留守中に革マルが侵入していないかを確認するための細工。机の上に本を置き、旗からの距離をミリ単位で計っておく。玄関に新聞をしき、その下にソバを数本置くこともあった。
(鉄)テツ。アパートのドアに鉄板を張って補強するなど
散)サン。公然拠点から移動すること。ホロトラなどから降りたあと、数人ごとに分かれて隊長の指揮のもと、数分歩いてタクシーに乗る。下車後、原則として一人1人に散る。兆を見つけてのアパートの引越しも「散」
 
バナナと日本人(5章 フィリピン新人民軍
浅草橋戦闘の獄中被告から「バナナを拒否しよう」というアピールが届いた。この時代、フィリピンの半植民地状態の1つの象徴はアメリカ・デルモンテ社の巨大農園で作られるバナナだった。その最大の輸入国は日本。
「農民の土地解放への闘いに応えたい」という想いは大事だ。けれども私の答えは「ノー」だった。「いったん生産・消費のルートが出来てしまったら、あとは食い続けること」。問題を告発している鶴見良行氏自身が書いているけれど、「先進国の消費者の移り気」こそ、農園で働く人々の生活を何倍もの力で右に左に振り回す。
巨大農園から自立して砂糖生産に挑む農民を支援する「ネグロスキャンペーン」がその後始まった。「持続可能な成長」が合言葉になる。もっと突っ込んだ議論をしたいと思いながら、議論の土俵が見つからないままに放置してしまった。
 
革マルの3・14(10章 政治なき戦争)
相次ぐ政治局員へのテロと本多さんの虐殺。それは「やり合い」の過程に突入した時の革マルの断末魔のあがきだった。「権力が(中核派の)首根っこをつかみ(革マルは)下の急所を蹴り上げる」と公言したおぞましいのもくろみは崩れ去っていた。尊大・ごう慢な「教育的措置」論や「お尻ペンペン」論は、革マル幹部たちは恐怖の反映だった。
「3・14」=「勝利・一方的停戦宣言」と「停戦」を求める文化人声明、そして「謀略」論は3身1体だった。
もしこの抗争を停めることができるとすれば、それは本多さん以外にありえない。そんなことは、革マル(黒田・松崎・土門=根本)自身が十分すぎるほど知っていたはずだ。それが分からないほど、革マルは、幻影・幻覚の中に現実逃避していたということか。解放派への襲撃と中原氏の虐殺は、新たな戦場を生んだ。
「人を呪わば穴2つ」。以降の革マル指導部は、黒田をはじめ、現場責任から逃亡し、怯えと夢想の穴倉に閉じこもってしまった。
革マルもまた、いくつもの節目を経て、変質と内部抗争をくり返している。革マルもまた「かつての革マル」とはほど遠いところに行ってしまった。元中核派と元革マル派、ともに集まって、「戦史研究」を始めるべき時ではないか。
 
本多さんの3・14(10章 1975年3・14)
69年4・27、破防法で逮捕された本多さんは、長期の未決拘留を強いられた。保釈出獄してすぐ、結婚して子どもをもうけたという。それは獄中での心身の痛みの癒しと将来へのステップでもあったろう。休養が必要だったはずだ。けれども「情勢」と「任務」が休養を許さない。
逮捕時の取調べで雑談を交わし「完黙」を貫かなかったと、政治局で自己批判を迫られたとも言う。「政治犯として堂々と立ち向かう」ことが「規律違反」だとしても、「転向・屈服」にはあたるまい、と私は今思う。「完黙・非転向の思想」自体が古すぎる。本多さんの失望も想像できる。
非公然下での軍事小委員会というトロイカで棚上げされ、本多さんは実権を失っていたとも聞く。
護身のためにピストルを渡そうとした人に本多さんは「いざという時、引き金が引けるか?」と断ったと聞く。ここに本多さんの体温・人となりを私は感じる。
 
69年、「破防法を引き出して、勝った」と叫んだという本多さん。戦前・戦後の共産党の屈服の歴史の壁を乗り越えたことで、その歴史的使命を果たしたと言うべきか?
 
証言 組織論の結末(同上)
 キャップが、「排他的で全一的」な指導をするのが理想とされた。その結果、転属や離脱でキャップがいなくなると、継承性が断たれてしまった。
 どんなに無能な人間でも、30余年も1つの部署で頑張ればそれなりの力がつく。時が経つほど、抜てきや天下りの新キャップには「全一的指導」ができなくなった。
 結果として、出る杭、いや「出てもいない杭」を徹底して叩きつぶすことがカギになる。有能な奴は、上におもねり、下を隷属化してぶんまわすことでのしていく。指導部間では、権益をめぐる暗闘が日常化した。
 清水さんの人事は極端なキャリア主義。30年以上も前の記憶で人を判断する。そのキャリアたちも全滅した。
 

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